マナーモードにしておいた携帯電話がテーブルの上で低い振動音を響かせた。
 テキストとノートを広げて勉強していた僕は、首の向きを少しだけ変えてサブディスプレィを見る――と、そこにすっかりお馴染みとなったは槙坂涼の名前があった。
 さて、取るべきか取らざるべきか――と考えてみるが、勿論そんなものはポーズである。しかも、自分に対しての。自分のことを最もよく知る自分だからこそ、迂闊な隙は見せられない。
 僕は端末を掴むと、その空間から出た。
「もしもし」
 自動ドアを通って外へ。そうしてから電話に出る。
 
『今日も月が綺麗ね』
 
「……」
 思わず通話を切りたくなったが、ぐっと堪える。それは自ら負けを認めるようなものだ。戦わずして負けることは許されない。
「……月はまだ出てないと思うが?」
 しかし、出てきた言葉は悪手もいいところだった。
『そう? じゃあ、きっと天邪鬼には見えない月なのね』
「何か用があったんじゃないのか?」
 結局、強引に話を変えてしまった。電話の向こうで彼女は、勝ったとほくそ笑んでいるかもしれない。
『今日、帰りにつき合ってほしいところがあるの。次の授業が終わったら、掲示板の前で待っててくれないかしら?』
「生憎だけど、今日は午後の2時間ぶち抜きの授業が休講でね。僕はもうとっくに学校にいないんだ」
 つき合えなくて実に残念だよ――と、つけ加えておく。というか、もっと早く昼休みにでも言ってくれたら、こっちじゃなくて図書室で勉強していたのにな。
『今どこなの?』
 やや慌て気味に聞いてきた。
「ラーニング・コモンズで勉強中」
『ラーニング・コモンズ……?』
 一字一字確かめるようにその単語をリピートする。
『初めて聞くわ。どこにあるの?』
「さて、どこだろうね。テキトーなところで引き上げるつもりだし、これから授業である槙坂先輩に言っても意味はないんじゃないか? それじゃ、これで」
『あ、ちょっと藤間く――』
 最後に何か言いかけていたようだが、問答無用で電話を切った。これで先ほどの借りは返せたか。
 僕は携帯電話を折りたたむと、カードをカードリーダーにかざし、開いた自動ドアからラーニング・コモンズの中へと這入った。席に戻り、勉強を再開する。
 それから約30分ほどのことだった。
 
