5.狂想曲 (後編)
 
「キョ、ウ……」
「京……」
 シィエラと静姫はそれぞれ動きを止め、同時のその名を口にした。
「京、どうしてここに……。ちゃんと“領域”を囲っていたはずなのに」
「あるとわかっていれば知覚できないこともない。後は外から干渉して、こじ開けて入ってきた。尤も、入るとき以上に外へ出る方が難しそうだけど」
 京の顔にいつもの爽やかな笑顔はなく、険しい面持ちでそう説明した。
「それよりも、その姿……本当に(しず)なのか?」
 京に問われた静姫は、一瞬はっとした顔を見せた。しばし目を閉じ、そして、その目を開いたときには覚悟を決めた表情があった。
「うれしいわ、京。姿が変わっても私だってわかってくれるなんて」
「何を言ってるんだっ。いったいどうしてこんなことに……」
「私の前に天使が現れたの。それで弱い私に力をくれた。だから、今の私は楠木静香じゃなくて、《神聖十二使徒》の静姫」
 静姫は自信に満ちた口調で、誇らしげに語った。そこに京の知る、いつも恥ずかしげにうつむいている内気な楠木静香の面影はなかった。
「《神聖十二使徒》……」
 京は思わずうめくように繰り返していた。勿論、初めて聞く言葉ではない。だが、彼女自身の口から直接語られたことで、改めて衝撃を受けたのだ。
「そう。主より力を授かった、神意と神威の地上代行者――それが《神聖十二使徒》」
「静、それがどういうことかわかってるのか!?」
「ええ、わかってるわ。京のこともちゃんと知ってる。京は《神狩人(かがりび)》。私の敵。でも、大丈夫。私は京を殺したりはしない。私が消えて欲しいのは、そこにいる女だから」
 静姫は京から視線を外し、シィエラに目をやった。京もそちらを見る。シィエラはまだ苦しそうに床に倒れたままだった。
「そんなことはさせない」
「言うと思った。じゃあ、もしこの“領域”を開けて、周りにいる人間を手当たり次第に殺すといったら?」
 静姫は優しく微笑みながら問いかけてきた。
 京はその微笑と言葉の内容にぞっとした。
 言外に二者択一を迫っているのだ。これからすること、つまりシィエラに止めを刺すのを見逃すか、それともその代わりに無関係な学生たちを犠牲にするか。
 京は頭の中で今の状況を確認し、そして、第三の選択肢を選んだ。
「それもボクが止める」
「京はわがまま」
 静姫はくすりと笑った。
「じゃあ、仕方がないわ」
「ああ。静がそのつもりなら仕方ない。……シィエラ、立てるかい?」
 戦いは避けられないようだ。京はシィエラに呼びかけた。
「何とか。大丈夫、やれるわ」
 シィエラはふらふらと立ち上がった。京がきて、結果的に時間を稼いでくれたおかげで、かなり回復した。まだ頭がくらくらしているが、意識ははっきりしている。やってやれないことはない。
 それに――と、シィエラは思う。
