サニーサイドアップにブラックペッパー
第1章 万有引力の法則
Q.なぜ月は落ちてこないのか?
1. 私立翔星館高校は、いくつかの高校、大学、専門学校などの教育機関や、研究機関が集積された学園都市の中にある。駅から徒歩圏内に位置しているので、立地条件としてはかなりいいほうだろう。 その翔星館高校の生徒である梓沢可純の登校時間は、平均的な生徒のそれより幾分か早い。入学式を終えた最初の授業の日に他の学校も含めた登校ラッシュに巻き込まれ、自分の小柄な体では無駄な消耗をするだけと悟ったからだ。 駅に着いた電車から吐き出される乗客の数は少ないけれど、そこに混じる制服は様々。可純はその流れの一部となって、改札口へと向かう。 「ん? あれは……」 と、ひと足先に自動改札を通る利用客の中に、見知った背中とブラウンのツーサイドアップの髪を見つけた。村神耀子だ。 「おっはよう」 可純は改札口を出ると耀子に追いつき、横に並んだ。平均よりも背の低い可純と、逆に高い耀子が並ぶと、頭ひとつ分近くの差ができる。 耀子は可純を一瞥。 「ん。おはよう」 テンションの低い挨拶を返した。 別に起きて間がないからまだ頭の回転数が低いとか、学校へ行くのが憂鬱だというわけではない。これが耀子の平均値なのだ。 可純はちらと彼女を横目で見た。 耀子は切れ長の目の、怜悧な美貌の持ち主だ。制服も慣れた感じで着こなしている。憧れの先輩、柚木紗羅がかわいらしくファッショナブルに着るのに対し、耀子は悪っぽく着崩している感じだ。いずれ同性から人気が出そうだな、と可純は思う。人を寄せつけない態度と雰囲気が少々残念ではあるが。 とは言え、彼女が見た目ほど怖くないことを知っている可純は、かまわず話しかける。 「あのさ、耀子。柚木先輩のことなんだけど――」 「は?」 見下ろすようにして上から睨まれた。 「……」 怖かった。 なぜか今日の耀子は怖かった。 「え、えっとぉ……」 話しながら可純と耀子は歩を進める。 洒落た外観の駅舎を出ると、すぐ前はバスやタクシーの乗り場のあるロータリィになっている。他にはイベント会場としても使われるタイル張りの駅前広場やショッピングセンター、ファーストフード店などがあり、これら一帯はキャンパスガーデンと名づけられている。 下校時間ともなれば学生で賑わうこの辺りも、ショッピングセンターをはじめ多くの店舗がまだ準備中で、朝の空気と相まって開店前の商店街独特の雰囲気を漂わせていた。 耀子はどんな反応をするだろうか、と内心びくびくしながら可純は切り出した。 「今日、昼休みに柚木先輩のクラスに行ってみようと思う」 「あんなとこ、いったい何しに行くわけ?」 例えるなら、手の施しようのない愚かものを前にしたかの如き呆れ声。 「あんなとこって……」 あんまりな言い方に可純は一瞬唖然とする。 「もちろん柚木先輩に会いにいくに決まってるじゃない?」 「……可純、この前から口を開いたら柚木先輩柚木先輩ね」 「う……」 心当たりがありすぎて言葉を詰まらせてしまう。 柚木紗羅と言葉を交わしたのが一昨日。確かに、以来、何かと彼女のことを話題にしている気がする。 ――だって仕方ないじゃない。 遠くから見ているだけだと思っていた美貌の先輩に、あんなふうに話しかけられたことで急に近く感じられて、しかも、間近で見ると想像以上に不思議で魅力的な人だったのだから。夢中になるなと言うほうがむりだ。 キャンパスガーデンの敷地を出て、ちょうど青だった横断歩道を渡る。 学園都市は景観を重視してデザインされている。歩道も車道も幅が広くて余裕があり、街路樹などの緑も比較的多い。可純と耀子はタイル張りの歩道を、翔星館高校へと向かって歩く。 「耀子は柚木先輩を見て何とも思わない? 憧れるとか」 柚木紗羅は人気が高い。