校舎の廊下を槙坂先輩と並んで歩く。 互いに黙ったまま。 僕の留学の話を聞いて、ひと言ふた言言葉を交わした後、槙坂先輩は黙り込んでしまい、僕もそんな彼女に話しかけられずにいた。 校舎の中には相変わらず音楽やイベントの案内をする校内放送が流れているが、僕たちを素通りしていく。学園祭はまるで僕たちには関係ない出来事のようで、楽しむ生徒の喧騒もどこか遠くから聞こえているようだ。 切谷さんはこの場にいない。先ほど帰った。 彼女があのタイミングで留学の件を聞いたことに他意はなかったようで、責められはしない。逆に「悪いことをしたわね」と言いつつ、「てっきりもう言ってるんだと思ってた」「ちゃんと言っときなさいよ」と僕が責められる有り様。まぁ、それも仕方ないことだろう。 そう、責められるべきは僕だ。 「留学の話――」 久しぶりに槙坂先輩が口を開いた。 「本当なの?」 「ああ、本当だ。僕はアメリカに行きたいと思ってる」 「いつから?」 おそるおそるといった調子で、問いが重ねられる。 「高校を出たら。向こうの大学で修士課程まで修めるつもりだ」 「そ、そう。長いのね。日本に帰ってくるのはかなり先になりそう」 「いや、」 ここで誤魔化しても仕方あるまい。僕は正直に話す。 「修士課程を終えても日本には帰ってこない」 「ぇ……?」 短く小さいが、かすかに驚愕の声。 「向こうでやりたいことがあるんだ」 「やりたいこと?」 「僕はアメリカの公共図書館で司書になるのが夢なんだ。そのためには大学院を出ないといけないし、夢が叶えばそのまま向こうに住むことになる」 「司書……」 彼女は意味を確認するかのように、その単語をつぶやいた。 「そう、司書。藤間くんらしい素敵な夢だわ」 「ありがとう。そう言ってもらえるなら嬉しいよ」 そうして微笑みと苦笑の入り交じった声音に、僕は少し拍子抜けした。もっと何か違った反応があると思っていたのだ。 槙坂先輩は再び口を閉ざした。 目的を失った放浪のその道程は、示し合わせたわけでもなく校舎の外へ出て、グラウンドへと至った。外は校舎の中以上に賑やかだったが、やはり喧騒は虚しく僕たちをすり抜けていく。 やがて、 「どうして――」 「うん?」 「どうしてもっと早く、自分から言ってくれなかったの?」 槙坂先輩は我慢していた何かを吐き出すみたいに、意を決したように切り出した。 「悪い。言いそびれてた」 「嘘」 ぴたりと彼女が足を止めた。 「ここしばらく藤間くんはわたしを避けていたわ」 「……」 遅れて僕も立ち止まり、槙坂先輩に向き合う。 例えば加々宮さんは、僕の槙坂先輩への態度を心配していた。 例えばこえだは、僕がなかなか留学の話を槙坂先輩にしないことに不安を覚えているようだった。 ふたりとも雲行きの怪しさを漠然と感じていたのだろう。 では、槙坂涼は? 聡明で頭も切れる彼女のことだ、勘づかないはずがない。 槙坂先輩が察した通り、僕は忙しさを理由に彼女を避けていた。あの夜、こえだが僕に突きつけた、槙坂先輩はどうするのかという問い。こえだは、早く彼女にそのことを話せと模範解答とも提案とも言えるものを示したが、僕が出した結論は『言わない』だった。 槙坂先輩が卒業すれば自然と顔を合わせる機会も減る。僕が留学の話を切り出しても、納得し受け入れる状況ができると思ったし、それが高校生の僕たちにとって最適の結果だと思ったのだ。 尤も、こうして思わぬところから知られてしまって、すべてを曖昧にしてしまうような答えを選んだそのツケがきてしまったわけだが。 だから、責められるべきは僕なのだ。 「初詣も行けるうちに行っておこうって、そういう意味だったのね」 「……」 今この場でそうすることは肯定の意味しかないと知りつつ、僕は沈黙した。 互いに黙って見合う。 「藤間くんはわたしを――」 「あ、涼さんと真だ。おーい」 何をか言いかけた槙坂先輩の言葉を遮ったのはこえだの声だった。 僕はどこかほっとした気分で、逃げるように声のしたほうへと体を向ける。 「なんだ、その恰好」 そして、思わず出たのがこの台詞。 こえだはいわゆるゴスロリと呼ばれるファッションに身を包んでいた。スカートは膝丈で、足元はボーダー柄のハイソックス。頭にはミニハットまで乗っている。 