C'est La Vie (後編)
 
 翌日の放課後――、
 最近、遠矢一夜は終礼が終わるとすぐ帰るようにしていた。千秋那智のいなくなった学
校に何の興味もないからだ。授業中いやでも目に入るすぐ前の空席は一夜の喪失感を増幅
させるし、放課後いつまでも教室に留まっていると記憶に残っている那智の台詞の数々を
思い出してしまう。
『さっきトモダチと遊んでて階段から転げ落ちたー』
『ポールピペットで硫酸飲んだー。すぐ吐いたけど』
『一夜って髪伸ばして口紅つけたら、けっこうに似合いそうじゃない? 今度やってよ』
 等々。
「………」
 案外、ろくな思い出ではない気がしてきた。
(昨日は昨日で厄介ごと増やしてもうたしな。……ガキか、俺は)
 反省と後悔の混じったため息を吐く。
 とっとと帰ろう、と荷物をまとめる。冬休みが待ち遠しい。
 斜め前の席では居内加代子が自分の机に突っ伏していた。いつも通りの無表情だが、全
身からやる気のないオーラを放出している。どういうわけか彼女はここ数日こんな調子だっ
た。
 と、そこに教室から出て行くクラスメイトの波に逆らって……というか、何度か弾き飛
ばされながらようやくの様子で、中へ入ってくる女子生徒がいた。
「加代子ちゃん、帰るよ〜」
 真っ直ぐ居内のところにやってきた。
 彼女は確か二年生で、五十嵐優子という名前だったと一夜は記憶している。
「ほら、早く片付けて」
 そう言いながら五十嵐優子は自分ひとりで居内の荷物を片付けていく。このふたりがど
ういう関係なのかは知らないが、すっかり腑抜けてしまった居内の世話を焼くために毎日
終業と同時に教室にやってきているのだ。要するに人が病気になると自分の健康の素晴ら
しさを認識しつつ病人の世話に張り切るタイプなのだろう。
「はい、じゃあ、帰るよ〜」
 のんびりした動作ながらすべて片付け終えると、優子は自分と居内の鞄をまとめて持ち、
居内の腕を引いて立たせた。しかし、それでも動く意志のない居内の身体がぐらりと傾い
で倒れそうになる。
「ふにゅ〜ん。もぉ、ちゃんと自分で歩いてよ〜」
 優子は崩れかけた居内の身体を受け止めると、まるでマネキンを運ぶように後ろから抱
え込んで引っ張る。ここまで面倒を見ることのできる優子も凄いが、徹底的にやる気のな
い居内にも感服する。
 うーんうーん、とうなりながら優子が引きずっていく。
「うぅ〜。……重」
「………」
 瞬間、居内の目に明確な殺意が垣間見えたが、優子がそれに気づいた様子はなかった。
 いったいあの調子でどこまで行くのだろうか。まさか家まで引っ張って帰っているわけ
ではないだろうから、適当なところで居内が自力で歩き出すのだろう。
 ふたりが教室を出て廊下に消えると、今度はそれを追うような形で一夜のよく知った人
物が通りかかった。
 四方堂円だ。
 円は入り口のところで立ち止まると教室の中を覗き込んだ。
 おせっかいが。また何か言いにきたか。一夜はそう思い、自分の鞄を掴んでそちらの方
に向かっていく。が、その足がドアの数歩手前で止まった。
「………」
 珍しいことに円は男子生徒と一緒だった。
 円と一夜の目が合う。
 と――、
「……ふん」
 円は鼻を鳴らしてぷいと顔を背けると、一緒にいた男子生徒と並んで去っていった。
 一夜はそれを黙って見送る。
「……わかりやすいことする先パイやな」
 そして、ひと言呆れたように零した。
 しばし考える。ついさっきまで昨日のことを謝っておいた方がいいかと思っていたのだ
が――、
(……やめた)
 そんな気持ちをひどくあっさりと放り投げた。
「おもろないことがまたひとつ増えたな」
 一夜は不機嫌を加速させてそうつぶやくが、そのことに自分でも気がついていないよう
だった。
 
 それから数日が経過した。
 どういうわけか一夜は連日の如く男と連れ立って歩いている円と遭遇した。別に何か言っ
てくるわけでもなく、男と仲良さそうに話しながら見せつけるように通り過ぎていくだけ
だが、一夜としてはかなり鬱陶しかった。
 そして、今日もまたそれを見ることになる――
 一夜のクラスは芸術の授業として音楽があった。当然、教室は音楽室へと移動になる。
行きは、余裕を持って移動するもの、時間ギリギリに滑り込んでくるもの、人それぞれだ
