複雑微妙な先輩後輩の関係。……たかだか有限
 
 
 まだ静が中学2年生だったある日のこと、いきなり父親が部屋に飛び込んできた。
 秋も深まった10月の下旬、せっかくの日曜日にも拘らず特に予定の入っていなかった静は、本の虫である姉から借りた小説をベッドの上で寝転がりながら読んでいた。
 そんな穏やかな昼下がりを打ち破るようにして転がり込んできた、父。
 静が驚いて体を起こすと、父は人懐っこい童顔に引き攣った笑みを浮かべた。
「や、やあ、静くん」
「……お父さん、年頃の子どもの部屋にノックもなしに入ってくるのはどうかと思うのです」
 少しばかり非難の色を混ぜて発言する。なお、言っている本人も“年頃”がいつからいつまでを指す言葉なのかよくわかっていないが、とりあえず中学2年生は年頃だと思っていた。
「そこは、ほら、お父さんだということで大目に見てくれないかな?」
「……まぁ、いいけど」
 特に実害があったわけでも、静自身にやましいことがあるわけでもないので、くどくどと文句を言うのはやめておいた。
「で、何か用?」
「用はないけど、匿って欲しいんだ」
「はい?」
「下の様子を見ればわかるよ」
 父はため息混じりにそう言い、静の勉強机から椅子を引っ張り出して、そこに腰を下ろした。反対に静は立ち上がり、部屋のドアを開けてそっと外の様子を窺った。
 途端、
「ママ! パパは今日はわたしと出かけるって約束してたのよっ」
「いいえ、今日はわたしにつき合ってもらいます。だって、もうすぐわたしの誕生日ですもの。素敵なプレゼントを買ってもらわないと」
「ズルい。後から割って入ってこないでよ」
「あなたは勉強でもしていなさい」
「中間テストは終わったばかりです。それにわたしはママと違って、必死にならなくてもそれなりにできます」
「誰が赤点ギリギリの低空飛行ですって!?」
 母と姉の声だった。
「にゃー……」
 静はか細く鳴いた後、開けたとき以上にゆっくりとドアを閉めた。
 静の姉は極度のファザコンであり、また母は未だ新婚かと思うほど父にべったりだった。おかげで週末ともなれば父を巡る母と姉の熾烈な争いが繰り広げられ、ふたりの愛情を受け止め切れない父はこうやって逃げ回っているのである。尤も、静にしてみれば、父の行動も無駄な抵抗にしか見えないのだが。
「お父さんがいないってわかったら、いずれここにも乗り込んできそうだけどなぁ」
 ここに逃げてきたのだって、一時しのぎにしかならないだろう。
「それは困ったな」
「困りましたね」
 何せついこの間、大々的に部屋の整理整頓をしたばかりなのだ。父のこととなると見境がなくなるふたりが乗り込んできたら、今度の整理整頓には大工道具が必要になるかもしれない。
「静くん、ちょっと一緒に出かけようか?」
 父が不意に提案した。
「どこに?」
「旅に」
「……」
「……」
「……」
「い、いや、今の冗談だから。聞き流してくれたらいいから」
「……」
 静は天井に目をやりながら思う。たぶん半分くらい本気だったんじゃなかなぁ――と。
「出かけるのはいいけど、下があれじゃ難しい気がする」
「それもそうだな」
 おそらく母と姉が言い争っているのは階下のリビングだろう。そこを通らなくても玄関までは辿り着けるが、そばの廊下を通る以上かなり危ない橋を渡ることになるはずだ。
「静くん。悪いけど先にひとりで出て、僕の靴を窓の下まで持ってきてくれるかな」
「へ? えっと……」
 まさかとは思うが、窓から出るつもりなのだろうか。
「まぁ、見てるんだね。これくらいの高さなら朝飯前だよ」
 父は自信満々だ。どうやらそのまさからしい。静は多少の不安を感じつつも言われた通りにすることにした。
 自室を出て、階下へと降りる。
「さてはママ、わたしがどんどんきれいになってるから危機感を感じてるのね」
「わたしはまだ大学生と言っても十分に通じます。あなたには負けません」
 まだやっていた。
 最初は応接セットに座っていたのだろうが、今は互いにソファから腰を浮かし、テーブルに両手をついて額を合わせんばかりに睨み合っていた。
「ちょっと僕、出かけてきます。にゃあ」