男子生徒から好意を抱かれるのは当然のこと、そのやわらかい物腰は同性である女子生徒からも評判がいい。尤もその分、可純からしてみれば高嶺の花に見えるのだが。 対する耀子の返答は簡潔だった。 「別に」 「……だろうね」 予想していた答えだ。 「耀子、他人に興味なさそうだもの」 耀子のクールというには冷めすぎているスタイルは、恋愛は勿論、同性の先輩に対して憧れを抱いたりするようなタイプには見えなかった。孤高という言葉がぴったりだ。 「兎に角さ、今日あたり柚木先輩のクラスに行ってみようと思う」 「……あっそ」 「……」 これはダメだ、と可純は密かにため息を吐いた。 耀子についてきてもらおうと考えていたのだけど、この様子ではむりそうだ。 昼休み。 午前の4時間の授業を終え、ほっとひと息つくランチタイム。弁当を持ってこない可純と耀子は、連れ立って学生食堂へと行く。 翔星館高校の学生食堂は教室棟とは別棟になっている。連絡通路で結ばれているため上靴のままで行くことができるが、屋根がついただけのコンクリートの道は横風の強い雨の日は走り抜けないとずぶ濡れになってしまう。 幸い本日は快晴。ふたりは食堂に着くなり迷うことなく日替わりランチセットのコーナーへと向かった。 可純も食堂を利用しはじめた当初はあれやこれやと毎日メニューを変えていたけれど、2週間も経たずに考えるのが面倒になり、放っておいてもメニューのほうから自発的に変わってくれるこのランチセットへと落ち着いた。 「耀子は一日目からこれだったよね」 彼女は最初から思考を放棄していたらしい。 ふたりはトレイの上に本日のメニューを乗せ、空いていたテーブルに向かい合わせに座った。食堂は独立した建物だけあって一般的な私立高校のそれよりも十分に広く、座る場所に困るようなことはまずない。これも学校が共学に変わる際の施設拡充の結果だ。 座った席から階段が見え、可純はそちらを注視した。 途中に踊り場があり、そこで180度向きを変える構造の階段。それがフロアの一角にあった。 「この上ってさ、ラウンジだっけ?」 「らしいわね」 可純とは反対に、耀子は興味のなさそうな声だった。 2階はラウンジの通称で呼ばれている。1階も学生食堂にしてはおしゃれな空間だが、その上はさらに高級感あるデザインになっている――と可純は噂で聞いていた。行ったことがないのだ。 「一度行ってみたくない?」 「行けばいいじゃない」 「恐ろしいことを」 どうやらラウンジには1年生は使ってはいけないという不文律があるらしい。確かに可純は、昼休みであれ放課後であれ、階段を上がっていく1年生の姿はまだ見たことがなかった。 「私は行きたくなったら行くけどね」 「そりゃあ耀子ならね。でも、ボクはそこまで図太くはなれないもの」 きっと耀子ならそんな暗黙の了解などものともせず、その気になりさえすれば涼しい顔で踏み入るのだろう。 「さて、さっさと食べないと。いただきます」 ようやく可純は箸を手に取った。 「この後、何か用でもあるの?」 「朝言ったよ。柚木先輩のところに行くって」 「……あぁ、忘れてたわ」 短く投げやりに言って、耀子もランチに手をつけた。 ――呆れられてるなぁ。 もとから低いテンションをさらに低くした様子の耀子を見ながら思う。これ以上この話題には触れるべきではないと判断して、可純はひとまず食事を進めることにした。 再度、耀子が口を開いたのは、トレイの上のものを半分ほど片づけたときだった。 「行くのはいいけど、」 「うん?」 可純は顔を上げた。 しかし、耀子のほうはサラダをつつきながら、可純のことは見ていない。 「相手にされなくても知らないわよ」 「あぁ、それなら大丈夫。実はさ――」 そう切り出して可純が話したのは、あの日拾ったハンカチのことだった。