これは夏休みの話。
 
「さて、約束は守らないとな」
 と言っても、槙坂先輩をどこか遊びに誘うとか、夜の電話やおはようおやすみのメールではなく、別の件である。
 言ったことには責任をもつし、約束は守る。
 まぁ、嘘も吐くが。
 そんなわけでイギリス旅行の詳しい話を詰めようと、ある日の昼食後、僕は槙坂涼にメールを送った。

『話がある。』

 返事はすぐに返ってきた。
 短くこうである。

『話ならせめて電話でしない?』

「……」
 それもそうか。
 正確には話自体は直接会ってからするつもりで、メールは彼女を呼び出すためのものだった。確かにすぐ読むとは限らないメールで会う約束を取りつけるというのもおかしな話だが、そこは単に僕が今日でも明日でもいいと思っていただけのことである。
 僕は改めて電話をかけた。
『はい、槙坂です』
 ワンコールと待たずに彼女は出た。いつものことながら電話での槙坂先輩はどことなく丁寧だ。
「僕だ。話があるので今から会えるだろうか?」
『あら、どんな話かしら?』
 僕があまり自分から電話したりメールを送ったりしないせいだろうか、槙坂先輩の声には期待の色が窺えた。
「実は別れ話なんだ」
『それは大変ね。「天使の演習」でいい?』
 その期待を叩き潰すつもりでくだらないことを言ってみたのだが、彼女の反応は実に見事なものだった。驚きもしなければ疑うわけでもなく、ただくすくすと笑うだけ。さすがである。まぁ、僕もこの程度で槙坂先輩がありきたりの反応をするとは思っていなかったが。
『じゃあ、駅前で待ってるわ』
「……ああ」
 と、こうして会う約束もまとまり、電話を切ったのだが、
「どうも僕ひとりで踊ってるような気がしてならないな」
 自分で自分に呆れてしまうのだった。
 
 無難に黒のデニムにプリントTシャツという姿で外に出る。
 おそらく今が一日で最も暑い時間帯だろう。遠慮ない陽射しは肌に痛いほどだが、それ以上に高温多湿の日本の夏は気持ちにくる。うんざりするような暑さとはよく言ったものだ。
 しかし、これも駅に着くまでと思い、我慢する。
 徒歩五分という立地条件が幸いし、暑さに心身が消耗する前に駅に着いた。乗車カードを改札機にかざし、改札を通る。通学に使っている定期券もあるが、今回は逆方向なので意味はない。
 ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗った。
 冷房の効いた車内でほっとひと息ついたのも束の間、ふた駅ほどいったところで僕はまた外に放り出される。
 駅の改札を出たところで、槙坂先輩がすでに待っていた。
 今日の彼女は水色のワンピース姿だった。セーラーカラーっぽいラインが入っているせいで、見た瞬間、海を連想した。足もとは素足にミュール。そして、肩にはトートバッグを提げていた。
 槙坂先輩も僕を見つけ、にこりと笑う。
「こんにちは、藤間くん」
「どーも」
 行き場所が決まっていたこともあり、僕たちはさっそく歩き出した。向かうは駅前の賑やかなところではなく、住宅街のほうだ。
「今日も暑いわね」
 そう言う槙坂先輩は、言葉のわりには爽やかで涼しげだ。
「悪い。こんな暑い日に呼び出して」
「気にしないで。夏なんだもの、暑いに決まってるわ」
 確かに彼女の言う通りではある。暑いからといって呼び出すのを躊躇っていると、夏休みが終わってしまう。
「こう暑いとプールに――」
「断る」
 ほぼ反射的に、僕は槙坂先輩の台詞を遮って拒否の言葉を口にしていた
「あのね藤間くん、人の話は最後まで聞きましょうね?」
「聞かなくてもだいたいわかる。なら無駄な行程は省くべきだ」
 時代はエコである。特に夏の今は省エネが声高に叫ばれていることだし。
 槙坂先輩は「もぅ」と呆れ調子。
 しかし、すぐに次の話題を展開する。
「プールと言えば、サエちゃんはどうだった? この前、一緒につれていってあげられなかったけど」
「ああ、あいつな。後でその話をしたらむくれてたよ」
 文句ならばぜひ企画立案の美沙希先輩に言ってもらいたい。スケジュールにはもっと余裕を見ておくべきだと。
「こえだは、まぁ、また改めてつれていってやるさ」
 別にプールじゃなくてもいいし。とりあえず、何かで埋め合わせはしてやらないとな。
「サエちゃんは平気なのね」
「あいつは凹凸が少なくて目に優しいからね」
 それに比べて槙坂先輩の目の毒なこと。
「いくらサエちゃんでも怒るわよ、その言い方」
「……前言を撤回して言い直すなら――かわいい後輩だから、というところだろうな」
 こえだに甘いのは自覚しているのである。
「美人の先輩にもそうあってほしいものね」
「前にも思ったが――それを自分で言うかよ」
「仕方ないわ。周りが求める『槙坂涼』を演じているうちにそうなってしまったんだもの。『自他』の『自』の部分で否定しても、『他』が認めるでしょうし」
 槙坂先輩は堂々とそんなことを言ってのけるのだった。
 容姿なんて大半が生まれ持った素養だと思うが、その一方で努力した部分もあるのだろうとも思う。所作や立ち居振る舞いといったものも『美人』を構成する重要な要素となり得るに違いない。逆にそのあたりが残念で"美人が台無し"なんてこともよくある話だ。案外、美沙希先輩もこの部類ではないかと思う。
「自分でもバカなことをやっていると思ったことがあるわ。でも、おかげで藤間くんがつれて歩いても恥ずかしくない女の子になれたわ」
「むしろ僕が役者不足だけどね」
 自分磨きに張り切り過ぎだ。完全にオーバーキル。いったいどんな男なら彼女に釣り合うというのか。尤も、それだけ周りが槙坂涼に高い理想を求め、彼女もそれに応えてしまったということなのかもしれないが。
「大丈夫よ。藤間くんなら『槙坂涼』に相応しいわ。それにわたしは好きになった相手なら、どんな男の子でもそばにいて恥ずかしいと思ったりはしないわ」
 そのあたりは僕も似たような考えか。好きになった異性への周りの評価なんて知ったことではない。尤も、現状むしろ嫉妬されるほどで、その嫉妬をこそ知ったことではないと思っているのだが。……我ながらなかなか図太いな。確かに自分で自分のことを美人と言ってしまう誰かさんに相応しいのかもしれない。
 
