「直臣って気が利かない……」 ライブラリーカフェに着いて、直臣の姿を見つけた瞬間、わたしは「うわぁ」って気分になった。 ――図書館の一階。 そこはほかの大学でいうところのラーニング・コモンズなのだけど、図書館の展示コーナーと新着図書コーナーも兼ねている。新年度がはじまったばかりの今の展示コーナーは『新入生に薦める100冊』がテーマらしい。また、ここには自販機やコーヒースタンドがあるため、本の飾られたセンスのいいカフェのようになっている。 通称、ライブラリーカフェ。 確かにそこで直臣は待っていた。ただし、ひとりではなく、お昼に別れた但馬さんや浅井さん、果ては鹿角さんまでいた。 「……」 鈍いを通り越して残念なレベルにまで達した直臣に期待したわたしが悪かったのだろうか。 肩を落として歩み寄る。 「お、きたな」 最初に声を上げたのは但馬さん。直臣もわたしを見て笑ってくれる。 「ごめんなさい。遅くなりました」 「いやいや、俺たちも今きたところ」 四人は小さな四角いテーブルを囲んでいて、四辺のイスにそれぞれが座っている。但馬さんは手を伸ばすと、「ひとつ借りるよ」と隣のテーブルの余っているイスを手繰り寄せた。彼と直臣の間にひとつ席が増えた。 わたしはそこに腰を下ろす。直臣の隣だ。 「ちょうど晶ちゃんの話をしてたんだ」 「え? わたしの、ですか?」 知らないところで話題にされるのは覚悟の上、というか、有名税みたいなものだと思っているけど、それがこの四人だと単なる小比賀晶子の話では収まらないような気がする。 「アキラ、お前、但馬に夏の話をしただろ」 ようやく口を開いた直臣はやや呆れ気味。 「え? あ、えっと、その、勢いで……」 「おかげで但馬がペラペラしゃべって大変だよ」 「但馬さん……」 但馬さんだから話すって言ったのに……。わたしは半眼で彼を見る。 「だ、大丈夫だって。このメンバーにしか言ってないから」 「や、でも……」 わたしが次に目をやったのは鹿角さんだった。何せこの人は昼、わたしと直臣がキスをしたことを言いふらすと言ったのだから。 と、心配しているところに浅井さんが口を開く。 「大丈夫なのですよ、比嘉。鹿角ならしゃべったりしないのです。そうですよね、鹿角?」 「え、ええ、まぁ……。私だって別に小比賀さんが困ることをしたいわけじゃ……」 水を向けられた鹿角さんは、そっぽを向きつつ、どこか言いにくそうにごにょごにょと答える。先ほどのは口だけだったらしい。この人もわからない人だ。 わたしは直臣に向き直る。 「だそうですよ、直臣」 「いや、だからってさ」 しかし、それでも彼はまだ何か言いたげだった。 あ、その態度、ちょっとむっときた。 「でも、本当のことです。隠さないといけないようなことをしたつもりはありません」 小比賀晶子が失踪して男の家に転がり込んでいたなんて、十分隠さないといけないことだけど、ここは勢いで押し切ることにする。 「何なら今度『Ready with Music』の取材もありますし、そこで話してもいいですよ」 『Ready with Music』とは、学生と広報課が連携した情報誌のことだ。このライブラリーカフェの隅にある広報ラックにも、創刊第ゼロ号と第一号が置かれている。中には学生へのインタビューのコーナーもあり、第二号ではわたしを取り上げたいとオファーがきているのだった。 もういっそ告白本でも書こうかしらん? ("そのときの彼が今の旦那様なのです"とか書いたりして……!) うん、いつか書こう。 「わかったよ。僕の言い方が悪かった。お前がそう言うなら僕はとやかく言わないよ」 そうしてついに直臣は降参したようにそう言ったのだった。 でも、ちょっとだけ不安になる。 「あの、直臣? 怒ってますか?」 何せわたしは入学初日から直臣に多大な迷惑をかけてしまっている。