それは家で洗濯をしてアイロンもかけ、今はポケットに入っている。 「……何それ、聞いてないんだけど」 耀子はゆっくりと可純を見た。 「だって言ってないから」 「言いなさいよ」 そして、むっとする。 言える雰囲気じゃなかったじゃんかよー、と喉まででかかったそれを可純は飲み込んだ。 「ま、いいけどさ。……はい、ごちそうさまでした。じゃ、行ってこようかな」 「私も行くわ」 「え?」 箸を置き、立ち上がろうと腰を浮かした構造で動きを止める可純。何か言いたげに耀子を見る。 「行かないとは言ってないでしょ」 その何かに耀子は先回りした。 「……勝手に行けばみたいな態度だったくせに」 「……」 「……」 「文句ある?」 「い、いえ、ありません……と耀子の鋭い眼光に身の危険を感じながら言う可純くんでス……」 可純は立ち上がり、トレイを手に取った。3年の教室に行く前に、まずは食器返却口である。 ふたりは学生食堂を出て、通常教室棟の廊下を歩く。 「柚木先輩のクラスってどこだろ?」 よくよく考えてみれば、そんな基本的な情報も知らないことに気づく。たぶん彼女の噂を耳にする中で聞いたような気もするが、可純は思い出せなかった。 「7組」 「あ、そうなんだ。耀子、詳しいね」 「……」 黙った。 可純は耀子を見るが、彼女はそれに連動するような運動で顔を背けた。 黙った上に、逃げた。 おかげでその表情は窺えなかったが、心なしか悔しがっているふうに見えないこともない。 「えっと、じゃあ、先輩ってボクらと同じ特進科理系なんだ」 翔星館高校には普通科のほかに有名大学の合格を目指した特別進学コースが、理系と文系それぞれひとクラスずつある。1組から5組までは普通科、6組が特進科文系、7組が特進科理系、以降家政科、音楽科と決まっているので、クラスがわかればどこに所属しているかわかる仕組みになっている。可純と耀子も1年の7組で、特進科理系だ。 思わぬところから情報がもたらされ、可純は3年の教室が集まる廊下を、クラスが書かれたプレートを順に見ながら歩いていく。 気のせいかすれ違う先輩の多くが、自分たちを見ながら通り過ぎていくような気がする。こんなところまでくる新入生が珍しいからか、それとも耀子が注目を集めてしまっているのか。 「っと、ここが7組か」 目的のクラスに辿り着く。幸いにして入り口は開けっ放しになっていた。昼休みで生徒の出入りが多いせいだろう。 「耀子、柚木先輩がいるかどうか覗いてみて」 「なんで私が」 冗談じゃないわ――と耀子。仕方ないので可純は自分で確認することにする。もとより耀子に期待はしていなかった。 半身を隠すようにしながら教室の中を覗き込もうとして――後ろで耀子も同じことをしようとしているのに気づき、ぎょっとした。 「……」 結局、見るんじゃないか。思わず彼女の顔に目をやるが、あえてもう何も言わなかった。改めて耀子とふたり、中を覗き込む。 教室内は、3年のクラスと言えども自分たちのところと特に違いはなかった。広さも同じで、同じ規格の机とイスが並んでいる。生徒の半数くらいはどこかに行っているようで、残っているのは女子生徒ばかり。皆それぞれ仲のよいグループでかたまって、おしゃべりをしているようだ。 そして――、 「いない?」 「みたいね」 その中にお目当ての人の姿はなかった。 「ていうかさ、みんなこっち見てない?」 可純は耀子に、確認するように問いかける。 今度は気のせいではなく、明らかに注目を浴びていた。こちらを見ながら何ごとかを囁き合っている先輩もいる。ふたりはドアから離れた。紗羅がいないのなら居心地の悪い思いをしてまでここに立っている必要はない。 可純は考える。新入生が3年生のエリアまでやってきて教室を覗き込んでいれば、不審と好奇の視線を向けられるのも当然だろう。 それ以外に理由があるとすれば……。 