 
 程なくして、『天使の演習』が見えてきた。
 あの店に入ればこの暑さからも解放されるのだと思うと、少しほっとする。
 と、そのとき、店から年配の男性が出てきた。
「……」
 どこにでもある風景(ワンシーン)。
 だが、なぜだろうか、僕はそこにかすかな違和感を覚えた。
 その男性と入れ違うようにして、僕と槙坂先輩は店に入る。ドアを押し開けると、店長が拘ったというドアベルが心地よい音色を奏でた。
「いらっしゃいませー」
 そして、そのベルと同じくらい旋律的で涼やかな発音が僕らを迎えてくれる。店長夫人――キリカさんの声だ。
 店内を見渡して、僕は軽く驚いた。
 席の八割くらいがすでに埋まっていたのだ。ここまで盛況なのは初めてではないだろうか。先ほどの違和感も、店から人が出てくるという光景を初めて見たことに起因するものなのだろう。
「あ、槙坂さんに藤間くん、いらっしゃい。えっと……テーブル席がひとつ空いてますね。あそこにどうぞ」
 客の数に比例して忙しそうなキリカさんは、ほとんど通り過ぎるようにしながら席を案内してくれる。それでも笑顔を忘れないのは、これが仕事だからというよりは彼女のひととなりによるものなのだろうな。カウンタの向こうには店長がいるが、この人の眠そうな顔は店がこんな様子でもいつも通りだった。
 僕たちは案内された席に座った。これでもうテーブル席に空きはない。
「今日はまたずいぶんと混んでるな」
「ええ、そうね……」
 槙坂先輩もこの状況に少しばかり戸惑っているようだった。
 やはり暑さのせいだろうか。節電には協力したいけど、クーラーの類を切ると家の中が蒸し風呂になる。ということで、みんな涼しくて、少なくとも我が家の電力は消費せずにすむ喫茶店に避難しにきているのかもしれない。
 すぐにキリカさんの手でお冷が運ばれてきた。互いにぶつかって音を立てる透明な氷と、グラスに薄くついた水滴が、まずは気持ちを涼しくしてくれる。
「今日もデートですか? 若いなぁ。羨ましい」
 僕たちそれぞれの前にグラスを置きながら言う店長夫人。でも、彼女は高校を出たばかりの大学一年生。槙坂先輩とひとつしか変わらないはずである。
「藤間くんに呼び出されたんです。別れ話だそうですよ」
「まぁ」
 ……引っ張るなよ、その冗談を。
 しかし、槙坂先輩のよけいなひと言にキリカさんは驚いてみせるものの、顔はあいかわらずの笑顔だった。電話での槙坂先輩もそうだったが、本気だとは欠片も思われていないようだ。見事に聞き流されている。果たして、僕の日ごろの行いがいいからか悪いからか。
「今日はどうします?」
「わたしはアイスのブレンドで」
「僕もそれでいいです」
 僕も槙坂先輩も、メニューも見ずに注文した。
「今日はお客さんが多いですね」
 槙坂先輩が、改めて店内を見回しながら言う。
「実は今日だけじゃなくて、最近ずっとこうなんです。みんな暑いから涼しいところに逃げてくるのかもしれませんね」
 と、キリカさんは苦笑。
「それにいつもなら母が手伝ってくれてるんですけど、今ちょっと夏風邪で倒れてしまって。それでよけいに忙しいんです」
「すみませーん」
 そこで男性客から声がかかった。
「はーい、今いきまーす。……見ての通りです。じゃあ、ブレンドふたつ、できるだけ早く用意しますから。もう少し待っててくださいね」
 そうしてキリカさんは離れていく。
 なんというか、見るからに忙しそうだが楽しそうでもあった。