これもあのときと同じ種類のものだ。 「大丈夫。怒ってないよ。でも、その話はこのメンバーだけにしてくれると助かるかな」 「はい、わかりました」 普段通りの彼の口調に、わたしはほっと胸を撫で下ろす。 「それにしても狐塚はよくあの部屋に比嘉を連れ込んだのです。ぜんぜん知らなかったのですよ」 「人聞きの悪い言い方をしないでくれ」 直臣は苦笑。 「夏休みの真っ最中だったからね」 「比嘉が女だと気がつかなかったのですか?」 そこで直臣は「う……」と、一瞬言葉を詰まらせた。彼としては、そこは痛いところだったのだろう。わたしに隠そうという意図があったとは言え、一ヶ月近くも一緒にいて女の子だと見抜けなかったのだから。 「ロフトを使わせていたからね。そこそこプライベートは守られていたんだ」 「ああ、あそこを比嘉の部屋にしていたのですね」 納得する浅井さん。 ん? もしかして浅井さんって、直臣の部屋の間取りを知ってる? 入ったことある? 「でも――なるほどなのです。これで比嘉が狐塚に懐いている理由がわかったのです」 「懐いてるっていうか、もっとほかの表現がありそうだけどな」 今度は但馬さんがにやにや笑いながら言う。 いや、ほかの表現はしないでほしい。わたしが直臣の気持ちをはかりかねて何も言えないでいるのに、それを勝手に言われても困るし。 「ああ、そうだ。アキラ、クレープはもう食べたかい?」 「クレープ?」 唐突に出てきたクレープという単語に、わたしは問い返す。学生生協に美味しいクレープでも売っているのだろうか。 「一般教室棟エリアの真ん中に噴水広場があるだろ?」 わたしはうなずく。 ここは音大だけど、一般教養科目の授業を受けるための普通の教室も当然あって、その普通の教室の入った普通の講義棟ばかりが集まっている区画が、一般教室棟エリア。そこの真ん中が噴水のある広場になっているので、噴水広場と呼ばれている。尤も、水は噴き出さず、単にオブジェが水に囲まれているだけなのだけど。 「そこに月に一、二回、クレープ屋がくるんだ」 「初めて聞きました……」 「だろうね。確か四月になって初めてのはずだから」 直臣の口振りからして、それが今日きているに違いない。 大学にくるクレープ屋さんってどんなのだろう? どんなお店? 美味しい? ぜんぜん想像がつかなくて、興味が尽きない。 「直臣、わたし行ってみたいです」 「じゃあ、私が一緒に――」 「鹿角、ここはお前の出番ではないのです」 なぜか真っ先に腰を浮かせた鹿角さんを、浅井さんが押しとどめる。 「ほら、狐塚、つれてってやれよ。晶ちゃんのご指名だぞ」 「指名ってわけじゃないと思うんだけどな」 いえ、指名しました(きっぱり)。 「じゃあ、アキラ、行ってみるか」 「はいっ」 立ち上がった直臣に続き、わたしも席を立つ。 「いってこーい」 但馬さんたちに見送られながら、わたしと直臣はライブラリーカフェを出た。 直臣と並んで一般教室棟エリアへと歩く。 こうして直臣とふたりきりになるなんて、いつぶりだろう。この四月にここに入学して、もうそろそろゴールデンウィークの足音も聞こえてきたというのに、まだ数えるほどしか会ったことがない。会うときはいつもほかに誰かがいる。 直臣はわたしのことをどう思っているのだろう? 一度はキスもしたというのに、まるですっかり忘れているか、そんなことなどなかったかのようにおくびにも出さない。あのときのわたしは男の子だったからノーカウントなのだろうか。 わたしはいつも持ち歩いている"お守り"を意識する。……大丈夫、わたしと彼の間にはまだこれがある。 「あ……」 思わず隣にいる直臣にも聞こえないくらい小さな声を上げてしまった。 わたしの目にそれが飛び込んできたからだ。 ここはメディアセンターエリア。