その日、京は少しばかり緊張していた。
 柄にもなく何を着て行こうか悩んだ挙句、結局はいつもとたいして変りのない、ロングパンツにブラウスを着崩しただけのスタイルに落ち着いた。
 時計を見ると、もう時間だった。
 そろりと静かにドアをくぐって外に出ると、マンションの階段を猫科の肉食動物のように、しなやかに音もなく駆け下りる。そうして京が住む3階の真下、2階のシィエラの部屋の前を駆け抜け、地上階に辿り着いて、ようやく人心地ついた。尤も、京が把握しているシィエラの予定によれば、今は家にはいないはずなのだが。
 シィエラ――
 彼女は京よりふたつ年下の、17才の韓国人の少女だ。その恵まれた容姿とファッションセンスを活かして、日本でティーンズ誌を中心にモデルとして活躍している。シィエラという名も、そのための芸名のようなものだ。日本の十代の少女で彼女の名を知らないものはないだろう。
 シィエラは京と同じく《神狩人かがりび》であり、
 そして、今現在の京の恋人である。
 冬のある日にキスを交わし、それぞれの想いを伝えあった。互いに拒む理由はなかった。女同士であるというマイノリティな恋愛形態も、今のところ障害となっていない。
 しかし今、京はシィエラ以外の女性に会いに行こうとしている。
「別に後ろめたいことがあるわけじゃないんだけどね」
 地上からシィエラの部屋を見上げ、ひとり言を零す。
 事実、やましいところはない。単に2年ぶりに再会した友人と、改めてゆっくりと時間を取るだけのことだ。ただ、困ったことにシィエラがこういうことに寛容な性格ではないのだ。単純に怒るだけならまだしも、よけいな想像力をはたらかせて妙な勘繰りをし、盛大に逆上する。こっちが口を挟む間もなく、勝手に自爆してしまうのだ。
 それ故に、今日のことはシィエラには言っていない。無駄な揉めごとが起こる確率を下げるための処置だ。
 京が向かった先は、この界隈でも有名なファッションストリート、通称センター街だ。
 流行を集めた衣と食の街は、休日ともなれば多くの若ものであふれかえる。石畳で覆われた広い通りには、ショウウィンドウを眺める友達同士、立ち止まっておしゃべりをしているグループ、アイスクリームを片手に並んで歩いているカップル。京はそんな彼ら彼女らよりも少しだけ速いペースで歩いて、目的の場所を目指す。
 そして、センター街のほぼ中心のオブジェの近くに、彼女はいた。
 黒を基調に白のレースがあしらわれた、いわゆるゴシックロリータと呼ばれるファッションのワンピースに身を包み、そこに立っている。流れるような黒髪に、口唇に黒いルージュを引いた凄艶な美女。
 SARAだ。
 そんな誰もが振り返りそうなSARAだが、彼女は誰の目にも映らないかのように、そこに静かに立っていた。
 京は、SARAが自分の存在にフィルタをかけられることを知っている。そのフィルタによって存在を希薄にし、そこにいながらにして誰の目にもとめられずにいられるのだ。
 SARAは京の姿を認めて、微笑んだ。それは妖艶な魔女のようでもあり、無垢な少女のようでもあった。そんな不思議な魅力を持った笑みだった。
「ごきげんよう、京」
「やあ」
 京は片手を上げて応えた。
 その瞬間、SARAを覆っていたフィルタが消え、その存在を世界に確かなものとする。
 周りにいた何人かの人間がぎょっとして振り返った。無理もない。いきなりそこにゴシックロリータの美女が現れたようなものだ。
 それに加えて、京である。
 普段はシィエラのそばにいて目立たないが、なかなかどうして京も魅力的だ。170を越える長身に、中性的な容姿とスマートな物腰。どちらかというと同性によくモテるのだが、充分に人目を惹くのは確かだ。
 まるで水面に波紋が広がるようにして、ふたりに注目する目が増えていく。京とSARAを見て、友達同士ひそひそと囁き合っている。
 周囲の雰囲気を感じ取り、京が肩をすくめる。
「やれやれ。君といるといつもこれだ」
「あら、悪いのは私だけですの? 京だって素敵ですわよ」
 ふわりとした夢のような台詞を、SARAは凛とした響きとはっきりした口調で発音する。
「知らないよ、そんなこと。……とりあえず歩こうか」
「ええ、喜んで」
 そろそろ積極的な少女たちが声をかけてきそうだ。ふたりは歩き出した。
 京から見てSARAをひと言で表すとすれば、『師』だ。
 SARAとは戦いの中で出会い、以降、1年近くに渡ってともに天使を狩ってきた。その中でSARAは《神狩人》としてひとり立ちしたばかりの京に、実戦的なことを数多く教えた。
 今ここにいる《神狩人》、『死神』の京はSARAが育てたと言っていい。
 だが、その関係も突如として終わりを迎え、そして今、再び彼女の力を借りるべく、こうして顔を合わせたのである。
