4.狂想曲 (前編)
 
 数日後。
 京の本日の講義は2コマ目からで、もう10分も経たずにはじまるのだが、今向かっているのは本来行くべき教室とは別のそれだった。
 京はそこに辿り着き、開放されているドアをくぐった。
 後ろ半分が階段状になった大教室。その前から4列目、正面のホワイトボードに向かってやや右の席に、その少女の姿はあった。あまり飾らないラフなスタイルの学生が多いこの大学には珍しい、深窓の令嬢風の少女。しかし、彼女はその珍しさとは裏腹に存在感が薄かった。
 楠木静香だ。
 彼女は講義開始までまだ5分以上もあるというのに、もうすでに着席してノートに目を落としていた。京はそんな姿を見て、真面目な彼女らしいと思わずくすりと笑ってしまった。が、すぐに顔を引き締めた。真剣な面持ちで静香に歩み寄る。
「おはよう、(しず)
「え? あ……き、京……」
 当然のように彼女の第一声は戸惑いの色を帯びていた。
「京、どうしてここに? 京は別の講義じゃ……」
「うん。実は静に会いにきたんだ」
「ぇ……?」
 静香は小さく驚きの声を上げ、それから顔を赤くしてうつむいてしまった。彼女は簡単に勘違いをしてしまうほど単純な性格をしていない。すぐに何か用があるのだろうと察した。それでも会いにきてくれたことが素直に嬉しかったのだ。
 京は静香のすぐ前の席に腰を下ろした。
「あ、あの、わたしに何か用ですか?」
「ちょっと聞きたいことがあってね。何日か前の夜なんだけど、静、どこにいた?」
 聞きたいのはそれだった。
 シィエラが2度の交戦をし、先日は京も目撃した、静姫と名乗る使徒――。その姿が静香と重なるのだ。紅の髪や燃える炎の瞳、好戦的な性格など、そのイメージは静香とはそぐわない。しかし、京はその姿を見たとき、なぜか静香を連想した。そして、それは未だ拭えないでいる。
 悩んだ末に聞きにきたのだ。彼女の不在証明(アリバイ)を。
「夜、ですか……?」
 静香は不思議そうに首を傾げた。
「ああ。キミによく似た女の子を見かけてね」
「……」
「静?」
「あ、はい。……い、いえ、いつの話か知りませんけど、普段は講義が終わったらすぐに帰りますから。夜に外出することはほとんどないです」
 静香は弱々しい口調で告げた。
「そうか。うん、それならいいんだ」
 対する京は、それでも安心したように微笑んだ。
「あ、あの、京?」
「なんだい?」
「し、信じてくれるんですか?」
「そりゃあ、もちろん」
 京は破顔する。
「だって、静香が嘘を吐く理由なんてないだろう? それにボクが見たのも、少し似てるかなってくらいだしね」
 それどころかまったく似ても似つかない。あれを静香だと思った自分の方がどうかしている。京は心の中で自嘲した。
「京……、その、嫌いにならないでくださいね」
「どうしたんだい、いきなりだね。勿論、そんなことあるはずもないけどさ」
「じゃ、じゃあ……っ」
 それまで伏せ目がちに話していた静香が、意を決したように顔を上げた。
「わ、わたしのこと好きですか?」
「そりゃあ好きか嫌いかと問われたら、迷わず好きだと答えるけどね」
 京は苦笑しつつ返す。
「シ、シィエラよりもですか?」
「静」
 まるで静香の言葉を遮るかのようにして、京は発音した。静香がびくりと身体を振るわせる。
「あ、いや、ごめん。君もみんなみたいなことを言うんだなと思ってね。よくみんなボクとシィエラのことを茶化すからさ」
「ご、ごめんなさい……」
 静香は叱られた子どものようにしゅんと小さくなって、上げた顔も再び伏せてしまった。そして、もう一度「ごめんなさい……」とか細くつぶやいた。
 京は困ったようにショートシャギーの髪を掻いた。
「おっと、そろそろ時間だな。ボクも講義があるから行くよ。……あ、そうだ。よかったら昼食一緒に食べないか?」
「え? わ、わたしでいいんですか?」
 驚きと喜びが入り混じった声で、静香は問い返した。
「悪いことなんてどこにもないよ。……じゃあ、食堂の前で待ち合わせしよう」
「あ、はい。必ず行きます」
 そうして京は、静香に笑顔を投げかけてから腰を上げた。
 
