sell my soul

「お兄さん!」
「俺はお前のお兄さんになった覚えはない」
 降矢木由紀也(ふるやぎ・ゆきや)は、わけのわからないことを言ってきたクラスメイ
トに、即座に言い返した。
 放課後、終礼が終わり、帰り支度をしているところにやってきて、空いていた前の席に
座るなり開口一番に言ったのがさっきの言葉だった。
「つまりだな、俺が未来の義弟としてだな――」
「お前もか。……帰れ」
「妹は渡さんってか。けっ、このシスコン男め」
 クラスメイトは態度を翻し、悪態をついた。
「しっかし、千乃ちゃんは可愛いよなぁ」
「………」
 これには由紀也は黙っておいた――身内として。
 千乃(ゆきの)というのは由紀也のひとつ年下の妹である。同じ学校に通い、現在高校
二年生。「この学校でいちばん可愛いのは誰か?」という質問に、真っ先に名前の挙がる
女子生徒のひとりに名を連ねている。
「いいよなぁ、フルは。かわいい妹がいて」
「お前ね、言っとくけどあんな完璧超人みたいな妹がいたらけっこう苦痛だぞ。兄として
立場がない」
「そうなのか?」
「そうだとも。あいつは我が家の突然変異種だ」
 由紀也は常々思う。父と母、そして、自分。ここまでは極々普通なのに、なぜ妹の千乃
だけは誰もが振り返るような容姿を得たのか、と。
「それでもかまわん。あんな妹とひとつ屋根の下に暮らせて、しかも、部屋に入ったら着
替え中だったなんておいしいハプニングがあれば―――」
「お前が何やら得体の知れない幻想を抱いているのはよくわかった。でも、俺、この春か
ら家を出てひとり暮らしだから、そのひとつ屋根の下にすらいないんだけどな」
「家庭に何の不満があるというんだろね、この男は」
「うるさいな。いろいろあるんだよ」
 あまり千乃と一緒の時間を過ごしたくなかった由紀也は、中学三年のとき、死ぬ気で勉
強して学区で一番と言われているこの高校に入った。しかし、ほっとしたのも束の間、翌
年には成績優秀な千乃も同じ学校に進んでしまったのだ。
 今思えば、上に逃げるのではなく、限りなく下に逃げるべきだったのかもしれない。
 そして、去年、今度はアルバイトに死ぬ気になり、由紀也はこの春ようやく念願のひと
り暮らしを手に入れたのだ。
「だいたいてめぇは贅沢なんだよ。千乃ちゃんから逃げたところで、周りはかわいい子ば
かりじゃねぇか。隣のクラスの支倉さんとか、千乃ちゃんの友達の法水さんとか、一年の
小栗ちゃんとか」
 クラスメイトの口から次々と出てきているのは、この学校の生徒、特に男子生徒なら誰
もが知っているであろう女の子の名前ばかりだった。
「何で彼女らとことごとく知り合いなんだよ」
「俺に言われても困る。そういう体質だとしか言いようがない」
 いったい由紀也の何がそうさせるのか、由紀也はこの学校でかわいいと評判の女子生徒
のほとんどと気兼ねなく話せる関係にある。しかし、加えて言うなら、どの女の子ともそ
れ以上の関係に発展しないのだから、体質というには因果な体質ではある。
「でも、その代わり千乃ちゃんと仲良く喋ってるところだけは見たことないな」
「まあ、な……」
 由紀也は曖昧な相づちを打った。
「さては嫌われてるだろ? ……仕方ねぇよな。こんなどこにでもいそうな量産型の男が
兄貴じゃ千乃ちゃんも恥ずかしいよな」
「は、はははー……」
 今度は力なく笑う。
「そんなわけで、不甲斐ない兄貴の代わりに俺が千乃ちゃんを幸せに――」
「まだ言うか。帰れ」
「なんだよー、このシスコン男」
「言っておくけどな、俺は千乃の恋愛について干渉する気はないんだぞ。あいつが誰とつ
き合おうと、例えお前であろうと文句は言わん」
「ほう。だったら――」
「ただし、口利きも紹介もせん。一から十までお前の力でやれ。俺の手を借りずに千乃と
仲良くなった上でつき合うなり何なりしろ。以上だ」
 叩きつけるようにそう言うと、由紀也は鞄を持って席を立った。
 
