サニーサイドアップにブラックペッパー
第2章
4. ゴールデンウィークも間近に迫った、ある日の昼休み。 皆それぞれに友達同士で食後のひとときを過ごす中、可純もまたいつもの耀子に加えて、樹里、英理依と一緒におしゃべりに興じていた。 「一度くらいみんなで遊びに行くべきだと思うんですよぉ」 ふわふわと間延びした発音でそう提案したのは、へーさんこと入江英理依だった。主が不在の他人の席に腰を下ろしている。 「いいと思うけど、具体的にはどこに?」 それに、白い肌に灰銀髪(アッシュブロンド)のショートカットと蒼氷(アイスブルー)の瞳をもつ遊佐樹里が応じる。こちらは机に軽く尻を乗せて立っていた。 「ここは手軽に一ノ宮あたりがよろしいかと」 ブリックパックの豆乳を飲んでいた英理依の口から候補地の名前が挙がる。 一ノ宮は学園都市から最も近い、ターミナル駅を中心にした繁華街だ。若ものの街として人気の場所で、学校帰りに遊びに寄る学生も多い。 「ボクはいいよ」 と参加の意志を表明する可純。しかし、その横では樹里が何やら考え込んでいるふうだった。 「樹里ちゃんはご不満?」 「いや、実は母が一ノ宮で小料理屋をやっていて、一ノ宮じゃ新鮮味がないなって思ったんだ。でも、まぁ、それだけのことだから、私もかまわない。……耀子は?」 彼女は耀子にパスを投げる。 「なに、私も強制参加なわけ?」 可純と同じく自分の席に座っていた耀子が、立っている樹里を睨み上げる。 普段から不機嫌そうに話す耀子だが、どうやら今は実際にも機嫌がよろしくないようだ。 ――虫の居所が悪いのかしらん? 可純は首を傾げる。 「私はただ単に耀子もどうって誘ってるだけ。同じクラスメイトとしてね」 樹里は耀子の視線を真正面から受け止め、そして、同じように真っ直ぐ視線を返した。 「まー、耀子さんが行かなくても、可純くんは連れていきますけどねぇ」 「……」 英理依がそう口をはさんだ途端、耀子はかすかに言葉を詰まらせるような様子を見せた。 「えっと、耀子、何か予定があるの? いや、あるならいいんだけど」 可純も問う。 「……別にないけど」 「じゃあ、行こう」 「……」 「……」 しばし沈黙。 それから、 「わかったわよ。私も行くわよ」 言って、おもむろにため息をひとつ吐いた。 「はぁーい。じゃあ、決まったところでケータイ番号交換〜」 「それがいいな。可純は持ってるのか?」 「あるよー」 可純はポケットから携帯電話を取り出し、見せる。 「入学するときに、お父さんに持たされた。ボクはいいって言ったんだけど。いつでも連絡が取れるようにしときたいみたい」 「そりゃまた心配性のお父さんだな」 樹里が苦笑する。 が、 「あ、ボク、今ひとり暮らしだから」 瞬間、樹里と英理依がぎょっとした。ただ、耀子だけは表情を変えない。 可純は手早く説明した。 地質学者である可純の父の転勤が決まったのはこの春、急な話だった。新しく設立した研究所への唐突な配属は、所長からの直々の指名だったらしい。そのときにはすでに可純が翔星館への入学を決めていて、父も2、3年で戻れると約束されたこともあって、可純だけをおいていくという苦渋の決断となったのだった。 「そんなわけで、お父さんとお母さん、妹は遠くへ行ってしまい、家にはボクひとりというわけ」 あぁ、ダメ猫もいるけどね――最後につけ加える。 「うーん、可純ひとりをおいていくのもどうかと思うな。なんだか可純の扱いが――」 「樹里」 樹里の言葉に耀子が発音をかぶせる。彼女の予想外に鋭い声に、樹里は目を丸くした。 「いや、別にそういう意味で言ったんじゃないんだ。悪い、可純」 「あ、うん、大丈夫。ボクも気にするようなことを言われたと思ってないから」 可純は耀子を見る。彼女はむっとした表情で、そっぽを向いてしまっていた。自分は悪いことをしていないと言いつつ拗ねているような、そんな印象を受ける。 「でも、可純くんが一緒に引っ越してたら、今ここにいないわけですから」 「うん、確かにそうだ」 英理依の言葉に樹里が笑って応えた。 さっそく番号の交換会がはじまる。 すでに可純と耀子、樹里と英理依は互いにおしえ合っているので、残りの組み合わせが埋められた。 