 12時10分という中途半端な時間に2コマ目の講義が終了した後、京は食堂を目指して歩いていた。研究棟や講義棟を貫く小道を早足で抜ける。
「静、待ってるだろうな」
 京が先ほどまで講義を受けていた教室は食堂から最も遠い棟にあった。静香はすでに待っているに違いない。
 楠木静香は存在感が薄い少女ではあるが、何かと周りから気にかけられる。おそらく今も食堂の外でひとり立っている彼女に、友人知人は声をかけていることだろう。でも、静香は「京と約束してますから」と弱々しくもはっきり断り、京だけを待つ。そんな場面が容易に想像できた。早く行ってやらねば。
「あ、京」
 辿り着いた食堂の前で声をかけてきたのは、静香とは別の女子学生だった。
「さっきシィエラがきてたよ」
「シィエラが?」
 瞬間、胸騒ぎがした。
「京に会いにきたのかなって思ったら、『楠木って子、知らない?』って」
「それでシィエラには何て?」
「今日はまだ楠木さんを見てないから、正直に知らないって答えたけど?」
「……」
 京は辺りを見回した。食堂に入っていくもの、友人を待っているもの、たまたま知人と会って立ち話をしているもの――様々あるが、そこに静香の姿はなかった。
 まだきていないのか? いや、本来ならば京よりも先に着いているはずだ。ならばシィエラと出くわしてしまったと考えるのが妥当か。
(何をする気だ、シィエラ……)
 京は予想外のシィエラの行動に舌打ちをした。
「ありがとう。ちょっとふたりを捜してくるよ」
 内心の焦りを表には出さず、教えてくれた女子学生にそう告げると、京はその場を後にした。
 
「ふぅん。ここが体育館ね」
 シィエラは入り口から入って数歩進んでから、ゆっくりと周りを見た。正面にステージ。壁面にはバスケットボールのゴール。高い天井からは等間隔に照明がぶら下がっている。どこにでもあるごく普通の体育館だ。
 シィエラは京に会いによくこの大学にきているが、部外者が入っても許されるような範囲内でしか踏み入ったことはない。せいぜいが学生食堂か。だから、こういう学生しか使わないような施設は初めてだ。
 体育館の中は当然のように人はいなかった。シィエラはこの無人の体育館に特に用があるわけではなった。単に無人だからここにきたのだ。
「さて――」
 と、シィエラは振り返った。それまでの仔猫のような好奇心に満ちた目は、一転して不機嫌な猫のそれへと変わった。
 
 その視線の先に楠木静香がいた。
 
「少し話を聞かせてもらっていい?」
「は、話……ですか?」
 静香はシィエラに睨まれ、怯えたように体を振るわせた。視線を合わせないようにしつつも、ちらちらとシィエラの様子を伺う。
「この前、わたしを襲ったのはあなたよね?」
「お、襲う!? そ、そんなっ。知りません、そんなことっ」
「とぼけないでッ」
 シィエラは静香を一喝した。しかし、すぐに口の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべる。
「いいわ。わたしは面倒なことが嫌い。確かめてみればすむことだわ」
「た、確かめる……?」
「こうするのッ」
 次の瞬間、シィエラが床を蹴っていた。一切の説明もなく、静香に向かって駆け出す。
 静香は「ひ……っ」と小さな悲鳴を口から漏らし、両腕で庇うように顔を覆った。完全に怯えて身が竦んでいるようだ。
 それでもシィエラは止まらなかった。その正体を見極めるために、ギリギリまで追い詰めるつもりだった。シィエラの両手に魔力が集まる。手に帯びたそれは刀剣の如き鋭さを持つ刃だ。それで切り裂こうというのだ。
 と、そのとき――、
 
 静香が嗤った。
 
 反射的に頭を庇うその腕の隙間に、シィエラはその様子を見て取った。確信し、迷いが消えた。見極めるなどという甘い意図ではなく、明確な殺意を持って――、
 ダンッ
 大きく強く踏み込み、魔力の刃を十字(クロス)に振るった。
(かわしたッ!?)
 だが、そこに手応えはなく、静香の姿もなかった。
魔術師(ウィザード)》であるシィエラは、《死神(デス)》や《暗殺者(アサシン)》、《戦乙女(ヴァルキュリア)》のような超人的な身体能力はないが、それでも常人から見れば十分に卓越したものを持っている。そのシィエラの斬撃を静香はかわしたのだ。
 シィエラは静香の姿を探し――見つけた。距離を取って幽鬼の如く立っている。顔は伏せられ、垂れた髪に隠れて表情は見えない。その姿は無防備極まりなく見えて、しかし、その実迂闊に手が出せないような妖しい圧力があった。
「やっぱりね」
 シィエラはその妖気を体に受けつつも、露ほどに動じていない様子で面白くなさそうに言った。
「ええ、そう。私が静姫。静姫は私。まさか貴方の方から会いにくるなんて予想外だったけど……いいわ、ここで終わらせましょう」
 その発音に先ほどまでの弱々しさはなく、静香は自信にあふれた口調で言い放った。
 顔を上げる。
 