が、帰りは音楽室に留まる理由がないので、皆一緒にだらだら大移動するようになる。
 その最中、円はいつもの男子生徒と一緒に前から歩いてきた。
(またか……)
 心の中でぼやきながらも、一夜は円の姿を目で追っていた。それは向こうも同じらしく、
わずかに視線が絡んだ。そして、そのまますれ違う。
「や、やっぱり気になるの……かな? 四方堂先輩のこと」
 一夜は我知らず減速していたようで、後ろから追いつかれる形で同じクラスの砂倉千佳
子に声をかけられた。
 話しかけた砂倉はかなり勇気を振り絞った様子だった。那智がいなくなってからの一夜
は端から見てもわかるくらいピリピリしているので、噛みつかないとわかっていても数人
の度胸のある男子生徒以外は近寄り難く、女子生徒になるとクラスメイトと言えどもさら
にハードルが高い。
「……別に」
 一夜の返事はそれだけだった。
 続く話はない。砂倉としては何か話したいのだが適切な話題が見つからず、かと言って
せっかく近寄ったのだから離れることなど考えられず、結局、黙ったまま並んで歩くだけ
になってしまった。
「砂倉」
 ふいに一夜は口を開いた。
「え? な、なにっ?」
 砂倉は一夜の方から話しかけてくるなど想像もしなかったようで、慌てながらも喜色満
面で声を弾ませながら応えた。
「さっきの先パイの横におった奴、知ってるか?」
「うん。陸上部の妹尾って先輩。女の子に人気があるみたいだけど、実際には評価は分か
れるかな。ほら、六月くらいに片瀬先輩と噂があったでしょ?」
「ああ」
 どこかで聞いたことのある名前だと思っていたが、間接的に那智が関わっていたようだ。
「嘘か本当か、片瀬先輩に振られたってことで噂に決着がついて、その後くらいから女の
子との遊び方が派手になったって話なの」
「つまり、とっかえひっかえしてるわけか」
「うん、そう」
「………」
「わたしは嫌だな、そんな男の人。つき合ってるときは楽しくても、気が多くて長続きし
なかったら意味ないと思うし。……や、やっぱりわたしは遠矢君みたいな人がいいかな……
なんて……」
「………」
 しかし、砂倉の渾身のアピールも何やら考え込む一夜の耳には届いていなかった。
「は、はうっ」
 そして、思考に没頭する一夜は砂倉を置き去りにして、普段のペースで歩を進めるのだっ
た。
 
 薄暗くなって尚賑やかな繁華街を、円は妹尾康平と歩く。
 ここにきて円は自分のやっていることの不毛さを感じはじめていた。
(遠矢っちは動じた様子もないし、我ながら無意味なことやってるわ、アタシ)
 自分で自分に呆れる。
 隣では妹尾が面白おかしく喋っているが、円はあまり聞いていなかった。確かに妹尾と
いう男はユーモアがあって話題も豊富で、話していて楽しいと感じる場面もあった。が、
それと同時にふと我に返って「だから何?」と思うことも度々あった。どこかもの足りな
い。
「あ、こっち、近道なんだ」
「え? あ、そう?」
 適当に聞き流していたところにいきなり話を振られて、円は慌てて返事をした。
 脇道に入っていく妹尾の後に円も続く。
 と――、
「うげ」
 思わずうめいた。
 そこは繁華街の中心とはまた違った意味で賑やかで、いくつもの無駄に洒落た名前が煌
びやかに飾られて光り輝くホテル街だった。
「なんつーとこ通るのよ……」
 居心地悪く円は文句を言う。
「ま、いいじゃん。気にすんなよ」
 妹尾はあっけらかんと返す。
 そして、くるりと円に振り返ると、
「俺、できれば四方堂とふたりっきりになれるところに行きたいんだけど」
 一転して真剣な調子で告げた。
(あー、これがこいつの手なわけね。気がある子ならふらっといくのかもしれないけど
さ……)
 円はかなり引いていた。
「えっと、アタシ、そういうつもりないから……」
 妙な流れを何とかしようと、円は目を泳がせながら誤魔化すように言った。
「固いこと言うなよ。お互いガキじゃないんだからさぁ」
 妹尾はいやにフレンドリィな笑みを浮かべる。しかし、円にはそれが軽薄で好色な笑い
にしか見えなかった。
 さらにはすり寄るように距離を詰めてくる。
「コーコーセーらしいつき合い方しようぜ」
「………」
「四方堂だってさ楽しんでるんだろ? ほら、一年の遠矢とか、あと何て言ったっけ?
