I'll have Sherbet!

 

 番外編2.小悪魔^2、あります!(前編)

 

 閑静な住宅街の入り口という、お世辞にも立地条件のいいとは言えない場所に『天使の演習』という名のカフェがある。
「それじゃあ、今日も張り切っていきますか」
 店長は、まだ二十歳を過ぎたばかりの青年、その名を弓月恭嗣という。
「ちょっとー。もう少し気合いの入った声出してよ。今日、日曜だから忙しくなるよ?」
 そう頬をふくらませるのは、弓月の妻であり現役の大学生である貴理華――旧姓佐伯貴理華、佐伯さんだった。
「日曜だからというよりは、フルメンバーだからって気もしますけどね」
 弓月は準備中の店内を見回す。
 今日は店で抱えているたったふたりのアルバイトがそろっていた。
 ひとりは面白ければ薄給でもかまわないという藤間真。現在高校2年生。
 もうひとりは、その藤間の先輩である黒髪ロングのオトナ美人、槙坂涼――槙坂先輩だった。
 その華やかな容姿のせいか、佐伯さんと槙坂先輩がいるといないとでは客の入り方に雲泥の差が出る。おかげで彼女たちのいる平日の夕方以降や休日は忙しいのである。因みに、平日の昼間は弓月の義母、つまりは佐伯さんの母親が時々手伝いにきていたりする。
(いろんな人に支えられているな)
 つくづくそう思う弓月だった。
「弓月さん、今日はオープンスペースあけますよね?」
「ああ、そうですね。天気もいいし、使いましょう」
 この店には前の通りに面した庭のような場所にオープンスペースがある。とは言え、そう広くないので、丸テーブルの席がふたつだけだが。秋口の今は気候も穏やかで、天気がいい日は用意するのが常だ。
 と。
「きゃっ」
 ふいに槙坂先輩の口から小さな悲鳴が上がった。
 見ればテーブルクロスを抱えた彼女が困り顔で足もとを見ている。そこには小さな三毛猫が一匹、槙坂先輩の足に体をこすりつけていた。
「貴理華さん、ヴィーちゃん連れてきてたんですか?」
「……佐伯さん」
 問う槙坂先輩。弓月もやや非難混じりに佐伯さんを見る。
 この仔猫でも成猫でもないような大きさの三毛猫は弓月家で飼っている猫で、ヴィーちゃんはその愛称である。今日は弓月が佐伯さんよりひと足先に家を出てきたので、彼女が我が家の愛猫を連れてきているとは知らなかった。
「や、一日家にいないし、ひとりじゃかわいそうだと思って」
「それなら奥の部屋から出てこないようにしてください」
「はーい」
 やや不貞腐れ気味に返事をすると、佐伯さんは愛猫を拾い上げ、奥の部屋へ消えていった。
「まったく」
「ヴィーちゃんって"Tsukasa ART"の司さんから貰ったんでしたっけ?」
 呆れてため息を吐く弓月に、槙坂先輩が訊く。
 "Tsukasa ART"の司さんは、この店の店頭に掲げられているウェルカムボードやメニューボードのチョークアートを手がけてくれた人だ。現役の美大生であるが、依頼を受けてそういったものを作成していた。
「そうですね。正確にはもうちょっと複雑になりますが」
 正確なところを書き記すと、
 弓月 ← 元級友の山南さん ← その先輩の司さん ← その旦那 ← ???
 ということになる。
 猫を飼いたいという佐伯さんの相談を受けて、司さんが探してくれたのだ。
「店長、この本、後ろに並べていいですか?」
 今度は藤間。
 "天使の演習"では藤間の提案を採用して、コーヒーハウス風に店内に書架を置いている。
 コーヒーハウスとは、客が読むための本や雑誌を置いたカフェのことである。
 1650年に初めてオックスフォードに出現し、中には図書室を構えるものや定期的に読書会を催すところもあったという。かのアイザック・ニュートンもコーヒーハウスの仲間と議論を繰り返し、『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』を書き上げるに至っている。
 そんなコーヒーハウスはコーヒーそのものの魅力と、2、3軒も回れば多種多様な知識が手に入ったという蔵書の豊かさもあり、18世紀初頭には2000軒を越えていた。
 一方で、1740年ごろから貸本屋が急速に数を増していた。
 貸本屋はより女性向けの雑誌や"軽い読みもの"を提供することで、中流階級の女性を中心に人気を得ていた。男社会のコーヒーハウスの存在が女社会の貸本屋の出現を促したとも言える。
「いいですよ。……おや、君にしてはずいぶんと有名どころですね」
 答えた弓月は、藤間の持つ本のタイトルを見て意外そうに言う。それは書店に行けば平積みにしてポップまでついていそうなベストセラー小説だった。
「君はもっとマイナーなものを好むと思っていたのですが」
「そうでもないですよ。どちらかと言うと僕は乱読家ですからね。読書傾向は偏るよりは散らばってます」
 先日藤間は異母兄と会う機会があったのだが、彼にも同じく乱読の傾向があって思わず苦笑したものだった。
「ただ、自分の書架に並べる気にはなれなくて、後の扱いに困るんですよ。でも、最近はここに持ってくればいいから、思い切って買えます」
「店を最終処分地にしないでください」
「……了解。ほどほどにしておきます」
 言いながら藤間はその本を書架に突っ込む。
 それを不満げに見ているのは槙坂先輩と、戻ってきた佐伯さん。女性陣は店内に書架があることをあまり歓迎していない。というのも、コーヒー1杯で居座られると売上が伸びないからというのが理由。"天使の演習"の女性陣はとても現実的なのである。
 しかし、店の方針なので書架を撤去するわけにもいかず――仕方ないのでふたりは、そういう客には頃合を見計らって「コーヒーもう1杯どうですか?」「よかったらサンドイッチなどは――」と声をかけるのである。今のところ佐伯さんや槙坂先輩に笑顔でそう言われて断った客はゼロ。何も考えずはいはい頷いていると、気がついたときにはコーヒーにサンドイッチのセット、食後のデザートまでテーブルに並んでいる羽目にもなりかねないのである。
 弓月は壁掛け時計を見た。
「そろそろいい時間ですね。じゃあ、皆さん今日もよろしくお願いします」
 彼の号令のもと、今日も"天使の演習"の一日がはじまる。
 
 
 2012年7月7日公開

 


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