非常識な時間に来訪者があった。 一ヶ月ぶりに復帰を果たした歌姫・小比賀晶子の歌で幕を引いたMスタの後、僕は何度かアキラに電話をかけようと思ったが――結局、できなかった。テレビの画面の中にいた彼女は、もうここで一緒に曲や動画を作っていたころのアキラではないような気がしたのだ。いわゆる"住む世界が違う"というやつだろう。 かと言ってすぐに眠ることもできず、僕はこれといった目的もなくネットサーフィンをしたり、DAWをいじったりしていた。 そうして午前一時。 不意に玄関チャイムが鳴った。 誰だよこんな時間に、と思った直後、もしやアキラではないかという考えがよぎった。僕は玄関へと駆けていき、勢いよくドアを開けた。 かくしてそこに立っていたのは、スーツを着た長身の見知らぬ女性だった。スーツの上からでもそうとわかるほどスタイルがよく、大人の色香みたいなものを感じる。彼女にはこんな時間にも拘らず、疲れの色がまったくなかった。 「こんな時間の来客に、いきなりドアを開けるとは不用心ですね。……そう、あなたが狐塚さんですか」 「……どちら様でしょうか?」 まるで値踏みするようにこちらを見る彼女に、僕は問いかける。 「失礼しました。私(わたくし)、小比賀晶子のマネージャの星と申します」 差し出される名刺。 ――小比賀晶子担当マネージャ 星明子(ほし・めいこ) 受け取ったそれにはそう書かれていた。 「アキラの……」 「晶子の荷物を取りにきました。このような時間に申し訳ないのですが、上がらせてもらってもよろしいでしょうか?」 「え、ええ。散らかってますが」 決まり文句で答えると、彼女――星さんは僕の横をすり抜け、畳んだままの新品の段ボール箱を片手に、さっさと中に這入った。僕が後を追うかたちになる。 彼女は居室を見回すと、 「ここで晶子が……」 嘆かわしいと言わんばかりにため息を吐き、頭(かぶり)を振った。……ずいぶんと失礼な態度だ。 「あの、アキラ……いえ、彼女は……?」 「つれてきていません」 即答だった。 「あの子には明日一緒に取りにくることにしてありますが、今日のうちに私が引き上げてしまいます」 そこで一拍。 「つまり晶子には、もうここにこさせないということです」 きっぱりと言い切った。 彼女は頭の回転が速いらしく、僕の言いたいことに先回りをしてくる。目には明確な敵意があった。 「当然でしょう? ようやく戻ってきてくれたのです。無用な醜聞(スキャンダル)の種は摘んでおきたいですから」 「……」 「あなたもここに晶子がいたことは他言無用にお願いします。最近のマスコミは怖いですよ」 まるで脅しをかけるように、彼女は言った。 聞いたことがある。かつてのマスコミは芸能人のスキャンダルを暴き立てはしても、引退に追い込むまではしなかったという。だが、最近ではモラルの低下が激しく、その辺りのさじ加減――ある種の暗黙の了解が崩壊しているのだそうだ。品性の欠片もないような見出しで煽り立て、過激な文章で記事を書く。何年か前に喫煙で謹慎中だった未成年アイドルグループのメンバーひとりを、再度の喫煙と外泊をスクープして引退させたのは記憶に新しい。 「晶子はうちの宝ですから命を懸けて守りますが、あなたのことまでは知りませんので」 「……」 この調子だと、もしものときは僕をスケープゴートにしてアキラを守るくらいのことはするだろう。 「先ほどの名刺に事務所や私のケータイの番号が書かれていますが、かけてこられても晶子には会わせませんから、そのつもりでお願いします。名刺をお渡ししたのは、単なる社会人の慣習です」 「だったらいりませんよ。こんなもの」 「助かります。名刺を一枚無駄にしないですみました」 僕が名刺を突き返すと、彼女はそれをひったくった。 「さて、晶子の荷物はどこでしょうか。彼女が小比賀晶子だと知られてしまった以上、彼女の所持品に妙な気を起こされる前に引き上げたいのですが」 「……」 妙な気って何だ。考えてもなかったよ。 「上です。勝手に持っていってください」 「わかりました」 星さんは、タイトスカートで片手に段ボールというスタイルでも、苦もなくロフトに上がっていく。僕はあまり近くにいてもあらぬ誤解を受けそうなので、遠くからそれを見つめていた。 彼女がロフトに姿を消してしまうと、途端にすることがなくなり、僕はこんな時間にも拘らずコーヒーを飲むことにした。コーヒーメーカーに残っていたのは、ちょうど一杯分。ふと、彼女にも何か出したほうがいいのだろうかと思った。 「……」 が、仮に出したほうがいいという結論に達しても、僕がその気にならなさそうなので、考え自体を破棄した。 居室の入り口で立ったままぼんやりとコーヒーを飲む。 上からは星さんがアキラの荷物を片づける音が聞こえてきていた。