 その直後、変化が現れた。
 
 髪の色が変わっていく。色のグラデーションのように、黒から赤へ、紅へ。そして、絵筆を引いたように長く伸びていく。
 同時に体が光を帯びる。やがてまるで光に押し上げられるようにして、静香の体が浮き上がりはじめた。
 そして、
 体を包む光が霧散した後、そこにいたのは紅の髪に燃える炎の瞳、豪奢な着物をまとった、楠木静香とは違うものだった。
 
 静姫――
 
「やっと出てきたわね」
「お待たせ……と言いたいところだけど、まだもうひとつ……」
 上に向けた静姫の掌に光の球が現れた。一瞬、シィエラは何かの攻撃かと思い、身構えた。が、それは次第に膨らみ、最後には弾けるようにして四散した。
 途端、
「ッ!?」
 シィエラは知覚した。
 おそらく位相をずらすか何かしたのだろう。今この体育館は地上から隔離された閉鎖空間となった。かつて静姫自身が言った“狩り場”が形成されたのだ。舞台は整った――。
 シィエラは情報を整理する。
 静姫のこれまでわかっている攻撃はふたつ。ひとつは首から下げた、勾玉を六つ連ねた首飾り。これは勾玉を超高速で射出する兵器だ。そして、もうひとつは鬼の魂を集めてつくる顎。その飽くなき食欲はどんなものでも喰らう。
「あなた、キョウの友達よね?」
 考えながらシィエラは相手に話しかけた。
 あの日、京は言った――あれは自分の友達かもしれない、と。言いながら信じられない様子だった。そして昨日、京はついに本人に直接確かめると言ったのだ。しかし、シィエラはその京に内緒で自ら彼女に会いにきた。
 京が信じられなかったわけではない。だが、京には甘い部分がある。それが必ずしも悪いことだとは思わないし、シィエラはそんな京が好きでもある。けれども、今回ばかりはそれが裏目に出る可能性がある。甘さが正体を見極める妨げになると思ったのだ。そして、実際にこうして静姫と先に接触したのはシィエラだったわけだ。
「どうしてわたしを狙うの?」
「そんなこと決まっているわ。それは貴方がいつも京のそばにいるから」
「……」
 それだけでシィエラは十分すぎるほど理解した。
 前に一度、彼女が私的な理由で戦っていると感じたが、どうやらそれは間違いではなかったようだ。
「そう。そういうことね。だったら、よけいに負けられない。まぁ、もとから負ける気はないけど」
「貴方のそういうところ、すごく目障りだわ」
 次の瞬間、静姫の首飾りが弾けた。六つの勾玉が衛星のように彼女の周りをゆっくりと回る。超高速射出の準備が整った証だ。
 対してシィエラは両手に魔力を集める。
 シィエラは臨戦態勢としてこの状態をとることが多い。すべてとはいかないまでも単工程の魔術ならほとんどがここから一挙動(シングルアクション)で繰り出せるからだ。
「ふッ」
 それを実践するように、シィエラが呼気とともに右腕を下から上へ振り上げた。魔力が風となって(はし)る。
 が、しかし、風の刃は静姫の手前で飛び散るようにして消えてしまった。
(なるほど。最低限の防御幕は常にまとってるわけね)
 シィエラは、静姫が勾玉を準備した段階なら防御面で手薄になってるのではないかと考えたのだ。あいにくと当てが外れたが、予想の範囲内でもあった。シィエラもやっていることだが、意識せずとも防御幕が常時稼動状態にあるようだ。これでは隙を突いたとしても軽い単工程魔術では無効化されてしまうだろう。
 シィエラの試みが不発に終わった後、静姫が間髪を入れず反撃に移った。
 六つの勾玉がその回転速度を速め、そして、うちひとつが射出された。過去2度の交戦でわかったことだが、勾玉の速度は数に反比例するようだ。つまり今、最大級の一撃が放たれたことになる。
「ッ!?」
 一直線に向かってくる勾玉に対し、シィエラは左の掌を突き出した。
 積層結界盾。
 それを詠唱なしで可能な最大枚数を展開する。勾玉はまるで見えない壁に銃弾を撃ち込んだかのように、シィエラの掌の少し前で動きを止めた。しばしその状態が続き――やがて命令を達成できなかったそれは、ゆっくりと静姫のもとへ戻っていった。
「このままでは埒が明かないわ」
「ええ、そうみたい」
 静姫の言葉にシィエラが不機嫌そうに同意した。
 確かにこのまま足を止めて正面から撃ち合ったところで、何の進展もしないだろう。
「でも、これはどうかしら?」
 静姫が妖しい笑みを浮かべる。と、同時に、周囲を回る勾玉がまたも活性化したようにその速度を上げた。
 再び勾玉が射出された。
 シィエラは見極める。放たれたのは五つ。速度は遅い。だが、その軌道は不規則で、逃げ場を塞ぐように全方位から襲いかかるつもりのようだ。
 シィエラの口が小さく短い詠唱を紡いだ。直後、展開されたのは先ほどの積層結界盾よりも強固な半球状の防御壁だった。防御壁は強襲する勾玉のすべてを完璧に防ぎ切った。
「……」
 シィエラはそれでも気を抜かなかった。静姫が自信満々で挑発してきたのだ。これだけであるはずがない。全方位攻撃など無策に等しい。
 案の定、次はあった。
 防御壁の効果持続時間が終わる絶妙のタイミングで鬼魂の顎が、シィエラを喰らおうと襲い掛かってきたのだ。だが、それにもシィエラは冷静に対処した。右手を振り上げ、そして、人差し指だけを下へ向ける。局所的に増大した重力が、狙いすましたように顎を真上から圧し潰す。顎は獲物へと届く前に床に叩きつけられ、靄となって霧散した。
 静姫の連続攻撃を凌ぎ、顎の消滅を見届けると、シィエラは不敵な笑みとともに顔を上げた。
 