「耀子だね」 「可純じゃないの」 「なぜにボク!?」 公平に見れば 耀子は柚木紗羅と肩を並べる容姿だろう。紗羅の噂がこちらにまで聞こえてきたように、耀子の噂も3年まで届いていても不思議ではない。 と、そこまで考えたときだった。 「あっ」 可純は廊下の向こうから歩いてくる、見覚えのある女子生徒二人組の姿を見つけた。耀子も可純の声に反応して振り返る。 ふたりのうちのひとり、艶やかな長い蜂蜜色の髪を揺らしているのは、まぎれもなく柚木紗羅だ。 彼女は可純に気がつくと、楽しげに話していたその顔からすっと表情を消した。 あれ? と可純。 何か雰囲気が、おかしい。 「お、これはこれは、おふたりさんおそろいで」 先に口を開いたのは紗羅ではなく、もうひとりのほう。赤毛のショートカット。前に見たときは半袖の体操着にジャージのボトム姿だったが、今はスレンダーな長身を制服に包んでいた。名前は確か周防麗と聞いている。 「梓沢可純、だよね?」 可純の前にやってきた麗は、間近で見ると思っていた以上に背が高かった。もしかしたら頭ひとつ分くらい違うかもしれない。 「ボクのこと知ってるんですか?」 「もちろん。それに紗羅からも聞いてるよ。……ね?」 言葉の最後の部分は、その紗羅に投げかけたものだ。 「え、ええ……」 だけど、紗羅はどことなく歯切れの悪い調子でうなずく。 「……それで、何か用?」 そして、続く声には何の感動も含まれていなかった。無感情な発音。 そこに可純はひどく不吉なものを感じる。 が、ここまできて引き返すわけにもいかない。不安ばかりを掻き立てられながら、おそるおそる切り出した。 「あ、あの、これを……」 ポケットから例のハンカチを差し出す。真っ白なハンカチは、よく見れば同じく白い糸で刺繍が入っていて、そのさり気ない飾りが上品だった。 「……」 紗羅はしばしそれを見つめる。 やがて。 「どこにいったのかと思っていたら、そう、あのときに忘れていったのね」 言って可純の手からそれを受け取った。 「わざわざ届けてくれたのね。ありがとう。……それじゃあ」 「ぇ?」 可純は呆気にとられた。 踵を返す紗羅。 「……」 終わった――らしい。 期待していた先輩との2度目の対面は、いとも容易く終わりを迎えた。 別に分不相応な期待をしていたつもりはないし、お礼を言われたかったわけでもない。ただ、また話せたらと思っていただけ。あのときは突然のことでろくに話ができなかったから。今度はもう少しうまく、できれば少しだけ長く話せたら、と。他愛もない話でよかった。 それなのに。 可純の憧れた先輩の声は終始淡々としていて、その姿はすぐに教室の中へと消えてしまった。 「あ、ちょ、ちょっと紗羅! その態度はないでしょーがっ」 誰よりも真っ先に文句を言ったのは、彼女の親友であるという麗だった。 「えっと……悪いね。紗羅にはアタシからちゃんと言っとくから」 そう可純に謝ってから、彼女も紗羅を追って教室へと入っていった。 廊下に取り残されたのは、可純と耀子。 「なにあれ、腹が立つわね」 紗羅の登場以降、むっとして押し黙っていた耀子がやっと言葉を発した。また一段とむっとしている。 「可純がせっかく――」 「耀子」 と、可純が発音をかぶせた。 「……もういいよ」 怒り冷めやらぬ様子の彼女を制する。 というか、耀子はこうなってほしそうな感じだったじゃんか。とは言え、さすがにこれはショックだった。耀子を宥める声にも力がない。 「帰ろうか。とりあえず目的は果たしたんだしね」 可純は柚木紗羅の教室に背を向けた。 憧れの先輩との唯一の接点だったハンカチは、もう手の中になかった。 2010年3月22日公開 |
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