ベーカリーカフェでの昼食も終わりに差しかかる。
「直臣って、ピアノ上手ですよね」
 わたしは、自分でもどうかと思うくらい稚拙な言葉で、そんなことを言ってみた。大学生なんだから、もう少しほかに表現があるだろうに。
「お。さすが歌姫。見る目があるね」
 向かいに座る但馬さんが、まるで自分のことのように嬉しそうに同意する。彼のほうはすでに昼食は終わっていて、後はグラスの中にコーヒーを半分ほど残すばかりだった。
「狐塚は"もってる"。場数を踏めば、もっと伸びるよ」
 彼はいつになく真剣な表情でそう断言する。
「それに作曲のほうも。基本に忠実だけど、最初にしちゃいい出来だったんじゃないかな。俺が初めて作った曲なんてもっと素人くさかったけどな。こっちも数をこなせば、いずれ面白い曲を書くと思うよ」
 多彩な才能をもち、シンガーロイド用の曲を作っては動画サイトに投稿しているこの先輩がここまで言うのだから、きっと間違いないのだろう。
「狐塚がいい曲を書くようになったら、ぜひ晶ちゃんのほうで使ってやってくれよ」
「……」
 それは考えてもみなかった。
 想像してみる。直臣が曲を書いて、小比賀晶子が歌う――。
 とても素敵な未来図。
(ふたりの初めての共同作業です……!)
 じゃなくて。
 でも、それはすでに『UNDER THE ROSE.』でやったこと。なら、まんざら夢物語でもないのかもしれない。
 
 そんなことを考えていると、
「こんにちは、小比賀さん」
 不意に、声。
 反射的にわたしの眉間にしわが寄った。声だけで誰かわかったからだ。顔を上げれば案の定、そこにいたのは鹿角さんだった。
「こんなところで隠れるようにして食事なんて、有名人は大変ね。私も似たような境遇だから、その気持ちもわからなくはないけど」
「……」
 この人はなぜわたしと張り合っているのだろう。
 鹿角水緒美さん。
 彼女は、器楽科弦楽器専修バイオリンコースに所属する先輩だ。世界に名を轟かせる名指揮者、鹿角周二の娘で、彼女自身も美人女子大生バイオリニストとして、すでに各方面で活躍をはじめているほどのサラブレッドでもある。美人○○とか、少し前の美人すぎる○○なんていうのは、その分野での話であって、たいていはそれほどでもなかったりすることが多い。けれど彼女は、勝ち気な性格が目に現れているものの、間違いなく美人だ。……わたしも負けてはいないけれど。
「そうでもないですよ。わたし好きですから、ここ」
 わたしは、内心に抱えた複雑な思いを顔に出さず、努めて冷静に返す。
「そう。じゃあ、午後の講義に行くにもまだ早いし、せっかくだから少し一緒させてもらっていい?」
 そう言って鹿角さんは、わたしの返事も待たず、空いているイスに座った。但馬さんの隣だ。それから学生生協で買ったらしいプラスティック容器のコーヒーをテーブルに置き、横に貼りつけられていたストローをカップのフタを通して突き刺す。このベーカリーカフェは独立したお店だけど、所詮は学生食堂の延長なので、持ち込みに関してはおおらかだ。さすがにお弁当は広げられないけど、飲みもの程度ならとやかくは言われない。
 わたしは鹿角さんの振る舞いに、思わずむっとしてしまう。
 これも何かの対抗心の発露なのか、彼女は何かとわたしに近寄ってくる。こうしてお昼やらお茶やらを同席する機会は、但馬さんの次くらいに多い。少なくとも直臣よりははるかに多いだろう。
 とは言え、わたしは、ある意味では彼女に感謝こそすれ憎む理由はないのかもしれない。そう思えば彼女にも優しくできるというもの。
「あ、グミ食べます?」
「ええ、もらうわ。ありがとう」
 わたしが鞄からグミのお菓子を取り出し、袋の口を開けて差し出すと、彼女は丁度いいお茶請けとばかりに手を伸ばした。
 そう。わたしは彼女に対して複雑な思いをもっている。
 なぜなら、鹿角さんは前の夏まで直臣の恋人だった人で、
 そして、
 直臣を振った人――。
 直臣を振ってくれた人――。
 
