翌日になってもアキラの機嫌は悪いままだった。
 今日の鹿角さんとの待ち合わせ場所にもなっている喫茶店を話題にして、今度行ってみようかと誘ってみたりもするのだが、返事は素っ気ない。
 午後になると急にアキラが「出かけてくる」と言い出し、行き先も告げず飛び出していってしまった、
 ――そのままもう間もなく三時になろうかというころ、
 僕が出かける準備をしていると、ようやくアキラが帰ってきた。このまま戻ってこなかったらどうしようかと思っていたところだっただけに、玄関ドアの開く音が聞こえた瞬間ほっと胸を撫で下ろした。なにせアキラは鍵を持っていないので、出かけるに出かけられない。
「ただいまー」
「おかえり……って、何それ?」
 居室に入ってきたアキラは、大きめの紙袋を肩から提げていた。
「ちょっとね、服を買ったんだ」
 アキラは素早く部屋を横切ると、ロフトへの階段を二、三段あがり、その勢いのまま上へ紙袋を放り込んだ。
 彼の声を聞く限り、今朝よりも少し機嫌が直っているように見えた。買いものでストレスを発散するタイプなのだろうか。
「アキラ」
「なに?」
 呼びかけるとロフトからアキラが顔を覗かせた。
 その彼に向かって僕は、机の抽斗から取り出したそれを放った。宙に緩い放物線を描いてアキラの手の中に納まる。
「鍵?」
 そう、鍵だった。キィホルダーも何もついていない裸の鍵だ。
「予備の鍵。しばらく持ってるといいよ。じゃないと、僕のいないときに出かけられないだろ?」
「……」
 アキラはしばし呆然とそれを眺め、
「これって合鍵ってやつ?」
「男に合鍵を渡す趣味はないよ」
「ふうん」
 訝しげに目を半眼にするアキラ。
「じゃあ、彼女には?」
「残念ながら、まだそんな関係じゃなくてね」
 "まだ"どころか、正直そんな気配もないのだが。
「因みに、予備はそれ一個だけだから。失くさないでくれよ?」
 それを失くすと後がない。バスケで例えるならファウルよっつめ。次でアウトだ。この部屋から退場させられるかどうかは知らないが、少なくともしばらく部屋に入れないのは確かだ。その後は当然、実費負担でドアノブごと鍵の交換だろうな。
「じゃあ、僕は出かけてくるから。たぶん夕飯までには帰ると思うけど、遅くなりそうだったら連絡するよ」
「うわ、いやらしい。もう帰ってくるな」
 ここは僕の部屋だっつーの。
 僕はアキラに罵倒されながら家を出た。
 
 
 
