まだ春と言って差し支えのない、5月下旬のある日曜日のこと。
一階のリビングから二階へ上がり、途中、姉にコーヒーを差し入れてから部屋に戻ってきた静(しずか)は、ドアの前に立ったところで電子音の音楽を耳にした。部屋の中で携帯電話が着信メロディを奏でているようだ。
「んー?」
誰だろうな、と首を傾げる。
今は昼過ぎ。遊びに誘うならもっと早い時間にかかってくるだろうし、暇つぶしのおしゃべりならたいてい夜だ。どうにも中途半端な時間の着信と言わざるを得ない。
部屋に入り、携帯電話のディスプレイを見てみる。
そこには――
“菫さん”
とあった。
「……」
瞬間、いくつかの感情が混ざり合いながら通り過ぎていった。それは喜びであったり、期待であったり、また、多少の不安であったりした。
しかし、概ね菫から電話がかかってきたという喜びが支配的だ。
通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『遅い。もっと早く出たまえよ』
第一声がそれだった。
複雑微妙な先輩後輩の関係。……たかだか有限
エピソード その2 (前編)
聞き慣れたハスキィボイスも機械を通すと少しだけ違って聞こえる。それでもまぎれもなく菫(すみれ)の声だ。
『それとも何か? 相手が私だから出たくなかったとでも言うのか?』
「まさかまさかっ」
そんなはずはないのだが、しかし、静が事情を説明する前に、菫は次を切り出した。
『まぁ、いい。今の私は気分がいい。静君、今からセントラル・アベニューまで出てこれないか?』
相変わらず女の子らしからぬ男っぽい喋り方で、菫は問うてきた。
「今から、ですか?」
『そう。今から』
「う〜ん……」
静は目だけを天井に向けて思案――
『というか、今すぐきたまえ。君に拒否権はないよ』
「……」
させてもらえなかった。
『では、1時間後にいつもの場所で』
口を挟む間もなくそう一方的に言うと、菫は通話を切った。
呆気にとられた静は、自分の携帯電話を見つめ、
「にゃー……」
と、か細く鳴いてみた。
鳴いたところで状況は変わらないが。
「菫さん、きっと僕が断るなんて考えてないんだろうなぁ……。まぁ、僕だって断るつもりはないけど……って、そうだ。急がないとっ」
頭を切り替える。
セントラル・アベニューは、最寄の駅から3つほど行ったところにある、若もの向けの店が集まった通りのことだ。さほど遠くはなく、1時間もあれば十分に着くことができる。
が、静とご近所さんである菫が直接そこへこいと指示したということは、菫は家にはおらず、もしかすると今まさにそのセントラル・アベニューにいるのかもしれないのだ。ならば急いだ方がいい。静はそう結論する。
早速、外出着に着替え、家を飛び出した。
電車を降りて、駅を出て、目指すは中央十字路だ。
そこが菫に指定された“いつもの場所”であり、セントラル・アベニューの待ち合わせのメッカだった。
その十字路を示す大きな樹が見えてきたときだ。
「あっれ? 静君?」
「およ?」
不意に名前を呼ばれ、足だけが先に進んで上体を反らしたような構造で、そちらへと振り向く。
と、そこにクラスメイトの志村笑子(しむら・えみこ)がいた。少し派手だがファッションセンスに溢れる服を着ている。そういう部分に加え、誰とでも仲良くなれる性格で異性同性問わず人気があり、クラスでも女子のリーダー的なポジションにいる生徒だった。
「志村さん?」
「ええ」
笑子は微笑みながら応えた。静は思わずその笑顔に見惚れる。
「なに? 静御前だって?」
「……む」
笑子の連れ添いだったのだろう、少し離れたところから寄ってきたのは、やはり同じクラスの花房高貴(はなふさ・こうき)だった。
こちらは、言ってみれば男子のリーダー格だ。クラスの美男美女がお揃いでデートだろうかと、一瞬そんな考えが頭をよぎった。
が、それは兎も角。
「うるさいぞ、花坊。僕を――」
そう言いかけたその言葉を遮るように、そして、先ほどの想像を裏切るように、他にも知った顔がぞろぞろと現れた。
「お、御前様だ、御前様」
「あ、ほんとだ」
「やっほー、しずかちゃん、元気ぃ?」
口々に好き勝手な名前で呼ぶクラスメイトたち。
「うるさーい。御前様って呼ぶなっ。しずかちゃんも禁止ッ」
静はものの数秒でキレた。
「やべっ。逃げろっ」
「きゃー。しずかちゃんが怒ったー」
集まったクラスメイトは再び蜘蛛の子を散らすように、笑いながら逃げていった。残ったのは志村笑子だけだ。
どうやら男3人女2人の総勢5人で遊んでいたらしい。
「なんでみんな僕のこと好き勝手に呼ぶかなぁ?」
静の悩みの種だ。
笑子は笑みを含ませながら答える。
「そりゃあもう、静君はうちのマスコットだから」
「ええ、ええ。そんなところだろうと思ってましたよーだ」
静は頬を膨らませ、むくれてみせた。それを見て笑子がまた微笑む。
「それで、どうしてここに? どうせなら静君も誘えばよかった?」
「うん、まぁ、確かに暇してたんだけど。でも、今は人と待ち合わせをしているのです」
「あら。それは聞き捨てならないわね。デート?」