 
 
「アキラ、午後から学校に行ってくるよ」
 あの夏、直臣がそう言い出したのは、一緒に曲作りをはじめてしばらくがたったころだった。
 聞けば学校にはレッスン室があるのだそうだ。
「直臣、オレも一緒に行っていい?」
 わたしも大学という場所には興味があった。いずれはどこかに通うつもりだし、一度見学しておくのもいいかもしれない。それに部屋ではいっこうに弾こうとしない直臣のピアノを聴くいい機会だと思ったのだ。
 直臣は少し考えてから、首を縦に振ってくれた。
 レッスン室の予約は午後にとったらしく、学校に行くのはお昼を食べてからということになった。それまでは例の如く作曲作業。先日、わたしも勢いで自分用のノートパソコンを買ったので、作業の効率はぐんと上がっている。
 やがて時計の針は十一時半を過ぎて。
「直臣、お昼は何がいい?」
 作業が一段落したところで顔を上げ、そう聞いてみる。が、彼からの返事はなし。それもそのはずで、見れば直臣の耳はヘッドフォンで覆われていた。
 しばらく待ってみる。
「……」
 ……。
 ……。
 ……。
 が、集中しているらしく、いっこうに声をかけるタイミングが訪れない。
「もぅ」
 本当はなぜだかずっと直臣を見ていたい気分で、でも、そんな自分が恥ずかしくて――わたしはかたちだけ怒ってみせてから、立ち上がった。もう勝手に作ってしまおう。
 メニューはすぐに決まった。サンドウィッチだ。お忙しい直臣伯爵にはちょうどいいだろう。
 まずはゆで卵を作るため、鍋に水を入れて火にかける。その間にレタスやツナ缶、マスタードにマヨネーズなどを用意する。お湯が沸いたら卵をそっと入れ、十分ほど待つ間に隣でベーコンをさっと焼く。ゆで卵が出来上がるころには、テーブルの上にはサンドウィッチに挟む具がひと通りそろっていた。後はこれを好きに挟んで完成。実際、十二時を少し過ぎたころには、大皿に色とりどりのサンドウィッチが並んでいたのだった。我ながら手際のよさに感心する。
「ん? ああ、もう昼か。……アキラ、お昼――」
「もうできてる」
 お昼はどうしよう、と言いかけたのだろう直臣の発音を遮って、わたしはわざとむっとしたような声を作って言った。サンドウィッチの載った大皿をテーブルの上に置く。
「悪い。……サンドウィッチか。食べやすくていいね」
 直臣は嬉しそうにそう言って立ち上がり、洗面所で手を洗ってから戻ってきた。
「いただきます」
 さっそくツナマヨネーズサンドを手に取ると、あろうことかそのまままたパソコンデスクの前に座ってしまった。
(えー……)
 わたしの内心はこれだった。
 せめてお昼のときくらいは手を止めて、向かい合って食べるものだと思っていたのに。それだけ作曲のほうが順調だということなのかもしれないけれど。これでは本当にサンドウィッチ伯爵のエピソードそのままだ。
(しかも、感想もないなんて。そんなんじゃ女の子に嫌われるんだから)
 尤も、今のわたしは男の子だけど。
 ふと、直臣の背中を見ながら思った。彼には恋人がいるのだろうか、と。
 わたしがこの部屋に泊めてもらうようになってそろそろ一週間がたつけれど、今のところそんな気配は見あたらない。きっといないんだろうな。うん、いないに違いない。わたしはそう結論した。
 恋人のいない寂しい男の子であるところの直臣は、ここ最近自分の部屋で一緒に寝起きして、四六時中一緒にいる家出少年が女の子だなんて微塵も思ってないんだろうなぁ。ましてやそれが世間では歌姫なんて呼ばれている小比賀晶子だとは。そう考えると、わたしは直臣の背中を眺めながら、思わず頬が緩んでしまう。
 と、不意に直臣が振り返った。わたしは咄嗟にノートパソコンに目を落とす。
 上目遣いに彼の様子を窺えば、彼はただ単に次のサンドウィッチに手を伸ばしただけだった。ああ、びっくりした。
 その後もわたしは、直臣の背中を眺め、彼が振り返るたびに顔を逸らすの繰り返しだった。
 