可純はふたり分のアドレスが増えた自分の携帯電話を見つめながら、あることを考えていた。 「可純、どうかした?」 「え? あ、うん。なんでもない」 耀子に誤魔化すように返事をするが、すぐにまたその考えへと舞い戻る。 ――柚木先輩に聞いたらおしえてくれるかなぁ。 午後の休み時間も可純は、そのことを考え、ぼんやりと廊下を歩いていた。 携帯電話のメモリィに柚木先輩のアドレスが入っていたらいいと思う。 いつでも声が聞けたら素敵だと思う。 思うのだが、 ――何か、こう、聞く理由があればいいんだけどな。 果たして、おしえてくださいと言っておしえてくれるものだろうか。それ以前に、あの柚木紗羅にそんなことを言っていいものか。 だからこそ、そこへもっていくための口実が欲しい。 「でも、ないんだよね、理由」 これこれこういう事情で知っておいたほうがいいので、先輩のアドレスおしえてください。そうやってかこつけられそうな理由は、どこを探しても見つからなかった。 「もうこうなったら直球勝負?」 と、そうのときだった。 「うっぷ」 「おっと」 体の前面に軽い衝撃。 ついでに、鼻の辺りはわりかし強打。 考えごとをしながら歩いていたせいで、人にぶつかってしまったらしい。 ただし、弾性衝突ではなく、非弾性衝突。可純の体はぶつかった相手に受け止められていた。 「す、すみません……あ」 慌てて謝りながら顔を上げると、頭ひとつ分以上高い位置にあったのは見知った顔だった、眼鏡の似合う繊細なつくりの相貌――。 「相坂先輩?」 「よう」 相坂――相坂恭一郎は目を丸くする可純に向かって、人懐っこい笑みを見せた。 「って――」 と、そこではっと我に返り、可純はどんと相坂を両手で突き飛ばした。 「なんで抱きしめてるんですか!? いやらしいっ」 「んだよ、お前。だったら弾き飛ばしたほうがよかったのかよ」 彼としては前方確認を怠ったまま歩いてくる可純を受け止めただけなのだが、えらい言われようである。しかも、当の本人から。 「まぁ。いいけどな。ちゃんと前見て歩けよ。危ないぞ。考えごとでもしてたのか?」 「えっと、まぁ……」 「なんか悩みか?」 「……」 悩みと言えるかどうかは悩ましいところ。目下のところ、最大の課題であることは確かだが。 「俺が相談にのってやるよとは、さすがに言えねーけどな。でも、梓沢さえよけりゃ、話くらいは聞くぜ? 内容によっちゃあ何かできるかもしれないしな」 軽い口調ながら力になってくれようとしているらしい。 可純はその相坂をじっと見つめる。頭にはちょっとした思いつき。 「どうした?」 訝しむ相坂。 「先輩、ケータイ番号おしえてください」 「は?」 彼の口から間の抜けた音がもれた。目を瞬かせる。 「もしかしてお前の悩みって、それか?」 「いえ、そうじゃないですけど……」 そう。これは単なる予行演習だ。 もしくは、実験。 「ふうん」 相坂は面白いものでも見つけたかのようにうなずいた。 「いいぜ」 「え? いいんですか?」 意外にあっさり首が縦に振られたことに、可純は驚く。 「誰にでもってわけじゃないんだけどな。でも、梓沢だったらぜんぜんオッケー」 「あ、やっぱり訊いたらおしえてくれるってわけじゃないんだ……」 可純にとって重要なのは前半部分だ。やはり相手は選ぶらしい。きっと柚木先輩も同じなんだろうなぁ、と思う。 結論は出た。 「それじゃあ、失礼します」 「おう……って、ちょっと待て。ケータイのアドレスはどうするんだよ」 「え? ……あぁ」 言われて思い出す。 「えっと、試しに聞いてみただけなんだけどな。ほんとに知りたかったわけじゃないし?」 「ぬぉっ!? ムカついた。ムカついたし、傷ついた」 そして、ちょっと泣きそうだ。 「梓沢。お前、ケータイ出せ」 「え? いや、でも……」 「こうなったら意地でも交換だ。俺のアドレス、お前のメモリィに突っ込まないと気がすまねー。……出せ」 そこまで言われて可純は、よこせとばかりに差し出された相坂の掌の上に、自分の携帯電話を乗せた。 彼は右手に可純の端末を、左手に自分の端末を持ち、それらを交互に見ながら同時に操作していく。