 数日前に再会を果たして以来、ふたりだけでゆっくりと時間を取るのは今日が初めてだ。 
 京とSARAは、どこへ向かうともなく歩く。
「本当に久しぶりですわ」
「そうだね」
 空白ブランクは2年。
「京とこうして一緒に歩くのも懐かしい」
 当時はよくこういう時間を持てていた。まだ余裕があったのだ。
「そっちはどう? 変わりないかい?」
「ええ、まったく」
 SARAは笑みを含ませながら答えた。
「『夢幻図書館』は無限の書物があるだけで、他に何もないところですから。変りようがありませんわ」
「そうか……」
 京は、SARAのことをほとんど何も知らない。本名も国籍も。実際に何年生きているのか、普段どんな生活をしているのか。
 彼女は、ただSARAとだけ名乗っている。
『人形使い』の能力を持っているらしいのだが、にも拘らず、完全に血によって継承されるはずの《神狩人》にあって『人形使い』の家系に名を連ねてはいないようだ。彼女がいったい何ものであるのか、まったくわからない。
 そして、2年前、京とSARAを別離させたものが『夢幻図書館』だった。
「変れない私のことよりも、京のことが聞きたいですわ」
「ボク? ボクだってたいして変ってないよ」
「あら、そうですの?」
 SARAはさも意外そうに、ただし、芝居がかった口調で感嘆した。
「とても素敵な恋人がいらしたように思いましたけど?」
「……」
「新しい恋人、なのでしょう?」
「うん。まぁ、そうかな」
 京は観念したように肯定した。
 京とてSARAにそれを隠そうと思っていたわけではない。恋人が同性であることが、それを積極的に告げるのを妨げていたのだ。
「でも、ひとつ訂正させてもらうと、“新しい”ではなく、“初めての”だよ」
「まあ。そうでしたの?」
「意外そうに言わないでくれよ。ボクは過去、恋人と呼べる人はひとりもいないよ」
「では、つまり、あの頃の私もそうではなかったということですわね」
「は?」
 京は思わずSARAに目をやった。SARAは京を見ていなかった。真っ直ぐ正面、少し遠くに焦点を定めながら歩いていた。その顔は冗談を言っているようには見えなかったが、真剣というには表情がなさすぎた。おかげで精巧な人形めいていて、何を考えているか読めない。
 京はすぐに顔を前に戻した。
「ボクにとってSARAはそういう対象じゃなかったんだ」
 そのまま言葉を選びながら、ゆっくりと語る。
「悪い意味じゃない。別格だったんだ。今、シィエラと比べようとしても、比べられないくらい別格の存在だ。
 君は師だったし、命の恩人でもあった。そして、何よりも強くて、優雅だった。
 ボクにとって本当に別格だったんだ」
「……」
 SARAからは何も返ってこない。
「……ごめん。怒った?」
 おそるおそる問う。
 京にこれ以上の弁解の言葉はなく、黙ってSARAの返事を待った。
 しかし、次にSARAの口から発された言葉は、これまでの流れとはまったく関係ないものだった。
「京、あそこのクレープ、とても美味しそう」
「は?」
「行ってみましょう」
 言うが早く、SARAは進行方向を変えた。
 呆気に取られる京。結局、SARAの真意はわからないままだった。はぐらかされたのか。いや、彼女の性格からして、からかわれただけのような気もする。
 京はため息を吐いてから、SARAの後を追った。
 ふたりが足を向けた先には、小さなクレープ屋があった。店の前には洒落たテーブルとイスが並べられている。
「何か食べるかい? 奢るよ」
「本当? 嬉しいですわ」
 SARAは少女のように感激した。こうも喜ばれたら、こちらまで嬉しくなってくる。京は自分の分も一緒に買い、店の前のテーブルに着いた。
 向かいに座るSARAを見る。
 黒を基調にしたゴシックロリータのワンピースを纏った絶世の美女が、上品にクレープを食べている。そんなアンバランスにも思える構図は、むしろ現実感を欠いた幻想的な光景となって現れていた。
 SARAは常に幻想的だ。京は普段から神が生んだ天使という幻想の種族と戦っているが、SARAにはそれに近いものがある。
「シィエラさんとはよくこうしてデートを?」
「え? あ、うん」
 京ははっと我に返る。
「シィエラはこういう場所が好きだからね、よく強引につき合わされる」
「いいですわね。それに羨ましい。私も京を振り回してみたいですわ」
「今でも充分振り回されてる気がするけどね」
 京は苦笑する。
「あら、そうでしたの? 気がつきませんでしたわ」
 しかし、SARAはたおやかに笑って、京の柔らかな抗議をさらりと受け流した。
「でも、京とデートをしたのは、シィエラさんよりも私の方が先」
 続けて、得意げに唄う。
「そうだね」
「それに京の体に触れたのも、私の方が先ですわ」
「ッ!?」
 京は思わずむせそうになった。口の中のものを一気に飲み込む。