 
 
(まぁ、結局、目の前にいるこの人が直臣の彼女だったわけだけど……)
 その彼女は今、グミを勝手に取ろうとした但馬さんの手を、音も高らかにはたいていた。
 
 
 
 午後になって、レッスン室の予約の時間に合わせて家を出る。が、ここで問題が発生した。
 直臣が言い出したのだ。
「よし、アキラ、ふたり乗りだ。後ろに乗って」
 と。
 ふたり乗り?
 ふたり乗りというと、普通後ろからがばっと抱きつくようにして乗るものではないだろうか。確認を込めてそう問うと、直臣はあっさりと「まぁ、そうなるね、普通」と答えた。
 それはマズい。
 何がマズいって、そんなことをすればいくらわたしの胸が残念だといっても、さすがに女の子だとバレる、はず。バレなかったらバレなかったで、それもマズい。わたしの精神的ダメージが絶大だ。下手をすると立ち直れない。
 しかし、直臣は日中のこのいちばん暑い時間にだらだら歩いていくつもりはないらしく、断固として譲ろうとしない。仕方なくわたしはむしろ向きに、直臣と背中合わせに乗ることにしたのだった。
 
 その後の学校での出来事でわかった。
 直臣とわたしが似ていると思った理由。
 直臣が自分のピアノを指導教員である有馬先生に否定されたとき、彼は落胆の表情も肩を落とすような素振りも見せなかった。言うなれば、諦め。直臣は幾度となくこういう評価を下されてきたのだろう。
 つまり。
 彼もまたわたしと同じく、自分ではどうしようもない壁を前にして、行き詰っているのだ。
 いいかげんな食生活もそこに起因しているのではないだろうか。わたしもそうだった。頂点から滑り落ちて、どうやっても這い上がれなくなったとき、最初に手を抜きはじめたのが食事だった。直臣と出会った日も、その前の晩も、ろくに食べていなくて、気がつけば倒れかけていた。食べることは生きること。別に生きることを放棄したわけじゃないけれど、努力することが無駄に思えたときに、エネルギィの補給もテキトーになった。
 わたしは、直臣のピアノを避ける態度や端々に垣間見える退廃的な雰囲気、投げやりな食生活に、自分との共通点を無意識に見出していたのだろう。
 
