I'll have Sherbet!

 

 番外編2.小悪魔^2、あります!(後編)

 

 "天使の演習"は喫茶店なので、午後8時が近づくころには客も疎らになる。
「君たちはもう上がってください」
 仕事も少なくなって手持ち無沙汰になっている藤間と槙坂先輩を見て、弓月が言う。
「後は僕と佐伯さんだけでやりますから」
「大丈夫ですよ。最後までつき合います」
「わたしも」
 しかしながら、閉店後の後片付けが決して楽な作業ではないことを知っているふたりは、そう答えた。が、まだ高校生。明日には学校がある。槙坂先輩に至っては受験生のはずだ。
「遅くなっても、いざとなったら藤間くんの家に泊まりますから」
「待て」
 重ねて言うが、明日は学校である。
「あら、どうかしたの?」
「……」
 小首を傾げる槙坂先輩に軽い頭痛を覚えながら、藤間は速やかに反対材料を用意した。
「明日の授業の準備がないだろうが。それに制服は?」
「そんなの明日の朝、家に取りに戻ればいいだけよ。なんなら今日のうちに用意しておこうかしら」
「そのまま帰れ」
 それじゃ本末転倒だろうが――と、藤間は呆れ口調でつけ加える。
 それを横で聞いていた佐伯さんは「あー、泊まるための用意は必要ないんだー」と、別の部分に感心していた。
「君たちの私生活に関知はしませんが、今日は朝から入ってくれていますからね。これ以上はさすがに悪いです」
 結局、弓月のその言葉で、藤間と槙坂先輩は今日はもう上がることにした。
 と――、
「あれ?」
 不意に佐伯さんが声を上げた。視線は店の入り口へと向けられている。何か見つけたようだ。つられて全員がそちらを見る。
 瞬間、人影らしきものがドアから離れた。
「ねぇ、もしかしてお義母さんじゃ……?」
「……」
 弓月は何も答えない。その無言で佐伯さんは、自分の見たものが間違いではなかったと悟った。
「わたし、ちょっと行ってくる」
「行かなくていいです」
 入り口に向かって駆け出そうとした佐伯さんを、弓月が言葉で制する。
「客でもない人はほっておきなさい」
「でも……」
 佐伯さんは心配げに店のドアを見つめる。
 そこで発言したのは槙坂先輩だった。様子を窺うような切り出しではあるが、その口調ははっきりしている。
「あの、差し出がましいようですが……外も暗いですし、せめて駅まで送って差し上げたらどうでしょうか?」
「……」
 何となくではあるが弓月親子の仲が悪いらしいと察している彼女がそう進言するが、やはり何も言わなかった。今日はもう使わないであろうコーヒーカップを黙々と片付ける。ただ、そうしながらも槙坂先輩に他のふたりも同意見である空気は読めていた。責めるような3人の視線が弓月に注がれる。
 弓月は動かしていた手を止めると、心の中だけでため息をひとつ。
「……ちょっと出かけてきます」
 どこにと言わなかったのは、彼の無駄な意地だったのかもしれない。佐伯さんと槙坂先輩の表情が明るいものへと変わる。しかし、店を出かけた弓月は、入り口でドアに手をかけた構造で動きを止めた。振り返る。
「あー、その……」
「大丈夫ですよ。まだ帰りませんから」
 弓月の言いたいことをいち早く理解したのは藤間だった。
 何せ数分前に帰っていいと言ったのは弓月自身なのだ。今さらもう少し残ってくれとは言いにくかった。
「すみません。少しお願いします」
 軽く頭を下げてから弓月は店を出た。
 
「母さん」
 すぐに追いついた。
 振り返った母――弓月不由美(ゆみづき・ふゆみ)は、医学雑誌の出版社に勤めるだけあって理知的な顔つきをしている。だが、息子に相対するときだけはその表情に、ある時期からは不安が、そして、最近では申し訳なさが混じるようになっていた。
 弓月はあまり顔を合わせないようにしながら、横に並んだ。
「恭嗣……」
「駅まで送ります」
 ふたりして歩き出すが、親子の間に言葉はない。
 やがて迷うように不由美が口を開いた。久しぶりの息子との会話に、当たり障りのない話題を選ぶ。
「今さらだけど、恭嗣がこんなに早く結婚するとは思わなかったわ。女の子と一緒に住んでいたことも」
 弓月と佐伯さんが籍を入れたのがこの春、彼女の高校卒業を待ってのこと。ふたりがかなり前から同棲していたことは機を見て親に告げたが、なぜか妹のゆーみはとっくにそのことを知っていた。いつ気づかれたのか、今でもさっぱりだった。
「隠しておきたいことのひとつやふたつ、誰にでもありますよ」
「……」
「……」
 ふたりの間に気まずい沈黙が広がる。
「すみません。棘のある言い方になりました。そんなつもりはなかったのですが」
 すぐに弓月は反省した。
 本当にそんなつもりはなかった。高校2年のクリスマスにひとつの死を目の当たりにした後、もう母のことは赦そうと決めた。だが、長く続いた歪な関係は、些細なことでもそこに引っかかってしまう。もっと言葉を慎重に選ばないと。
「貴理華さんのほうはどうなの? ご実家が少しバタバタしていたみたいだけど」
 不由美が話題を変える。
「そうですね。でも、それももう落ち着きました」
「そう。それはよかったわ」
 佐伯さんがまだ高校1年生のときの年度末のことである。彼女の母方の伯父夫婦がそろって事故で亡くなったのは。夫婦には未だ子どもがいなかったため、実家には跡継ぎがいなくなってしまった。そこで白羽の矢が立ったのが、家を飛び出していった長女の娘である佐伯さんだった。かなり強硬に彼女を養子にすると言い出してきたのだ。
 結局その件は、佐伯冴子が20年の歳月を超えて実家への不満を再度爆発させ、大喧嘩の末に収束したのだった。
「店――」
 今度は弓月のほうから切り出した。
「入るつもりできたんじゃないんですか?」
「え、ええ……。でも、やっぱり恭嗣に断ってからのほうがいいかと思って。今度、改めて寄らせてもらっていいかしら?」
「お断りします」
 店に入るつもりできて、結局入れず逃げるようにして帰ろうとしたのだ。今の言葉も少なからず勇気を要したであろう。しかし、弓月はあっさりとその母の問いを蹴る言葉を口にする。
「そ、そうよね。ごめんなさい」
 力なく視線を落とす不由美。
 それを横目に見ながら、弓月はつけ足した。
「もしあそこに何かの思い出を求めてるのなら、迷惑ですからこないでください。今はもう、あなたの息子がやっている店――ただそれだけです。それでいいなら僕はいつでも歓迎します」
「恭嗣……。ええ、それで充分よ」
 不由美は顔を上げ、息子を見る。それでも弓月は顔を前に向けたまま。その視線の先に駅の明かりが見えてきた。
「年末年始には彼女を連れて帰ります」
「わかったわ。いつでも待ってるから」
「残念ながら、いつでも店を休んで帰れるほどの余裕はないんですよ」
 弓月は苦笑する。
「がんばってね、恭嗣」
「母さんも、仕事で張り切りすぎて体を壊さないように」
 そして、今度は自分にではなく母に、ぎこちなく笑みを向けた。
 
 
 2012年11月4日公開

 


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