サニーサイドアップにブラックペッパー

第2章


9.
 これはデートだったはず。
 憧れの先輩とのデート。
 そうと決まったときから頬は緩みっぱなしだし、今日はどんなことがあるだろうと考えただけで昨夜はろくに寝られなかった。
 なのに、今のこれはどういうことだろう。
 紗羅はむすっとしたまま、ひと言も口を聞くことなくずんずん歩いている。可純はそんな彼女の後ろをついていく。時々またナンパや、可純もよく知っているティーンズ向けの雑誌の名前を言って声をかけられたりするのだが、それもすべて無視。ガン無視。あまりの無視具合に思わず可純が謝ってしまった。
 こんな調子になったのは、相坂が現れてからだ。彼の顔を見た途端、紗羅が不機嫌になってしまったのだ。だが、原因がそれだとわかっても、理由まではわからない。相坂の何が気に喰わなかったのだろう。ナンパ少年たちと険悪な雰囲気になりかけたところを助けてくれたというのに。
 そして、その相坂である。
 可純は紗羅と相坂の関係が気になっていた。
 前に一度、彼の話題に触れたときはそんな素振りもなかったが、なんらかの関係はあるはずだ。少なくとも、同じ学校で名前を知っている程度、ではないはずだ。それ以上に関わったからこそ、顔を見たら腹が立つ関係にも至れるのだから。
 とは言え、どれだけ頭をひねったところで可純には答えがわからないし、ろくな推測もできない。紗羅に直接尋ねるのが最も手っ取り早いのかもしれないが、それもまた勇気のいる話だ。
 不意に、紗羅の足がぴたりと止まった。可純も立ち止まる。
 それから彼女は少し間をおいてから振り返った。まるで3つ数えたようなリズム。
「ダメね。いつまで腹を立ててちゃ」
 その口から、自分自身に呆れるように、ため息がもれた。
「彼も他意はないって言ってたものね」
「はい。なんか、そんなことを……」
 言っていた。たまたまだと。つまり、だから許せと、そういうことだ。やはり紗羅は相坂が目の前に現れたから怒ったということか。
「今日はせっかくの可純くんとのデートなんだから。こんなことで時間をむだにしたら勿体ないわ」
 ね?――と、紗羅は微笑んでみせた。
 思わず可純は赤くなる。改めてデートという単語を口にされ、微笑みかけられたのだ。赤くなるなというほうがむりだ。
「それで――」
 紗羅は腰に手をやり、辺りを見回した。
「ここはどこなのかしら?」
「……」
 それもわからないまま突き進んでいたのか。
「どうやらチャイナストリートみたいね」
 一ノ宮の駅周辺からは少し離れた、中華風の点心やスイーツの店、レストランが並ぶ通りだ。
「わたし、中華料理はあまり好きじゃないのよね。……戻りましょ。いいお店を知ってるの。パスタのお店。お昼はそこにしましょ。可純くんもいいわよね?」
 紗羅は一気にまくし立て、勝手に決めてしまった。さっそくきた道を戻りはじめる。
 可純は慌ててその後を追いかけた。
 
