「うわーん、藤間、ここどこー!?」
 いきなり突進を喰らい、振り返ってみればそこには、ふたつ結びに下した髪に、少し大きめの目と口が特徴的なクラスメイト――雨ノ瀬(うのせ)がいた。
 涙目だった。
「……もしかしてお前、迷ったのか?」
 僕のその言葉に雨ノ瀬は黙ってうなずいた。……本当かよ。学校で迷うやつなんて初めて見た。軽く戦慄する。
「やー、ここが3階だっていうのはわかってるんだけどさ」
「2階だぞ」
 瞬間、弾丸のように雨ノ瀬は窓へと駆け寄った。しばらく呆然と窓の外を見た後、おそるおそるこちらに振り返る。
「2階だ……」
 そこにあるのは驚愕の表情。
「さっきまで3階歩いてたはずなのにっ。どうしてっ!?」
「知るかっ」
 驚きたいのはこっちだ。
 まぁ、彷徨い歩いているうちに、今どこにいるかわからなくなったのだろうな。方向感覚と、自分周辺の空間に対する認識や把握の著しい欠如。――いわゆる方向音痴だ。
「とりあえず行き方をおしえてやるよ。……どこに行きたい? 教室か? 音楽室か?」
「もちろん、音楽室!」
 まるでポーズを決めるみたいにして、だんと足を踏み鳴らしつつ、片手を腰に、もう片手の人差し指をびしっとこちらに突きつけてくる。人を指差すんじゃない。人差し指という名前の全否定だが。
 僕は嘆息ひとつ。
「わかった。兎に角、このまままっすぐ行け。突き当たりを右に折れたら渡り廊下だ。鯉のぼりを想像するのがいちばんわかりやすいだろうな。3つの校舎の端がその渡り廊下でつながってるわけだ」
 僕はなぜ自分と同じ三年生相手にこんな説明をしてるのだろうな。あまりにも今さら過ぎる。
「隣の校舎にいったら3階に上がれ。突き当たりが音楽室だから」
「おおっ、なるほど。わかりやすい」
 僕が廊下の先と窓の外に見える隣の校舎を順に指さすと、そのたびに雨ノ瀬は、ふむふむ、とうなずく。
「おっけー。理解した。……それじゃ、お先っ」
 言うが早く駆け出す彼女。
 そして、あろうことかすぐそばにあった階段に向かって折れた。
「あ、おい! 雨ノ瀬! 雨ノ瀬ーっ」
「なに? 呼んだ?」
 一度は見えなくなった雨ノ瀬が、再び顔だけを覗かせる。
「突き当たって渡り廊下を渡れって言っただろ。なんでいきなり俺の言ったことを無視してんだよ」
「え? 結局3階には上がるんだし、一緒じゃない?」
「3階に渡り廊下はない」
 それくらいはわかっていると思って、説明を省いたのが悪かったか。どうやらこと移動に関しては独自の判断と決断がはたらくらしい。経験の蓄積がないのか、こいつは。よく今まで教室移動をこなせたな。
 僕は再びため息を吐く。
「仕方ない。俺も教室じゃなくて音楽室に行く途中だから、見えるところまで一緒に行くか」
「え? あ、そう?」
 雨ノ瀬はぱちくりと2、3度、目を瞬かせる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 それからすでに歩き出していた僕の横に、ぴょんぴょんぴょん、と飛び跳ねながら並んだ。そのまま隣の校舎の3階まで行き、音楽室を指し示してやると、「じゃ、先に行くね」と駆けていった。
 結局、このときは特にこれといった会話はなかった。
 
