東京湾上に巨大な人工島がある。 その名も巨大人工島学園都市(メガフロートキャンパス)――機械仕掛けの騎士(マシンナリィ・ナイト)の研究開発機関や騎士乗り(ナイトヘッド)の養成学校を集め、それらを中心にして設計された街である。 機械仕掛けの騎士の実験や訓練、演習、機槍戦(トーナメント)の大会の開催には広大な空間が必要となる。だが、二十一世紀の日本にそれだけの土地を確保することはあまりにも難しかった。結局、散々悩んだ末、東京湾上に巨大な人工島を建造し、そこを丸々ひとつの街にしたのである。嘘か真か、地下には巨大地下空間(ジオフロント)まで広がっているという噂まである。 §§§ 鳥海火煉(とりうみ・かれん)は今、空間(フロート)ウィンドウを睨みつけていた。 場所はセンター街。人工島学園都市の中でも最大の繁華街だ。若もの向けのアクセサリィショップやファッションブランドの店舗、洋菓子店が立ち並び、放課後の今は学校帰りの学生たちで賑わっている。そのセンター街にあるお気に入りのカフェのオープンテラスに、彼女はいる。学生寮に鞄を置くなりそのままここにきたので、白と黒から成る白黒グレーのタータンチェックのスカートにブレザーという制服姿だ。 携帯端末によって空中に投影された空間ウィンドウに映っているのは火煉の愛機、空戦騎"レイピア"の高機動カスタム機――彼女が騎名に『グラキエス』とつけた機械仕掛けの騎士(マシンナリィ・ナイト)のデータだった。仮想コンソールに指を走らせ、データを隅から隅まで精査する。 「異常なし、ね」 だが、特に問題点は見当たらず――火煉は長い髪を払いながら、ため息まじりにそうつぶやくのだった。コーヒーカップを口に運ぶ。 異常がないことは、わざわざ改めてデータを見るまでもなく最初からわかっていた。何せ調整したばかりで、それを実際に確かめるために昨夜はあんな時間まで学園に残って、演習場を使っていたのだ。 「だったらなぜ……?」 何度となくつぶやいたその言葉を、彼女はまた繰り返す。 火煉はその残っていた夜の学園で、偶然機械仕掛けの騎士同士の戦いに出くわしたのだった。音を聞き、駆けつけたときにはもう決着はついていた。残っていたのは同年代らしき少年ただひとり。彼だけでも捕えようとしたのだが――その結果は信じがたいものだった。 何せ、"小太刀"のような騎体で"幻影(ファントム)"を繰り出し、その上一瞬で背後をとってきたのだから。確かに"小太刀"は機械仕掛けの騎士としては傑作だ。だが、その一方で平均値が高いだけの凡庸な騎体とも言える。しかも、見たところ大きくカスタマイズした様子はなかった。そんな騎体で"幻影"など、普通はできたものではない。 なぜ、あそこまで見事にしてやられた? 騎士乗りとしての腕の差――それを認めるのは火煉のプライドがゆるさなかった。火煉は、キルスティン女学園に十人といない女王級(クラス・クィーン)のひとりで、《運命の三女神の未来(アトロポス)》と称されているほどの実力者だ。無論、この位階も異名もあくまでも学園内のものだが、決して井の中の蛙のつもりはない。 実際、彼女は学園都市内で行われる機槍戦(トーナメント)で悉くトップクラスの成績を残しているし、学生やプロ、軍、警察、果ては魔術庁など、全騎士乗りを対象としたランキングでも、辛うじてではあるが学生の身ながらランカーとして名を連ね、公表されていた。女王級の位階も《運命の三女神の未来》の異名も、大袈裟だと笑うものもなく知れ渡っている。実力は自他ともに認めるところだ。 にも拘らず、あの少年はその火煉から一本奪い、逃げていったのである。 昨日の出来事は誰にも言っていない。内緒にとお願いされたからではないし、ましてや自分が出し抜かれたからでは決してない。