 夕刻――
 結局、先のクラスメイトと一緒にゲームセンタに繰り出し、由紀也が下宿先のアパート
に帰ってきたのは、すっかり日が暮れてからだった。
 ドアの前に立ち見上げる。
 降矢木由紀也――
 自分の名前だけが書かれた表札はいつ見てもいいものだった。
 1LDKの、狭いが自分だけの空間。
 家にいた頃と違って何から何まで自分でやらないといけないが、それもひとつの経験だ。
将来、決してマイナスにはならない。そして、何よりも千乃がいない。それだけで最高の
環境といえる。
 由紀也はポケットから鍵を取り出すと、それを鍵穴に差し込み、回した。ガリャリ、と
硬質の音が響く。
 さて、中に入ろうとドアノブを回す。
「あれ?」
 が、ドアは開かなかった。鍵がかかっているようだ。
 それはつまり、先ほど由紀也が鍵を回した際にかかったということであり、今までは開
いていたということである。
「待て待て待て待て待て――」
 壊れたオーディオプレイヤのように連呼しながら、再び由紀也は鍵を差し込んだ。今度
こそロックを外す。
 靴を脱ぎ飛ばしながら一瞬にして鍵のかけ忘れから空き巣まで様々な可能性を思い浮か
べる。かくして、現実は考えられる限り最悪の、そして、予想通りの状況だった。
「お兄ちゃん、おっそ〜い」
 玄関を入ったところから続く短い廊下の突き当たり、リビングダイニングキッチンとなっ
ている空間から聞き覚えのある声が聞こえた。
 由紀也はバタバタと廊下を走り、キッチンに飛び込むなり妹――降矢木千乃(ふるやぎ・
ゆきの)に質問を浴びせかけた。
「千乃、お前、ここで何やってんだ!?」
「何って? お夕飯作りに来たんだけど?」
 当たり前でしょ?と言った様子で、エプロン姿の千乃はお玉片手に答えた。確かにその
姿を見れば先の質問などする必要はなかっただろう。
「ここには来るなと言っただろ」
「なによ、ケチ」
「ケチでけっこうだ」
 応じながら由紀也はリビングの隅の勉強机に鞄を放った。
「だいたいどうやって入ったんだよ? 鍵は母さんしか――」
「そのお母さんに借りたんだよ。お兄ちゃんのお夕飯作りに行くって言ったら、すぐに貸
してくれたの」
「ああ、そう……」
 心配性の母親は由紀也のひとり暮らしを最後まで反対していた。しっかりものの千乃が
そう言ったのなら、母は様子を見てこいと喜んで貸したに違いない。
 由紀也は振り返ってキッチンに立つ妹を見た。
 千乃は上機嫌で鼻歌を歌いながら料理に勤しんでいる。スラリとスタイルの良い身体に
エプロンをつけ、邪魔になりそうな長い髪はゴムで結ってある。男としてはなかなかぐっ
とくる後姿である。
「でも、いいよね、お兄ちゃんは。ひとり暮らしなんて気楽で。羨ましい。わたしも家、
出ちゃおかなぁ」
 千乃が料理をしながら世間話のように語りかけてくる。
「おお、おお。そうしろそうしろ。そしたら俺がこうしてる必要もなくなるし、入れ違い
に家に戻――」
「え? なんてー? ごめん、聞こえなかった」
「あー、いや、忘れてくれ」
 豪快な音を立てはじめた炒め物のおかげで由紀也の声は千乃にまで届かなかったようだ。
由紀也は聞かれなかったことにほっと胸を撫で下ろしながら、キッチンに行って冷蔵庫を
開けた。
「ここまでくるの大変だったんだぞ。お前だって知ってるだろ? 俺が去年ほとんど毎日