 静はリビングを覗き込み、声をかける。が、ヒートアップしているふたりには聞こえていないようだった。その方が好都合ではあるのだが。
 玄関でスニーカを履き、ついでに父の愛用のバッシュを持って裏へと回った。
 父は静の姿を認めるや窓から出て、雨樋や窓のひさしを伝い、あれよあれよという間に下りてきてしまった。何とも軽い身のこなしだ。
「ミッションコンプリート。さあ、行こうか」
 父はバッシュに足を突っ込むと、楽しげに颯爽と歩き出した。
「僕が小さい頃は、おじいちゃんの家でよくああいうことをして遊んだんだ」
 庭を出て、表の道を歩きながら父は語る。
「おじいちゃんっていうと……」
「あー、不良老人じゃねー方な」
「……」
 父が生まれる際の複雑な境遇のせいで、静には祖父が3人いた。父方にふたり、母方にひとり。それはいいのだが、そのうちのひとりを語るとき、父の口が急に悪くなるのはなぜなのだろうか。
「みんなでよく遊びに行くおじいちゃんの家。あそこは僕の遊び場みたいなものだったから」
「あの家、広いからなぁ」
 ちょっと作りが古いが、広い洋館風の家を思い出す。静もあの家は温かみが感じられて好きだった。
「庭の木にはよく登ったよ。そこから塀を伝って外に出ようと思ったら、足を滑らせて落ちたこともあるな。雪が降った日には、真っ白な雪がきれいで屋根に上がったりもしたし。あ、そうそう。朝起きたら寒くて、毛布に包まったまま階段を下りようとしたら、足を踏み外して転げ落ちたこともあったっけ」
「お父さんには登るか落ちるかの思い出しかないんですか?」
「……静くん、君、言うこと厳しいね」
「にゃあ?」
 そうかな、と顎に人差し指を当て、首を傾げる。
「それよりもこれからどこに行くつもり?」
「こういうときはあそこ、菫さんの家に行くに限る」
「ああ、なるほど」
 父は静がいるから菫の名を出したが、もともとはそれぞれの両親の仲がよかったことからはじまっている。そこから奇遇にも同じ年に長男長女が生まれ、続けて第二子である静と菫が生まれ、現在の家族ぐるみのつき合いに至ったわけである。
 最初から目的地を決めていたのか、気がつけばすでに菫の家は目の前だった。
「……」
 とは言え、静には菫を訪ねてもいいものか悩ましかった。
 静は中学2年生。ひとつ年上の菫は3年生で、受験生である。今年度に入ってからは菫の勉強の邪魔をしないように気をつけていた。2学期からは早朝テストやら何やらで登校時間も合わなくなり、顔も見ない日々が続いているので、久しぶりに会いたい気持ちはある。が、やはりそろそろ本格的に大事な時期に差しかかっているので、今まで以上に邪魔にならないようにすべきではないだろうか。
 しかし、そんな静の葛藤にかまわず、父はすでにインターホンを鳴らしていた。
「なに、アンタ、久しぶりじゃない」
 玄関から顔を出したのは、菫の母だった。
 デニムに、タンクトップとオフショルダーのロングシャツという若々しい格好。ゆったりとした服を着ながら、それでもわかるスタイルの良さは本当にふたりの子を産んだ母親かと目を疑ってしまう。
「ちょっと遊びに寄らせてもらいました。そんなに久しぶりでしたっけ?」
「確か前にアンタと会ったのは、まだバカ暑いときだったはずよ」
「あー、言われてみればそんな気がしますね。いや、先輩のことを忘れてたわけじゃないんですよ?」
 父が菫の母を先輩と呼ぶのは昔からの癖らしい。
「まぁ、いいわ。入んなさい。……静も久しぶりね。いらっしゃい」
「あ、はい。お邪魔します」
 人の子ながら静を呼び捨てにするのは生まれたときから知っているからか、それとも彼女の性格故か。
 静は父に続いて玄関ドアをくぐる。
 と、そこで待っていたのは、たった今奥から出てきたらしい菫の父であった。どこの美形俳優かといった面立ちだが、これで職業は小説家だというのだから人は見た目ではわからない。
「なんだ、また逃げてきたのか」
 彼は静の父を見るなり、そんなことを口にした。その横では菫の母が「ああ、そういうことね」と納得顔をしている。
「うるさいな。お前だってついこの前、担当さんから逃げてうちにきただろ」
 つき合いが長いと互いの事情もよくわかっていて、言いたい放題だ。