「デート? まぁ、そう言えなくもないけど……」
たぶんそんないいものになり得ない気がしている静だった。デートというならもっと穏やかにスタートするべきだろう。普通はいきなり問答無用で呼びつけられたりはしない。
それでも、幼馴染みとは言え校内でも憧れる生徒の多い生徒会副会長様と外で会うのだから、心弾むものを感じているのは確かだ。
「じゃあ、あまり引き止めても悪いわね」
「ん? そんなに気を遣うほどのものでもないけど……。でも、そうしてもらえると助かる、かな?」
静は人差し指を顎に当て、五月晴れの空に目を向けながら考える。簡単なシミュレーション。そして、早いにこしたことはないだろうという結論に至る。
「そう。じゃあ、また明日、学校でね」
「うん。それじゃあ」
そうして笑子と別れた。笑子が足を向けたその少し先ではクラスメイトたちが手を振っていた。静はそれにも応える。
身体の向き戻せば、中央十字路はもう目と鼻の先だった。菫の姿を探しながら近づいていく。
中央十字路には、真ん中に大きな樹があり、ベンチもいくつか置かれている。菫は樹の下か、ベンチにでもいると思っていたのだが、静がひと通り見回した限りではその姿はなかった。
「んー? 早く着き過ぎたかしらん?」
思わず首を傾げる。
時間は呼び出しの電話を受けてから、きっかり55分後。早すぎたということはないはずだ。
と、そのとき――、
「誰かを探しているのか?」
「わあっ」
後方超至近距離から声をかけられ、静は飛び上がった。
振り返ったそこにいたのは、言うまでもなく菫だった。
しかし、特筆すべきはその服装。真っ黒いワンピース姿だった。足首までありそうなロング丈のスカートの裾には淡いブルーのレースがあしらわれている。その下に見える足には、これまた黒いブーツを履いていた。
首の方は少し広めに開いていて、綺麗な鎖骨が見えている。が、その首にはやっぱり黒のチョーカーが巻かれていた。
いったいどこの魔女かという格好。デニムにサマーセーターといった姿の静とは大違いだ。
「……」
「……」
そして、菫の目は半眼。口は真一文字に結ばれていた。
見るからに機嫌が悪そうだった。
「えっとぉ……」
「……何か?」
ただでさえ女の子にしてはハスキィな声なのに、今はまたいちだんと低い発音だった。
「き、気分がいいと聞いていたんですけど……」
「確かにそう言った覚えがある」
「何かあったんですか?」
「君が……」
と、そこまで言ったところで菫は再び口を閉ざした。その顔にはわずかに戸惑いの表情が窺える。普段は意志の強そうな瞳が、自信なさげに宙を彷徨っていた。
「……」
静は、もうこの話は終わらせた方がいいと感じ、次の話題を探した。
「あ、そうだ、菫さん。今日のその服、よく似合ってますよ」
「そ、そうかな?」
「そうですよぉ。うん、びっくりしちゃいました」
静のこの言葉は別に大袈裟な表現でも何でもなく、本当に驚いたのだ。学校で見る凛々しい菫の姿に、普段着はもっとマニッシュなものとばかり思っていた。もしかするとこの辺りのイメージの齟齬が菫を見つけられなかった理由かもしれない。
記憶を遡れば、昔、一緒に遊んでいた頃の菫は、普通に女の子らしい格好をしていたはずなのだが。それだけ今の菫が強烈だということなのだろう。
「そうか」
静の言葉を受けて菫は居心地悪そうに、だけど、まんざらでもなさそうに言った。
「実はこれ、今ここで買ったものなんだ」
「あ、そうなんですか。それはいい買いものをしましたねー」
「まぁ……」
「菫さん、そういうのも似合うんですねぇ」
「う、ん……」
「見惚れてしまいましたよ」
「……」
「菫さんって、きっと何を着ても――」
「こらっ」
「あいたっ」
いきなり静の頭に菫のグーが飛んできた。
「何をするんですかぁ?」
叩かれた頭を押さえながら、当然抗議の声を上げる。
「私のことは先輩と呼べと言っただろう。そういうけじめは――」
「え〜。だって、ここ、学校の外ですよ? だから、いいかなって……」
「それもそうか」
あっさり引き下がる菫。
「あ、いいんだ。じゃあ、なに? 僕、叩かれ損?」
「気にするな」
「……」
もう何も言う気になれず、静はただ口を尖らすのみだった。そして、それを引きずったまま、やや不貞腐れたように尋ねた。
「……で、これからどうするんですか?」
「どうって……」
と、静を見つめ返してくる菫。
「……」
「……」
静と菫は、無言で互いの顔を見る。
「……えっと、何か用があって僕を呼んだんですよね……?」
「も、もちろんだ」
即答しながらも、菫の目はやや泳いでいた。
「それについてはおいおい話そう。まずはその辺のカフェにでも入って、ゆっくりしようじゃないか」
そう言って逃げるように踵を返した。遠心力で長いスカートの裾が優雅に広がる。
「むぅ?」
明らかに挙動不審な菫の様子に首を傾げながらも、静はその後ろをつき従う子分かカルガモの子どものようについていった。
// 続く
2007年7月25日公開 / 2008年1月8日加筆修正
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