 駅から電車に乗る。目指すは少し行ったところのターミナル駅。
 大学の最寄り駅、つまりは僕の家の最寄り駅でもあるのだが、そこは小さな駅なので、はっきり言って何もない。なので、学生が連れ立って遊びにいくなら、必然的にそのターミナル駅となる。そして、そこに鹿角さんとの待ち合わせ場所である喫茶店はあった。
 その店にはよく学校の帰りに彼女と寄る。僕からすればぜんぜん帰り道でもなんでもないのだが、気にしたことはないし、鹿角さんも当然のように気にしていない。
 電車を降り、地上と地下、立体的に展開する巨大迷路のような駅舎を出――スクランブル交差点から歩行者天国になった繁華街に入ると、その通りに件の店はある。全長四百メートルの通りの中ほどに位置しているせいか、時間によっては妙に穴場になり、それが僕たちがよく立ち寄る理由だった。
 店のドアをくぐったのは待ち合わせ時間の十五分前。「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」と寄ってきた店員を一旦手で制し、店内を見回してみる。が、やはりというべきか、鹿角さんの姿はなかった。
「ひとりです。後で連れがきます」
 と、答えれば通りの見えるテーブル席に案内された。無難にアイスコーヒーを頼んで待つことにする。
 たぶん鹿角さんは時間通りにしかこない。下手すると時間を過ぎてもこないだろう。暇つぶしに本でも持ってきておくんだったなと軽く後悔する。
 何かいいメロディでも浮かばないかと指でテーブルを叩いてリズムをとっていると、程なくしてドアベルが涼しげな音を鳴らした。入ってきたのは男二人組。彼らはふたつ離れたテーブル席に案内された。ここまで聞こえるような声で話しはじめる。
 次に入ってきたのは女性のひとり客。ようやくお出ましかと思えば、違っていた。ファッション誌から抜け出てきたのかと思うようなスタイルに、サングラスをかけてすらわかる洗練された容姿。不躾に眺めていたら隣の席に案内されてきて、僕は慌てて視線を表へと向けた。
 結局、鹿角さんは午後四時を十分ほど過ぎたころに現れた。
「お待たせ」
 それは待たせたという事実だけを告げた言葉だった。
 僕の正面に意志の強そうな目をした、キツい感じの美人が座る。彼女こそが鹿角水緒美だ。
「いいよ。いつものことだから」
「ありがとう。そう言って許してくれるから、私は狐塚君の前では思いっきりわがままな女でいられるわ」
 鹿角さんがお嬢様的、女王様的にわがままなのは、大学では誰もが知るところだ。それでもまだ抑え気味で、僕の前ではそんなのは比ではないくらいにわがままに振る舞う。それをかわいいと思ってしまうのは、きっと僕が"バカな男"だからなのだろう。それに時折、本当にかわいらしい面も見せるのだ。
 彼女もアイスコーヒーを頼むと、それはすぐに運ばれてきた。
「聞いたわ、選考のこと」
 ひと口飲んで喉を潤すと、彼女は遠慮なくそう切り出してきた。
 さすがに耳が早い。たぶん昨日、電話してきたときにはもう知っていたのだろう。いったいどこから聞いたのかは知らないが、少なからず彼女の父親の力が影響しているはずだ。
「情けない限りだよ」
 考えてみれば、見事な悪循環だったのだろう。納得できないまま認めてもらえないことが増え、それが意欲を失わせ――そこからくる練習不足が、病魔が体を蝕むが如く確実に腕を鈍らせていたのだ。それも自覚できていないレベルで。そうしてまた評価を下げていたに違いない。すべては己の精神の弱さ故というなら、この結果も自業自得なのだろうな。
「まぁ、まだ誰かが選ばれたわけじゃないし、最後まであきらめずにがんばるさ」
 尤も、昨日の有馬先生の口ぶりを聞いている限り、僕はすでに除外されていると思っていいかもしれないが。
 すると鹿角さんは深呼吸をひとつ。
 それから意を決したように切り出した。
「私たち、別れましょう」
 瞬間、ガシャン、とグラスの倒れる音がした。
 僕のではない。どうやら隣のテーブルに座る先ほどの女性客のようだ。何も僕の衝撃をそんな効果音で演出してくれなくてもいいのに。
「大丈夫ですか、お客様」と店員が駆け寄ってくるのを視界に映しながら、僕は鹿角さんを見た。何か言おうと思うのだが、しかし、言葉が出てこない。何を言うべきなのか。
「狐塚君は、今はピアノに打ち込むべきだと思うの」
「……」
 ああ、そうか。こういうときは理由を聞くのが先決か、などと妙に冷めた頭で納得してしまった。
 と同時に、痛いところをつかれた気もした。練習不足なのだと、努力が足りないのだと言われているのだ。非の打ちどころのない、まっとうな指摘だ。
「……そう、だね。それがいいかもしれない」
 ならば、せめてここではみっともない姿は晒すまいと、僕はそう返事をした。
「ありがとう。わかってくれて嬉しいわ。……ごめんなさい。私、このあと用事があるの」
 そう言うと鹿角さんは立ち上がった。この流れは当然だろう。別れた男といつまでも一緒にコーヒーを飲んでいても仕方がない。
「お金、おいていくわね」
「いいよ。僕が出す」
 きっとこれが彼女への最後の貢ぎものだろうな。心の中で自嘲する。
「そう。お言葉に甘えておくわ。……それじゃあ」
 そうして鹿角さんは去っていった。ドアベルに送られ、店を出ていく。
「……」
 穿った見方をすれば――彼女は僕の才能を見限ったのだろうな。鹿角水緒美という女性は音楽の申し子だ。すべての基準は音楽的才能にある。それもシビアで、且つ、リアル。振り返れば、彼女と知り合ったのも僕が弾くピアノがきっかけだった。そして、僕の留学が絶望的になった今、彼女は僕への興味を失くし、切ったのだ。
 残ったのは彼女の飲みかけのアイスコーヒー。
 僕はとっくに飲み終えていたが、後を追うようにすぐに外に出て鹿角さんと顔を合わせても気まずい。もう少し時間をあけることにした。
 しばらく何を考えるわけでもなくぼんやりとして、もうそろそろいいだろうと席を立つ。
 そのときになっていつの間にか隣の美人もいなくなっていることに気づき、意味もなく僕は何もかもに取り残された気がした
 
