静(しずか)が通う学校には有名な生徒が何人かいる。
 そのひとりが、ひとつ上の学年の菫(すみれ)だ。
 現生徒会副会長。品行方正で自分に厳しく、人には優しく。しかし、不正は絶対に許さない人格者――と評されている。例年、生徒会長はほとんど場合が男子生徒だが、このままいけば後期からは彼女が就任するのは確実だろうと言われている。
 加えて、快活な魅力溢れる美人となれば、絶大なカリスマを誇るというものだ。
 
 
 
複雑微妙な先輩後輩の関係。……たかだか有限
   エピソード その1
 
 
 その菫と、静はばったり遭遇してしまった。
 正面からナチュラルブラウンのショートヘアをリズミカルに弾ませ、女の子としては平均的な体格ながら自信に満ちた様子で堂々と歩いてくる。
 思わず辺りを見た。ここは校内でも特別教室が集まる辺鄙なところ。自分と菫以外は誰もいない。
 その確認作業に1秒弱。
 次に静は素早く回れ右を――、
「こらっ。そこの生徒っ」
「は、はひっ」
 したところで、体の中心を射抜くような鋭い声で呼び止められた。
 静の身体が金縛りにでもあったかのように固まる。それ以上逃げることも、振り返ることもできなかった。意識はあるのに身体が動かない。まさしく金縛りだ。
 背後から菫の足音が近づいてくる。まるで怪談話のワンシーンのようで、ますます金縛りじみてきた。
「誰かと思えば静君じゃないか」
 真後ろでハスキィボイスが発音された。菫は生徒会副会長という役職のせいか、男っぽい話し方をする。彼女の人気を支える要素のひとつだ。
「は、はい。そのようで……」
「面白い受け答えをするね。実に個性的だ。元気そうで何より」
「そ、そういう菫さんもお元気そうで……あいたっ」
 喋っている途中で、ぽかっ、と頭に軽い衝撃を受けた。菫が拳骨の甲で叩いたのだ。
「校内では菫先輩と呼びたまえ。周りには誰もいないとは言え、そういうけじめは大事だよ」
「はぁーい……」
 静はぺろりと舌を出す。
 静と菫、ふたりは既知の仲だった。家も近いし、よく一緒に遊んだりもした。いわゆる幼馴染みだ。
「ところで静君」
「はい?」
「何か用があってここにきたのではないのかい?」
「そうですけど、もう終わりました」
 今はその帰り。そして、菫と出くわしてしまったのだ。
「では、今は急ぎの用はない、と?」
「そうなりますね……」
 どうにも質問の意図が掴めないので、探り探り答えをつないでいく。
「では、私を生徒会室までつれていってくれ」
「にやあぁっ!」
 いきなり肩に乗ってきた重みに、静は悲鳴を上げる。
 菫がのしかかってきたのだ。後ろから覆いかぶさり、両腕をだらりと前に下げる。まるでゾンビのようだ。いつの間にか怪談からホラーへシフトしていたらしい。
「ほら、いきたまえ」
「んもぅ……」
 理不尽さに口を尖らせながらも、静は菫の腕を掴んで背負うようにして一歩一歩歩きはじめた。菫は自力で歩くつもりはないらしく、爪先を床に引きずっている。摩擦がはたらいて余計に重い。
「……だらけてますね」
「ここのところ激務続きなんだ」
「それはまたご活躍で」
 静はゾンビ菫と言葉を交わしながら前へ進んでいく。
「それはもう、校内でも有名な兄がいるからね。その兄に恥ずかしい思いはさせられないと頑張って頑張って、頑張った末に今の私ができたというわけだ」
「ふぅん……」
 似たような環境にありながら自分には欠片も持ち合わせていない感覚に、静は不思議な思いで相づちを打った。
 でも、それが当たり前なのかもしれない。そのおかげで今では美貌の秀才兄妹として評判で、こちらとは大違いだ。いちおう静としては目立たないようにひっそりと学園生活を送ることで、人の足を引っ張らないようにしているのだが。
「それにしてもえらい変わりようで、驚きましたよ」
 静はそれまで普通の女の子らしい菫しか知らなかった。が、自分の受験勉強と菫の高校での新生活で互いに忙しかった疎遠の時期を経て1年遅れで高校に入学すると、そこで待っていたのは静のまったく知らない菫だった。
「でも、いーんですかぁ? こんなだらけた姿、誰かに見られたら大変ですよ?」
 菫の凛々しい姿に憧れを抱くものも多い。そういう生徒たちに今の菫はとうてい見せられない。
「適度な息抜きも必要だよ」
「……今さっき、僕にけじめは大切だって言ったくせに」
 自分に厳しいなんて誰が言ったんだろう。激甘じゃないか――と思う静。
「これは確認なんだ。最近、自分でも本来の自分の姿を忘れそうでね。こうして静君とふたりきりのときに確かめているんだ」
「それはちょっと光栄、かな」
“ふたりきり”というところに、思わず頬が緩みかける。
「こういうのを業界用語で何と言っただろう? そう、確かツンダラと――」
「初耳ですよ、そんなの」
 つまるところ、素の菫を見られるのは自分だけということになるのだろう。幼馴染みの特権というやつか。尤も、それによる気苦労も多かったりもするだが。静の周りには、菫に限らず校内の有名人が多いのだ。
 そんなちょっとだけ複雑な思いを心に抱え、ついでに身体では菫を担ぎながら歩く。
「ところで、静君」
 なんだか気だるげな発音だった。本当に疲れているのかもしれない。生徒会室はもう少し先だが、このまま最後まで菫を運びきってあげようと、密かに決意する。
「君はまだ自分のことを“僕”と言っているのか?」