後者に関して言えば、負けたから黙っているということのほうが恥ずべき行為だとすら思うくらいである。それでも黙っているのは、ただ何となくとしか言いようがない。夜に起きた一瞬の出来事で、現実感を欠いているからだろうか? だが、その現実感を欠いた出来事が、火煉の頭から片時も離れない。昨日からずっとそのことばかりを考えている。放課後の予定をすべてキャンセルし、いつものようにここにきても"人探し"はすっかり忘れてしまっていた。 と――、 「おい、見ろよ。あの子、かわいくないか?」 不意にそんな囁き声が耳に入り、火煉を現実に引き戻す。またかと思いつつ、声のしたほうを見れば、そこには若い男の二人組がいた。どこかの研究機関の若手研究員といったところか。こんな時間に外にいるのは、残業に向けての休憩か単なるサボりか。それは兎も角として――ところが、彼らが見ているのはこちらではなかった。自意識過剰な自分を恥ずかしく思う。 彼女を擁護するなら、鳥海火煉はとても見目麗しい少女である。神秘的と表現するのがいちばんしっくりくるだろうか。《運命の三女神の未来(アトロポス)》と称されるのは、その美貌も理由のひとつだ。しかも、彼女はよくこうしてひとりで街に繰り出すため、声をかけられるのも日常茶飯事だった。尤も、声をかけてくるのは、顔がいいだけで中身のない、そのくせ自信だけはたっぷりな男ばかりだが。そんな彼らを見て、火煉はいつも「違う……」とため息を吐くのである。 男ふたりの視線を辿れば、そこには白いシフォンワンピースに、少々色合いが異なるがやはり白のレースのカーディガンを羽織った少女がいた。ショートヘアの小柄なかわいらしい子で、火煉同様ひとりでお茶の最中のようだ。 彼女は男たちの視線に気づくと、あろうことか笑顔で手を振って応えたのだった。ふたりも嬉々として手を振り返す。それから二人組は顔を見合わせ、無言で何ごとかをうなずき合うと、席を立って彼女に寄っていった。 「まったく……」 呆れたようにこぼしながら、火煉も腰を上げた。 男たちはさっそく少女に話しかけていた。ひとりは図々しいことに同じテーブルの席に座り、顔を覗き込むようにしながら下心丸出しの笑みを向けている。 「失礼。その子は私のお友達です。何かご用でも?」 火煉はそこに歩み寄ると、一片の嘘も感じさせない口調で、堂々とそう言い切った。ぎょっとして振り返る男ふたり。 そして、 「げ」 と、うめくように発音したのは、なぜか件の少女。火煉が思わず彼女のほうを見れば、少女は口を指で覆い、知らん顔で横を向いていた。彼女の奇妙な反応に、動きには出さず内心だけで首を傾げつつ、二人組へと向き直る。 「い、いや、彼女がひとりで寂しそうだったから、ちょっとお話でもしようかと……」 「そ、そーそー。でも、もういいみたいだね。じゃあ、俺たちはここで……」 整いすぎるほど整った火煉の真顔はたいそう迫力があり、ふたりの男は誤魔化すように曖昧に笑いながら去っていった。 「まったく……」 火煉は再び先ほどと同じ言葉を吐きながら、逃げていく男たちを腰に手を当てて見送った。 それからくるりと少女へと振り返る。 「あなたもよ」 「ボ、ボク!?」 いきなり矛先を向けられた少女は、びくっと背筋を伸ばした。 「見てたわ。男なんてすぐに勘違いするんだから、あんなふうに簡単に手を振るものじゃないわ」 「そ、そうですね。気をつけます。じゃあ、ボクはこれで……」 緊張の面持ちでそう答えると、席を立った。 「待って」 が、火煉は立ち去ろうとする少女の腕をつかみ、引きとめる 「あなたも騎士乗り?」 「え?」 火煉の視線はつかんだ少女の左腕に注がれていた。小指にはかわいらしいデザインのピンキーリング。そして、それとは別に手首には銀のブレスレッドが巻かれていた。騎士乗りが機械仕掛けの騎士(マシンナリィ・ナイト)を量子化して圧縮格納するための最もメジャーなアイテムだ。 