今わたしたちが出てきた図書館をはじめ、学術交流会館や講堂、コンサートホール、情報教育棟など、雑多なものが集まったメディアミックスなエリアだ。そして、その中にはこのエリアの名前にもなっているメディアセンターがあり、そこにはスタジオがある。 そう。直臣のピアノの収録をした、あのスタジオだ。 わたしはまた、あの夏のことを思い出す――。 わたしと直臣は改めて一緒に曲を作ることを決意し、本格的に作曲の作業に入った。 「アキラ、入れたいアイデアとかある?」 そんな中、直臣が聞いてくる。 わたしは居室の真ん中のテーブルで、ルーズリーフに向かって歌詞を思案中。ノートパソコンもあるけど、小比賀晶子の作詞スタイルはいつもこう。紙とペン。顔を上げればデスクトップパソコンに向かって、DTMで曲を作っている直臣の背中があった。 「作曲は直臣、オレは作詞。オレに聞いてどうすんのさ」 「まぁ、分担はそうなんだけど。アキラに何かアイデアがあるんなら、入れたいと思ってね。僕も考えやすいし」 と、手を止めずに、直臣。 「何かない?」 改めて問われ、わたしは考える。 閃いた。 「じゃあさ、イントロはピアノのソロからがいいな」 「ピアノのソロ?」 「そう。ちょっと前にさ、オレが生まれる前に活躍してたビジュアル系バンドのDVDを見たんだ。リーダーでドラムの人が、まずピアノをソロで弾いて、それからドラムに移動するの。あれが格好よくてさ」 「ああ、あれね」 知っていたらしい。直臣も生まれてるかいないかくらい前のバンドだから、リアルタイムでは見ていないはずだ。やはりDVDか何かで見たのだろう。あの人は四歳でピアノを買い与えられて、英才教育を受けて育ったような人だし、同じピアニストとして興味があったのかもしれない。 「ピアノのソロか。……わかった。考えてみるよ」 「うん。よろしくー」 そこはしっかりいいものをお願いしたい。イントロで聴き手の気持ちをぐっと引き寄せたいし、それに何より……。 (あと、人と話をするときくらい、こっちを向いてよね。べー、だ) 直臣が向こうを見てるのをいいことに、わたしはその背中に向かって舌を出した。 半日ほどで歌詞は書き上がった。 の、だけ、ど? (えっと、な、何この恥ずかしい詞……) いや、普段から愛とか恋とか夢とか乱舞する、冷静に見たら恥ずかしくなるような詩を書いていると言えばそうなのだけど。今回のはまた……。 要約すると、 振られた少女がいて、それを見て自分にもチャンスが回ってきたと思ってしまった少年がいて。じゃあ、それなら振られたことも、自己嫌悪も忘れて、ふたりで踊りましょう。朝まで踊り狂いましょう。 そんなストーリィの詞。 直臣が兎に角ノリのいい曲を作りたいと言っていたから、踊り倒せそうな詞にしたけど……。愛も恋も夢もいつもより少ないのに、いつも以上に恥ずかしいものができ上がった。 (いや、だってこれ、どう考えたって……) そう。これは今のわたしの気持ち。 男女をひっくり返して、振られた少年を直臣に、身勝手な女をわたしに当てはめれば……はいできあがり。わたしが直臣のことを想って、わたし自身のことを綴った詞だ。 「〜〜〜っ!」 思わず胸を押さえながら、テーブルに突っ伏してしまう。でも、今はこれ以外書けそうにないのも確かだった。 「どうした、アキラ」 「……書けた。いちおう」 わたしのそのままの体勢で、手に持っていたルーズリーフを直臣に差し出した。 「どれどれ」 指から紙の感触が消えた。直臣が取り上げたのだ。 彼がそれに目を通す間、やっぱりわたしのそのままの体勢で、身動きひとつせず、まるで審判を待つかのようにじっと直臣の言葉を待った。これまで小比賀晶子として、あの作曲家、このシンガーソングライター、いろんな人に曲を作ってもらうために、自分で書いた恥ずかしい詞を手渡してきた。