「高いな……」
 高低差15メートルを謳うウォータースライダーの最上部から見下ろす景色は、見晴らしもよく、なかなか爽快だ。
 人によっては、だが。
 いくつかのプールで遊び回った僕たちは、ついにバシャーン名物のウォータースライダーへときていた。
「ここを滑るのか……」
「怖いの?」
 眼下に広がる景色に顔を引き攣らせていると、槙坂涼が声をかけてきた。
「誰もそんなことは言っていない」
 口ではな。
 飛行機の窓から見える景色に恐怖を感じる人間はいない。だが、こういう「落ちたら死ぬかな?」というリアルな想像がはたらく高さがいちばん恐怖をかきたてるのだ。
「そういえば藤間くんはこういう絶叫系が苦手だったわね」
「いや、果たしてこれは絶叫マシンに分類するべきものだろうか?」
 僕は槙坂先輩の言葉に対し、逆に形而上学的疑問を投げかけてみる。
「カップル限定でふたり一緒に滑っていいみたいよ?」
 彼女が指さした看板には、ハートマークをバックに確かにそんなことが書かれていた。
「どうする? わたしが後ろから抱きしめてあげましょうか? それともわたしを抱きしめながら滑る?」
「あいにくと『カップル限定』の部分で条件を満たしていないようだ。……お先に」
 僕は係員のゴーサインが出たのを見て、スライダーへと飛び込んだ。あんな大胆な水着姿の槙坂先輩と密着して、抱きしめる? 抱きしめられる? 冗談じゃない。確実に心臓が過労死する。そちらへの恐怖が高さに対する恐怖心に勝り、僕は躊躇いもなく身を躍らせた。
 チューブの中を水流に乗って滑る。
 右に左に、加速と遠心力に翻弄されながら、どんどんスピードを上げていく。そのわりにはまだ終わりの気配がしない。
おいまだかよ、いいかげんにしろよ、と思いはじめたころ、体がざぶんと水の中へと飛び込んだ。ようやく地上に到達したらしい。
「ぶはっ。げほっげほっ」
 水から顔を出し、息継ぎとともに咳き込む。
 ひどいアトラクションだ。飛び降り自殺をした人間は、空中にいるときにすでに魂が抜けていると言うが、僕も途中で魂が抜けるかと思った。よくそうならなかったものだ。このまま放心して水に浮かんでいたいが、そうもいくまい。水をかき分けるようにしてその場を離れる。
 程なくして、楽しげな悲鳴とともに槙坂先輩が滑り降りてきた。
「ぷはっ」
 水から顔を出した彼女は満面の笑み。満喫しているようで何よりだ。
 槙坂先輩は顔にかかる髪をかき上げ、僕の姿を見つけると、泳ぎながら寄ってきた。
「すごいスピード! 楽しいわ」
 興奮冷めやらぬ調子で言い、立ち上がろうとして――、
「きゃあ!」
 いきなり真正面から僕に抱きついてきた。
「ど、どうした?」
 足がもつれたのか?
 
「……ブラがないわ」
 
「ぶっ」
 僕は反射的に離れようとするが、その気配を感じた槙坂先輩がそうさせまいと僕の体に回した手に力を込めた。……ようやく事態の深刻さを理解した。
「……」
「……」
 あまりにも不測すぎる事態に身動きが取れなくなる。
 どちらが言い出したわけでもなく、僕らは腰を落とし、体を水の中へと隠した。だからと言って、やはり離れられるわけでもなく、状況はそれほど改善されてはいない。
「み、見えた?」
「い、いや、見えてないから安心してくれ」
 お互いの腰を抱えるようにして身を寄せ合っている僕らは、周囲にはどう映るのだろうか。場所も考えずイチャつくカップルだろうか。考えたくもないな。
「じゃあ……見る?」
「は?」
「ほら、少しだけ体を離せば、周りにはわからないように藤間くんにだけ見せることができるわ……なんて? 冗談よ。ふ、ふふ……」
 笑う声がぎこちない。
「じょ、冗談だから!」
 わかってるよ、そんな泣きそうになりながら言わなくても。黙ってしまったのは真面目に考えたわけじゃなくて、どう返していいかわからなかったからだ。どうしてこんな極限状態でむりして冗談を言おうとするんだろうな。テンパってるのか。
「おらよっしゃあ!」
 そこにえらく男前な掛け声とともに滑ってきたのは美沙希先輩。
「あン? お前ら何やってんだ? そういうのは真ンちの風呂でやれ」
「やらねぇよっ」
 こんな危険な状態のときに、よけいな想像をさせないでくれ。
「あのね美沙希、ブラが外れてしまったみたいなの……」
 恥ずかしそうに小声で言う槙坂先輩。
 すると美沙希先輩は「ん?」と首をひねった後、またしてもよけいなひと言を言ってくれた。
 
「つまり、今、槙坂はナマで押しつけてるわけだ」
 
「「 言わなくていいからっ 」」
 その辺り考えないようにしていたのは一緒だったようで、僕と槙坂先輩は声をそろえて悲鳴を上げた。
 この後、美沙希先輩が近くに漂っていたそれを見つけ、どうにかことなきを得た。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2013年11月13日公開

 


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