1.鬼姫
 
 上級天使との遭遇から二ヶ月ほどが過ぎ、暦は5月になった。
 あれ以来、上級天使は現れていない。下級の天使が時折、神の尖兵として『天国への門(ヘブンズ・ドア)』を通じて降りてくるものの、その程度のことは、そして、それを狩ることはまだ充分に《神狩人(かがりび)》たる京の日常の範疇と言えた。無論、京の知覚し得る範囲で、という条件はつくが。
 よって、京は今日も通常通りに大学の講義に出席し、今はその帰りだった。
 本日最後の講義を一緒に受けていた何人かの友人たちとともに講義棟から正門へと向かう。京の周りには異性同性関係なく人が集まってくるため、今も男女混成のグループとなっている。講義が終わった解放感からか、視界に正門が見えてくる頃にはこのままショッピングモールに寄って帰ることが決定していた。
 と、京は楠木静香に気がついた。
 彼女は、話には加わらず、黙っていちばん後ろをついてきていた。
 京は大人しい性格の彼女が上手く話に入れないでいるのかと思った。もしかしたら何かの事情で寄り道せずに帰りたいのに言い出せないでいるのかもしれない。
 京はさり気なく歩速を落とし、静香に並んだ。
(しず)、大丈夫かい?」
「え? な、何がですか?」
 静香は慌てた様子で答え、もとから伏し目がちだった顔を隠すようにして、さらに俯いてしまった。
 楠木静香は、珍しいタイプの学生だった。この大学ではファッションやアクセサリ、持ち物の価格や価値で競争しようとする学生はほとんどいない。そんなことで消耗するよりも、デニムにシャツといった飾り気のないスタイルで大学生活を楽しむ学生が圧倒的に多いのだ。そんな学生の中で、彼女は深窓の令嬢のようだった。今日も丈の長いワンピースにカーディガンというスタイルだ。しかし、これは家柄の反映というわけではなく、単純に彼女の性格と趣味の表れのようだった。そして、物静かな性格ゆえに、彼女はそんなスタイルでも周囲から浮くことなく、どちらかというと存在感が薄かった。
 そんな彼女が気になって、この春から同じ講義を受講している京は声をかけたのだ。
「ずっと俯いてるから乗り気じゃなかったのかなと思ってさ」
「そ、そんなことないですよ。今も京に一緒に帰ろうって誘ってもらって嬉しかったですし。このまま遊びにいけるのも、とても嬉しい……です……」
 静香は、後半、消え入りそうな声になりながらも自分の気持ちを示した。
「うつむいてるのは、いつも、です。わたし、京みたいに顔に自信があるわけじゃないですから……」
「いや、ボクだって特に自信があるわけじゃないんだけどね。と言うより、自信があるもないもなくて、そんなものは瑣末なことだと思ってるだけなんだよ」
 しかし、京が中性的な整った顔をしているのは事実ではある。
「そ、そうなんですか?」
「うん、そう。ついでに言うとボクは、静は充分に美人だと思うよ」
「ぇ……」
「髪も長くて綺麗な黒をしているし、羨ましいくらいだよ。前髪、上げたらいいのに。せっかくの美人が隠れてる」
「ダ、ダメです……っ」
 よほど自分に自信が持てないタイプなのだろう、静香は頑なに顔を堂々と晒すことを拒む。そんな彼女の様子を見て、京は心底もったいないと思った。
「こーら、京っ。なに楠木さんをいじめてるのよ」
 前を歩く女友達が振り返りながら、からかうように言ってくる。
「誰が誰をいじめてるんだよ。人聞きの悪いことを言わないでくれ」
「じゃあ、あれだ。さては楠木さんにちょっかい出そうとしてるんだろ?」
 今度は別の男友達だった。
 気がつけば皆の視線を集めていた。グループの輪が京と静香のふたりを中心にして再構成される。
「まっ、シィエラというものがありながらっ」
「……」
「あー……、そこで黙っちゃうんだー……」
 女友達は目を泳がせながら言った。からかい半分で言ったつもりの言葉が図らずも核心を突いてしまったと思ったのだろう。京の沈黙を肯定と受け取ったのだ。
