3月14日。
日曜日。
その日、わたしが目覚めたのは、もう午前中の残り時間も3時間あるかないかというような時刻だった。
低血圧のぼんやりとした頭のまま着替え。なんとなく窓の外を見てみると、表では円がバットを持って素振りをしていた。
……元気だ。
夏にクラブを引退し、先日高校も卒業。いよいよ運動する場を失って、エネルギィを持て余しているのかもしれない。
わたしは鏡台の前で髪にブラシを通し、上着を掴んで部屋を出た。
Simple Life
03 White Day U2
円――四方堂円は向かいに住む親友だ。
円とはわたしが小学5年生でここに越してきて以来、奇しくも中学を卒業するまでずっと同じクラスだった。
尤も、最初から仲がよかったわけではなく、少なくとも小学生の間はずっといがみ合っていたように思う。
それが変わったのは中学一年のとき。ちょっとした出来事をきっかけに、お互いを受け入れられるようになって、今に至る。
尚、今は冷戦状態。
深く静かに、戦いの毎日。
おかげでわたしたちはそれぞれ自分のケータイに、お互いのちょっと人には見せられないような写真が収められていたりする。楽しい悪ふざけ。
わたしは玄関から表へ出た。
「元気ね、円」
「ああ、司。おはよう」
円はバットを振る手を休め、応えた。
「決闘前の準備運動?」
「……アンタ、アタシを何だと思ってんのよ……」
ジト目でわたしを見る。
とりあえず軽いジャブは出しておかないと。
「そっちはずいぶんのんびりしてるじゃない?」
「だって、日曜日だもの」
いちおう卒業した身で毎日休みではあるけど、ある程度は規則正しい生活を維持している。でも、それも日曜日なら少し緩め。
「いや、でも、今日はホワイトディでしょうが」
「ぅ……」
わたしはうめく。嫌なことを思い出してしまった。
ホワイトディ。
バレンタインと対になるイベント。平たく言うと、バレンタインチョコを貰った男の子が、くれた女の子にお返しをする日――。
でも、実は今日まで那智くんの口からホワイトディのホの字も出なかったのだ。まさか那智くんが忘れてるなんて思いたくはないのだけど……。
だからと言って、こちらから口火を切って確かめるわけにもいかず、結局、ホワイトディなんてイベントはこの世に存在しないかのように、今日という日を迎えてしまった。
「ぅ、て何よ?」
「……」
わたしは顎に拳をあて、視線を落として考える。
那智くん、忘れているのだろうか?
念のために言っておくと、わたしは別にお返しが欲しいわけではなくて、ただお互いの気持ちが確かめられるイベントを逃したくないだけ。
「……もしかして今までなっちとそういう話なし?」
円は何やら察したらしい。わたしは黙って頷いた。
先月のバレンタインの後、数日でわたしは卒業してしまったし、在校生である那智くんは那智くんで期末テストなので、ここのところあまりゆっくり話せていない。
「なっちなりのサプライズかねぇ」
「サプライズ?」
「ずっと黙っておいていきなり襲来、とか」
……だといいのだけど。
「お返しはなっち自身!とかだったりして」
「それだったら尚更オッケーだわ!」
ええ、今すぐウェルカムですとも。
「ていうか、失敗したわ。むしろわたしがそれをやればよかったんじゃない!? リボンをつけて突撃すれば、いくら那智くんでも……!」
「司、アンタ……」
「……冗談よ。引かないで」
尤も、わたし自身、冗談と本気の境界線が曖昧だけど。
それは兎も角として。
さっきも言ったけど、わたしはお返しが欲しいわけではないし(――勿論、那智くんが何をくれるのか楽しみだけど)、那智くんはこういうことはきちんとしているので、忘れてはいないと思う。
思うのだけど――
やっぱり不安……
わたしの悪い癖だ。口では信じていると言いながら、時々不安に駆られてかたちを求めてしまう。手のひらの柔らかさとか、体の温もりとか、唇の感触とか。早く那智くんをわたしのものにして、那智くんのものになりたいと心焦る。
イベントを覚えていようが忘れていようが、そんなことは瑣末なことだと、心ではわかっているのに……
その後、わたしは家に戻って、遅い朝食を取った。お父さんは日曜にも拘らず事務所に行っているらしい。相変わらずの仕事中毒(ワーカホリック)。
朝食はそばに置いたケータイを睨みながら食べた。
那智くんからかかってくる気配なし。
かと言って、こちらからかけるのも……。
このままではずっとケータイと睨めっこになりそうなので、わたしは一度出かけることにした。那智くんが遊びにきたときに備えて、何かお菓子を買っておこう。
本当なら那智くんと初めてデートしたあのお店に行きたいところだけど遠すぎるので、今日は駅前デパートの洋菓子屋さんで我慢。
さっそく足を運んだ。
那智くんには3つほど種類の違うものを。わたしはティラミスひとつで充分。
女の店員さんが丁寧に箱に詰めてくれるのを眺めながら、ふと思いついた。
「ねぇ。リボンってある?」