バイトに明け暮れてたの。ひとり暮らしははじめるまでも大変なら、はじまってからも大
変なんだよ」
 冷蔵庫から2リットルペットボトルの烏龍茶を取り出し、グラスに注ぐ。
「そこはそれ。ちゃんと考えてるもん。……ここに一緒に住むってのはダメかな?」
「ぶはっ」
 瞬間、由紀也は飲んでいた烏龍茶を盛大に吐き出した。
「バ、バカか、お前っ! どう考えてもあり得ないないだろ、その選択肢はっ。第一、そ
れはぜんぜんひとり暮らしじゃない」
「じゃあ、本気でするから、お兄ちゃん、遊びに来てくれる?」
 炒め物が一段落ついたのか、コンロの火を止め、千乃はくるりと振り返りながら由紀也
に訊いた。
「行くわけがない。それだったら俺とお前の立場が入れ替わっただけで、今とたいして変
わらないだろ」
「あ、そっか。じゃあ、今のままでいいんだ」
 千乃はひとり納得する。
「結論、現状維持!」
 そして、嬉しそうに胸を張って言った。
「いや、それはどうだろうな……」
「なに、お兄ちゃんはわたしが勝手にここに入ったらマズいわけ?」
「マ、マズ……くはないぞ、うん」
 危うくマズいと言いかけたが何とかそれを飲み込み、由紀也は返事を返した。
「ふうん。いちおー、そういうことにしておこっか」
 そう言って千乃は悪戯っぽく笑った。
 口を滑らせかけたことで言葉に焦りが表れて、そのせいで千乃は何やら誤解しているよ
うだ。尤も、由紀也にしてみればそれがどんな誤解か予想はつくし、その程度なら別にか
まいはしない。
「だいたい、こうでもしないとお兄ちゃんと会う機会がないじゃない。家を出てからは一
回も帰ってこないし、学校じゃ絶対に話しかけるなって言うし」
「それは、だな……」
 千乃が言ったことは由紀也が一方的に突きつけた決まりごとだった。まるっきり自分個
人の都合なので、千乃には悪いことをしていると思う。
「おかげでわたし、兄をバカにしてる妹、なんて言われてるんだからっ」
「あっはっは。だったら俺も一緒だ。妹にバカにされて無視されてる兄貴ってことになっ
てる」
「それなら尚更じゃないっ」
「熱っ」
 千乃が手にしたお玉をびしっと突きつけた拍子に煮物の汁が、のん気にバカ笑いしてい
た兄の顔に飛んだ。
「そうは言うけどな、千乃。お前みたいな出来のいい妹を持つと兄としては立場がないわ
けよ」
 由紀也はポケットから取り出したハンカチで顔を拭きつつ言い訳めいたことを口にした。
「それと人前で仲良くしないこととどういう関係があるのよ!?」
「それは……」
「お兄ちゃんが恥ずかしくないようにと思って、わたし、頑張ってるのに……」
 途端、じわりと千乃の目に涙がたまる。
「わー、待て待てっ。落ち着け、千乃っ」
 泣かれては堪らないとは思うのだが、実際どうしていいのかわからず、おろおろしなが
らもとりあえず慰めようと由紀也は千乃に近づく。
 が――、
「あ、いけない。煮詰まっちゃう」
 その手をするっとすり抜けるようにして千乃はコンロに向き直った。その切り替えの早
さにひっくり返りそうになる由紀也。いったい今のはなんだったんだと呆然とした。
「ほら、お兄ちゃん、いつまでもそんなところに立ってないで、早く着替えて手を洗って
くる。お夕飯できたよ」
「ふぇい……」
 妹の叱責に兄はすごすごと引き返していった。
 