 確かに京は二ヶ月前の事件のとき、シィエラに自分の好意を打ち明け、キスまで交わした。考えたことはなかったが、これは俗に恋人という関係なのかもしれない。短い沈黙の中で京はそんな思考を巡らせていたのだ。
「きょ、京とシィエラって、やっぱりそうだったんですか……?」
 静香がおずおずと、しかし、どうしても気になる様子で訊いてきた。
 京とシィエラ――この場合は一部で絶大な人気を誇る韓国人ティーンズモデル『シィエラ』、が親しい関係にあるというのは、京を直接知る学生の間では有名な話だった。
『シィエラ』のファン層は主に中高生だが、大学生への影響も決して小さくない。楠木静香もまた『シィエラ』を知り、ふたりの関係が気になるひとりなのだろう。
「いや、まぁ、それはその……」
 何と答えたものか京は困った。あまり明言したくないのが正直なところだ。
 と――、
「キョウ!」
 特徴的な発音で名が呼ばれた。
 正門を出てすぐのところにひとりの少女が立っていた。シルエットのアイウェアをかけ、ライトイエローのレンズで覆って尚、ひと目で美少女とわかる容姿。顔が小さく結果的に八頭身に近いスタイル――まぎれもなくシィエラだった。
 シィエラの登場により、誤魔化したいというキョウの意に反して、静香の問いにほぼ肯定に近いかたちで答えることになってしまったようだ。
(タイミング悪いな……)
 京はショートシャギーの頭を掻いた。
「悪い。ちょっと行ってくる」
 ひと言断ってからシィエラに駆け寄る。後ろからひやかしの声を浴びせかけられたが、いつも通り無視した。
「やあ、シィエラ。どうしたの、こんなところで」
 途端、シィエラはむっとした顔を見せた。
「『どうしたの?』じゃないッ。さっきメール入れたのに見てないの!? 十五分ほど前ッ」
「え? あ、ごめん。講義中だったから電源切ってて、まだそのままだった。……えっと、何だったのかな?」
「『仕事が早く終わって、今、キョウの大学の前なんだけど、キョウはいつごろ帰るの?』」
 それがメールの内容だったのだろう。それをシィエラは一言一句正確に再生したに違いない。
「ぜんぜん返事がないからずっと待ってた。キョウが姿が見えたときは、すぐに出てくるつもりで返事しなかったんだと思ったのに。……あっそう。メール見てなかったわけね」
「あー、それはボクが悪いね。ごめん。謝るよ」
 ご機嫌を窺うように京は謝罪の言葉を口にする。
「そう思ってるなら、何か食べに連れていって。勿論、キョウの奢りで」
「いや、まぁ、それはいいけど……今から? 今からみんなと遊びに行くんだけど、一緒じゃダメかな?」
「嫌よ、そんなの」
 シィエラは腕を組み、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。これ以上ないというくらい拒絶の意思表示だ。京は、シィエラがこの手の誘いを受けたがらないことはわかっているので、こうなることは予想できた。もとよりダメで元々だったのだ。
「わかったよ。みんなに言ってくるから、ちょっと待ってて」
 そう言ってから京は辺りを見回した。友人たちは少し離れた場所でこちらの様子を見ていた。
「悪い。今日はシィエラと約束があったんだ。また今度つき合うよ」
 よく通る明晰な声で仲間に呼びかける。
「てめぇ、ざけんなー」
「え〜、何それ〜」
「お幸せにー」
 口々に様々な言葉を投げ返されるが、実際には文面ほどに負の感情は込められていない。京は軽く手を挙げて応えた。
「行こうか、シィエラ」
「うん」
 機嫌を直したらしいシィエラが、先ほどよりもやや弾んだ声で返した。
 そうしてふたりは並んで歩き出す。
 ここから駅まで行き、地下鉄に乗るのは京の友人たちも同じなのだが、ふたりに気を遣ってか、彼らは少し距離をおいて歩いた。ふたりの背を見ながら、その主たちを話題にして盛り上がる。
 しかし――、
 その中で唯ひとり、楠木静香だけは別の感情を持って見つめていた。
 