 立ち上がらなければならない理由があった。京に守られ、京にだけ任せていい戦いではないのだ、これは。なぜならこの戦い、最悪の場合は……。
(キョウにそんなことはさせない)
“それ”は自分の役目だ――シィエラは力を振り絞って立ち上がった。
「静、ボクはキミを止める」
 京は宣言するように言い放った。
 上着の下、腰の後ろから棒状のものを取り出す。それは京の意思に呼応して伸び、そして、エーテルが刃を形成して大鎌となった。
告死天使(アズライール)II』。
 それは京が、《神狩人》のバックアップ企業のひとつであるBABELの、兵器開発部門に作らせた新しい武器だった。前の『告死天使』は純粋な対エーテル体用兵器だったが、こちらは物質体にもダメージを与えられるようにできている。先の、人間の肉体を乗っ取った天使との戦いを機に講じた対策だった。加えて、魔術的処理によって質量保存の法則を一時的に回避する措置を施してあり、ある程度自由に大きさと重量を変えられるので、携帯性に優れているのも特徴だ。
 京が大鎌を構え、シィエラは両手に魔力を集める。そして、静姫の周囲を六つの勾玉が回り出した。三者三様の臨戦態勢。
 今、三人は二等辺三角形を描く位置にあった。京とシィエラが少し離れて並び、そのふたりに向き合うようにして静姫がいた。
 最初に行動を起こしたのは静姫だった。六つの勾玉が次々と飛び立つ。狙うはシィエラ。だが、その射線上に京が、驚異的な反射神経で一瞬にして滑り込んだ。
「はっ」
 大鎌を一閃。横薙ぎに払われた刃がすべての勾玉を弾き飛ばした。
 続けて放たれる鬼魂の顎。
 しかし、それも京が迎撃する。横に薙いだばかりの大鎌を振り上げ、頭上で一回転させる。そして、タイミングを合わせて袈裟懸けに振り下ろした。顎が四散した。
「キョウ!」
 後ろでシィエラが叫んだ。
 それが合図だった。京が後ろへ下がり、代わりにシィエラが前へ出る。シィエラは京に守られながら詠唱を紡ぎ、今、術式を完成させたのだ。
 祈るように組まれた両手。その隙間から水が溢れ出した。最初、それは掬い取った水が零れ落ちるかのようだったが、瞬く間に量を増やし、凶暴な濁流の如く静姫へと押し寄せた。
「くっ」
 何トンという水が圧殺せんと襲いかかる。
 確かに静姫は体育館の端まで押し流された。だが、それだけだった。水そのものは彼女を避けて流れていく。球状の障壁で身を守っているのだろう、髪の毛の一本すらも濡れてはいない。
 魔術の効果時間が切れた。
 何の結果ももたらさないまま、大量の水はいずこかへと消え失せた。
 シィエラの魔術を退けた静姫が、嘲るように妖しい笑みを浮かべる。
 だが――、
「静っ」
 その死角に京がいた。
 ふたりの連携は、京の後ろで組み上げたシィエラの魔術が本命ではなかった。魔術は目くらましであり、足止め。京が振るう一撃こそが狙いだったのだ。
 しかし、そのときだった。
 