 そこに第三撃目があった。
 
 超高速で撃ち出された最後の勾玉が、もうシィエラの目の前に迫ってきていたのだ。
 シィエラの思考が走る。
 積層結界盾で防ぐか? 無理だ。障壁と局所重力操作の魔術を立て続けに使ったばかりで、魔力の収束が追いつかない。跳んで避けるのは? それも自分の身体能力では間に合わないだろう。もし仮に回避できたとしても、勾玉が軌道修正して、体勢が崩れたところを撃ち抜かれないとも限らない。
 打つ手なしか。
 シィエラは迫りくる勾玉を睨む。しかし、それはなす術のない彼女がせめてもの抵抗として睨みつけたわけではない。無意識下で展開している防御幕を意識で強化するつもりなのだ。
 シィエラは勾玉を睨み、そして、その軌道上にある防御幕の存在を意識して、最小限の面積で意識強化を施した。
 ゴッ――
 鈍器で殴られたような鈍い衝撃。シィエラの体は薙ぎ倒され、その威力を表すかのように体育館の床の上を勢いよく滑っていった。
 意識が飛びそうになった。もとより苦しまぎれの軽減策。完全に防ぎ切れるとは思っていなかった。しかし、これほどの破壊力とは。むしろこの程度のダメージですんだのは僥倖と言えるかもしれない。
「終わるときは呆気ないものね」
 朦朧とした意識で静姫の声を聞く。
「京は私のことを好きだと言ってくれたわ。だから、貴方さえいなくなれば、私は京に愛してもらえる」
 静姫は勝ち誇ったように言う。
 シィエラはこんな状況だというのに苦笑した。ただし、痛みをこらえた歪な苦笑だが。
 キョウは人がよすぎる――誰とでも上手くつき合って、仲良くなって、好意を素直に口にする。シィエラはそんな京が嫌いで、好きだった。
「さぁ、さよならね」
 冷ややかな死刑宣言が下される。
 とどめはどのように刺されるのだろうか。鬼魂の顎に喰われるのか。それもと勾玉に撃たれるのか。どちらもぞっとしない。シィエラは今も体を動かそうとしていた。が、四肢に力は入らず、ともすれば意識が遠のきかける。
 静姫がゆっくり静かに近づいてきた。
 シィエラが死を覚悟したそのとき――、
 
「やめろっ」
 
 割って入ってきたその声は、京のものだった。
 
 
2008年6月17日公開

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