 京とシィエラは数駅いったところで地下鉄を降りた。
 そこは地下鉄の他にJRも通るターミナル駅で、改札口は地下街の中心に出るようになっていた。京は定期券を通しながら、シィエラは切符を放り込んで、それぞれ改札口を出た。
 と、丁度そのとき、シィエラの携帯電話が着信を告げるメロディを奏でた。
 シィエラは携帯電話を開き、そのディスプレイを見た。わずかに顔をしかめる。
「……事務所」
 京に向かって簡潔に伝える。
 モデルとして所属するプロダクションからだった。予定外の電話が良い知らせと思えなかったのだろう。それで眉をひそめたのだ。
「……はい。もしもし?」
 シィエラは警戒するような声で電話に応じる。
「え、今から? ……それはそうかも……うん、わかった。じゃあ……」
 短い通話を終え、パタンと携帯電話を閉じた。
「仕事入った。今からだって」
 少し拗ねたように告げる。
「それはまた急なことで」
「うん。でも、今日すませておけば、今度、丸一日オフになるからって……だから、コメンね、キョウ」
 急な予定変更を余儀なくされ、シィエラは申し訳なさそうに謝った。京には友達と遊びに行くところを自分のわがままにつき合わせるかたちでむりやり引っ張ってきただけに、こうなってしまったことが悔やまれるのだ。
「ま、いいさ。仕方ないよ。その分オフの日ができるんだろ? じゃあ、その日に改めてふたりで出かけよう。デートだ」
「う、うん……」
 シィエラは、京が慰めるように投げかけてくる爽やかな笑顔を正面から見ることができず、顔を赤くしてうつむいた。
 