「え、ええ、まぁ」 「やっぱり」 火煉は改めて少女を眺める。 意外だった。こんな小柄でかわいらしい、男に無警戒に手を振ってしまうような少女が騎士乗りとは。尤も、機械仕掛けの騎士を駆るのに容姿は関係ないし、体格もそこまで重要ではない。機械仕掛けの騎士を動かすのは、大雑把に言ってしまえば魔術を基礎理論としたイメージだ。だが、そうだとしても実際に自分がその動きをできたほうがイメージが容易なのは確かであるし、イメージと実際の差は小さくなる。故に優れた騎士乗りは身体能力を高めることに余念がない。その結果が体格に表れる、或いは、恵まれた体格が高い身体能力を生むという図式が成り立つのなら、騎士乗りであることと体格は無関係ではないのかもしれない。従兄弟くらいの関係だろうか。 何にせよ、火煉はこの少女に興味をもってしまったのだった。 「私はキルスティンの鳥海火煉。あなた、名前は?」 「な、名前!? えっと……まりあ。そう、マリアです」 少女――マリアは慌てた調子で名乗った。 その言い方や名前しか言わなかったあたり、おそらくテキトーに口走った偽名なのだろう。が、火煉は気にしないことにした。初対面の相手にどう名乗ろうが本人の自由だろう。 自分を指して『ボク』と言ったところも、特に気にはならなかった。何せキルスティン女学園は、その名の通り女子校。それだけの少女が集まれば、中には少々風変わりなのもいる。一人称が『僕』や『俺』なのもいれば、もっと強烈な"キャラ付け"をしている生徒もいるのだ。 「見ない顔だわ。キルスティンの生徒ではなさそうね」 「え、ええ。です……」 またもマリアは詳しいことを言おうとはしなかった。「まぁ、いいか」と火煉は割り切り、そして、切り出した。 「マリア、よかったらこれから少し、私につき合ってもらえないかしら?」 「ふぁっ!?」 盛大に驚くマリア。 「そんなに大袈裟に考えなくていいわ。そのあたりをぶらぶら、一緒に歩くだけだから」 「ま、まぁ、それくらいなら……」 「そう。よかったわ」 火煉が微笑めば、マリアは顔を赤くしてうつむいてしまう。見れば見るほどかわいらしい少女だ。火煉は彼女といる間は機槍戦や機械仕掛けの騎士の話はしない、考えることもしない――そう心に決めた。 『マリア』はちらと隣を見、かすかにため息を吐いた。……まさか彼女に会ってしまうとは思わなかった。 彼女のことはマリアも知っている。 鳥海火煉。 ここ巨大人工島学園都市(メガフロートキャンパス)にあるキルスティン女学園で、『運命の三女神』と呼ばれる三強の一角だ。異名は《運命の三女神の未来(アトロポス)》。マリアたちの年代の騎士乗り(ナイトヘッド)の間ではかなりの有名人だ。 それに何よりマリアは……。 (正直、今は会いたくなかったなぁ……) 内心でこぼす。 「マリア、あなた学校はどこなの?」 センター街を歩きながら火煉が問うてきた。 「ボクは、本土です」 「そう。どうりで見かけないはずね」 女子の騎士乗りは少ないので顔見知りになりやすいのは確かだ。しかし、巨大人工島学園都市は広い。生活圏が重ならないことだって十分にあり、そうなってしまえば接触の機会はほとんどなくなる。本土東京とこの学園都市なら尚更だ。 「じゃあ、こちらのスクールか何かに?」 「え、ええ、まぁ」 機槍戦(トーナメント)特区・巨大人工島学園都市には機械仕掛けの騎士(マシンナリィ・ナイト)の基礎から実戦での戦い方までをレクチャーする民間のスクールが多数存在し、本土からそこに通うものも少ないながらいるのである。だが、本格的に技術を学び、本気で機槍戦に出場して成績を残したいのなら、こちらで腰を据えて取り組むのが一般的だ。 ただし、マリアの場合はそのどちらでもなく、ほぼ独学に近いのだが。 ――そこで会話は途切れてしまった。 どことなく気まずい沈黙だ。 隣を歩く火煉はお世辞など抜きにして美人だと思う。どこか幻想的で、それでいて透明感があるから、どんな風景に溶け込めてしまう。とても神秘的だ。マリアとしても、そんな彼女とこうして一緒にいられることは嬉しかった。もっと素直にこの瞬間を楽しめたら、と残念で仕方がない。だが、そうするといろいろとボロが出そうで、どうしても口数が少なくなってしまうのだった。 そのあたりの危険のなさそうな服やファッションの話題ならと思うのだが、火煉のほうはそちらに興味はないようだ。さっきもよさそうな店の前を通ったのに、見向きもしなかった。今は学校帰りなのか、彼女が着ているのは制服だ。ファッション性の高いデザインをしているとは言え、所詮は学校の制服。普段どんなスタイルなのか気になるところだ。 「あれがいいわね」 不意に、火煉のひとり言のようなつぶやき。 「ねぇ、マリア。アイスクリーム食べましょうか」 そうして彼女は提案してきた。 見ればちょうど有名なアイスクリーム店の前を通りかかるところだった。だからこそ彼女も立ち寄ろうと思ったのだろう。店の中では数人の女子生徒が楽しそうにフレーバーを選んでいるのが、自動ドア越しに見えた。 「あ、いいですね」 「じゃあ、行きましょうか」 マリアもアイスクリームは好きだ。特にこの店のは。マリアのその返事に微笑むと、火煉は店へと体を向けた。 先の女子生徒たちと入れ違うようにして店舗の中に入る。 「いらっしゃいませ。何になさいますか?」 「ボクはワッフルコーンのダブル。チョコチップクッキーとミントで」 マリアは普段からよく食べている定番をノータイムでチョイスした。店員も慣れた手つきでふたつのアイスクリームをワッフルコーンに載せ、マリアに手渡す。 「そちらの方はお決まりですか?」 続けて店員は火煉に問うが、彼女からは返事がない。 見れば火煉は様々なフレーバーのアイスの並んだケースを前にして固まっていた。 「あの、火煉さん?」 「え? ああ、ごめんなさい。普段こういうの食べなくて」 つまり何を選んでいいか迷っているらしい。ここに誘ったのは火煉ではなかっただろうか。 「マリアが決めてくれるかしら?」 「えっと、じゃあ……この人にはチョコチップクッキーをワッフルコーンでお願いします」 頼まれて注文したのは、マリアがこの店でいちばん美味しいと思っているフレーバーだ。いつもこれだけは外せない。個人的な好みではあるが、実際人気は高い。これなら大きなハズレになることはないだろうと踏んでの選択だった。自分のと違ってシングルだが、火煉には特に不満はなかったらしい。店員から受け取ったアイスクリームを不思議そうに眺めている。 ふたりは店を出た。 なお、支払いの際にどちらが出すかでちょっとしたやり取りがあったのだが、結局、初対面だし自分のは自分で払うことで落ち着いた。 「美味しいわ」 火煉がひと口食べて自然にそんな感想が出たのを聞き、マリアはほっと胸を撫で下ろした。 が、 「……」 「……」 そして、またそれ以上会話は続かなかった。 いろいろと警戒するあまり言葉が少なくなってしまっているのだが、これでは逆によけい不信感を与えかねない。 「マズいなぁ……」 マリアは思わず独りごちた。 火煉はちらと隣を見やり、かすかにため息を吐いた。 マリアと一緒に賑やかなセンター街を並んで歩く。 手にはさっき買ったアイスクリーム。 普段の火煉はこんなことをしないのだが、マリアのためにも無理をして慣れないことに挑戦してみた。年ごろの少女としてはありがちながら、なかなかに心躍るシチュエーション――だと思う。たぶん。 だが、マリアはどこか居心地が悪そうで、あまり楽しそうではなかった。口数も少ない。そんな彼女の様子が、火煉にため息をこぼさせるのだった。 