「なに、君にはまだチャンスはあるんだ。諦めることはない」
 有馬先生は、そう言ってレッスン室を出ていった。
 わたしは態度にこそ出さなかったものの、感じの悪い先生だと思った。去っていくその後ろ姿に舌を出してやろうかと思ったけど、さすがにそれはやめておいた。
「ところで、今の、何の話だったの?」
「ああ。留学の話だよ」
「……え?」
 その単語は不意打ちのようにわたしの頭を打った。
 学校からの帰り、道々聞いた話によると――直臣の通う音大にはオーストリアに姉妹校があり、毎年そこに何名かの学生を留学させているのだそうだ。その候補に直臣の名前も挙がっていて、夏休み明け間もなく、その選考結果が出るのだという。
 わたしの気持ちが揺れた。
 本当は、直臣はわたしと遊びで曲なんか作っている場合ではないのではないだろうか。それこそ一日八時間くらい練習して、あの有馬先生を認めさせなくては。きっと直臣ならできる。せっかくのこのチャンスを、直臣にはぜひ掴んでほしい。
 そう思う。
 そう思わないと。
「……」
 だけど、わたしの正直な気持ちはそうではない。このまま一緒に曲を作り続けたいと思っている。日々かたちになっていくこの曲が、最後にどんな姿になるのか見届けたかった。
 直臣の邪魔はできない。
 でも、直臣と一緒にこの曲を作り上げたい。
 そんな葛藤を胸に抱えたわたしは、ノートパソコンを起ち上げ、横にはルーズリーフも用意していたけれど、作曲も作詞もさっぱり進んでいない。すっかり手が止まってしまっていた。
 顔を上げれば、自分のデスクトップパソコンに向かう直臣の背中が見える。
 直臣は口数の少なくなったわたしを気にしてか、いろいろ話しかけてくれていた。でも、それも夕食まで。あまり効果がないと見るや、今はもうほうっておくことにしたようだ。きっと家出がらみのことで考え込んでいるとでも思っているのだろう。
 このままではいけないと思った。
 直臣が心配するし、自分の気持ちも伝えないと。本当は何を言えばいいかわかっていないけれど、とにかく直臣と話をしないといけないと思う。
「……直臣、あのさ――」
 わたしは意を決して直臣を呼ぶ。彼がイスを回転させ、振り返った。
 と、そのとき、タイミングの悪いことに、直臣のスマートフォンが着信を告げるメロディを奏でた。彼はそのディスプレィを確認してから、こちらを見――、
「悪い。ちょっと待ってて。後でちゃんと聞くから」
「う、ううん。気にしないで」
 わたしは首を横に振って答えた。
「もしもし?」
 直臣は立ち上がると、端末を耳に当てながらキッチンスペースへと歩いていく。
「ごめん。ぜんぜん連絡できなくて」
 相手は誰だろう? 友達だろうか。ここは楽器を使う音大生向けのマンションなので、防音がしっかりしている。直臣がキッチンスペースに出てドアを閉めてしまえば、それきり話し声は聞こえなくなった。
 直臣が出ていったドアを見ながら、わたしはほっと安堵のため息を吐く。
 勢い込んだわりにはこうして肩透かしを喰らったけど、もとより頭の中もろくにまとまらないまま話し出そうとしていたのだ、逆にこれで肩の力を抜いて話せそうな気がする。
 程なくして直臣が戻ってきた。あまり長い話ではなかったようだ。
「悪い、アキラ。明日、少し出かけることになったから」
「もしかしてデート? 今の電話、彼女からだったりして」
 余裕が出てきた証拠に、わたしはそうやって茶化す。
 ところが、だった。
「実はその通りなんだ」
 
(え……?)
 
 直臣はちょっと照れた様子で、言いにくそうにそんなことを言ったのだった。
 それはわたしにとって、留学の話以上の衝撃で。
「でも、まぁ、明日はそういうのではなさそうだけど」
 それから直臣は、表情を少し複雑なものへ、はにかんだ笑みは苦笑へと変えて、そう続ける。
 そんな彼の態度が、彼女のことをとてもよくわかっているのだと言外に言っているように見えて――わたしの胸をどうしようもなく締めつけた。それでもわたしはどうにか声を絞り出す。
「あ、直臣、彼女いたんだ……」
「まぁね。あまりそうは見えないだろ? 友達にもよく……うわっぷ!」
 気がつけば直臣にクッションを投げつけていた。
「なんだよ、いきなり」
「知らない! そんなのオレにだってわかんない!」
 本当に、わけがわからなかった。
 わたしはどうしてこんなにも苛立っているのだろう。理由は自分でもわからない。わからないけれど――ただでさえ昼間に留学の話を聞いていろいろ考えて込んでいるところに、直臣に彼女がいると知って、いよいよわけがわからなくなってしまった。
 わたしは直臣の前にいるのが辛くて、勢いよく立ち上がると、ロフトへと駆け上がる。
「あ、おい。話があったんじゃ……」
「もういい!」
 叩きつけるようにそう言い放ち、簡素な組み立て式のパイプベッドの上に身を投げ出した。
 本当に、わけがわからなかった。
 
 
 2014年5月18日公開

 


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