だけど、こんなにも緊張したのは初めてだ。 「うん。いいんじゃないか」 「そ、そう? 直臣がいいんならいいんだけどね」 ほっと胸を撫で下ろす。 「じゃあ、ここからはこの詞で曲を書いていくよ。もしかしたら歌詞の修正を頼むかもしれないけど、そのときはよろしく」 「ん。わかった」 そうして直臣がまたパソコンに向かったのを耳で確認してから、わたしは体を起こした。 「あ、そうだ。アキラ」 「え? な、なに!?」 油断したところに振り返るものだから、飛び上がりそうなほど驚いた。こんなところにホラーの手法を持ち込まないでほしい。 「曲名はどうする?」 「ああ、うん、それもいちおう決めてあるんだ」 曲名は、『UNDER THE ROSE.』。 そう。 想いは秘密。 秘密の想い。 なら、秘密は薔薇の木の下に……。 そうして二日後。 ついに曲が出来上がり、それをふたりでじっと耳を澄まして聴く。 「完成した?」 「ああ、完成した」 「したね」 曲が終わってたっぷり一分はたったころ、わたしたちは呆けたように間の抜けた言葉を応酬したのだった。 一拍して、直臣が肩の力を抜いた。深い息を吐く。 「お疲れ、アキラ」 「うん。直臣もね」 実際のところ、九割方直臣の成果だ。 わたしから歌詞を受け取った直臣は、そこから一気呵成に曲を書き上げた。ときにあれだけ避けていたピアノを自ら叩き、ときにわたしに意見を求め。そうして作った曲をシンガーロイド、流華に歌わせ、さらに調声と呼ばれる作業を経て――『UNDER THE ROSE.』の完成だった。 確かにわたしも意見を出した。小比賀晶子のアルバムには、毎回一、二曲くらいは自ら作曲したものがあるが、つまるところその程度だ。その程度でしかないわたしの意見なんてたかが知れている。 だから、これは直臣がほとんどひとりで作り上げたようなもの。それでもちょっとだけ関わらせてもらって、わたしは十分に満足していた。 「結局ポップスっぽくなったね」 「う、うるさいなー」 直臣に歌詞を渡した後も何度か考えてみた。目指すはシンガーロイド曲独特の、先の鋭い自己主張と、突き刺さるような尖ったセンスの歌詞。でも、やっぱりダメだった。だって、仕方がない。小比賀晶子ならポップス的な歌詞がいくらでも出てきて、そのうちにわたしの目指したような歌詞をひねり出せるのかもしれない。だけど、今のわたしは"アキラ"で、中身は"比嘉晶"。ここには小比賀晶子などどこにもいない。そして、アキラは今の気持ちを表現するので精一杯だったのだから。 直臣はこれをネットにアップロードするための動画について考えを巡らせているようだ。お疲れだったり、次のことを考えているところ悪いけど、彼にはもうひと頑張りしてもらおうと思う。 「提案なんだけど、やっぱりピアノ部分は直臣の生演奏にしない?」 そうわたしは切り出した。 僕の、ねぇ――と、思案する直臣。 「生の演奏を入れるとして、別に僕である必要はないよな。もっと上手いやつをつれてくればいい」 「でも、これは直臣の曲だよ」 はっきり言ってしまえば、わたしは別に直臣のピアノに才能を見出したわけではない。上手だとは思うけど、ただそれだけ。 でも、わたしは彼のピアノが好きだ。 だから、この感情のこもらないDTMで作った、歌声すら音声ライブラリのこの曲に、直臣の生きた演奏を組み込みたかった。直臣の曲である証に。そのためにイントロをピアノソロにしてもらったのだから。 だけど、直臣から返ってきたのは、やろうとか嫌だとかではなくて、 「僕とアキラの曲だ」 そんな訂正だった。 「え? あ、うん、そうだね」 びっくりした。 わたしの力なんて微々たるものなのに、直臣はそんなふうに思っていてくれたなんて。すごく嬉しかった。