それが終われば持ち運ばれてしまう。 後には何が残るのだろうか。 「ここにあるもので全部ですか?」 「……そうですよ」 僕は上から降ってきた問いに答える。 そう、きっと……。 それから十五分ほどして、もう一度声がした。 「すみません。これを下ろすのを手伝ってもらえますか?」 ため息ひとつ。壁から背中を剥がす。 階段を中ほどまで登ってロフトに顔を出すと、段ボール箱を持たされた。さほど大きくはなく、中身もあまり入っていないようで、軽い。それでもこれを持って降りるとなれば、慣れていないと少し苦労するかもしれない。 僕はそれを受け取ると、キッチンエリアへと運んだ。続けて星さんがリュックサックを肩にかけて降りてくる。アキラのリュックだ。きたときはあれひとつだったはずなのに、いつの間にか増えているものだな。 玄関でローファーを履いた星さんに段ボールを手渡す。 「大丈夫ですか?」 「ええ、軽いですので。それにこの仕事、これくらいできないと務まりませんから」 彼女は苦笑。 「晶子によくしてくださったことには、お礼を言わせていただきます。ありがとうございました」 そう言うと深々と頭を下げた。 「もしよろしければ、少ない額ですがお礼をさせていただきたいのですが」 「けっこうですよ」 僕は間髪入れず答えていた。 それはつまり手切れ金と口止め料。僕とアキラの関係を、そんなもので清算されるのはあまりにも心外だった。 「そうですか。わかりました。……それでは失礼いたします」 そうして彼女は出ていった。 程なくして表で車のエンジン音が聞こえ、遠ざかっていく。 ロフトを見ると、きれいさっぱり片づいていた。もとよりアキラがどのように使っていたかを知らないのだが、そんな痕跡などどこにもないくらいに何もなくなっている。 何も残っていなかった。それこそアキラなんていう少年など、最初からいなかったかのように。 アキラと過ごした日々は夏の幻想曲(ファンタジア)、といったところか。 僕の口から自嘲めいた苦笑がもれた。 別に星さんに脅されたからというわけではないが、それ以降、僕はアキラと連絡をとらなかった。彼女と僕は住む世界が違うのだ。トップアーティストに声をかけるなんて畏れ多い。 逆に、彼女から僕へも連絡はなかった。きっと一介の音大生にかまっている余裕などないのだろう。 動画のほうは当然、再生数が飛躍的に伸びた。数字だけ見れば喜ばしいことだが、視聴者が増えれば賛否が入り混じるのが動画界の常。なかなかぐさっとくる意見もあった。中には「小比賀晶子の癖がある」なんて知ったふうなコメントもあったが、後に音楽雑誌のインタビュー記事の中で彼女自身が、あの曲はほとんど"ナオミ"が書いたものだと述べた。おかげで彼らは立場がなかったことだろう。 その辺りからシンガーロイド初心者、MMD初心者への温かい言葉が増えはじめ、次回作に期待する声も少なからず出てきた。……今のところ僕は、次の作品を手掛ける気はないが。 一方、アキラ――小比賀晶子にも賛否両論あった。歌姫とも称されるトップアーティストの遊び心を許容する意見もあれば、「J-POPが行き詰まってネットに媚び出した」「いつか芸能人がシガロ曲を歌うと思ってた」「俺の嫁が汚れる」といった意見も多い。シンガーロイドの熱狂的なファンにとっては、芸能人がこちら側に手を出してくることに抵抗を感じるのだろう。 先の試みに各方面から一時的に批判を浴びたが、アキラはそれでも以前と同じようにアーティストとして活動を続けているようだ。 僕は相変わらず日本のポップスには興味はなく、小比賀晶子の歌を聴いたりもしていないのだが、時々歌番組などで見かけると、その元気そうな姿に嬉しくなる。……きっともう家出をすることもないのだろう。 そうしてアキラと出会った夏は終わり、短い秋が過ぎ、冬を越えて春が巡ってきた――。 四月、僕はめでたく三回生となった。 今日はその初日。 いつものように自転車で登校すると、新年度のガイダンス会場へと向かう途中でタージマハールこと但馬陽輝と会った。「やー」「おー」とテキトーな挨拶を交わした後、ふたりで肩を並べて歩き出す。 「そうだ、狐塚。知ってるか?」 だらだらと一緒に歩いていると、但馬が急に思い出したように切り出してきた。 「なに?」 「極秘情報だよ。と言っても、もうおおかた広まってるみたいだけどな。ま、お前のことだから知らないと思ってさ――」 何を勿体つけているのだか。 とっとと話すよう続きを促そうとしたそのとき、ガイダンスの会場となる講義棟の前に、黒山の人だかりができているのが見えた。 「なんだろう、あれ」 「あちゃー。さっそくか」 但馬の苦笑い。 いったい何の騒ぎだろうか。僕は首を傾げる。 ほんの刹那。 わずかにできた人の切れ間に、その中心にいる人物の顔が見えた。