 京と別れ、シィエラが目指すスタジオはそう遠くない。何度か行ったことがあるが、その際にはこの駅を利用している。しかし、同じ駅を降りるにしても、本来なら先ほどの出口とは正反対の出口を出るのが最短距離のため、地下街を延々と歩く羽目になった。
 地下街をつき抜け、連絡通路から階段を上って地上に出ると、そこはオフィスビルの立ち並ぶ大きな通りの交差点になる。
 が――、
「なに、これ……」
 シィエラはその光景に足を止め、思わずつぶやいた。そこは確かにシィエラのよく知る場所だった。が、明らかに異常だった。
 人がひとりとしていない。普段なら夕方のこのような時間ですらビジネスマンが行き交っているのに、人の姿というものが一切なかった。そして、その現象の延長なのか、片側三車線ある道路にも車通りがない。ただし、路上駐車の車や歩道に置かれた自転車、スクータなどはそのまま残されている。
 シィエラはまるで打ち捨てられたゴーストタウンか、キャストのいない映画のセットにでも迷い込んだような感覚に襲われた。
 そんな停滞した空気の中で――、
 
「ようこそ、我が狩り場へ」
 
 いきなり頭上から女の声が降ってきた。
 弾かれるようにシィエラは顔を上へ向け、辺りを探った。声の主はシィエラの真後ろの空中、3メートルほどのところで静止していた。今まですぐ後ろでシィエラを見下ろしていたのだ。
「誰!?」
 シィエラは滑るように下がり、女と距離をとった。
 空中の女はシィエラよりの少し上くらいの歳に見えた。しかし、何よりも目を惹くのが、まるで平安時代の絵巻物から抜け出てきたような豪奢な着物を身にまとっていたことだ。首には勾玉らしきものを並べた首飾りをかけている。鮮やかな紅の髪は恐ろしく長く、そのまま地上に降りれば着物の裾ともども地についてしまうだろう。
「人間!? また天使が人の体を乗っ取ったの!?」
 思い出されるのは二ヶ月前のこと。あのときも上級天使が人の肉体を乗っ取り、人間としてシィエラに接触してきた。
「いいえ。私はまぎれもなく人間よ?」
 女は見下すような薄い笑みを浮かべながら答えた。
「そんなっ。人間の異能者だって言うの? なぜこんなことを。これはいったい何なの!?」
「あら? お気に召さなかった? あたなのために特別に用意した狩り場だというのに」
「狩り場?」
「そうよ。そして、貴方はすべての人間が、人間を愛し、守ろうとしているわけではないことを知るべきね。私は主の地上代行者のひとりとして選ばれた。天使を狩る《神狩人》を狩る。それが私に与えられた役目。死になさい、《神狩人》のシィエラ!」
 次の瞬間、女の首飾りが輝き出した。光の中に勾玉をつなぐ紐が消失し、散った六つの勾玉が女を周りを、それぞれ違う軌道で回りはじめる。
 そのひとつが飛び出し、シィエラへと超高速で一直線に向かってきた。
「ッ!?」
 咄嗟に掌を差し出すシィエラ。
 無論、手でそれを防ごうというわけではない。単工程魔術である障壁を高速発動させている。事実、襲ってきた勾玉は、シィエラの手に支えられた見えない壁によって防がれている。
(一撃で積層結界盾が六枚壊された……!?)
 極力動揺が顔に出ないように努めながら、シィエラはその威力に驚嘆した。
 勢いを殺された勾玉がふわりふわりと女の下に戻っていき、再び残り五つと同じように回りはじめる。
「さすが《神狩人》七系二十六家の直系血族といったところね」
「あなた、わたしを知ってるの!?」
「ええ、もちろんよ。もちろん知っているわ、とてもよくね」
 せせら笑いの中にわずかな憎しみを込めて女は言う。
 またも勾玉が発射される。今度は立て続けに六つすべてを。ただし、複数を同時に操るせいか、初速は先の一撃ほどではない。
 が、油断はできない。
 先ほどの攻撃のことを考えれば、威力が落ちていると予想されるとは言え、六発もの勾玉を受けるのは得策ではない。したがってシィエラは防御魔術で防ぐよりも避けることを選んだ。三度跳躍し、後ろに飛び退る。
 ガッガッ ガッガッ ガッガッ――
 斜め上方から襲いかかってきた勾玉は、シィエラの回避経路を正確にトレースするようにアスファルトに並んで突き刺さった。
「それを避けただけで安心するのは早いわ」
 言いながら女が、手の甲をシィエラに見せるようにして、掌を顔の前に持ってきた。長くしなやかな指に、紅く塗られた爪。その手に何か白い靄のようなものが集まりはじめていた。最初はシィエラも目の錯覚かと思っていたが、次第にそれは女の手を覆い隠してしまった。確実に何かが手に集められている。
 女がその手をシィエラの向けた。
 優雅な手の動きにあわせるようにして、白い靄が放たれる。それは尾を引きながら飛び、徐々に姿を変えていった。
 
 (あぎと)
 