「京、わたし……」
 
 大鎌を振り上げた京の耳朶を弱々しく打ったその声は、まさしく京のよく知る楠木静香のものだった。
「ッ!?」
 思わず京の手が止まる。
 その必要はなかったのに。もとよりただ大鎌の柄で打ち据えるだけのつもりだったのだ。ならば、かまわず振り抜き、少々乱暴な方法ではあるが彼女を止めるべきだった。
「京は優しいから」
 静姫が、笑った。
 それを見た京は、自分の甘さを呪った。
 それから起こった一連の動きは、京にとってやけにスローモーションに感じられた。静姫が長くしなやかな指の掌を、優雅ともいえる動作で京の胸の辺りにかざす。
 その直後――、
「が……っ」
 京を衝撃が襲った。静姫の掌から放たれた掌圧が体を打ったのだ。京はやすやすと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられてから床に崩れ落ちた。
「か、は……っ」
 うめき、喘ぐ。胸に掌圧を喰らい、背を壁に打ったせいで、呼吸ができなくなったのだ。肺の空気をすべて吐き出してしまったにも拘らず、次を吸うことができない。
「大丈夫。京は殺さない。だから、そこで見ていて」
「キョウ!」
 シィエラが悲痛な叫びを上げる。
 
 この瞬間、彼女の中で何かが弾けた。
 
 許せない――シィエラは思った。京は楠木静香という少女のことを思って手を止めたのだ。なのに、その優しさを利用し、裏切った。許せなかった。
 いきなり周囲の温度が下がった。
 その中心にシィエラがあった。瞳は暗闇色に輝き、その相貌は冷たさを得てさらに美しさを増す。シィエラはいまや凄艶な美貌の魔人だった。魔人の振りまく恐怖は見るものの血を凍らせ、精神を凍てつかせる。
「さ……く、や……」
 京の口から意味不明な言葉がこぼれる。
「な、なに、これは……?」
 そして、それは今まで余裕たっぷりに京とシィエラを退けていた静姫も同じだった。
「ええいっ」
 静姫は、突然目の前に降りてきた得体の知れない恐怖に向かって、勾玉をすべて発射した。だが、それはシィエラに届く前に凍りつき、ことごとく砕け散った。
「ぁ……ああっ」
 シィエラに指一本動かすことなく己の武器のひとつを破壊された静姫は、さらなる恐慌に陥り、闇雲の鬼魂の顎を放った。
 シィエラが駆け出した。身体を強化の魔術が走り、普段の彼女とは段違いの瞬発力だった。
 駆けながらシィエラは両の掌を合わせる。そして、それを離したとき、そこには氷の剣が生まれていた。その柄を握る。
「これで十分……」
 迫りくる顎を、足を止めることなく氷の剣で斬り捨てた。そして、その一瞬後には、
「が……っ」
 左手で静姫の喉を掴んでいた。苦しげなうめき声が静姫の口から漏れる。
「これは『彼』の心を裏切った報い……」
 シィエラは感情の欠けた、ただただ冷たいだけの声で言い、右手の剣で静姫に狙いを定めた。
 今のシィエラは京の目から見ても明らかにおかしかった。まるで別人のようだ。何かが乗り移ったというよりは、眠っていた何かが目覚めたような――そんな感じだった。
 止めなくては。
 止めなければシィエラは、躊躇なく静姫を刺し貫くだろう。
「さ……シ、シィエラ!」
 京は動けない体で、声を絞り出した。
「ダメだ! やめるんだ!」
 そして、さらに大きく叫ぶ。
「キョ、ウ……?」
 それはまるで我に返ったような反応だった。もしかすると事実そうだったのかもしれない。呼び止められて初めて自分が何をしているか気がついたような。
 シィエラの力が緩んだ。
 一瞬の隙。
 静姫は自分の喉を掴んでいるシィエラの左手を取り、捻った。次の瞬間、柔術か合気道の技のようにふたりの体が入れ替わり、静姫はシィエラの背後を取っていた。
 その無防備な背に掌をかざし、掌圧を叩き込む。
「あぐ……っ」
 シィエラは面白いように吹き飛び、床を滑った。体を駆け巡る痛みに、身を仰け反らせて苦しみ喘ぐ。
 そこに静姫が近寄ってきた。
「さぁ、今度こそ、ね」
 無慈悲な言葉には見下すような嘲り笑いが含まれていた。
 シィエラは荒い息を繰り返しながら見上げる。
 そこに死が立っていた。
 自分に死をもたらす女。
 女は勝ち誇ったように、狂喜に高揚した口調で口を開いた。
「欠片ひとつ残さない。貴方さえいなければ、京は私を見てくれる。京は――」
 