 そうしてつれてこられたパスタの店。
 内装はすべて木目調で、落ち着いた雰囲気があった。駅のショッピングセンターの地下ということもあって、店内はほどほどに混んでいる。案内されたのは壁際の席。紗羅が壁を背にして座ったので、可純の視界の中には彼女しかいない。パワーテーブルのようだと可純は思った。
「それにしても最初の二人組、すごく失礼。可純くんにあんなこと言うなんて」
 美貌の先輩は、未だにご立腹だった。ただし、相坂のこととは別件でだが。紗羅はふくれっ面をしながらも、手ではスプーンとフォークを使ってパスタを巻き取っている。
「まぁ、本当のことですから。色が濃いのは」
 答える可純のほうは、使うのはフォークだけ。皿の上のパスタにフォークを突き込み、巻き取ってそのまま口に運ぶ。とは言え、口が小さいので一回一回の量はかわいらしいものだ。
 確かに紗羅の言う通り、あの手合いの無神経さには呆れる。だけど、今はそれより、まるで自分のことのように怒ってくれる紗羅の気持ちが嬉しかった。
「ボクの家系って、国際色豊かなんですよ」
 そんな可純の身の上話。
 可純は自分が3つの人種の血を受け継いでいることを語って聞かせる。
「素敵な話」
 聞いた紗羅が笑みを見せた。
「先輩は変だとか思いません? ボクの肌の色」
「いいえ、ぜんぜん。わたしは好きよ。それに、そうね――」
 そこで一度、切る。
「チョコレートみたいで美味しそう」
「ッ!?」
 ぼん、と可純の顔が一瞬で赤くなる。わたわたと慌てて、無意味にばたばたしてしまった。美味しそうってなんだ。
 それを見て紗羅が可笑しそうにくすくすと笑う。
 今度は可純がふくれっ面になる番だった。それでも紗羅が好きだと言ってくれて、ほっとしたり嬉しかったり。なぜなら、可純は自分の血に誇りを感じているからだ。
 当時はまだ差別意識も強かったであろう時代に、カンボジア人の曽祖父とフランス人の曾祖母が愛し合って祖母が生まれ、その彼女とフランス留学中だった日本人の祖父が結婚して母が誕生した。そして、その母と父の子が可純だ。そうやって紡がれてきた血筋に誇りを持たないはずがない。
 また、だからこそ命の重さというものも強く感じることができる。
「……」
 自分は父と母の命を背負っている――そう思う。
「可純くん?」
「ほわ?」
 我に返る。いつの間にかもの思いに耽っていたらしい。それでも手だけは意識と乖離したように動いていて、フォークには可純の口に余る量のパスタが巻きついていた。
「えっと……」
「パンのおかわりはいかがですか?」
 と、そこにフリルのついた白いエプロンのウェイトレスが、パンの入ったバスケットを抱えてやってきた。この店では一度パンを注文すれば、後はおかわり自由で、こうやってたびたび焼きたてのパンを持ってきてくれる。香ばしい薫りが可純の鼻をくすぐる。
「あ、いただきます」
「かしこまりました」
 笑顔で応えたウェイトレスは、パンをトングで掴み、可純の皿に乗せる。ついでにバターが残り少ないのを見て、新しいのを置いていってくれた。
「よく食べるのね」
 感心したような紗羅の声。
「すいません。燃費が悪くて……」
 可純はコンパクトな体(ボディ)のわりに燃料を喰う。尤も、それはたくさん食べるというよりは、しっかり食べるという類のものだ。幼いころから食生活が乱れたことはないし、今だって朝を抜いて登校した試しはない。
「でも、見てると気持ちがいいわ。……そうね、この後も食べ歩きがいいかしら。いくつか美味しいものを知ってるわ。ぜんぶ回りましょ」
 そのひと言で今後の方針が決まった。
 