嬉しくて思わず顔が熱くなって、言葉がしどろもどろになってしまう。 その後、どうにか直臣を説得して、一考の余地のある案だと思わせることに成功した。 ただ、そうするにしても、どこで収録するのかという問題に当たってしまった。確かにそうだ。この部屋にあるアップライトピアノで弾いて、それをマイクで拾うなんてわけにはいかない。最悪、職業柄わたしがいくつかレンタルのレコーディングスタジオを知っているので、収録はそこでやるつもりでいた。顔見知りのスタッフがいれば手伝ってもくれるだろうし。……確実にいろいろ突っ込まれるだろうけど。 と、思っていたら、 「あぁ、あるな」 「へ?」 どうやら直臣の通う音大に、学生が借りられそうな簡易のスタジオをがあるらしい。 さっそくわたしたちは説明を聞くために学校に向かった。 背中合わせに自転車の二人乗りをする。 「この後、どうする?」 不意に直臣が聞いてきた。 "この後"というのは、曲が完成した後のことだ。直臣は家出少年の身の振り方について聞いてきているのだ。 「戻る、かな?」 「……」 少し考えた後、わたしがそう答えると、彼は黙り込んでしまった。 わたしもその言葉の重みを改めて思い知る。 そう。わたしは戻らなければいけない。今、小比賀晶子は休養中だけど、そう長くは休んでいられない。なぜなら、これはただの現実逃避だから。わたしは苦境から逃げて、流れ流れてここに辿り着いてしまっただけ。いつまでも逃げていたら本当に戻れなくなってしまう。 でも、直臣に聞いてみたかった。 「直臣、オレがいなくなったら寂しい?」 わたしはできるだけからかうような調子を作って問う。 「別に。もとの状態に戻るだけだよ」 「ちぇ」 でも、直臣の返事は素っ気なくて。 ちょっと寂しい。 「ずっと置いてよ。ダメ?」 ああ、なんて諦めの悪いわたし。 「そんなわけにいかないだろ」 「オレのあっと驚くような秘密をおしえてあげるって言っても?」 直臣がずっといてもいいって言ってくれたらおしえてあげる。 わたしが小比賀晶子だってこと。 ほら、十八歳の歌姫なんて呼ばれてるトップアーティスト、小比賀晶子。すごいでしょう? まぁ、今はちょっとトップじゃないけど、一緒にいたら自慢できるかも? って、本当はわたしが一緒にいたいだけなんだけど。 でも、本当にずっといてもいいよって言ってくれたら……それももういいかなって思う。 小比賀晶子の名前も、そこにくっついてる笑っちゃうような宣伝文句も捨てて、直臣のそばにいることを選びたい。……ああ、でも、そんなのトップから転げ落ちた小比賀晶子以上に価値はないか。 わたしの価値って何なのだろう? 音楽シーンの頂点にいない小比賀晶子には価値がなくて、それを捨てた比嘉晶にはそれ以上になくて。 でも、そんなわたしに直臣は言うのだった。 「いらないよ。アキラの秘密なんて」 「知りたくないってこと?」 「アキラはアキラってだけで十分ってこと」 その言葉はまるで小比賀晶子ではないわたしを肯定してくれているようで、本当に何もかもを投げ捨てて直臣のところに行きたくなってしまう。 わたしは自転車をこぐ直臣の背中に体を預けた。 「あーあ。直臣のところにきたの、失敗だったかなぁ」 だけど、もう手遅れ。 だってわたしはもう本気だから。 直臣、大好き。 こんな背中越しじゃ伝わらないだろうけど。 学校のスタジオはちゃんと手続きを踏めば借りられるらしく、直臣はその場で『UNDER THE ROSE.』にピアノの生演奏を入れることを決め、利用の申請まですませてしまった。 家に帰ると、彼はさっそく練習をはじめた。 「アキラ。君、最初から僕にピアノを弾かせるつもりだったんじゃない?」 そうしてピアノを弾きながら、わたしに聞くのだった。 さすがに気づいたらしい。 