「ありますけど……」
店員さんは少し困ったような顔をした。今使っている箱は取っ手のついたオーソドックスなもの。リボンなどつけようがない。
「いいの。それとは別に個人的に欲しいだけ。もしよかったら少し頂けないかしら? そうね、20センチほどでいいわ」
たいした量ではないからか、店員さんは快くリボンを分けてくれた。わたしはお菓子の箱とリボンを受け取り、その場を後にした。
帰りしな駅の改札口の前を通りかかったので、しばらくそこで待ってみた――けど、人の塊が3回ほど吐き出されるのを見送ったところで後悔した。
こんなグッドタイミングで那智くんが現れるはずないのに……
待った分だけ不安が増して、このままずっと会えないような気さえしてきた。ちょっと泣きそうかも。
ケータイを見てみる。電話はおろか、メールの着信もなかった。
わたしは改めて家へと足を踏み出した。
那智くんはホワイトディのことなんか忘れているのだろうか……。
わたしのことなんかどうでもいいのだろうか……。
「……」
我ながらすごい発想の飛躍。どれだけ被害妄想過大な女なんだ、わたしは。
「もぅ……」
思わず口をついて出た言葉。
いったい何に対して「もぅ……」なのか、わたしにもわからなかった。
そうして悶々としているうちに、次の角を曲がれば我が家、というところまできた。
そのとき、聞き慣れた着信メロディが鳴った。わたしのケータイだ。慌ててディスプレイを見ると、そこには那智くんの名前があった。
深呼吸をひとつ。
そうしてから――、
「もしもし?」
怒ってもいないし、弾んでもいない声。上出来だ。
『あ、先輩、こんにちはっ』
「ええ、こんにちは」
『あの、先輩、今日もしかしてお出かけでしたか……?』
電話越しに那智くんが、おそるおそる訊いてきた。
「あら、どうして?」
『えっと、実は今、先輩ンちの前にいるんですよ』
「ぇ?」
わたしは止まっていた足を進め、曲がり角から覗いてみた。少し先、わたしの家の前に確かに那智くんはいた。止めた自転車の横に立って、ケータイを耳に当てている。こちらに背を向けているので、わたしが近くまできていることに、まだ気がついていないようだった。
わたしは再び角に身を隠した。
「何か用だった?」
『いや、その、今日はホワイトディだから、バレンタインのお返しを、ですね……』
那智くんは恥ずかしいのか、言葉を途切れ途切れに継いでいく。
ああ、やっぱり那智くんは忘れていなかった。ちょっと不安になっていただけに嬉しかった。
少し余裕が出てきた。
わたしは静かに歩を進めた。
「そうだったの。那智くん、何も言わないから忘れているのかと思っていたわ」
冷たく意地悪なことを言ってみる。
『まさか、そんなことっ』
「ふぅん……」
さすがにちょっと罪悪感がわいてきた。
「でも、残念。もう出かけちゃったわ」
『うあ゛。いや、黙っていたのは忘れていたわけではなくて、ちょっと驚かそうかと……』
「……」
今度はわざと返事を返さない。
『本当ですよ? ……って、あれ?』
不審に思った那智くんが、ケータイから耳を離した。
「電波状態、悪い?」
首を傾げている。
そのとき、わたしはすでに、そうやっている那智くんの姿もしっかり見えるし、声も聞こえるところまできていた。那智くんは不調のケータイに気を取られて、わたしには気づいていない。
だから――、
「つっかまえたっ」
「ぅひゃあ!?」
後ろから抱きついたのだけど、するりと逃げられてしまった。洋菓子の箱が悪かった。これがなければぎゅっと抱きしめて、頬にキスくらいできたかもしれない。
「司先輩!?」
目を丸くする那智くん。
「びっくりさせないでくださいよっ」
「だって、隙だらけなんだもの」
襲ってみたくなるのも当然だ。
「ていうか、出かけたんじゃ……」
「ええ、出かけたわ。出かけて、いつ那智くんがきてもいいように、これを買ってきたの」
わたしは手に持っていた箱を示した。
「なぁんだ」
那智くんはほっと胸を撫で下ろす。
そんな彼の姿を見て、わたしは改めて自己嫌悪を覚えた。
那智くんはいつもわたしの信じた通りの那智くんなのに、どうして不安になってしまうのだろう。それは明らかに無駄なプロセスだというのに。
「そうだ、那智くん。手を出して」
「何ですか?」
那智くんは訊き返しながらも、素直に手を差し出してきた。その手首にわたしは素早くリボンを巻きつけ、きゅっと結んだ。
「うぇ!? 何これ!?」
「そうね。運命の赤い糸、かしら」
「いや、どう見ても糸じゃなくてリボンだし……」
勿論、それは運命の赤い糸なんてロマンチックなものじゃなくて、
那智くんはわたしのもの――
その印。
でも、これだって本当は無駄なおまじないなのかもしれない。
だって、那智くんはいつもわたしの思った通りの那智くんだから。「こんなことをしなくても、僕は先輩のものですよ」って、そう言ってくれる気がするから――。
2008年3月15日公開 |