『3年9組の四方堂円さん、生徒指導室まできてください。繰り返します――』
 その放送が流れたとき、四方堂円は、クラスの終礼が終わり、さぁ帰ろうかと荷物をまとめていたときだった。いったいなんだろう? 思わず教室前方のスピーカを見ながら首をひねる。そんなところに呼び出されるような覚えはないのだが。
 ふと、
 クラス中の視線が自分に集まっていることに気づく。
「ちょ、アタシ、何もやってないってーのっ」
 慌ててそう言い、制鞄を持って逃げるように教室を出た。
 
 
Simple Life
  番外編10 彼と彼女の関係
 
 
 今の円は長い赤毛をポニーテールにまとめ、クラブのジャージを着ているが、今日は部活はオフだ。せっかくの休みの日に、と心の中で愚痴をこぼす。
 教室を出ると、廊下で片瀬司が待っていた。
 その目が覚めるような美貌と(表面的には)人当たりのいい性格から『学園一の美少女』、『聖嶺のアイドル』などと称される、円の親友である。
「あなた、また何かやったの?」
 しかし、親友であるはずの彼女は、開口一番そう訊いてきた。
「どいつもこいつも。だいたい『また』て何よ。今も今までも何もやっとらんわ」
 実際、円は女子バスケットボール部の主将という立場から、迂闊なことはしないように常日頃から自分を戒めている。本気で心当たりがなかった。
「ま、行ってみたらわかることだわ」
 司がくるりと向きを変える。
「なに、司もくるの?」
「ええ。今日みたいに円と一緒に帰れる日は少ないんだから。少しくらいなら待っててあげるわ」
「そか、悪いわね。長くなりそうだったらテキトーなところでキリつけて、先に帰ってて」
 ふたりは並んで生徒指導室を目指した。
 チャイムが鳴る。7時間目の開始のチャイムだが、今日は水曜日、どのクラスも授業は6時間目までしかない。
(昇降口で那智くんをつかまえたかったけど、ま、仕方ないわね)
 司は交際中のかわいい彼氏のことを思う。
 一方、円は先ほどの校内放送が気になっていた。
 自分に覚えがないことを別にすれば、内容に問題はない。ただ、落ち着いた口調ながら、その声には教師にありがちな高圧的な感じがなかった。3年生にもなるとこれまでに多くの授業を受け、それだけの数の先生と接してきた。放送の声を聞いただけで、どの先生かたいていわかるものだ。しかし、先の放送は円の知るどの先生とも合致しなかった。
 その辺り想像がつかないのは司も同じらしく、道々ふたりで誰だろうと話し、首を傾げながら目的地を目指した。
 生徒指導室は職員室のそば。近づくにつれて行き交う生徒には学年の区別がなくなり、片瀬司を見慣れていない下級生が振り返る場面も増えてきた。
 程なく、生徒指導室へと辿り着く。
 と、そこではひとりの女子生徒が、今まさにその部屋の鍵を開けようとしているところだった。
 長い黒髪が日本人形を連想させる静かなる佳人――、
「あら、飛鳥井さん?」
 先に口を開いたのは司。
 その女子生徒とは、特進科3年にして風紀委員、飛鳥井明日香だった。
「って、もしかしてアタシを呼んだのって……」
「私です」
 明日香ははっきりした口調で答えた。
「げ」
 円は小さくうめく。別にやましいところはないのだが、明日香のようなお堅い真面目な人間はどうにも苦手なのだ。
「どうぞ」
 ドアを開け、先に中に入る明日香。
「じゃあ、わたしは外で待ってるから」
「ちょ、司、アタシをひとりにしないでよっ」
 円は親友にすがりつく。
「呼ばれたのはわたしじゃなくて円でしょう?」
 背が高くて迫力のあるスタイルのわりには気が小さいんだから――と、司は呆れる。
「片瀬さんが一緒でもかまいませんよ」
 中から明日香の声。
「ほ、ほら」
「そうね……」
 司はしばし考えてから、結局、親友につき合うことにした。どうして秀才佳人の明日香が円を呼び出したか、気になるところではある。
 中は簡素な応接セットが置かれた狭い部屋だった。壁にはスチールラックがあって、全国大学情報といった本や、過去の入試問題――いわゆる赤本などが並んでいたが、どうにも古そうだ。
「座って」
 明日香に促されるまま、ふたりは並んでソファに腰を下ろす。向かいに明日香が座った。
「で、飛鳥井さんがアタシに何の用?」
「少しお聞きしたいことがあって、お呼びしました」
 一拍。
「率直にお尋ねします。一夜さんとはどんなご関係?」
「は?」
 予想だにしていなかった質問に、円は間抜けな声を上げた。
 そして、その隣では、
(一夜さん!?)
