I'll have Sherbet!

 

 番外編1(1).「男の子?」と彼女は言った

 

 それは3学期に入って、いずれくる学年末考査をそろそろ意識しはじめたころのこと。
 今は夜。
 僕は自室で勉強中だった。
 取りかかるは数学。だけど、どうにも解法に自信がもてない。やっていることは一年生の範囲なのだが。少し考えた末、僕はイスから立ち上がった。
 部屋を出る。
 と、リビングには勉強の合間の休憩なのか、佐伯さんがいた。
 彼女のタンクトップにオフショルダーのトレーナーというスタイルの部屋着は、リビングに空調が効いているからいいようなものの、見る側にとっては少々寒そうに映った。
 そんな彼女は自分の座イスに座って、マグカップでコーヒーを飲んでいる。カフェオレだろう。もちろん僕のコーヒーを、などと言うつもりはない。なくなったらなくなったで、ひと声かけてくるだろうから。少なくとも一杯分は残っているはずだ。
 佐伯さんは部屋から出てきた僕を見て、「おー」とひと声。
 僕も何か返そうと思ったとき、テレビから新しいニュースが流れ、意識がそっちにいってしまった。なんでもどこかの資産家の若夫婦(といってもどちらも四十代だが)が不幸な交通事故で亡くなったのだとか。毎日のようにある、どこそこで殺人があったとか、与党と野党の思惑が云々とか、そういったニュースとは違い、少し珍しい種類のものだったので、思わずふたりして見入ってしまった。しかし、意外にあっさり次のニュースに移ってしまうと、僕たちは呪縛から解放されたかのようにテレビから目を離した。
「弓月くんも休憩?」
「あぁ、そうでした」
 言われて僕は用件を思い出す。
「今使ってなければでいいのですが、少し数学の教科書を貸してもらえますか?」
「いいよ。ちょっと待ってて」
 そう快諾して立ち上がる佐伯さん。
 彼女のボトムはショートパンツだった。いよいよ冬場とは思えない部屋着だ。自室のドアの向こうに消えた佐伯さんは、すぐに教科書を手に戻ってきた。
「はい」
 立ったままそれを僕に手渡し、またもとの位置におさまる。
「何かわからないこと?」
「そんなところです」
 佐伯さんがテーブルに身を乗り出すようにして訊いてくる。僕は彼女を見――そして、すぐに視線を戻して、受け取った教科書を開いた。
「何ならおしえてあげようか?」
「単なる確認ですから」
 僕は視線を下方向に固く固定したまま返す。
「残念」
 特に残念でもなさそうに、佐伯さん。
 やり取りはそれっきり。
 僕が目だけで佐伯さんを見ると、彼女は先ほどの構造のままだった。動いた気配がなかったので、案の定だ。
 仕方なく僕は指摘する。
「佐伯さん、その服でそういう姿勢はやめてもらえますか」
「へ?」
 彼女は素っ頓狂な声を上げる。
 ゆったりとしたトレーナーの下のタンクトップはずいぶんと大胆に前が開いているようで、前屈みになるとかなり奥まで見えてしまう。
 ワンテンポ遅れてようやくそのことに気がついた佐伯さんは、胸の前を手で押さえながら飛び退くようにして身を引いた。
「……み、見た?」
 そのままでおそるおそる問うてくる。
「見てませんよ」
 最初の不可抗力はあれど、少なくとも自発的には見ていない。
「……」
「……」
「見る?」
「見ません」
 間髪入れず答える。
「即答されると傷つくんですけどー?」
「知りませんよ、そんなこと」
 佐伯さん的にはここは傷つくポイントなのか。
 僕の言葉に口をへの字に曲げていた佐伯さんだったが、急に何か思いついたのか「きらーん」とわざわざ自分で効果音をつけつつ、表情を明るく変えた。
 立ち上がるのももどかしい様子で、立て膝のままテーブルを回り込んでくる。そして、最後には両手も床について、四つん這いの構造で僕の顔を覗き込んだ。また胸もとが大きく開き、奥にある豊かなふくらみが見えそうになる。不覚にも僕の視線は上と下を行ったりきたりしてしまった。
 そんな僕におかまいなしに――いや、むしろ手ごたえありとばかりに、佐伯さんは切り出した。
「ね、久しぶりにしようか?」
「何をですか、何を」
「もー、わかってるくせにー」
 少し顔を赤くし、照れているらしい佐伯さんは、肘で僕を小突いてくる。
「わかりませんし、何もしません」
 僕は彼女から体ごと顔を背け、再び教科書に向かった。隣から「む……」と不満げな発音が聞こえたが、無視。
 しかし、直後。
 ページをめくっていた僕の手首が、がしっ、と掴まれた。
「……何ですか、これ」
「あ、いや、触ってしまえば弓月くんもその気になるかなと思って」
 しれっとそんなことを言う。
「冗談じゃない、やめてください」
「因みに、わたしはすでにスイッチがオンです」
「知りませんと言ってるでしょう」
「……」
「……」
 そのとき傍目には、僕たちはただ単に睨み合っているように見えただろう。だけど実際には、佐伯さんは僕の手を引き寄せようとし、僕は1ミリも動くまいと腕に力を込め、ぐぐぐぐ……、と静かに熾烈な争いを繰り広げていた。
 その壮絶に不毛な戦いの終了のゴングは、テーブルの上から聞こえた電子音だった。
 ふたりしてそちらを見れば、そこには佐伯さんの携帯電話が。鳴り続けるメロディは、どうやら音声通話の着信を告げているようだ。
「もぅ、いいところだったのに」
 佐伯さんは文句をひとつ吐き出し、体を起こして端末を手に取った。……いいところ、だったか?
「もしもし、お母さん?」
 どうやら相手は冴子おばさんのようだった。
「え、今? そんなのお母さんに関係ないじゃない。ていうか、ひとりに決まってるでしょ。そんなことより何の用?」
 そうして彼女は騒々しく自分の部屋に消えていった。
 ひとりになったリビングで、僕はほっと胸を撫で下ろす。まったく、佐伯さんときたら。
 これでようやく落ち着いて本来の目的を果たせる。僕は三度教科書へと目を落とした。自信がなかったところをひとつひとつ丁寧に確認していく。
 と、程なく佐伯さんが戻ってきた。
「お母さんだった」
「そのようですね」
 彼女はいつもの場所に腰を下ろす。
「アメリカの学校で仲がよかった子からうちに電話があってね、今こっちに帰ってきてるんだって。それで久しぶりに会いたいって」
「帰ってきてる、ということは、日本人の女の子ですか?」
「ん?」
 僕の何気なく発した問いに、佐伯さんは妙なリアクションを見せた。
 それからなぜか少し考え――、
「えっと、日本人の……、男の子?」
 言いにくそうに紡いだ言葉は疑問形。
「……」
 それを聞いた僕の中に複雑な思いがよぎった。佐伯さんに悟られてなければいいのだが。
 
 
番外編1(1).「男の子?」と彼女は言った
 
 2012年6月17日公開

 


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