 それから一ヶ月。
 一学期の中間テストの余韻も消え去り、かといって、まだ期末テストを視野に入れるほどでもないような時期のこと。
 その日、僕は美沙希先輩と夜の街をぶらぶらと歩いていた。
 時刻は8時半近く。
 美沙希先輩はこの春に卒業し、4月から明慧学院大学附属高校に通っている。僕は学校の話を、もっと言えば、ある人物の話を聞きたくて、このころよく美沙希先輩と会っていたのだが、しかし、話題のデリケートさ故にうまく話を引き出せないことのほうが多かった。
 そして、今日もいつもの如く不発。もういっそストレートに切り込むべきか――。そんなことを考えながら地元の駅まできたときだった。
 ファーストフード店などがある改札前のコンコースに、高校生と思しき四人組がいるのが目に入った。そして、その四人組に取り囲まれるようにして隙間から見えるのは、見知った女の子の顔――。
「雨ノ瀬!」
 名前を呼ぶと、雨ノ瀬を含めた全員がこちらを見る。
 僕と目が合った彼女は、困ったというよりは怯えたような顔をしていた。どうやらたちの悪いナンパのようだ。
「知り合いか?」
「ええ、クラスメイトです」
 美沙希先輩に返事をしつつ、すでに僕は彼女のほうに足を進めていた。
「大丈夫か?」
 どうした、何をしているのか、という形式的な質問をすっ飛ばし、雨ノ瀬が嫌がっていると決めつけてかかる僕。実際、彼女の顔を見れば、疑問を差し挟む余地はないだろう。
「あ? お前、何?」
 いきなり割って入ってきた僕に、ひとりが威嚇するような声を向ける。
 しかし、その言葉に応えたのは、僕や僕の拳ではなく、
「こいつか? こいつはアタシの舎弟だ」
 美沙希先輩だった。
 美沙希先輩が僕の肩を組みながら心底楽しげにそう言うと、四人組のひとりが「げ、"猫目"」と驚愕のうめき声を発した。それを皮切りに今自分たちが誰と相対しているのか理解したのだろう、次々と顔が引き攣っていく。
 "猫目"――正確には"猫目の狼"は、この界隈では常勝無敗の暴れん坊として有名な美沙希先輩の通り名だ。そして、僕がその舎弟である。
「つまり、お前たちがナンパしようとしてるそこのイタイケな女子中学生は、アタシのオトモダチってわけだ。……わかったんなら失せな」
 ドスの利いた声で最後のひと言を言い放つと、四人組は渋々ながらも触らぬ神に祟りなしとばかりに去っていった。いやはや頼りになる。
 雨ノ瀬がほっと安堵に吐息する。
「ナンパか?」
「あ、うん、そう。あたしがここでダンスの練習してたら、馴れ馴れしく寄ってきてさ。カラオケいかないとか言って、しつこいのなんのって」
 改めて見てみれば、ここは本日の営業を終えて"CLOSED"の札が掲げられたパン屋の前だった。閉店後もシャッターは下ろされていない。そのせいで照明の落とされた店の全面窓は、自分の姿を映してダンスの練習をするには丁度いいようだ。
 雨ノ瀬がダンス好きなのはクラス中が知るところだった。クラスメイトにステップをおしえている姿はよく目にするし、音楽室みたいに少し広い空間があるところでは短いパフォーマンスを披露したりもしている。そういうとき少し大きめの目と口はよく映えたし、飛び抜けてかわいいというわけでもない彼女のいきいきとした表情は目を惹くものがあった。
 まぁ、尤も、ダンスに関しては本格的なブレイキングとかではなく、ポップスを歌いながら踊るような種類のものなのだが。歌って踊れるが謳い文句のアイドルといったところか。
「それはいいんだけど――なんだよ、その恰好」
「え? おかしい?」
 雨ノ瀬は顔の横で両手を広げて驚きを表現した後、自分の姿を見下ろした。
 今の彼女は、裾に白のレースがあしらわれた黒のミニ丈のワンピースに、やはり黒のニーソックスといった出で立ちだった。
「いや、まぁ……」
 僕は言葉を濁す。
 私服として街に繰り出す分にはちょっと浮き気味だろう。でも、どことなくアイドルの衣装っぽいので、それこそ歌って踊ればよく似合うかもしれない。
「あー、こりゃカラオケにも誘われるわな」
 そう感想を述べながら美沙希先輩は、こともあろうに後ろから雨ノ瀬のスカートをめくった。
「ひえっ」
「ぶっ」
 雨ノ瀬の口からは悲鳴がもれ、僕は思わず噴いた。残念ながら、じゃなくて、幸いにしてこちらから何も見えないが、そのいきなりの行動にぎょっとする。
「おい、真。お前が誘ったらどうだ?」
 ニヤニヤと笑いながら言う美沙希先輩。
「なんで僕が!?」
「いいじゃんかよ。歌いながらノリノリで踊ってもらえよ。何かいいものが見れるかもな」
「行きませんって」
 バカなことを言っている美沙希先輩は放っておいて、僕は雨ノ瀬へと向き直った。
「雨ノ瀬、時間も時間だし、俺が送るからとりあえず今日はもう帰れ」
「え? あ、うん。そだね」
 美沙希先輩の一連の行動と言動に顔を赤くしていた雨ノ瀬は慌ててうなずく。
 この後、僕は言葉通り、彼女を家まで送っていった。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2013年9月7日公開

 


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