やっぱり、と思う。 火煉はこのマリアという少女に決して少なくない興味を抱き、思い切って誘ってみたのだが――彼女にとってはどうもあまり望むところではなかったのかもしれない。 実のところ、こうしてそばで緊張されるのはいつものことだった。何せ彼女の実力は皆のよく知るところ。同世代の騎士乗り(ナイトヘッド)からは尊敬され、畏怖されるばかりだ。『運命の三女神の現在(クローソー)』の茉莉花(まつりか)、『運命の三女神の過去(ラケシス)』の愛理とは実力が拮抗するが、対等すぎてむしろライバル関係にある。あまり"お友達"という感じではない。 マリアの口からは、自分が名乗るまで鳥海火煉の名前も《運命の三女神の未来》の異名も出なかった。だから、自分のことは知らないのかもしれない、と淡い期待を抱いたのだが、そこは騎士乗り、やはり知っていたということか。 せめて会話を弾ませるだけの話術があればよかったのだが、あいにくと機槍戦(トーナメント)や機械仕掛けの騎士(マシンナリィ・ナイト)以外の話題を持ち合わせていななかった。機槍戦バカな自分をここまで恨めしく思ったのは初めてだ。 「マズいわね……」 「マズいなぁ……」 何気なくこぼしたひと言は、なぜかマリアとユニゾンした。 「「 え? 」」 そして、顔を見合わせるふたり。 マリアにとっての"マズい"が具体的に何を指すのかはわからないが、今のこの状況についてであることは間違いあるまい。 「ねぇ、マリア? やっぱり私とじゃ面白くないかしら?」 様々な不安に駆られ、火煉は問いかける。 「いえ、そういうわけでは……」 が、マリアはアイスクリームを持っていないほうの手を振り、否定した。これが気を遣ってのことなら、火煉としては嬉しいやら寂しいやら複雑な気分だ。 「でも、私のことは知ってるのでしょう?」 「え!? し、知りません! きょ、今日が初対面ですっ」 今度はさっき以上に必死の否定だった。どことなく不自然な反応だが、マリアが健気で、かわいい少女だというのは確かのようだ。火煉の頬が緩む。 と、にわかに周囲が騒がしくなった。 何ごとか思ったそのとき、前方からガラの悪そうな男が走ってくるのが目に入った。歳は二十代前半くらいだろうか。あまりまっとうな人間には見えなかった。男は「どけ、オラッ」と乱暴に人を突き飛ばしながら、自分もよろけつつ走っている。男だけではなく、「痛ぇな」「え、何なの?」と、騒ぎそのものがこちらに近づいてきていた。 「だ、誰か、捕まえてっ。その人……」 さらにその向こうからは、女性の悲鳴じみた声。 「え?」 と思ったときには、男はもう火煉のすぐそばだった。 咄嗟に反応できなかった。捕まえてと言われても理由がわからないし、全力で走ってくる大人の男を果たしてどう捕まえればいいのか。一歩間違えればこちらも怪我をしかねない。おそらく何もできずに見送っている人や、運悪く男に突き飛ばされている人も同じ思いなのだろう。 だから、火煉が思わず道をあけてしまったのも無理からぬこと。男は火煉とマリアの間を抜け――、 「どぅわっ」 と、その瞬間、その男は盛大にすっ転んでいた。同時に何かが道の上に落ちて滑る。 「ん? ああ、これか」 それを拾い上げたのはマリア。見ればそれは女ものの財布だった。 ここにきてようやく火煉は理解した。男が女性から財布を盗んだのだ。こんな人通りの多い往来でひったくりは考えにくいから、たぶんスリだろう。そして、女性は運よくそれに気づき、慌てて追いかけてきたのだ。 そして、その男をマリアが、咄嗟に足を出して躓かせたのだろう。 「おい、捕まえろ。誰か警察を」 周りにいた何人かの男性が集まってくる。どうやらこれにて一件落着しそうだと火煉は思った。 「きゃあああっ」 が、突然、学生らしき少女の悲鳴が上がった。