「ああ、静。上に菫がいるから行っといで」
「え? でも、勉強……」
「いいのいいの。あの子はすぐ頑張りすぎるから、誰かが止めないと息抜きもしないのよ。ちょうどいいわ」
 菫の母はひらひらと掌を振る。
「上の子は憎たらしいくらい涼しい顔で何でも軽くこなすのに。あの努力家ぶりはいったい誰に似たのやら」
「そりゃそれぞれ旦那と先輩じゃないの?」
 父が口を挟む。結局、それに対して複雑な顔をするだけで、誰も答えなかった。
 静は靴を脱いで玄関を上がると、そのまま階段を上る。ここも久しぶりだと懐かしさを感じつつ2階へ上がると、一番手前に『Sumire.T』のプレートがかかったドアがあった。そこが菫の部屋だ。 静は深呼吸をひとつしてから、ひかえめにドアをノックした。
「どうぞー」
 ドア一枚隔てた菫の声。
「こ、んにちわー……」
 先ほどのノックと同じく、ひかえめにトーンを落とした声で挨拶をしつつ、ドアを開けて中へと這入る。
 その瞬間、菫が動きを止めた。
「む、その声は……」
 勉強机の位置関係上こちらに背を向けて座っていた菫は、キャスター付きの椅子をくるりと半回転させて振り向いた。
「おー、静くん、元気だったか?」
「ええ、まぁ」
 恥ずかしいので会えなくて寂しかったとは言わなかった。
 菫は聡明さと意志の強さを窺わせる大きな瞳で静を見、少年のようにも見える面貌に父性を含んだ笑みを浮かべた。
「それはよかった。……ああ、そんなところに立ってないで、ここに座るといい」
 菫は今まで座っていた椅子を空け、自分はベッドの端に腰を下ろした。
 勧められるまま腰かける静。何気なく机の上を見ると、どうやら菫は数学の勉強をしていたようだ。静も見たことがある記号が書かれているが、その数式の意味はさっぱりだった。2年生と3年生では似て非なることをやっているようだ。
「それで今日は何の用できたんだ?」
 菫は容姿同様、少年のような口調で問いかけた。
「や、僕が何か用があったわけじゃなくて、お父さんについてきただけなんですけどね」
「なんだ、そうだったのか」
「これでも菫さんの邪魔をしないようにしてるんですよ?」
「そう。気を遣わせてるな」
 気にせずいつでも遊びにおいで、などと安易なことを言わないのが菫らしいところだ。
「人間、全力で頑張らないといけないときがあると思うんだ」
「それが今?」
「まぁ、もしかしたら高校受験なんて、それなりの努力でも乗り越えられるかもしれない。でも、今ある壁に全力で立ち向かえば、今度またもっと高い壁が現れたときにも頑張れるからね。だから、静くんも頑張らないといけないときには、力を出し惜しみせず頑張るんだぞ」
 静は思わず居住まいをただし、真剣な表情でうなずいた。
「素直だね、君は」
 それを見て今度は菫が満足げにうなずく。
「わたしは聖嶺を受験しようと思うんだ」
「えっと、それって……」
「うん。父と母、ついでに今は兄が通っているところだ」
 聖嶺学園高校は、静と菫それぞれの両親が通っていた高校である。しかも今年度からは、菫が言ったように彼女の兄、さらには静の姉までもが入学していた。
「うちはどうやら伝統的に聖嶺を卒業しているらしくて、誰に頼まれたわけでもないけど、わたしもそこに行ってみようと思う」
 菫は意志の強そうな瞳の輝きを強め、迷いなく語る。
「静くんはどこに行くか、もう決めてるのか?」
「僕はまだそういうのは……」
 さすがに一年以上も先の受験のことを言われてもピンとこない。
「まぁ、それもそうか。わたしだって去年の今ごろは、そこまではっきり決めてなかったからな。うん、でも、君がその気になったら聖嶺にくるといい」
「いちおー考えておきます」
 とは言っても、それこそ今、菫が全力で挑んでいるハードルなのだ、中の中といった成績の静には高すぎるだろう。また菫と同じ学校に通えるというのは魅力的ではあるのだが。
「静くん、そろそろお暇しようか」
 それから他愛もない話をしていると、階下から父の呼ぶ声が聞こえてきた。時計を見れば小一時間ほどが経っていた。自分のことは放っておいて先に帰ってくれたらいいのにと思ったが、考えてみれば菫は勉強中なのだ。これ以上の長居は迷惑だろう。