 
 
 あまり早く帰っても恰好が悪いという見栄がはたらき、書店に寄ることにした。
 途中で但馬からメールが送られてきて、貸してもらう予定だった本のタイトルがわかった。ちょうどいいので買って帰ることにしようか。
 メールを読んでいると、鹿角さんのような才女には但馬くらいのハイスペックな男じゃないと釣り合わないのだろうな、という思いが再燃してきた。実際、前に一度その話を彼にしたことがあるが、絶対にお断りだと言っていた。
「俺にゃ、あのお嬢様のわがままを受け止めきれねぇよ。そういう意味じゃお前がいちばん適任だよな。それに馬と鹿が一緒にいたら、何を言われるか予想がつくしな」
 とのこと。
 因みに、馬と鹿のネタは誰もが一度は思いつくことであるが、それ以上にそれを口にすれば鹿角さんが怒り出すのは安易に想像ができるので、禁句が暗黙の了解だ。
 メールに書いてあったタイトルはふたつ。幸いにしてふたつとも見つかったが、どちらも大型本で、合わせて四千円ほどした。
 
 
 少しばかり時間をつぶして家に帰れば、もう間もなく夕食という時刻だった。
 キッチンには生ハムサラダが入ったボウルやら何やらがあり、もう後は盛りつけるなり温めるなりすればすぐにでも食べられそうだった。相変わらずマメなやつだ。おかげさまでここ数日、僕の食生活は驚くほど健全だ。
 それらを横目に居室に這入る。
「ただいま」
「おかえりー」
 しかし、そこにアキラの姿はなく、声は上から降ってきた。ロフトに上がっているようだ。その発音に力はなく、かと言って機嫌の悪さが窺えるわけでもなく、どことなく気の抜けたような感じだった。考えごとでもしているのだろうか。
 その様子に首を傾げ、ロフトを見上げる――と、アキラも顔を覗かせてこちらを見ていて、まるで逃げるように引っ込んでしまった。いったい何なのだろうか。僕はもう一度首を傾げた。
 そのまま夕食になり、僕は普段通りにいろいろ話題を振ってみるのだが、しかし、相変わらずアキラは気のない返事ばかり。
 やがてそんな暖簾に腕押しの会話で空回りのまま夕食がすみ、僕はパソコンに向かう。と、そのとき、ライティングデスクの上に放り出してあった書店の袋を見て思い出した。
「あ、そうだ、アキラ。今日本を買ってきたんだ。シンガーロイドの本。好きに見ていいから」
「わかった」
 キッチンスペースで後片づけをしているアキラの返事は、やはりどこか精彩を欠いている。
 程なくして、
「あ、あのさ、直臣――」
 その声は少し遠く、部屋の入り口から聞こえてきた。
「大丈夫……?」
「ん? 何が?」
 僕は作業の手が離せず、モニターに向かったまま聞き返す。
「え? い、いや、その……ほら、なんか辛そうな顔をしてるからさ」
「……」
 思わず手が止まる。
 そうか。そんな顔をしていたのか。もしかしたら夕食のとき、話を弾ませようとしたのも、無駄に口数が増えて、逆に痛々しかったかもしれないな。アキラが心配するのもむりからぬことだ。
「実は今日、いろいろあってね。……大丈夫。心配いらないよ」
 しかし、言葉とは裏腹に、今になってようやく振られたのだという実感がわいてきてしまった。
 尤も、もとより鹿角さんとつき合っていたこと自体、分不相応という気もする。彼女のわがままにつき合うのも楽しかったし、楽曲の解釈をめぐって話し合えば大きな刺激を受けた。そんな日々はもう巡ってこないのだと思えば寂しくはあるが、得たものの大きさを考えれば十分にお釣りがくるのではないだろうか。
 まぁ、アキラにはこんな情けない話、間違っても聞かせられないのだが。