「そうですよぉ?」
「やめたまえよ。せっかく高校生になったのだから、これを機にだな――」
「お断りします」
 静は即座に却下した。
「これは僕の個性のひとつ。個性は大事だと思います。だから、いくら菫さ……先輩の命令でも、やめられないのです」
「まぁ、君がそうまで言うのなら、別にいいが……」
「ふーんだ。いーんです。どうせ僕は変な子ですよーだ」
 静は開き直り気味に拗ねてみせた。耳元で菫の笑うような息遣いがかすかに聞こえた気がした。
「……」
 静はまたも口を尖らせる。
 それにしても、重い。と言っても、本当に重いわけではなく、単に自分に体力がないだけで、時間とともに疲労しているだけなのだろうが。
 だんだんうっかり人を殺してしまって、その死体を運んでいるような気分になってきた。考えようによってはゾンビよりもフレッシュな段階だ。
「先輩、もしかして甘えてます?」
 静はふと思ったことを、そのまま口にした。
「!? わ、私は別に甘えてなんか……っ」
「……盛大に慌ててますけど」
「……」
 菫が黙り込んだ。
「でも、まぁ、先輩が僕に甘える必要なんてどこにもないわけだし、きっと本当にだらけているだけですね」
「……」
 やはり返事はなし。
 菫の意識がいったいどこへ旅立ったのか見当もつかないので、静も黙って歩を進めることにした。ずるずると死体運搬。生徒会室はもう目の前だ。
 と、しばらく歩いていると、ようやく菫が口を開いた。
「言っておくが、私は誰にでも甘えるわけじゃ……」
「はいはい。わかってますよ」
 しかし、静は皆まで言わさず口を挟んだ。
「先輩は今ちょっとだけだらけてるだけですよね。毎日大変ですもんねぇ。これが終わったら、またお仕事頑張ってくだ……みょっ!?」
 いきなり菫が立ち止まった。床を擦っていた爪先を上げ、足の裏で床に立つ。おかげで静の身体が不自然に仰け反ってしまい、驚きともうめき声ともつかない声が漏れた。
「……もういい。放してくれ。後は自分で歩く」
 菫が不貞腐れたように、そう言った。
「大丈夫ですよぉ。ほらほら、もうすぐそこですから」
 与えられた使命を最後までまっとうすべく、静は菫の腕を放さず、歩き続けようとする。
「い、いいから放したまえ」
「ぐえっ」
 菫がさらに力を込めて踏ん張ったことで、再び情けないうめき声が静の口から絞り出された。
「ほんとに何ですか、いきなり!?」
「何でもない。とにかく放せっ」
「わけがわからないですよっ。ていうか、何で怒ってるんですかっ」
「うるさいっ。わからなくていいし、怒ってもないっ」
 菫が感情的に怒鳴る。
 しかし、その瞬間、静の中で何かのスイッチが入った。
「ぐぬぬ。そーですか、そーですか。こうなったら絶対最後までつれていきますもんねっ」
 踏ん張っている菫を引きずり、また足を踏み出す。
「こらっ。なんでこんなときだけそんな馬鹿力を出すんだ!?」
 他方、菫は一歩も動くまいと、それに抵抗する。
「これでも僕は――」
「そんなことはどうでもいい。今すぐ放せっ」
「いーやーでーすー。意地でもつれて行きます。それが今の僕の使命なんですっ」
「君のそういう変に律儀で健気なところは好きだが――」
「す、好……っ!?」
「バカ、違うッ! そういう意味じゃない!」
 顔を赤くして、今度は暴れ出す菫。そして、静も動揺していたせいか、結果、ふたり一緒に足を滑らせてしまった。
「わあっ」
「きゃっ」
 床にうつぶせに落下する静。
 菫はその上に同じくうつぶせに着地した。しかし、人の上だったからか、その衝撃はさほどではなく、すぐに身を起こした。
「大丈夫か!?」
「きゅう……」
 しかし、床と菫の間に挟まれてぺしゃんこになった静は、今は目をバッテンにして床の上に潰れていた。
「あ、はい。大丈夫れす……。いちおうこれでも菫さんよりは丈夫にできてるはずですから」
 静は菫の手を借りて立ち上がる。
「んもぅ。ひどい目に遭いましたよ……」
「す、すまん」
 菫がわずかに視線を落とした。
「あ、うん。でも、ほんと大丈夫ですから」
 静は慌ててフォローのつもりで笑ってみせた。
 が――、
「っ!?」
 菫は顔をさらに赤くしてうつむいてしまった。
「菫さん?」
「とっ、兎に角だっ。静君に迷惑をかけたことは謝る。悪かった」
「は、はぁ……」
「私は生徒会室に用があるから、もう行く。君も気をつけて帰りたまえよ」
「……」
 そうして菫は力技で押し切ると、踵を返した。力強く颯爽と歩き、少し離れた生徒会室に飛び込んだ。
「最後はびしっと決めようとしてたみたいだけど、あの後じゃちょっと……」
 静は菫の姿を見送ってから苦笑する。
 少し気になって、そのまま菫が消えたポイントを見つめていた。
 すると――、
 やがて、その扉がゆっくりと開き、隙間からブラウンの髪が現れた。おそるおそる顔を覗かせる。菫もこちらの様子が気になっているようだ。
 目が合った。
 静が手を振ると菫は、びくっ、と身体を震わせ、一瞬硬直。その後、逃げるように引っ込み、ぴしゃりと扉が閉められた。
「なんだかなぁ……」
 静は改めて苦笑した。
 
 
 2007年7月14日公開 / 同年12月19日加筆修正
 
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