「つっかれた〜」
 由紀也はリビングの座椅子に身体を預けながら、背もたれに頭を乗せて天井を仰いだ。
 千乃は由紀也と一緒に夕食を食べた後、食後の後片付けまでして、つい先ほど帰っていっ
た。
「せっかく家を出て千乃と離れたのに、これじゃ意味ないよなぁ。結局、距離云々じゃな
くて、俺の心の持ち方の問題なのかな……」
 ようやくひとりになった空間で由紀也はつぶやいた。
 
               §          §
 
「おっにいさ〜ん」
 ある日の放課後、由紀也は帰宅途中に後ろから声をかけられた。振り返ると見知った下
級生がこちらに向かって走ってくるところだった。
「やあ、リンコちゃんか」
 法水倫子――
 女の子にしては背が高く、ショートカットで快活そうな印象の美少女だ。名前の読みは
『のりみず・のりこ』で愛称は『のりのり』。しかし、男の由紀也が呼ぶには抵抗がある
ので『リンコちゃん』と呼んでいる。
 逆に倫子の方からは、千乃のクラスメイトということもあって気軽に『おにいさん』と
呼んでくれる。校内に知り合いの多い由紀也だが、おそらく彼女がいちばん距離の近い異
性だろう。
「おにいさん、今帰り?」
「見ての通りだよ」
「じゃあさじゃあさ、一緒にモールにつき合ってよ」
 倫子が言ったのは帰宅ルートにある大型ショッピングモールのことだ。登下校に使う電
車を途中下車するだけで行くことができるので絶好の遊び場となっていて、この学校の生
徒なら『モール』で通る。
「何かあるの?」
「ほら、いつものアイスクリーム屋。あそこ今、この春限定の新作が出てるんだ。すっご
く美味しいの。一度食べたら、もう病みつき」
 前に食べたときのことでも思い出したのか、倫子は幸せそうな笑顔で言った。
「さては俺に奢らせようって魂胆だな」
「あはは、バレた?」
「すぐにわかるよ。……まあ、いいけどね」
「ホント!? やたっ」
 倫子は由紀也の返事を聞いて無邪気に喜んだ。ここまで手放しで喜んでくれるなら、五
百円もしないアイスクリームくらい安いと思える。
 
 そして、約三十分後――
「お〜いひぃ〜」
 ふたりは件のアイスクリーム屋の店先に置かれたテーブルでお目当てのものを食べてい
た。
 倫子が頬に手を当て、歓喜の声を上げる。
「リンコちゃん、よく喰うね」
 倫子が食べているのは種類の違うアイスが三段積み重なった上、トッピングまで乗った
非常にカラフルなものだった。いったいどれが倫子の言っていた限定品なのか。
「あまり食べてると太……痛っ」
 言葉の途中、テーブルに下で倫子のつま先が脛に飛んできた。
「おにいさん、人の幸せに水差さない」
「ふえ。以後気をつけます……」
 そして、またアイスに口をつける。買ったときにプラスチック製のスプーンがついてい
たのだが、倫子はそれを使わずに直接食べている。なかなか豪快だが、変に上品ぶるより
も好感が持てる。倫子らしいストレートな食べ方だと由紀也は思う。
 こういう姿を見ていると、倫子は少なからず自分に気を許してくれているのではないか
と思う。由紀也は他にも数人、この程度の遊びに誘ったり誘われたりするくらいに女友達
がいるが、今一緒にいる倫子がいちばん身近に感じていた。
「なあ、リンコちゃん」
 ふと彼女の愛称を呼ぶ。
「なぁに?」
「俺たち、つき合わないか?」
 途端、倫子の動きが止まった。目が宙を泳ぎ、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
 やがて――、
「あー、ごめん。あたし、おにいさんのこと、そういうふうに見れなくて。その……」
 次第に倫子の発音が不明瞭になっていく。
 さすがにここまで言われれば、この先にどんな言葉が続くか嫌でもわかる。これ以上彼
女に言わせる必要はないだろう。
「そう、か。……いや、悪かった。変なこと言ったね。気にしないでくれ」
「う、うん……」
 とは言ったものの、ふたりの間に気まずい空気が流れはじめる。
 倫子の顔からは先ほどの幸せそうな表情は消え失せ、作業でもするかのように半ば機械
的にアイスクリームを口に運んでいた。
「俺、先に帰るわ。リンコちゃんはゆっくりしていってよ」
 由紀也は耐え切れなくなって、ついに席を立った。
 