「直臣」
 今度はすぐ後ろで聞こえた。いつの間にかそばまできていたようだ。
 僕はイスを回転させ、体ごとアキラに向き直る――と、その瞬間、僕の口をやわらかいものが塞いだ。わけがわからず見開いた目には、瞼を閉じ、少し首を傾けたアキラの顔があった。
 キスをされたのだと僕が理解するよりもわずかに先、アキラの唇が離れた。
「は?」
 僕の口から間の抜けた発音がもれる。
「いったい何を……?」
「ごめん。直臣の顔を見てると、何かしてあげなくちゃって思った」
「だからって……」
 男が男にすることかよ。
「でも、少しは元気が出たでしょ?」
「ああ、もう、おかげさまで何もかもが吹っ飛んだよ」
 僕はやけくそ気味に皮肉を込めて言い返す。
 怒ってやりたいところだが、女の子のような容姿のアキラがいたずらっぽく笑う様を見ていると、もうどうでもよくなってきた。少なくとも僕のことを思ってのことだし、それに男にそんなことをされたら思わず口を拭っているところだが、アキラに限ってはそんな嫌悪感はなく――まぁ、悪くはなかった……って、大丈夫かよ、僕。
 ふと、アキラと目が合うと、彼は急に居心地が悪そうに目を泳がせはじめた。それと同時に、「あ、え、えっと……」と、まるで何かのバロメータであるかのように顔がみるみる赤くなっていく。
 結局、アキラは耐え切れなくなってロフトに駆け上がっていった。
 それを目で追い、ロフトを見上げていると、アキラが少しだけ顔を出し――また引っ込んだ。……照れるくらいなら最初からするなよ。
 と、程なくして、
「こっからが本題なんだけど――オレさ、昨日からずっと考えてたんだ」
 アキラは静かに語りはじめた。
「直臣は、今はもっとピアノの練習をしなくちゃいけないんじゃないかと思う。だって、留学がかかってるんだよね? だったら、シガロで曲なんか作ってる場合じゃないと思う」
「……」
「……オレが、邪魔をしてるんだよね」
 沈むアキラの声だけが降ってくる。
 なるほど。昨日学校から帰ってきた辺りから様子がおかしかったのは、そのことを考えていたのか。
 そして、アキラは今、何かしらの結論を出したのだろう。
「でも――わがまま言っていい? オレ、直臣と一緒に最後までこの曲を完成させたい」
 そうきたか。
 思わず頬が緩む。
 それなら僕の返事は決まっている。迷ったこともない。
「ああ、いいよ。最後まで一緒にやろう」
「ほんと!?」
 声がはっきりと聞こえたので見上げてみれば、目を輝かせたアキラが顔を出していた。
「本当。これでも僕はわがままを受け止めることには定評があるんだ」
 第一、アキラは何も邪魔をしていない。僕は彼と出会う前からやる気をなくしていて、シンガーロイドの曲作りに逃げていた。そこにアキラが現れただけだ。
 アキラは今からでも努力すれば結果につながると思っているみたいだが、おそらくそれはないだろう。非公式なルートで情報を手に入れた鹿角さんは おそらく僕にどれだけ可能性が残されているかも聞いたに違いない。その上で僕を見限ったのだ。そう考えれば、彼女が聞いた話は僕にとっては絶望的な内容だったとみていい。
 ならば今僕がやるべきことは、アキラと作りはじめたこの曲を最後まで完成させることだ。
 ま、留学の選考にはまた今度、気を取り直して挑戦するさ。有馬先生じゃないけど、今回が最後の機会というわけではないのだから。
 
 
 2014年2月1日公開

 


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