右も左も同じ器用さで扱えるのは、やはりピアノを得意としているからだろうか。 相坂は最後に端末同士を突き合わせるようにして、データのやり取りをさせた。 「少しくらい喜べよ。俺のアドレス知りたいやつ、けっこういるんだからな」 「ふうん。そんなもんですか」 可純はさらに一件アドレスの増えた携帯電話を不思議そうに眺める。ピンとこない。でも、確かに言われてみたら『翔星のプリンス様』のアドレスだ。そうなのかもしれない。実際、今も遠巻きに羨ましそうに見ている女子生徒が何人かいる。 「あ、もしかしたら売れたりします?」 「売れるかもしれねーけど売んなバカ」 怒られた。 放課後。 可純は柚木紗羅の教室に行ってみることにした。 いつも一緒に下校している耀子には、寄るところがあるからと、先に帰ってもらった。ただ、聡い彼女はだいたいところを察しつつ黙っているようだったが。 終礼が終わり、3年の先輩たちがそれぞれに昇降口に向かう中、その流れに逆らうようにして可純は3年7組の教室を目指す。 目的の教室を視界に認め――減速。 どうしようかと迷う。 中を覗いて紗羅がいるかどうか確かめなくてはならない。まずそこからしてハードルが高い。前にも一度同じことをしているが、あのときはまだ目的があった。 そう。 今日はまだ迷っている。「ボクにケータイ番号をおしえてください」。そのひと言を言うだけの度胸が、未だに持てないでいた。 と、そのとき、教室から知った顔が出てきた。 「あら、可純じゃない」 「あ、すおー先輩」 スレンダーな長身に赤毛のショートカットは、周防麗だった。 彼女も今から下校らしい。しかし、そばに紗羅の姿はない。ただ、なぜか手に使い込まれた制鞄がふたつ握られていた。 「何か用?」 ふたつある鞄の理由を尋ねるよりも先に、麗に問われた。 「紗羅?」 「ええ、そうなんですけど……」 しかし、呼んでもらったところで、目的を果たせるかどうか 「あー、だったら、今はあの子……」 ところが、麗の口調が歯切れの悪いものに変わる。 「――と思ったけど、帰ってきたわ」 「え?」 麗の視線が可純の背後、廊下の彼方に移り、可純もそれにつられて振り返る。 その先に柚木紗羅の姿があった。 遠目にもそうとわかる類稀なる美少女は、蜂蜜色の長い髪を揺らしながら、人の流れに逆らいつつも堂々と歩いていた。すれ違う何人かの生徒とは、いくつか言葉を交わしているようだ。 遅れて紗羅も可純を見つけ、笑顔を浮かべた。 速足に変わる。 そこからは声をかけられても返さない。真っ直ぐに可純のもとへ。 「こんにちは、可純くん」 「こ、こんにちは」 可純はたどたどしく挨拶を返す。 憧れの先輩を前にした緊張もあるが、それ以上に心が決まらないまま会ってしまったことに、追いつめられたような気持ちになってしまっていた。 「おかえり。今から迎えにいこうと思ってたところよ。……はい、鞄」 「そう。ありがとう」 麗がふたつもっていた鞄のうちのひとつを手渡す。 「それで、可純くんは何の用なのかしら?」 紗羅が再び可純に向き直った。今日はどんな話題を持ってきたのだろうと、期待しているような表情だ。 「それは……」 焦る。 落ち着けと自分に言い聞かせる。相坂相手に予行演習はすませている。あのときはすんなりと言えた。同じようにすればいい。どんな返事が返ってくるかわからないけど、後は野となれ山となれだ。 そして、結局――、 「ご、ごめんなさい。なんでもないですっ。失礼しますっ」 勢いよく頭を下げ、踵を返した。脱兎の如く、その場を去ろうとする。 が、 「待ちなさい」 一歩と踏み出すことなく手首を掴まれてしまった。可純の動きが止まる。 続けて肩を掴まれ、くるりと向きを変えられた。 向かい合う可純と紗羅。 「何か用があったんじゃないの?」 「そう、ですけど……」 「じゃあ、言いなさい」 彼女の表情は意外に厳しいものだった。言葉を飲み込んだ可純の気持ちなど斟酌するつもりはないらしい。わりと一方的だ。 可純は、言わないと帰してくれそうもない、と覚悟を決めた。 「先輩、あの……」 「なぁに?」 紗羅の表情がまた期待へと変わる。 