 ピンポンピンポン、と玄関チャイムが二度鳴って、直後、ドアが開いた。
「出張お夕飯サービスで〜っす。お兄ちゃん、入るよー?」
 やけに明るい千乃の声だった。
 これで落ち込んでいる理由が倫子とのことでなかったなら千乃の登場に心癒されただろ
うが、今は余計に落ち込みそうだった。
「お前、今日はまた一段と買い込んできたな」
 ダイニングのテーブルに重そうな音を立てて置かれた食材を見て、由紀也は呆れ気味に
感嘆の声を上げた。
「だって、いろいろと安かったんだもん」
「こんなに買ってきていったい何を作るつもりだよ」
 由紀也はキッチンに行き、ふたつもあるスーパーの袋から食材をひとつひとつ取り出し、
並べながら訊いた。千乃はというと、早速、いつものように持参したエプロンを身につけ、
準備に取りかかっていた。
「それはできてからのお楽しみ。お兄ちゃんには手伝いなんて期待してないし、言っても
無駄でしょ? まぁ、黙って見てなさいって」
「へいへい」
 由紀也は大人しく従うことにした。そのままダイニングテーブルにつき、料理に励む千
乃を眺める。
 こうして千乃の後姿を見ていると、どうしても倫子のことを思い出してしまう。今にし
て思えば倫子には悪いことをしたと思う。彼女にあのようなことを言ったのは、もしかし
たら自分が迷い込んだ迷路の出口にしたかったのかもしれない。そうだとしたら、彼女を
利用しようとしたことになり、場合によっては彼女でなくとも良かったという結論になり
かねない。
「なあ、千乃」
「んー?」
「明日、リンコちゃんに会ったら俺が謝ってたって言っといてくれないか? 昨日のこと
は忘れてくれって」
「………」
「聞いてるか?」
「………
「おーい、千乃ちゃ――」
「知らないっ」
 千乃が背を向けたままで語気も強く言った。
「倫子なんて知らないっ」
「知らないって何だよ。どうしたんだ、千乃。リンコちゃんとけんかでもしたのか?」
 由紀也は自分のことは一旦横に置き、妹と倫子の間に何があったのかと心配する。自分
との間であんなことがあったのに、その横で実は妹もけんかしてました、では笑えない。
「してないっ。でも、お兄ちゃんを振るような子なんか知らないっ」
「げ。なんでお前がそれを知ってんだよ!?」
「そんなことどうでもいいっ」
 そこでようやく千乃が振り返った。どこか切羽詰ったような表情で由紀也を見つめる。
「別に女の子となんかつき合わなくたっていいじゃない。わたしがいるよ? わたしじゃ
ダメなの?」
 千乃がテーブルの向こう側から身を乗り出すようにして迫った。
「お前、本気で言ってるのか? 冗談にしては質が悪――」
「冗談でこんなこと言わないっ。ついこの間まで一緒にいたじゃない。だからこれからも
一緒にいようよ。わたしがお兄ちゃんのそばにずっといてあげる」
 千乃がどこまでも真剣に訴えてくる。
 それは魅力的な誘いだった。あまりにも抗いがたい。自分の心にある迷路の出口を、いっ
そそこにしてしまうのもいいかもしれない。そんな考えが由紀也の頭をよぎる。
 由紀也は千乃の視線を受け止め、見つめ返した。
 ついに口を開く。
「ああ、そうだな。それもいいかもしれない」
「お兄ちゃん……」
 由紀也が苦しみを吐露するように言葉を吐き出した瞬間、千乃の顔にぱっと光が差した。
「――なんて言うと思ったか、このバカ妹!」
「な……っ」
「兄貴たぶらかしてどうするつもりだ。そんなことしても何も出んからなっ」
「な、な、な、なによっ。お兄ちゃんこそちょ〜っと熱っぽいこと言ったら、すぐ本気に
しちゃって」
「してないっ。断じて本気になんてしてないぞ」
「はんっ。どうだかっ」
「うるさいっ。いいから早く飯作れよっ」
「言われなくても作るわよ」
 そう言い放つと千乃は由紀也に背を向け、流し台に向かった。
「あ、危ねぇー」
 由紀也は千乃に聞こえないように小声でつぶやき、ほっと胸を撫で下ろした。
 ふと見ると千乃もまた安堵したように胸に手を当て、こちらの様子を窺っているところ
だった。再びふたりの目が合う。
「けっ」
「ふん、だ」
 そして、同時に悪態をついた。
 
 
2006年4月14日公開
 
 
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。
 

 

 

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