「うーん、クラスの悪ノリの結果、かなぁ?」 どうやら自分でもわかってない様子だ。 「今、教室でバズーカ砲作ってるんだって」 「……」 どんなノリと流れかはわからないし、説明されても理解できる自信はない。が、とりあえずこいつがおもちゃにされていることだけは確かのようだ。 「でも、かわいいわ。よく似合ってる」 「ほんと!?」 こえだは槙坂先輩に褒められて、嬉しさと照れが同居したようなしまりのない笑みを浮かべた。 僕は横目で槙坂先輩の様子を窺ったが、先ほどまでの切羽詰まったような感じはもうどこにもなかった。こえだの前ということで抑え込んでしまったのだろう。 「こえだ、お前そのままキャンプファイヤの火にくべられるんじゃないか。悪ノリで」 生贄は神への捧げものだから着飾るのだと聞く。 「く、くべられないもんっ。ていうか、それもう悪ノリってレベルじゃないしっ」 「あまり遊んでばかりいるなよ。実行委員なんだから」 「そっちだって同じ立場じゃん。そういう真は……ん? 何かあった?」 不意にこえだは不思議そうに僕と槙坂先輩を交互に見、首を傾げた。僕たちは思わず顔を見合わせる。 「ううん、何もないわよ。一緒に見て回ってただけ」 「そうだ、お前、美沙希先輩を知らないか? 僕の友人を預かってもらってるんだ」 さすがこえだ。つい最近僕に認識を改めさせただけある。僕と槙坂先輩の間に漂う不穏な空気の残滓を鋭く感じ取ったらしい。が、こちらもたたみかけるようにして言葉を発し、誤魔化す。 「美沙希さん? 美沙希さんなら……ほら」 こえだが体の向きを変えて目をやったのは、グラウンドに設置された野外ステージだった。客の入りはなかなのもので、席はすべて埋まっているし、その後ろには立ち見もいる。美沙希先輩もそのひとりで、立ったままステージを眺めていた。しかし、そばに雨ノ瀬の姿はない。もう帰ったのだろうか。 「行ってみよう」 僕たちは美沙希先輩のところに移動し、かくして図らずも『美沙希組(笑)』の三人とその客分的存在の槙坂先輩がそろったのだった。 「美沙希先輩」 「おう、真か」 ウルフカットに猫目の我が師が振り返る。 「雨ノ瀬はどうしたんですか? もう帰りました?」 「お前の元カノならあそこだ」 そんなんじゃないけど、と思いつつ――美沙希先輩が顎で指し示したのは、男子生徒ふたりが三味線を弾くステージ……ではなく、その横だった。そこに確かに雨ノ瀬の姿があり、彼女は野外ステージ担当のスタッフと何やら言葉を交わしていた。 今ステージで行われているのは、本日の、ひいては今年の学園祭の最後のプログラム、飛び入り歓迎のパフォーマンス大会だ。……まさかあいつ、本当にやるつもりなのか? だとしたら、今は打ち合わせの最中だろうか。 パフォーマンス大会は、何が出てくるかわからない妙な期待感で毎年人を集める人気のイベントのひとつだった。この盛況ぶりもうなずける。 「それよりも真。三味線だ、三味線。混ぜてもらってこいよ。お前、弾けんだろうが」 「何をわけのわからないことを。飛び込みは飛び込みでも、そんな飛び込みしたらあのふたりに迷惑ですよ」 思いつきでしゃべる人だな。 「もしかして藤間くん、本当に三味線が弾けるの?」 てっきり美沙希がまた適当なことを言ったのかと思ってたわ、と槙坂先輩。 「昔、何かひとつくらい楽器を扱えるようになりたいと思ってね。でも、ピアノとかバイオリンとか、ありきたりのものじゃ面白くなかったから三味線にしたんだ」 「あなた、昔からひねくれてたのね」 「ほっといてほしいね」 中二病の結果である。 因みに、ひねくれていたのは昔だけで、今はそのつもりはない。少なくとも僕自身は、だが。 くすくすと笑っていた槙坂先輩だったが、それも長くは続かなかった。不意にはたと止まり、彼女の顔から表情が消えた。僕たちの間に横たわる大きな問題について思い出したのだろう。 再び重苦しい空気が落ちる。 「こいつ、ロックバンドのギタリスばりにむちゃくちゃな弾き方できるぞ。一度見せてもらえよ」 おかげで、そんな美沙希先輩の茶々も彼女の耳には届いていないようだった。 程なくして三味線の演奏が終わった。 『ありがとうございました。和楽器同好会のおふたりでしたー』 拍手を求める司会の声。 そんな同好会が明慧にあったとは露ほども知らなかった。