 司が声もなく驚いていた。
「ア、アタシと遠矢っちは別に……」
「遠矢っち?」
 妙な単語を聞いて明日香が首を傾げる。
「いや、アタシがあの子のことを勝手にそう呼んでるだけで……って、なんで飛鳥井さんにそんなこと聞かれなくちゃならないわけ?」
 しどろもどろになっているうちに、円はだんだん腹が立ってきた。なぜ詰問され、こんなにも追い詰められなくてはならないのだろうか。
「そりゃそれなりに仲がいいつもりだし、この前もデートしたけどさ、そんなの飛鳥井さんに関係なくない? だいたいアンタ、なっちに興味があるとか、家に招待するとか言ってなかった?」
「何ですって!?」
 さすがにこれには司も黙っていなかった。
 あ、しまった。これは司には言わないって、なっちと約束したっけか――と、円は思い出したが、今さら吐いた言葉は回収できない。
「そうですね。一方的にこちらから質問するばかりでは失礼ですね、わかりました。順番にお話します。ですので、片瀬さんも少し待ってくださる?」
 明日香は今にも噛みつきそうな司を制する。
「四方堂さんは私には関係ないと言いましたが――あります。一夜さんは私の弟です」
「「 え? 」」
 今度は司も一緒に、ふたり声をそろえて反応した。
「込み入った事情と、多少身内の恥もあるので、ここだけの話にしてほしいのですが」
「いや、だって苗字が」
「一夜さんは父の愛人の子なんです。私とは異母姉弟ということになりますか」
 それが、身内の恥。
 円はそれを聞いて、無声音で「あ」と口を開いた。
「一夜さんから聞いてますか?」
「まぁ、ね……」
 確かにそんなことを言っていたように思う。そして、上に3人の姉がいるとも。まさかそのひとりが同じ学校、自分と同じ学年の飛鳥井明日香だとは思わなかったが。考えてみれば、一度は一夜と明日香が似ていると感じたことがあったはずだ。
「ですので、私は姉として弟である一夜さんのことを気にしています。千秋君に興味があるというものそのひとつで、今まで誰とも仲良くする様子のなかったあの子が、どうやら千秋君とだけはうまくやっているようなのです。それで千秋君がどういう子なのか興味がありました」
「そう」
 司はうなずき、ほっと胸を撫で下ろすのと同時に、明日香の心情も理解する。
 円も、なるほど、と心の中で納得していた。あのときのビンタは姉としてだったらしい。いくら風紀委員で『鉄の女』でも、さすがにあれはない。でも、姉ならば納得はいく。
「で、そのなっちは、遠矢っちと飛鳥井さんのことを?」
「知っています。先日うちに遊びにきましたので」
「何ですって!?」
 再び声を荒らげる司。
「本当に招待したの!?」
「だから、遠矢っちんちに行ったら飛鳥井さんがいてびっくりって流れでしょーが。少しは考えなさいよ。脊髄反射せずに」
 どうにも司は彼氏が絡むと、おそろしく沸点が低くなるようだ。
「にしても、遠矢っちも飛鳥井さんも、まったくそういう素振りがなかったよね」
 いつのどのシーンを思い返しても、このふたりが姉弟だと感じさせる場面がまったくない。それどころか接触すらほとんどなかったのではないだろうか。
「それは……」
 明日香が口ごもる。これまで明晰だった彼女の口調が、ここにきて初めて不明瞭になった。
「どうしたの?」
「その、一夜さんに言われているんです。学校では話しかけないでほしい、と。嫌われているのかもしれません、私……」
「そうなの」
 と、司は同情的な相づちを打つ。
 だが、円の反応は違った。
「別にそういうわけじゃないと思うけどね」
「どういうこと?」
 問うのは司。腰をひねり、振り返るように親友のほうにに顔を向ける。
 ソファに浅く腰かけ、足をそろえて上品に座っている司に対し、円は体を背もたれに預け、完全にリラックスしていた。
「遠矢っちさ、自分も話しかけないから、そっちも話しかけないでくれ、みたいなこと言ったんじゃない?」
「ええ。そういうニュアンスでした」
「でがしょ?」
 やっぱりね、と円。
「あの子、飛鳥井さんに迷惑かけたくないんだと思うよ」
「迷惑?」
 思ってもみなかった言葉に、明日香は単語で聞き返す。理解ができない。誰が誰にどういう迷惑をかけるというのだろう?