「ここがそのラーニング・コモンズ?」
 
 聞き慣れた涼やかな声。
 ぎょっとすると同時、僕はこうなることを予想、もしくは、期待していたように思わなくもない。
 顔を上げればそこには黒髪ロングのオトナ美人、槙坂涼が立っていた。
「……なぜあなたがここにいるのか聞かせてもらえないだろうか。授業は?」
 僕は軽い頭痛を感じつつ尋ねる。
「あの後、急にわたしのほうも休講になったの。驚いたわ」
「……」
 そりゃあびっくりだ。
「もうひとつ。どうやってここに入った?」
 ここに入るにはカードリーダーにIC付きカードを読み取らせなくては自動ドアが開かない仕組みになっている。槙坂先輩がそれを持っているとは思えない。
「丁度ここに入っていく人がいたから、中に友達がいるので一緒に入らせてくださいって頼んだの」
「……なるほどね」
 彼女のことだ、きっと男子学生を捕まえたのだろう。槙坂涼に頼みごとをされて断れるやつなどそうそういない。
 その件は兎も角として、休講云々の嘘を暴くことはとても簡単だ。今から連絡掲示板を見にいくか、携帯電話で明慧大附属のサイトを開けて生徒向け連絡事項のページを見ればいい。しかし、そうやって証拠を突きつけたところで、槙坂涼はあっさり嘘を認めるだけ。たぶん今のこの状況が変わることはないだろう。
 なら僕も頭を切り替えよう。
「よくここまで辿り着けたな」
 電話では聞いたこともないような口振りだったのに。
「きっとわたしには藤間くんの居場所がわかるセンサーがついてるのね」
 そんな冗談を言って彼女は微笑む。継いでテーブルをはさんで僕の前に座った。
「あなたが言うラーニング・コモンズという場所がどんなところか気になって調べてみたの。大学の施設だったのね」
 そう、ここは僕らが通う高校から道一本隔てたところにある明慧学院大学の中だった。もっと正確に言うなら、学術情報館、つまりは大学図書館の管轄下の施設である。
「こっちにきたのは初めて」
「てっきりここの学生とつき合ってたときによくきていたんだと思ってたよ」
 確か槙坂涼にまつわる数々の噂の中にそんなのもあったはずだ。
「前にも言った思うけど、その手の噂はぜんぶ嘘よ」
「ああ、そうだった。ついでに今もフリーなんだっけ?」
 瞬間、彼女はわずかにむっとした表情を見せたが、それはすぐに挑戦的なものへと変わった。
「ええ、でも、好きな男の子はちゃんといて、今がんばってアプローチしている最中なの。まだあまりいい返事はもらえてないけど」
「そいつはひどいやつだな。槙坂先輩ほどの人を放っておくなんて」
 僕は白々しく応じる。
「本当ね。一度は好きだって言ってくれたのに」
「もしかしたら今ごろ、そう言ったことを後悔してるかもしれないな」
 少なくともここに後悔している僕がいるのは間違いない。……まったく。同じネタでこんなにも引っ張られるとは。あんな不用意なこと言うんじゃなかったな。
「ちょっと素直じゃないだけよ。わたしの想像の中だと、口では意地悪なことを言いながら、優しく丁寧に触れてくるわ」
「現実もそうだといいね」
 うっとりとした表情で頬を染める彼女を前に、僕はそれだけを絞り出すのがやっとだった。テーブルの上に置いていたペットボトルのお茶に口をつけ、暗にこの話題はこれで終わりだと告げる。
「それより――ここはどういうところなの?」
 ラーニング・コモンズ内を見回しながら、槙坂先輩が問うてくる。僕もつられて辺りに目をやれば、そこにいる多くの学生がこちらを見ていた。制服姿の附属の生徒が珍しいのもあるだろうが、やはり槙坂涼の美貌によるところが大きいだろう。
 僕はペットボトルを彼女からいちばん遠いところに置いてから答える。
「ラーニング・コモンズというのは、学生の自主的な学習――アクティブ・ラーニングのための場所だ。静寂を美徳とする図書館の中とは違って、ここではディスカッションやグループ研究などにも使えるんだ」
 中に置かれているテーブルやイスは、すべて軽くてキャスターがついていて、簡単に動かせるようになっている。人数に合わせて好きなだけ集めて使えるようにだ。ホワイトボードやパーティションもそう。利用者が自由にデザインできるようになっている。
 見れば今もあちこちで学生がテーブルを囲んで何やら話し合いをし、司会役がホワイトボートにマーカーを走らせている。もちろん、僕のようにひとりで勉強しているものもいる。
「ずいぶんとリラックスした空間ね」
「狙いはまさにそこだろうね。堅苦しい従来の図書館のイメージを払拭するために、1990年代、欧米の大学図書館からラーニング・コモンズははじまったんだ」
 そのため空間の色彩もぐっと明るくなっている。飲みもの程度の持ち込みなら許しているところも多い。
「日本の大学もそれに遅れること十数年、最近になってようやく増えてきたところだ」
「わたしもたまにきてみようかしら」
「ぜひそうするといい。附属の生徒なら学生とほとんど同じように使わせてもらえる」
 槙坂先輩に限ったことじゃないが、高校生の身でありながらせっかく大学図書館を使わせてもらえるのだから、もっと積極的に利用するべきだろう。
「藤間くんはよくここで勉強を?」
「まぁね」
 僕はラーニング・コモンズという場所が好きだった。
 ここは図書館に付属する施設でありながら活気がある。くるたびにテーブルの位置や向きが変わっているのは、よく使われている証拠だろう。たまにホワイトボードに消し忘れが残っていて、証明問題の解答や何かの打ち合わせの名残りがあって面白い。こんな場所では勉強に不向きに思えるが、僕がこの場所を気に入っているせいか、いつも意外に捗っている。休憩がてら周りの話し声に耳を傾けるのも楽しみのひとつだ。
「ずいぶんと熱心ね。やっぱりいい大学に入るため?」
「"いい大学"よりは"行きたい大学"だと思ってるけどね」
 大学なんてある程度までいけば、どこも似たようなものだ。その気さえあればいくらでも学べるし、遊びとバイトに勤しんでも最低限の単位さえ取れば卒業させてもらえる。ならば、偏差値なんていう数字でランク付けされた"いい大学"よりは、自分の行きたい大学を目指すべきだろう。
「あら、お目当ての先輩を追いかけて明慧にきた人が、どの口でそんなことを言うのかしら?」
「……いちおう言っておくけど、図書室が充実しているのと大学図書館を使わせてもらえるという理由もあったんだ」
「そう」
 自分でも苦しまぎれとわかる言い訳も、あっさり聞き流されてしまった。
「ところで大学はどこに行くつもりなの?」
「……気が向いたらおしえるよ」
 僕は槙坂先輩の問いに、あえて回答を避けた。
 僕の行きたい大学は日本にはない。日本にいてもやりたいことは充分にできないだろう。たぶん、僕は高校を卒業したらアメリカに行く。
「早くおしえてくれないと困るわ。わたし、先に行って待ってるつもりだもの」
「……」
 だからだ。そんなことを言うから、僕も今は言うのはやめておこうと思ってしまうのだ。
「それにしても、藤間くんは本当に図書館が好きね」
「そこは否定しない」
 話題が変わったことにほっとしながら、僕は答える。
「実は今年の夏休みにでもヨーロッパの図書館を回ってこようかと思ってる」
「そうなの? ヨーロッパならやっぱりイギリス?」
「それとフランス。あとは北欧だろうね」
 北欧は図書館行政でもまぎれもなく先進国だ。公共図書館は学校教育と非常に密接している上、社会福祉とも融合している。さらに北欧4国で協力体制も整っていて、その図書館ネットワークはほぼ完成されていると言っていい。
 そんな話を興味深そうに聞いていた槙坂先輩は言う。
「楽しそう。日程が決まったらおしえて」
「うん?」
「わたしも都合をつけるから」
「待て」
 何やら聞き捨てならない台詞を聞いた気がする。
「まさか一緒に行くつもりか?」
「ええ」
 彼女は迷いのない様子でうなずく。
「冗談はよせ。男とふたりで旅行なんて正気か?」
「もちろん正気よ。心配しないで。夏までまだ時間があるもの」
 
「きっとそのころには、旅行くらい何でもない関係になってるわ」
 
「……」
 思わず頭を抱える。
 彼女の思惑に抵抗するには、もういっそのこと旅行自体を取りやめるのが早いのかもしれない。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2012年4月30日公開

 


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