 昼食の後も、場所をセンター街に移して、食の旅が続いた。
 まずはクレープを買って、それを片手にアクセサリィや服の店を、目についた端から見て回った。そして、今度は昨日のジェラートの店へ。これが向こうのチャイナストリートになると、肉まんや豚足を食べながらの肉切り包丁や青龍刀のウィンドゥショッピングという、女子力の欠落したものへと変わる。
 ジェラート屋は大きなキャンピングカーを改造したような店で、歩行者天国になっている通りの真ん中にあった。そばにはパラソル付きのテーブルとチェアも置かれている。可純も紗羅も、一緒にきた相手は違えど、昨日も訪れた店だ。
 今はちょうど客の切れ間だったらしく、すぐに注文することができた。昨日はけっこう並んだというのに。先輩と一緒だからだろうか――などと可純は、紗羅を敬愛するあまり不思議な力を勝手に作り上げてしまう。
「じゃあ、先にそちらのお姉さんからね」
 即断即決。先に注文していた紗羅に、イチゴミルクのジェラートが渡される。
「ありがとう。これ、この子の分もね」
「え? あの、先輩、今度は自分で、というか、ボクが……」
 先ほど食べたクレープも紗羅の奢りだったので、今度は可純が出すつもりでいたのだが。
「気にしないで。これくらいたいしたことじゃないわ。それに、わたしのほうが年上なんだから。……向こうで待ってるわね」
 紗羅がその場を離れる。見れば可純たちの後ろに客が並びはじめていた。あまりぐずぐずしていられないようだ。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます」
 さほど間をおかず、可純もマンゴーのジェラートを受け取った。紗羅の姿を探し――すぐに見つかった。
「うわ」
 思わず声を上げてしまったのは、このほんの少しの間に、紗羅がまた男に声をかけられていたからだ。可純の口から苦笑がもれる。こんな調子じゃ、ちょっと出かけるだけでもたいへんそうだ。
 近づいていくと、紗羅が笑みを見せた。どこか少し悪戯っぽい色。
「この子がわたしのかわいい恋人よ」
「「 えっ? 」」
 驚きの声を上げたのは男と、可純。
 男は目を丸くして、紗羅と可純を交互に見る。当然の反応だ。
「え、いや、でも……」
「つまりそういうこと。悪いけどわたしたち、今デート中なの。邪魔しないでね。……行きましょ、可純くん」
 そして、紗羅はそんな男を尻目に、可純と手をつないで歩き出す。
 ――って……て、て、手ー!?
 心の中で絶叫する可純に、しかし、紗羅はかまう様子はない。
 ふたりは手をつないだままセンター街を行く。
 空は晴れ渡って程よい陽気で、行き交う少年少女は、皆そろって春の装いで楽しげに笑顔を見せている。
 でも、可純だけうつむき加減。
 なぜなら、頭の中では紗羅の発した恋人という言葉がずっとリフレインしていて、つないだ手を必要以上に意識してしまうから。顔も上げられない程どきどきしている。
 隣では紗羅が「さっきの顔、見た?」とか「次はどこに行こうかしら」とか、いろいろ話しかけてきているのだが、可純は「……はい」「……はい」と全自動な返事を返すだけで、気持ちは上の空。ジェラートも口に運んではいるが、味なんてわからない。というか、顔に近づけただけで溶けるのではないかと思う。それくらい顔が熱かった。
 と。
「可純くん」
 名前を呼ばれ、
「え?」
 口の端をぺろりと舐められた。
 瞬き数回。
「え、え? ええっ!?」
 可純は何が起こったか理解できないまま、驚いて紗羅を見る。
「口の端にジェラートがついてたわ」
 彼女は事もなげに、さらりと言う。
「だ、だったら、普通に拭いてくれたら……」
「両手がふさがってるもの」
 ジェラートを持った手と、可純とつないだ手を肩の高さまで持ち上げて示す。
「じゃあ、口で言っておしえてくれるとか」
「あぁ、確かにそうね」
 まるで今気づいたような言い方。尤も、本当に言われるまで思い至らなかったかは、可純にはわからない。
「あら」
 と、何かに気づいたように、紗羅。
「なんですか?」
「チョコ味」
「そんなはずないですよ、もう……」
 からかうような笑みを見せる紗羅に、呆れていいやら怒っていいやら。たぶん、どっちでも笑って流される気がするが。
 