「遠矢っちってさ、自分のこと質のいい人間だと思ってない節があるんだよね」
「そんなことは――」
「ないって言い切れる?」
 円が明日香の言葉に発音をかぶせた。
「確かに勉強はできるよ。でも、授業中だろうが友達と一緒だろうが、おかまいなしに本を読んでてさ。愛想もなけりゃ、けっこう口も悪いし。この前だってさ、相手の気持ちも考えず手ひどい言葉で女の子を振ったから、飛鳥井さん、引っ叩いたわけでしょ? アタシたちはもう遠矢っちがどんな子かわかってるから気にもしてないけど、客観的に見てけっこう嫌なやつなんじゃない?」
「その嫌なやつは私の弟です」
「あ、ごめん。つい……」
 むっとする明日香に、円が謝る。その隣では司が「ばか」と小さくつぶやいていた。
「で、でさ――」
 話を先へ。
「遠矢っちもその辺のこと自分でちゃんとわかってて、だから飛鳥井さんに迷惑かけないように他人の振りしてたいんだと思うよ」
「嫌われているわけではない、ということでしょうか?」
 おそるおそる多少の希望を持って、明日香は聞き返し、
「苦手かもしれないけどね」
「やっぱり……」
 結果、項垂れた。
「違う違う。そうじゃないって」
 さっきから明日香が妙に表情豊かで、円は自然、笑顔になる。『鉄の女』の意外な面を見た気がした。
「あの子ってさ、人に優しくされたり親切にされたりするのって苦手そうじゃない? 飛鳥井さんも家じゃいろいろと面倒みてやってるんでしょ?」
「もちろんです。一夜さんが自分の立場に引け目を感じることのないように、と」
 ただでさえ愛人の子が引き取られたのだ。それだけで居場所なんてあるはずがない。それでもそういうことのないように3人の姉は気を遣っていた。一夜には何の罪もないのだから。
「尤も、そういうのはふたりの姉のほうが上手のようですが」
 いちばん上に姉は、誰とでもつき合えるその性格で。
 二番目の姉は、得意のファッションの分野を武器に。
「そっちはけっこう鬱陶しがってるかもね」
 円は笑う。
 明日香には何もないが、一夜を疎ましく思う母との間に入り、クッションの役目をしている。そして何より、母を亡くし、ひとり家に残されていた一夜を迎えにいったのは、誰あろう明日香なのだ。
「あの子はさ、そういうふうにされるのに慣れてなくて苦手なんだけど、でも、みんなが自分のことを思ってよくしてくれてるのはわかっててさ、実際、悪い気はしてないと思う。感謝だってしてるよ、きっと」
「そうでしょうか……?」
「うん、絶対」
 ピンとこないふうの明日香に、円は重ねて断言する。
「……」
 ふと、明日香が顔を上げて、円を見た。
「何?」
「一夜さんのこと、よくわかってらっしゃるのね」
「いや、別にアタシは……」
「デートまでする仲ですものね」
「……」
 勢いであんなこと言うんじゃなかった、と今さらに後悔する円。彼女が遠矢一夜の姉だとわかっていたなら、絶対に言わなかっただろう。
 そして、不意に思い出す。
 今日、明日香が自分をここに呼び出したのは、一夜との関係を問い質すためではなかったか。……不味い。このままではいらぬ誤解(?)を与えたままになってしまう。
「えっと、さ――カン違いのないように言っとくけど、アタシと遠矢っちはそんなんじゃないからね? いや、まぁ、さっきは話の流れであんなふうに言ったし、遊びに行ったのもホントだけどさ」
 多少どころか大いにやましさを感じていて、円はそっぽを向きながら言い訳がましく説明する。つき合いの長い司から見れば、その心情は手に取るようにわかるのだが。