だからこそアピールのためにこのステージに上がったのだろう。 『では、次の方です』 礼をして下がる和楽器同好会のふたりと入れ替わるようにしてそこに上がったのは、案の定、雨ノ瀬だった。 『滝杷(たきえ)高校からきました未確認動物、UMAです』 そんな自己紹介があるか。見事にすべったようで、観客は無反応だった。 あと、その言い方だとUMAという名前の未確認動物のようだ。まぁ、『決断力のある方向音痴』という謎の生態を指して僕がUMA扱いしていたので、あながち間違ってはいないのだが。 『今日は友達に誘われて遊びにきました』 そこで雨ノ瀬は客席を見回し――僕を見つけた。 『あ、藤間だ。やっほー。見にきてくれたんだー』 そして、あろうことか僕の名を呼び、手まで振りやがった。 周囲の視線がいっせいにこちらを向く。「藤間だ」「また藤間か」「藤間死ね」「刺すぞ藤間」。……おい、超えちゃいけないライン超えてるのがいるぞ。突き刺すのはその負の感情も露わな視線だけにしておけ。ここの生徒で、しかも実行委員までやっているというのに、アウェー感が尋常ではない。 『じゃー、一曲踊ります』 そう言うと雨ノ瀬は舞台袖にいたスタッフにマイクを渡した。ステージ中央に戻ってきたところで音楽がはじまる。音源はおそらく彼女がスマートフォンかデジタルオーディオプレイヤに入れて持っていたものをスピーカから流しているのだろう。確かどんな飛び入りのパフォーマンスにも対応できるようにと、そういう機器も用意していたはずだ。 踊り出す雨ノ瀬。 ダンスはステップが中心といった感じだろうか。リズムに合わせてステップを刻み。そこに手振りがつく。ダイナミックな動きはない。その上で軽快に踊るものだから簡単そうに見えるが、冷静に見て真似できる気がしない。しかし、合間合間に一瞬の鋭い絶技を入れてきて、それが披露されるたびに観客が湧き上がった。 僕は素直に感心した。中学のころより格段に上手く、本格的になっている。ちょっと大きめの目と口が例の如く舞台の上でも映え、楽しげに踊っているのがよくわかる。 ――が、その雨ノ瀬の表情がわずかにくもった。 何かミスでもしたのだろうか。何せ見ているこっちは素人。踊っている雨ノ瀬にしかわからないような失敗があったのかもしれない。だとしてもすぐにリカバしたようで、彼女は気を取り直した様子で表情にも余裕が戻った。 しかし、また少しして雨ノ瀬が眉根を寄せた。 「……」 気になるな。雨ノ瀬から見えるものというと客席か? 僕は客席に意識に向けると、 「へたくそー」 「!?」 そんな声が耳に飛び込んできた。どうやら野次を飛ばしているバカがいるようだ。素人の僕が上手いと思っていても、玄人目から見たら本当はそうでもないのかもしれない。でも、こんなお祭り騒ぎのときにわざわざ野次る必要もあるまい。 「おい、真。聞こえたか?」 「はい」 美沙希先輩も気がついたらしい。地獄耳だな。 「ちょっと行ってきます」 「アタシも行く」 そして、こういうイベントごとに水を差すような輩が好きではないのも古河美沙希という女性である。尤も、そこは僕も同じだ。この師にしてこの舎弟あり、というところか。 僕と美沙希先輩はバカを確かめにいくことにした。 「あ、藤間くん……」 が、そこで槙坂先輩に呼び止められる。 「悪い。実行委員の仕事が入った。話は後でしよう」 「そう……」 僕は彼女に背を向けた。 さっそく二重三重になっている人垣をかき分けて進んでいく。 「槙坂と何かあったのか?」 「別に何もありませんよ。……すみません。実行委員です。通してください」 人が苦労して作った道を通り、悠々とついてくる美沙希先輩が問うてくるが、僕は今その話は関係ないとばかりに短く返した。 人垣を抜け――バカ発見。 四人組だ。しかも、見覚えがある。先ほどうちのクラスの前で雨ノ瀬に声をかけ、僕と八頭司先生に追い返された連中だ。やつらはステージの真ん前にふんぞり返って座り、歓声に紛れて野次を飛ばしているようだ。そこまであからさまではないからステージスタッフとしても注意しにくいのかもしれない。 少しばかり性善説的に語れば、こいつらとてかわいい女の子に声をかける目的があったとしても、初めから学園祭を邪魔にしにきたわけでもないだろう。