「少し疲れたわ。はしゃぎ過ぎたのかしら。一度どこか落ち着いたところで休みたいわね」
 紗羅がそう言い出したとき、「もう?」というのが可純の正直な感想だった。
 無論、自分が健康優良児であるという自覚はある。じっとしているより体を動かしているほうが好きだ。だけど、それを差し引いても、少しスタミナがないんじゃないかと思う。昨日の今ごろは、耀子も樹里も、おっとりしている英理依ですら、まだまだ元気だった。
「この辺だったらどこがあったかしら」
「あ、ボク、いいところ知ってます」
 己の頭におさめられた情報を検索しようとする紗羅に、可純は申し出る。
「そうなの?」
「えっと、まぁ……」
 知ったのは、つい昨日のことですがー。
「そう。じゃあ、任せようかしら」
「はい。任せてください」
 可純は勢いよく返事をする。ここまでずっと紗羅に任せっきりだったので、頼られるのが嬉しかった。俄然、張り切る。
 可純を案内役にふたりが向かったのは、センター街からは駅をはさんで反対側。そちらは賑やかな繁華街とは違い、オフィスビルが立ち並ぶ一角だった。その中のひとつの地下に、その店はあった。しかし、地下といっても半分だけ埋もれるような構造なので、表通りからでも数段下りた階段の先に入り口は見えている。尤も、一見して何の店か判断がつかないから、入りにくいことには変わりないが。
「……ここなの?」
 紗羅も入り口を見て、不安げにそう口にした。
 可純はちゃんとここが喫茶店であることを知っている。昨日、耀子につれてこられたコーヒーショップがここなのだ。
 店内は、馬車が走っていたころの英国を思わせる雰囲気があった。きっとそれをイメージしてデザインしたのだろう。店のどこかに英国紳士がパイプをくわえて座っていてもおかしくなさそうだ。
「こんないいお店を知ってるなんて、見直したわ」
「は、はは……」
 紗羅はすっかり気に入ったようだ。顔が引き攣ってきた。いよいよ友達におしえてもらったなんて言い出せない。
 程なく、ふたりの前に頼んだコーヒーが置かれた。
 紗羅はミルクだけを入れ、可純はミルクに加えてシュガーも落とす。
 美貌の先輩はコーヒーを口にしても何も言わなかった。お気に召さなかったのだろうか。いや、むしろ逆だ。満足いったからこそ、黙って味わっているのだ。
 可純もそれがわかったので、わざわざ聞くことはしなかった。その代わり、彼女の優雅な所作に見惚れる。
「……」
 前にも思ったことだが、ふとした瞬間に彼女の美しさに神がかったものを感じるときがある。初めて会った日、目の前で笑いかけられたときもそうだった。類稀なる美少女と称される背景に神秘性が垣間見えるのだ。
 唐突に――可純は桜を連想した。
 桜はすぐに散るからこそ美しいのだと、よく言われる。しかし、それを人と重ねるのはあまりにも不吉だ。可純は慌ててその想像を頭から追い払った。
 と、そこでコーヒーを飲んで人心地ついた紗羅が、いきなり切り出した。
「今日はこの辺りでお開きにしましょうか」
「えっ?」
 その不意打ちに、可純は思わず声を上げる。
 確かにもう夕方だが、高校生の休日としては少し早すぎる気がする。
「寂しい?」
 紗羅は微笑みながら尋ねてくる。
「正直言って……、はい」
 もっと一緒にいたいし、一緒にいられると思っていた。
 可純の声が沈む。
「わたしもそう。でも、可純くんと一緒でちょっとはしゃぎ過ぎたのね。少し疲れたわ。だから、今日はここまでにしておきましょ」
「はい……」
「聞き分けのいい子は好きよ」
 彼女は大人の表情で微笑む。
 そんな顔に見つめられて、可純はまた顔を赤くした。
「これくらいが丁度いい気がするの。また可純くんと会いたいと思うもの。ゴールデンウィーク中はもう予定が入っているから、そうね、次は学校かしら」
「学校……」
 もし学校でも今日みたいだったら、と思ってしまう。きっとたいへんだろう。羨ましがられたり、嫉妬されたり。特に入学したばかりの1年生には柚木紗羅のファンが多い。果たして、その視線に耐えられるかどうか。
「そうだ、ラウンジにも招待しないと。約束だし、今日のこのお店のお礼にもなるわ」
「……」
 しかし、紗羅は可純の心中などまるで気にしない。さすがフリーダム姫。この調子だと試練の日は近いかもしれない。
 うわあ。
 だけど、密かに頭を抱える可純とは正反対に、当の本人はほんの少し先の未来に思いを馳せるような目をして、笑顔でコーヒーカップを口に運んでいるのだった。
 
 
 2010年6月6日公開

 


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