「ということなんで」
「そうか。でも、久しぶりで楽しかったよ」
 名残惜しさを抑えて静は腰を上げた。
「菫さん、受験が終わったらまた遊んでくださいね」
「何を言ってるんだ。次は静くんの番だろ」
「はぁーい」
 菫も続けて立ち上がったが、下まで見送ってくれるわけではないようだ。静が部屋を出て行けばすぐにでも勉強を再開するのだろう。オン・オフの切り替えがはっきりしている彼女らしい。
 菫の部屋を出て階下に下りると、大人3人が玄関にいた。
「もっとゆっくりしていけばいいのに。今帰ったって捕まるだけでしょうが」
「まぁ、本気で逃げたかったわけじゃありませんから。そろそろ帰って家族サービスしないと」
 父は苦笑する。
 それから菫の父の方に顔を向けた。
「じゃあな」
「ん」
 父親同士は至極短かい。それはいつものことで、この手のやり取りを見るたびに静は、あっさりした挨拶は信頼や友情の現われなのだろうと思っていた。
「お邪魔しましたー」
 静も続き、父とともに菫の家を後にした。
 父は先ほど口にしたように真っ直ぐ家に帰ることに決めているらしく、我が家への最短ルートを辿っていた。
「お父さん?」
 道すがら静は父に尋ねた。
「お父さんは僕に聖嶺に行って欲しいと思う?」
「聖嶺か……」
 父は感慨深げにその単語をリピートした。
「僕は子どもに何かを押しつける気はないよ。静くんが行きたいと思う学校に行けばいい。もし僕の想像を超えて、中学を卒業したら家を出たいって言い出しても、それはそれでいいと思ってる」
「さすがにそこまで大それたことは考えてないけど」
「そっか」
 父は笑みを含ませながら受ける。
「なら僕が望むことはひとつだ。静くんがどこの学校に進んでも、そこでの出会いを大切にして欲しい」
「出会い?」
「そう。高校のときの親友は、きっと一生ものになるよ。僕がそうだったからね」
 父が、母や菫の両親と出会ったのは高校のときだったらしい。4人が一緒に在籍していた時期は一年にも満たないが、短いながらも重要な意味を持つ時間だったと父は言っていた。結果として母と結婚し、菫の両親とも今もこうしてつき合いがあるのだから、その言葉を疑う余地はないだろう。
「やっぱり僕も聖嶺に進もうかな……」
 何となくそう思う。
 父や母が聖嶺で何を見て、何を感じたのか静も知りたくなった。もしかしたら菫もこういう気持ちで進路を決めたのかもしれない。
「まぁ、時間はまだあるからね。ゆっくり決めるといい」
 父の返事はそれだけだった。本当に何も押しつける気はないらしい。
 とは言え、「行こうかな」と思うだけで行くことができるはずもなく、今の静の学力と照らし合わせるなら、むしろ無謀な挑戦に近い。静よりも成績のいい菫が早期から受験に向けて勉強しているのだ。静なら死ぬ気で挑まないといけないだろう。
「全力で頑張らないといけないとき、か……」
「さて、静くん。僕たちの家に着いたわけだが」
 父は約2時間ぶりに帰ってきた我が家の前で足を止めた。中に入るのを躊躇っているように見えるのは、逃げるようにして出てきた経緯があるからだろう。父に逃げられた母や姉が怒り心頭に発している可能性もある。その怒りの矛先が、父を横から掻っ攫っていった自分にも向けられるかもしれないと思うと、静の中から家に帰る気が急速に失せていった
「こういうときは自然に振舞うのがいちばんだ」
 静は無言でうなずく。
 ところが、父は今の言葉とは裏腹に、おそるおそる音を立てないようにしてドアを開けた。さっき言ったことは何だったのだろうか。
 父とふたり、頭を縦に並べて開いたドアの間から中を窺う。
 瞬間、
「に゛ゃっ!?」
 静は思わず悲鳴を上げた。
 そこに母と姉が立っていたのだ。
 やわらかい顔のつくりの母と、きつい顔つきの姉。対照的な印象のふたりながら、今はそろって鬼のような形相を浮かべていた。
 静は小さく言葉をもらす。
「今死ぬかも……」
 
 
 2009年5月27日公開
 
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。