 ドン――
 
 静姫に後ろから何かがぶつかってきた。
 彼女の体の中心から、鈍く光る金属の刃が突き出ていた。
「……、ぁ……」
 静姫は己の体から飛び出すそれを見て、驚愕に目を見開く。
 その後ろには京が立っていた。
「シィエラを、やらせはしない……」
「きょ、京……」
 京はそれ――短剣を引き抜くと、静姫は支えを失ったように崩れ落ちた。
 静姫の体が淡く儚い光を放つ。そして、その光が消えた後、そこには楠木静香の姿があった。紅の髪は墨を流したような黒に戻り、着ているものも彼女らしい大人しい洋服に。まるで何ごともなかったかのように、すべてが消え失せていた。
 ただ、唯一違うのは、彼女がもう動かないことだ。
「静……?」
 京の手から短剣が落ちた。
「ボクは、静を殺したのか……?」
 その体から力が抜ける。崩れ落ちかける京をシィエラが抱き止め、そのままふたりして床に膝をついた。
「違うわ、キョウ。これは戦いなの」
 だから仕方のないことだ。今までは天使が相手で、その天使を屠ってきた。今回の敵は人間だった。だから人が死んだ。
 シンプルな構造。
 しかし、シィエラは言っていて自分が情けなくなった。
「ごめんね、キョウ。本当はこんなことキョウにさせないつもりだった。わたしがやるつもりだったのに」
 わかっていた。この戦い、最悪の場合は楠木静香という少女を殺すことになるだろう、と。だからシィエラは先行したのだ。そのときは京でなく、自分がその命を手にかけようと決意して。
 しかし、現実はどうだ。結局は返り討ちに遭うシィエラを救うかたちで、京がその手を汚してしまったではないか。
「ボクは、人を殺した……」
 京は震えていた。その身を抱くシィエラにもそれが伝わってきた。
「大丈夫よ、キョウ。わたしがずっとそばにいてあげる……」
 シィエラは京のすべてを受け止めるように、強く強く抱きしめた。
 
 翌朝――、
 ベッドの上で目を覚ました京は、横にシィエラがいることにぎょっとした。それから一糸まとわぬ姿の自分たちに気づき、「あぁ、そうか」と昨夜のことに思い至る。
 シィエラはずっとそばにいてくれたのだ。
 戦い上でのこととは言え、人を殺めてしまったことに恐怖し、人の温もりを求める京を、シィエラは受け止め、またそれと同じだけのものを返してくれたのだ。
 京は、まだ眠っているシィエラを起こさないよう、そっとベッドを抜け出した。
「キョウ……?」
 脱ぎ散らかしていた服を着たところで呼びかけられる。
 振り返ると、シィエラはシーツを巻きつけただけ体をベッドの上に起こし、まだ少し眠い目をこすっていた。
「おはよう、シィエラ。……えっと、その……」
 今日は咄嗟に言うべき言葉を探し――見つからなかった。なにせ昨夜のようなことはふたりの間では初めてのことだ。顔を合わせれば、どうしても気恥ずかしさが先に立つ。
「キョウ、謝らないで」
 反対にシィエラは気丈だった。
 確かに今、京は謝ろうとしていた。昨夜のことは怯える京をシィエラが慰めるようなかたちで起こったようなものなのだ。
「キョウは何も悪いことしてないんだから」
「……わかった。謝らない。ありがとう、シィエラ」
 今度は真っ直ぐ目を見て言った。シィエラもそれを受け入れるように、微笑みながら頷いた。
「それでね、シィエラ。ボクは考えたんだ」
「何を?」
「近々SARAに会いに行こうと思う」
 途端、高速で枕が飛んできた。勿論、京の反射神経はしっかりとそれをキャッチしている。
「こんなときに昔のオンナの話!? キョウのバカ!」
「違うって、シィエラ。聞いてくれ」
 京は慌ててシィエラを宥め、制した。
「仕方ないとは言え、ボクは友達をこの手にかけてしまった」
「……」
「なのに、ボクは自分の周りで何が起こり、何がはじまろうとしているのか、まったくわかっていない」
《神聖十二使徒》とは何だ? いったい何を目的としているのか? そして、神の軍勢との関係は?
「まずはそれを知るべきだと思う。SARAならきっと力になってくれるはずだ」
 京はそこで言葉を切った。持っていた枕を弄びながらシィエラの反応を待つ。
「キョウ、わたしも行く。ううん、そのSARAって人のところだけじゃない。わたしはキョウと一緒にどこでも、どんな戦いにだって行くわ」
 シィエラは迷いなく言い、それから少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「キョウがイヤだって言っても離れてあげないんだから」
「わかった、行こう。ふたりなら何があっても、きっと大丈夫だ」


snow drop:capriccio −了−
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2008年6月17日公開

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