「できれば先輩のケータイ番号をおしえてほしいなって……」 可純はおそるおそる言葉を紡ぎ出した。 取りつく島もなく断られたらどうしよう。 なぜと問われたらどう答えよう。 不安が渦巻く。 だが、紗羅の反応はそういう類のものではなく、かと言って、可純を喜ばせるものでもなかった。 紗羅が見せたのは戸惑いの表情だった。 彼女はそれからおもむろに、救いを求めるように麗を見た。 親友は一度肩をすくめてから、 「自分で考えなさいな。アタシの役目は口出しすることじゃなくて、アンタを見ることなんだから」 求められたものに応じる気はないらしい。 「そう、ね」 紗羅はため息をひとつ。そして、可純へ顔を戻す。 「ええ、いいわ」 「ほんとですか!?」 「可純くんならいいと思えるの」 彼女はさっそく携帯電話を取り出す。 「はい」 「え?」 それは可純の掌の上に乗せられた。 「どうすればいいかわからないの。可純くんがやってくれる?」 「は、はい。じゃあ……」 少々唖然としつつも、先ほど相坂がやったようにふたつの端末をそれぞれの手に持ち、操作していく。幸い紗羅のものは可純と同じキャリアで、手間取ることはなかった。 端末同士を突き合わせて、データをやり取りさせる。 いちおうこれで作業は完了だが、問題なくできているか心配だ。可純は紗羅の端末のメモリィを確認してみることにした。 梓沢可純(アズサワ・カスミ)。 自分の名前は最初に出てきたア行にちゃんとおさまっていた。安心する。 ただ――、 そこにはその名前しかなかった。ア行に可純だけ。 「……」 何か妙なものを感じ、キィを押してアドレス帳をカ行へと移す。 そこにはただのひとつも名前がなかった。 サ行。 周防麗(スオウ・レイ)。 親友の名前があった――が、それだけ。 タ行、ナ行、ハ行……。 次々とページを移していく。 結局、見つかった名前は可純と麗のものだけ。つまり、可純が登録される前は麗だけだったということになる。 「……」 携帯電話を持ちはじめて一ヶ月に満たない可純だが、それでもさすがにこれは異常だろうとわかる。 「できた?」 言い知れぬ不安を感じている可純の心中などおかまいなく、紗羅は音楽的な響きの声で問うてくる。 「あ、はい。どうぞ」 「ふうん。これに可純くんの番号が入っているのね」 可純が慌てて端末を折りたたんで返すと、紗羅は珍しいものでも見るかのように、それをいろんな角度から眺めはじめた。 思わず可純は麗を見た。 彼女は可純が何を見たかわかっているのだろう。だが、それでも可純に向かって曖昧に微笑むだけだった。 「そう。こういうのも悪くない気がするわ」 一方の紗羅はそんなことを言っていた。 目当てだった先輩のアドレスを手に入れた可純だが、何か見てはいけないものを見てしまった気がして、胸中はどうにも複雑にならざるを得なかった。 夜。 可純は自分の部屋の勉強机で、充電スタンドに立てた携帯電話を睨んでいた。 先輩に電話してみようかと思う。 せっかくおしえてもらったから、かけてみました――。 もっといろいろ話したかったから――。 口実ならいくらでもあるし、どうにでもなる。 端末のキィをいくつか押せば先輩の声が聞けるのだと思うと、それだけで鼓動が早くなるのが自分でもわかった。 が、 そんなドキドキの合間に、すっと入り込んでくるものがある。、 ――先輩のアドレス帳…… 紗羅の携帯電話を操作したときに見た、あの白紙に近いアドレス帳。あれはいったい何なのだろうか。 ふと、可純は思い出す。 出会ったばかり頃に紗羅が言っていた言葉。 『人と人の出会いなんて、言い換えれば別れのはじまりだもの。別れて辛い思いをするくらいなら、最初から出会わなければいいんじゃないかと思うの』 ならば、あのアドレス帳はその結果なのだろうか。 別れを怖れて出会いを求めず、人との間に何も残さない――紗羅のそんな生き方の一端を垣間見た気がした。 思う。 ――先輩にとって、ボクって何なんだろう……? と。 結局、気がつけば夜も遅い時間になり、電話をかけてみることはできなかった。 2010年4月24日公開 |
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