が、さっき僕に撃退された憂さ晴らしをここでしているのだとしたら、僕にも多少責任はあるというものだ。……まぁ、精一杯好意的にとらえただけで、あくまでも建前だけど。 曲が終わり、雨ノ瀬のダンスパフォーマンスも終わった。 大きな拍手が沸き起こる。 雨ノ瀬にはこうしてイベントに参加して盛り上げてくれたというのに、くだらない邪魔が入って申し訳ないと思う。もう遅いが、この後の参加者のためにも注意はしておこう。 連中のもとへと歩み寄る。ステージの上では雨ノ瀬が僕に気づいて心配げな視線を向けていたので、軽く手を上げて応えておいた。 「すみません。イベントの邪魔はやめてもらえますか?」 四人組がこちらを見上げ――僕の顔を見て、舌打ち。 「またお前かよ」 「うるせーな。個人の感想だよ、個人の感想。なんか文句あるんですかー?」 そろってバカ笑いをはじめる。それで論破した気になっているらしい。 「おい、真。こういうやつらにははっきり言わないと伝わらねーぞ。邪魔だから出ていけってな」 「あ? なんだこの女」 男のひとりが立ち上がる。 どうやらこいつらは学校や表通りで粋がっているだけの連中らしく、不幸にも『猫目の狼』のことは知らなかったようだ。 美沙希先輩は近寄ってきた男の手をごく自然に、無造作に捻り上げた。 「いててててて! は、放しやがれ!」 まるで時代劇のkirareyakuのように、エビ反りになって身動きが取れなくなる男。唯一動く口で抵抗を試みる。美沙希先輩は知らないことだが、そいつはさっき僕がひねり上げたのと同じやつだ。手は逆。……ああ、なんだ、ただのやられ役だったか。 「クソ女(アマ)ァ!」 殴りかかってくる仲間の男。 しかし、そこに僕が割って入り、拳を腕でブロックした。なお、美沙希先輩は微動だにしていない。もちろん、男を拘束していて動けなかったわけではなく、僕が飛び込んでくると踏んでいたのだ。 「よし、でかした真。これで正当防衛成立だ」 「……」 いや、そこにはおおいに疑問の余地が残るのではないだろうか。 美沙希先輩が固めていた男を突き飛ばし、そいつが殴りかかってきた男とからまるようにして倒れたのが開始の合図となった。仲間ふたりが無様に転げたのを見て、残りのふたりも襲いかかってきた。 周りにいた観客が距離をとり、驚いた女の子たちが悲鳴を上げる中、乱闘がはじまる。 正直、実行委員がこんなことをしてどうするとは思うのだが――丁度むしゃくしゃしていたこともあり、こいつらで気晴らしをさせてもらおうと思う。それこそ美沙希先輩の言う通り正当防衛が成り立つだろうし、治安維持の名目もある。 向かってきた男の顔面にカウンタでストレートリードを打ち込み、頭が揺れたところで腹を思いっきり蹴飛ばす。と、ほぼ無人となった観客席に突っ込み、パイプ椅子をまき散らした。 「っの野郎!」 今度は最初に倒れた男のひとりが、そのパイプ椅子を振り上げて襲ってきた。 師曰く「鈍器は、1.避ける、2.耐える。そのへんで拾える程度の鈍器じゃ死なねーよ」。やや死角気味からこられたため、避けるのが間に合いそうにない。耐えるほうを選択する。平たくたたまれたパイプ椅子が持つのに手ごろだったのだろうが……バカか。面で殴ってどうする。プロレスかよ。僕は比較的やわらかい座面を狙って受け止めた。 「ぐっ!」 尤も、それでも痛いのは痛いのだが。 「ったく、面倒くさい!」 その痛みを振り払うようにして、苛立ちに任せて男の顎を掌底で突き上げた。パイプ椅子の海に沈む。 ものの数分で決着はつき、連中は逃げ帰った。 相手は四人とは言え、こっちは自慢じゃないが喧嘩慣れしている。僕はパイプ椅子の一撃をもらっただけで、美沙希先輩に至っては無傷である。 だが、さすがにこれだけの騒ぎを起こしておいて無罪とはいかなかった。 駆けつけてきた先生たちに事情聴取の目的で生徒指導室へと連れていかれる。その際、槙坂先輩と目が合い――彼女は何か言いたげな顔をしていたが、しかし、何も言うことはなかった。 そして、僕もまた、彼女にかける言葉を持ち合わせていなかった。 その女、小悪魔につき――。 2015年10月21日公開 |
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