「ちょっと待ってくれっ」
「何か?」
 不思議なものを見るように、首を傾げるSARA。
「何か、じゃない。頼むからそういうことはシィエラの前で言わないでくれよ」
「あら、どうして?」
 SARAは問う。その黒い瞳には、ほんの少しだけ意地悪な光が宿っていた。
「事実でしょう?」
「ッ!?」
 言われて京の顔がかっと熱くなった。
 まずは大きくため息を吐いて、気持ちを落ち着けながら、熱を逃がす。
「確かに事実だよ。でも、話せばシィエラは間違いなく誤解するだろうし、あのときはそうせざるを得ない状況だったとちゃんと説明したところで、理解はしても納得はしないだろう」
 シィエラが、過去のことは過去のことと割り切って考えられる性格なら苦労はしない。今日のことだって内緒にする必要はなかっただろう。
「ええ、そういう方のようですものね、シィエラさん」
「わかっているんだったら、最初から言わないでくれよ……」
 京は脱力してから、改めてクレープを口に運んだ。
「私からのちょっとしたヤキモチと意地悪だと思って下さいな」
「……」
「京はシィエラさんのことをとても大事に思っていますのね」
「まぁ、ね」
 京は少し照れながらも、迷わず肯定の返事を返した。
「ボクはシィエラを大事に思っている。間違いなく、ね。でも、なぜだろう。ボクはずっと女の子が好きだったわけじゃない。それでもシィエラと出逢って、自分が彼女を好きだと気づいたとき、そんな自分を素直に受け入れた」
 そのときの京は、むしろ彼女以外にないとさえ思った。それをよく覚えている。
「それは京とシィエラさんの“心のかたち”が同じだから」
 京はSARAの言葉を聞いて目を丸くする。
「だから、“心のかたち”が同じシィエラさんと出逢って、そこに運命を見たのですわ」
「何だい、それは。最近どこかで流行ってるのか?」
 京はその言葉を別の人間の口から聞いたことがあった。
「いつだったか、シィエラも同じことを言ってたよ」
「そう」
 SARAは温かな微笑を浮かべる。
「京は? 京はそう感じたことはありませんの?」
「ボクは……どうだろう? 正直よくわからない。でも、初めてシィエラがそう言ったとき、その表現が妙にしっくりきた気がしたよ」
 京がそう告げると、SARAはくすりと笑った。
「きっといつのときも運命を感じ取る力は『彼女』の方が強いのですわ」
「そう、なのかな……」
 積極的ではない調子で相づちを打つ。
 自信のない返事になったのは、SARAの言葉を完全には理解していないこともあるが、それ以上にそこにもっと超越したものを感じたからだ。
 そんな京の様子を見て、SARAはもう一度微笑んだ。
「京はそんなに難しく考えなくていいと思います。シィエラさんが好きだと思うのであれば、その気持ちを素直に持ち続けていればいいのですわ」
「なるほど。君が言うことも確かだ」
 運命じみた得体の知れない力に捕らえられてしまったようで、暗くなりかけていた気持ちが、SARAの言葉で晴れていくのがわかった。
「そうだな。うん。ボクはシィエラが好きだ。確かにそれでいい」
 京は再確認するように、そう口にする。
 しかし、その京に少し怒ったような眼差しを向けるのは、アドバイスをした当のSARAだった。
「まったく、妬けますわね」
 SARAはため息を吐く。
「私もシオリを見習った方がいいのかもしれません」
「シオリって?」
 知らない名前が出てきて、京は問いを向ける。
「私のお友達ですわ」
「へぇ」
 京は感嘆の声を上げた。
 SARAの友達。そこには京の知らないSARAの姿があった。
「で、そのシオリがどうかしたのかい?」
「彼女には想いを寄せる男性がいましたが、その方が自分を振り向いてくれないとわかると、彼と、その運命の女性に殺し合いをさせました」
「怖いって」
 そんなところを見習われては堪ったものではない。
「では、京、そうなりたくなかったら、今日一日、私につき合って下さい。ここへは2年ぶりにきましたが、すっかり様変わりしていて、楽しそうなお店も増えていますわ」
「オーケイ。喜んでおともさせてもらうよ」
 拒否権はないらしい。
 京はクレープの最後のひと口を食べ切って、立ち上がった。続けてSARAも腰を上げる。
「でも、今ここでシィエラさんと会ったら、きっと京はただではすみませんわね」
「だから怖いって」
 再び京の口から悲鳴が上がった。
「何でそんなことばかり言うんだよ、君は」
「ちょっとした意地悪ですわ」
 SARAは悪戯っぽく微笑む。
 そして、自分の腕を京の腕にからめ、体を寄り添わせた。
「では、京。参りましょう」
 
 
2007年12月8日公開

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