「さあねー」 わたしは白々しくしらばっくれる。 だけど、直臣はそんなわたしのバレバレのすっとぼけを咎めることなく、ただ呆れるだけ。ピアノの練習を続ける。 気づけばわたしは、その音に合わせて歌い出していた。 「歌、上手いね」 「え?」 その何気ないひと言にびっくりする。 そんなことを言われたのは久しぶりのような気がする。何せ歌手なのだから上手くて当然だ。まぁ、世の中、歌の上手い下手に関係なく、人気だけで売れてしまうのもいるけど。だけど、わたしは歌手。上手いのが当たり前で、その次を求められる。 だから、上手いねなんて言われたのは久しぶりだった。 「歌うのは好き?」 「どうかな。わかんない」 続く直臣の質問に、わたしはそう答える。 それは本当だった。 確かにわたしは歌うことが好きだったはずだ。そうでなければ芸能養成スクールなどに通ったりはしなかった。でも、今はどうだろう? 楽しめてる? プロの歌手としてデビューして、歌うことが仕事になって、歌った後の結果を求められるようになって、だんだんその結果が思ったように出なくなって……今のわたしは迷いなく好きと言えなくなってる。 でも、ひとつ確かなことは、 「この歌は好きだよ」 好きで当然だ。 だって、大好きな直臣と一緒に作った、わたしと直臣の曲なのだから。好きにならないはずがない。 「アキラさ、どんな気持ちでこの歌詞を書いた?」 「え? どうして?」 直臣が言うには参考に、らしい 「もしかして体験談?」 「べ、別にそんなんじゃないよ。ただ何となく」 わたしは慌てて言い訳のように否定する。 果たして、わたしの慌てぶりをどう解釈したのか、直臣はそれ以上は追及してこなかった。 それから二日後、直臣のピアノの収録を経て、『UNDER THE ROSE.』が完成したのだった。 (結局、そこからまたひと悶着もふた悶着もあったんだけど) メディアセンターの前を通り過ぎながら、わたしはこっそり苦笑する。 「直臣、今年留学はどうするんですか?」 この学校にはオーストリアにある姉妹校への留学制度がある。楽都ウィーンにもほど近く、本場のクラシックに触れる機会は格段に増えるだろう。 それは音楽生の夢。 去年は直臣もその候補に名前が挙がっていて、機会が与えられるなら掴みたいと言っていた。 「諦めてはない、かな」 直臣の返事はちょっと曖昧。 曰く「こればっかりはどうしようもない」。この学校の留学制度は、学校側から力のある学生に声をかけ、その中で留学の意志のあるものを選考にかけるのだそうだ。完全に受け身。望んだところで選考にすらかけてもらえない。 「一度手が届きかけたからって、もう一度そこまでいけるとは限らないんだよなぁ」 去年選考にもれた直臣はどうなのだろう。また声をかけられるのだろうか。それともほかの学生が優先的に選ばれるのだろうか。 どちらにしても、せっかく直臣のいるこの学校に入ったのに、留学してしまったらまた離れ離れになってしまう。一年。待っていればまたここに帰ってくるとは言え、やっぱり寂しいと思う。 「でも、いま声をかけられたら迷うかもしれないな」 「え、どうしてですか?」 「……」 「……」 問い返すも、直臣の返事がない。死んでしまったのかと思って隣を見ると、直臣はこちらを見ていて―― 一瞬だけ目が合うと、逃げるようにまた前を向いてしまった。 何だったのだろう、今の間と視線は。 「あ、あの、直臣、答え……」 「ん?」 「留学、どうして迷うんですか?」 もしかして……? 「ああ。まぁ、特に意味はないよ」 直臣の答えはわたしの望んだようなものじゃなくて、なんだかはぐらかされたような気分だった。 2014年12月12日公開 |
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