ガキっぽい奴……あ、そうそう、千秋だっけ?」
「ッ!?」
 瞬間、円の頭が沸騰した。
 自分がそんな軽い女に見られたこともそうだが、ここで那智や一夜の名前を出してきた
ことに怒りを覚えた。那智は間違いなく司一筋だし、一夜も絶対に妹尾と同種の男ではな
いと信じている。
「この……っ」
 考えるよりも早く手が出て、デリカシィの欠片もない男の頬を張ろうとする。
「おっと」
 が、しかし、妹尾は素早く反応して円のビンタを腕で防いだ。
「体育科っつってもやっぱ女だよな。男に勝てるかってのっ」
 妹尾は円の手を掴むとそのまま腕を引っ張って、円の身体を乱暴に突き飛ばした。いか
がわしいホテルを囲む白壁に背中が激突し、口からうめき声を上げる。
 すかさず妹尾は逃げられないように円の正面に立った。背後の壁に片手をつき、顔を寄
せてくる。
「四方堂ってスタイルいいよな。胸、どれくらい?」
 そう言いながら円の身体を上から下へと値踏みするように眺める。
 軽くセクシャルな話題も異性を惹きつける話術のひとつなのだろう。だが、つい先ほど
暴力まがいのことをした直後にこの態度をとれる辺りに、妹尾の中の歪んだものを感じる。
 強引に唇を奪う気なのか、今度は顔と顔を寄せてきた。
「く……っ」
 円は顔を背けて抵抗する。
 と、そのとき、妹尾の肩に誰かが手をおいた。
「あぁ? 誰だよ、邪魔すんじゃ……べへっ」
 妹尾が振り返った瞬間、その顔の中央に拳がめり込んでいた。不意打ちに吹っ飛んだ妹
尾はアスファルトの上で二度ほど転がって、そのまま動かなくなった。
「あー痛て。さすがに最近殴りすぎやな」
 妹尾を殴り飛ばした張本人、一夜は言葉のわりにはさして痛くもなさそうに手をぶらぶ
らと振りながら言った。
 それから倒れた妹尾に歩み寄る。
「なんや、一発でのびたんか。意外に弱いな」
 襟を掴んで立たせると、もう一発殴るのかと思いきや、その体をホテルの入り口の両脇
を飾る植え込みに放り投げた。捨てられた人形のような無様なオブジェの完成だ。運がよ
ければ目を覚まして自力で帰るだろう。運が悪ければ明日から学校の人気ものだ。
 ようやく一夜が円に振り返った。
「………」
「………」
「何か言うことがありそうなもんやけどな」
 一夜にそう言われて円ははっと我に返った。
「や、やっぱり気になって見にきたわねっ。ア、アタシの目論見通りよっ。あっはっはっ
は……」
「この状況でその台詞を吐けるとは感心するわ。……アホ。ひとりで帰れ。じゃあな」
「わ〜っ。待って。あたしが悪かったってばっ」
 踵を返した一夜に円は慌てて追いすがった。一夜の斜め後ろを円がついて歩く。
 と、一夜がぽつりと口を開いた。
「ええわ。俺もアホなこと言うてガキみたいに当り散らしたからな。これでチャラにしと
いて」
「あ、うん。そう、ね……」
 円もぎこちなく答えた。
 ふたりは再び押し黙って歩いた。辺りはどこを向いてもホテルばかりで、円は妹尾とい
たとき以上に居心地の悪さを感じていた。
「せっかくだからどこか入る? ……なんてね。はは……」
「……アホ」
 見えない圧力に耐え切れず口にした軽口は、案の定、一夜に一蹴された。しかし、今は
それが懐かしい。やっと普段通りになった気がする。
「なんだよ、遠矢っち。恥ずかしがるなよー」
 にやにや笑いながら円は一夜をからかう。
「あ、ここなんかどう?」
「また今度な」
「……はい?」
 一瞬で表情も身体も固まった。
 立ち止まった円と一夜の距離が広がっていく。一夜の背中がどんどん小さくなっていく
が、しかし、円はいつまで立っても追いかけることができなかった。
 
 
2006年5月27日公開
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