学生に囲まれ、笑顔を浮かべている。 僕は思わず声を失った。 そこに、アキラがいた――。 そこからはまるで僕たち以外の時が止まったかのようだった。 アキラが視線に気づき、こちらを見た。そこで僕の姿を認め、はっと目を見開く。わずかに泣きそうな顔。うつむき、今度はやり直すように笑みを浮かべる。 そして、動き出す時。 次の瞬間、アキラは駆け出していた。「すみません。道を、道を開けてください」と、人をかき分け、こちらに向かってくる。 「直臣!」 人の輪から抜け出したアキラは、そのままの勢いで僕に飛びついてきた。思わずふらついたが、僕はどうにかそれを体で受け止める。 周囲からどよめきが上がった。 「直臣! きたよ。会いたかった!」 「きたよって、お前。なんでここに……」 彼女を引き剥がし――ふと周りに目をやると、みんながこちらを見ていた。スマートフォンを向けているものもいる。 「ちょっとこっち」 アキラの手を引き、その場を離れる。後ろでカメラのシャッターを切る音が聞こえたが、気にしたくもなかった。 広いキャンパス内には池があり、その周りには桜の木がある。今はもう散りかけているが、毎年満開のころにはイベントも行われる。勿論、今年もあった。つい先週のことだ。 僕たちは今、その桜の木のある池の畔にきていた。 「どうしてアキラがここに?」 「だって、オレ、今日からここの学生だもん。作曲科でコンピュータ音楽専修」 見ればアキラは気取ったふうも着飾ったふうもない、パンツルックの私服姿だった。確かにどこにでもいるような大学生のスタイルだ。ただ立っているだけでどうしようもなく人を惹きつけてしまうような、輝くものを秘めているのを別にすれば、だが。 思わず唖然とする僕に、アキラは続ける。 「オレ、言ったよね? 大学に入ったら声楽か作曲を勉強したいって」 「……そういえば、言ってたね」 確かに有馬先生にそんなことを言っていた。あれは本当だったのか。 「聞いて、直臣。星さんったら直臣と会ったらダメって言うんだよ」 「あのマネージャか」 僕は美人ながら敵意剥き出しの彼女の顔を思い出す。確かにあの人なら言いそうだ。 「だから、直臣がいるここにしたんだ。最初から大学には行くつもりだったしね」 「いいのかよ、それで」 「さあ? 知らない。入ってみたら直臣がいただけだから」 アキラはしれっと言ってのけた。 星さんはアキラを僕から遠ざけたかったのだろうに。僕と同じ大学に入ってしまって、アキラが怒られなければいいが。いや、すでに先の騒ぎだ。もう手遅れかもしれない。 「でも、それだけじゃないんだよ。だって、約束だから」 「約束?」 僕は思わず鸚鵡返しに問い返していた。 「もう、信じらんない! また一緒に曲を作ろうって約束したじゃない」 「あ、ああ、そうだったね」 約束というほどのものでもなかったように思うが。 でも、今は諦めかけていたが、あのときの僕は確かにそう願っていた。同じ未来を思い描いていたのなら、それは約束と呼べるのかもしれない。 「アキラ……じゃないのか、えっと……晶子、さん?」 なんか妙だな。目の前にいるのが小比賀晶子だと思うと、なんて呼んでいいのかわからなくなる。どうも調子が狂うな。 するとアキラは「ううん」と首を横に振る。それから少しだけ姿勢を正し、 「わたしは『比嘉晶(ひが・あきら)』です。よろしくお願いいたします」 彼女は落ち着いた声音で、丁寧にそう発音すると、深々と礼をした。「え? あ、こちらこそ……」と思わず僕も頭を下げてしまう。 顔を上げたアキラは、たおやかに、でも、いたずらっぽく笑った。 「小比賀晶子はデビューしたときにつけた芸名なんです。ほら、比嘉晶って響きが男っぽいですから」 「な、なるほど……」 アキラという名前も本当だったわけだ。意外と嘘は少なかったんだなと改めて思う。 そう考えた途端、思わず笑みがこぼれた。 どうして? またアキラと一緒に曲を作れるから? 違う。 とても簡単なことに、今さらながらに気づいたからだ。 アキラという名前。 アキラが語ったこと。 交わした約束。 そして、あの日僕たちが作った曲。 すべてがちゃんと本当のものとしてそこにあって――何より、彼女は今、僕の目の前にいる。 「どうかしましたか、直臣。なんか笑ってます?」 「いや、夏の幻なんかじゃなかったんだなと思ってね」 わからないといった顔をしたのは一瞬だけのこと。アキラはすぐに笑みを浮かべる。 「当たり前じゃない」 確かにそこにいる少女は、少年の口調で僕にそう言ったのだった。 夏に出会った僕らのエチュード −了− 2014年3月13日公開 |
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