思わず振り返ると、そこには――、 ナイフを持った男。 二の腕から血を流し、うずくまる男性。 その光景を見て凍りつく少女。 スリの男が捕まるまいと取り出したナイフを振り回し、抵抗したのだろう。結果、取り押さえにきた男性のひとりが怪我をしたのだ。皆、男から距離を取りはじめる。 男がこちらを見た。いや、違う。火煉ではなくマリアだ。この逃走劇に水を差した彼女が標的なのだ。 「このガキィィ!」 逆上した男が狙いをマリアに定め、向かってくる。 「マリア!」 「下がってっ」 マリアが拾った財布を押しつけつつ、火煉を突き飛ばした。手放したアイスクリームが、路上で無残に潰れる。 マリアは身構えた。 それもただ反射的に身構えたのではなく、明らかに武道の心得のあるものの構えだ。眼光も刃の如く鋭く研ぎ澄まされる。 直後、目を疑うような光景が繰り広げられた。 男がやたらめったら振り回すナイフの悉くを、マリアは白いワンピースの裾と袖をたなびかせながら躱し、ときには捌いて、すべて防いでいるのだ。明らかに達人と素人の戦いだった。 「クソがぁぁぁ!!!」 男がいよいよ自棄(ヤケ)になったようで、まるで突貫のように切りつけてくる。 対するマリアも前に踏み込み、男の懐に飛び込む――どころか、身を沈めてその横をすり抜け、そのまま男の背を自分の肩背部で打ちつけた。 「あ、あの動き……!」 火煉がはっと息を飲む。 見覚えがあったのだ。あの動きは昨夜の少年と同じもの。そして、そのときの自分は今の男と同じ立場だった。 男がよろけながらも振り返る。マリアもだ。 再び向き合うふたり。 男は、今度はナイフで突いてきて――そこで勝負がついた。 マリアはその突きを捌きつつ、男の足を払ったのだ。赤子の手をひねるとはまさしくこのことで、大の男が冗談のようにあっさりと仰向けにひっくり返った。 「ふっ」 呼気ひとつ。鳩尾に正拳を突き込む。男は腹を押さえて悶絶し、しばらくは立てそうになかった。 ギャラリィから拍手と歓声が上がる。 だが、周りの盛り上がりをよそに、火煉の気持ちは冷めきっていた。 「マリア……」 ぞっとするような、底冷えのする声。 ギリシア神話におけるアトロポスは最も暗く冷酷だとされているが、今の彼女の声がまさにそうだった。 マリアがゆっくりとこちらを向いた。その顔も姿も、どう見ても愛らしい少女のそれでしかない。だが、もはや疑う余地は一片もなかった。優れた騎士乗りは一度戦った相手のことは忘れない。例え姿が違っていても、機械仕掛けの騎士から降りていてもわかる。それが苦杯を嘗めさせられた相手となれば尚更だ。その騎士乗りとしての感覚が間違いないと告げていた。 「マリア。あなただったのね。あなたが昨日の……」 「やっぱりバレたか」 マリアの口から苦笑がもれる。 マリアとしてもあの動きを見せれば、正体を見破られるとわかっていたのだろう。火煉をそれだけの騎士乗りだと認めているのだ。そして、それでもあの局面で自然と、咄嗟に体が動いてしまったマリアは、果たして迂闊と言うべきか、それとも只者ではないと見るべきか。 「騙すつもりはなかったんだけどね」 「いいわ」 火煉は首を横に振り、マリアへと歩み寄った。 周りは、スリと傷害の犯人を取り押さえるのと、切りつけられた男性の応急手当などで右往左往していて、もはや火煉とマリアに注目しているものは少ない。それでも火煉は顔を近づけ、まるで内緒話をするかのように言葉を紡いだ。 「その代わりに――勝負よ」 「勝負?」 マリアが問い返す。 「騎士乗りが戦うのなんて、方法はひとつしかないでしょう? ……機槍戦(トーナメント)よ。私と機槍戦で勝負しなさい」 2015年4月21日 公開 |
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