「わかりました。では、そういうことにしておきましょう」
 明日香は少しいたずらっぽい調子を含めて、そう締めた。
「しておきましょうって……。ちょっとぉ、笑いながら言わないでよ、怖いから。だからホントなんだってば。アタシと遠矢っちは――」
 と、そこで円が言葉を止めた。明日香が唇に指を当て――『静かに』のサインを見せたのだ。どうしたのだろう、と司と円が顔を見合わせていると、彼女はゆっくりと視線をドアへと向けた。ふたりもつられてそちらを見る。
『どうだ、一夜。何か聞こえたか?』
『知るか。お前より後ろにおる俺に聞くな』
 聞こえてきたのはそんな声。
 明日香はすっと席を立ち、ドアへと近寄ると――それを一気に開けた。
「わあっ」
 直後、聞き耳を立てていたらしい小柄な男子生徒――千秋那智が飛び退き、その背中を後ろにいた一夜が受け止めた。
 明日香は呆れたように深いため息を吐く。
「あなたたち、いったいそこで何をやってるの」
「えっと、これは……」
 ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる那智。
「一夜さん」
 説明を求める相手を変える。
「……こいつが心配だって言うから、一緒に様子を見にきたんですよ」
「僕かよ!? 自分だってそうだろ。円先輩と飛鳥井先輩じゃどんな化学反応が起こるかわからないからって」
「どうやらあなたたちは私を劇薬か何かだと思っているようね」
 混ぜるな危険。
 じろりと睨まれ、那智は逃げるように目を逸らした。
「(一夜、本当に飛鳥井先輩だったな)」
「(だから言うたやろ)」
 ふたりは小声で交わすが、明日香の耳にも届いていた。が、あえて無視。
「ところで、無事に話は終わったんですか」
「ええ、無事に」
 少しだけ口の端を吊り上げ、答える。
「……」
 今日の那智はとことん口が滑る日らしい。
「あ、司先輩だ」
「気づくのが遅いわ、那智くん」
 司が苦笑い。
 一夜のほうは、このメンバー構成を見て、どんな話があったかを察してしまったらしい。
「……先に帰らしてもらうわ」
 くるりと背を向ける。
「あ、じゃあ、アタシらも」
 これ幸いと円は、ソファの横に置いてあった制鞄を拾い上げ、逃げるように生徒指導室を出た。
「そうね。……飛鳥井さんもどう? よかったら一緒に帰らない?」
「ありがとう。でも、この後も用がありますから。またの機会させてもらいます」
 そうして4人が歩き出そうとしたとき、一夜が口を開いた。
「遅くなるようなら俺に電話してください。迎えに行きますから」
 明後日のほうを見て喋るような、ぎこちない口調。
 明日香はほんの少しびっくりした顔をしてから、
「そうね。そのときはそうさせてもらいます。紫お姉様の車や茜お姉様の自転車に乗せてもらうのもいいけど、たまには一夜さんと歩くのもいかもしれませんね」
「じゃあ、徒歩の一夜は飛鳥井先輩をおぶって走……痛っ」
 よけいな茶々を入れる那智の頭に、一夜が無言で拳を振り下ろす。
「一夜さん?」
 そんなふたりの様子を見て微笑み、明日香は弟を呼ぶ。
「よいお友達に恵まれましたね」
「……」
 一瞬複雑な表情を見せ、考え込んだ一夜だったが、すっと義姉に背を向けた。
「……ノーコメントや」
 ひと言。
 肩越しに手を振りながら、去っていく。
 明日香は友人たちに囲まれ帰っていく弟を、温かい笑顔で見送った。
 
 
2010年11月2日公開
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