 それは巨大で凶悪な顎だった。
 その禍々しさに一瞬目を奪われ行動が遅れたシィエラだったが、間一髪、回避が間に合った。再度跳躍してその場から離れる。
 バリンッ――
 一瞬後、さっきまでシィエラが立っていた場所に顎が喰らいついた。何もない空間だったが何とも形容しがたい、ただただおぞましさだけを掻き立てる音が空気を振るわせた。
(喰らった……!?)
 シィエラはその意味を正しく理解し、驚愕した。
 女が放った顎はそこにあった存在すべてを喰らい、無にしてしまうのだ。今回は単に空気分子を喰っただけで、生じた無はすぐに埋められた。だが、そこにシィエラが巻き込まれていたら、おそらく喰われた箇所は存在という根本から消失していたに違いない。シィエラは、自分が頭から喰われ、喰い残された身体だけが血を流すことなく立ってるのを想像してぞっとした。
 顎が白い靄に還り、霧散した。一度しか喰らえない性質を持っているのだろう。
「ねぇ? 貴方、鬼って知ってる?」
「オニ?」
 女の意図をはかりかねたまま、シィエラは訊き返す。
「そう、鬼よ。日本に古くから伝わる、人を喰う一族。その血は未だ絶えず現代にも残っているわ。勿論、野放しにはできないから鬼殺しの家系もいる。今、私が集めたのは、その狩られた鬼の魂よ。鬼は死して尚、その飽くことのない人喰いの衝動を消せないでいるの」
 その顕現が先ほどの顎なのだろう。肉体を失い、魂だけとなったことで喰らう対象は人に留まらない辺り、より凶悪さを増していると言っていいだろう。
「丁寧な解説ありがとう。でも、だから何? わたしのやることに変わりはないわ」
 何であれシィエラがやらなくてはならないことは唯ひとつ。自らを神の使いだと言う女を倒すこと。もっとシンプルに言うなら刃を向けてくる敵を退けること。
「ええ、そう。確かにそう。話はそれくらいわかりやすい方がいい。だから、目障りな貴方はここで消えるの。ただそれだけ!」
 三度、勾玉が飛び出した。
 今度は六つ同時に、それぞれが別々の軌道で、六つの方向からシィエラに襲いかかる。包囲するように向かってくる勾玉に退路を見出せないのか、シィエラは一歩も動かなかった。
 しかし、次の瞬間、勾玉はまたしてもシィエラに辿り着く前に見えない壁に激突して、その動きを止めた。
 それは詠唱を伴った魔術で周囲に張り巡らせた、シィエラの防御結界だった。
「さっきわたしに言ったわね。『さすが《神狩人》七系二十六家の直系血族』って。……そうよ。だから、こんなことくらい簡単にできる。甘く見ないで」
 シィエラはその美貌に生意気な笑みを浮かべる。
「だからまだ安心するのは早いとも言ったわ!」
 シィエラに棒立ちのまま唯の一歩も動かず攻撃を防がれたことに焦りを感じながらも、女は不敵に笑った。
 確かに笑うに値する状況だった。なぜならすでに女は鬼魂の顎を放っていたのだから。白い顎がシィエラを喰らおうと口を開く。対するシィエラは飛んでくるそれに掌をかざし、差し向けた。
 一瞬後には顎がシィエラに到達し、その身と存在を喰らおうという、まさにそのとき、
「これもよッ!」
 シィエラの掌から魔力が放たれた。それは雷のように一直線に走って顎を貫き――、
「ッ!?」
 女が驚きに目を見開く。
 そして、迸る雷撃は四散する顎の向こう側で、女をも打った。吹き飛ばされ、近くのオフィスビルの壁へと叩きつけられる。
「よ、よくも……っ」
 しばし壁に縫い止められていたが、やがてゆっくりと前へ出てきた。咄嗟に何か障壁のようなものを張ったのだろう、そこに目立った損傷は見られない。防ぐには防いだが衝撃までは殺し切れなかったというところか。しかし、美しく流れていた髪が乱れ、前髪が顔にかかっていた。その隙間から憎悪の瞳でシィエラを睨みつけてくる。
「まだよッ。わたし、急いでるの。キョウが来る前に終わらせないといけないんだからッ!」
 シィエラもまた女に鋭い視線を返す。
 シィエラは一刻も早くこの戦いを終わらせたかった。可能な限り迅速に。そう、京が来る前に。
 京はおそらく未だこの近くにいて、この戦いを感じ取っているに違いなかった。だとすれば、もう間もなくこの場にかけつけるはず。普通なら増援の到着は歓迎すべきところだろう。が、それが京となれば話は別だ。シィエラにとって京はただの仲間にとどまらない、誰よりも大切な人だ。だからこそ京が傷つくのは耐えられない。京を戦いに巻き込まず、自分が戦うだけで終わらせたいのだ。
 が、しかし、次の瞬間、事態は思わぬ展開を見せた。
「きょ、京……!」
 小さく叫んだのは女の方だった。
「京……京が、くる……? あぁ、京……!」
 乱れて額にかかる前髪ごと掌で顔を覆い、苦しげな声を絞り出す。
「ど、どうやら今日は、ここまでのようね。次に会ったときは、必ず貴方を、け、消してやるわ」
 指の間からシィエラを睨めつけ、呪いの言葉を吐き出す。
「勝手なこと言わないでッ」
「く……っ」
 苦しみながらも命令を出したのだろう、勾玉が射ち出された。逃げる女に迫ろうとしていたシィエラに勾玉が襲いかかる。防御結界を張る余裕はなく、それを飛び退ってかわした。勾玉がアスファルトが抉る。
 見上げると女が上空に逃げるところだった。ぐんぐんと高度を上げ、ついにはオフィスビルの屋上にまで達し、その陰へと消えてしまった。
「逃げられた……」
 やがてシィエラの耳に音量を絞ったような喧騒が聞こえてきた。辺りを見回すと、行き交う人々や車通りが半透明になって見えた。どうやら徐々に通常空間に戻りつつあるらしい。道路に立っていたシィエラはガードレールを飛び越え、歩道の中へと入った。
「あの女、キョウを知ってるの……?」
 敵の正体は定かではないが、シィエラにとって最も気がかりなのはやはりそこだった。
 
 
2006年6月24日公開

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