 涼を求めて店にくる――確かにそれも客が多い理由のひとつだろう。だけど、それ以上に彼女の存在も大きいのではないだろうか。キリカさんも大学が夏休みに入って毎日店に出ているだろうし、彼女目当てに足繁く通う客がいても不思議ではない。
 実際、楽しそうに働いているキリカさんを見ていると心が和んでくる。
 頼んだコーヒーは、テキパキと動くキリカさんの仕事ぶりのおかげで、さほど待つこともなくテーブルの上に並んだ。
「それで、今日は何の話なの?」
 ミルクを少量入れただけのアイスコーヒーをひと口飲み、槙坂先輩は聞いてくる。
「お望みなら別れ話でもしようか?」
「あら、わたしはいいわよ?」
 いいのかよ。
「でも、もちろん首は縦に振らないし、藤間くんに思い直させる自信はあるわ」
「……やめとくよ」
 もとよりそのつもりもないし。今のところは。
「それがいいわね。無駄な行程は省くべきだわ」
「……」
 どうやら先ほどの意趣返しのようだ。
 僕はコーヒーで喉を潤してから、気を取り直して切り出した。
「そろそろイギリス旅行の話をしておこうと思ってね」
「わたしもきっと今日はその話だと思ってたわ」
 そう嬉しそうに言った彼女は、隣のイスの上に置いたトートバッグから一冊の冊子を取り出した。どうやら有名な旅行誌が編集したイギリス観光のガイドブックのようだ。
 用意のいいことだ、と心中で感心しながら僕は先を続けた。
「日程は無難に三泊五日。僕としては大英図書館、オックスフォード、ケンブリッジは外せないと思ってる」
「どういうところなの?」
 と、問う槙坂先輩に僕は簡単に説明する。
 大英図書館は、日本では国立国会図書館にあたる国立の図書館だ。閲覧室(リーディングルーム)には入れないが、一度は見ておきたい。
 オックスフォードは、イギリス最古の学園都市。前述の大英図書館に次ぐ規模のボドリアン図書館もここにある。欧米の公共図書館を肌で感じるという僕の目的には、大英図書館よりはこっちのほうが合致するかもしれない。
 ケンブリッジも、オックスフォードほどではないが多数の大学を擁する都市だ。ニュートンやダーウィンもここの大学を出ている。サイモン先生が口添えしてくれた大学もここにあり、そこの図書館を見せてもらう約束になっている。
 槙坂先輩は、ガイドブックを見ればわかるだろうに、僕の言葉に耳を傾けていた。
「そっちは? どこか行きたいところはあるのか?」
 ガイドブックを眺めていたら、自分の目で見てみたいところのひとつやふたつ、出てくることだろう。
「いいの?」
「まぁね」
 僕にすべて任せてもらうことにはなっていたが、どうにも時間があまりそうだ。期待に応えられるかわからないが、善処はしようと思う。
「嬉しい。じゃあ、お言葉に甘えて。いくつか目をつけてあるの。まずは――」
「すみませーん」
「はーい。ありがとうございまーす」
 言いかけた槙坂先輩の言葉を遮ったのは、客とキリカさんの声だった。どうやら帰る客が会計のためにキリカさんを呼んだようだ。ちょうどフロアで別の客の対応をしていた彼女は、僕たちの横を小走りで通っていった。
「……」
「……」
 どうにも落ち着かないな。ここならゆっくり話せると思って足を運んで、思いがけず騒がしかったからだろうか。もしかしたらそれだけではないのかもしれないが。
 槙坂先輩も同じ気持ちだったらしく、キリカさんを見送った後、僕たちは無言で顔を見合わせた。
「わたしは大英博物館を見てみたいわね」
 改めて槙坂先輩が希望を述べる。
 大英博物館か。悪意を込めてイギリスの略奪の象徴と呼ばれたりもするが、世界中の文明の歴史財産がここに集まっているのも確かだ。
「あそこにも図書館があるのよね?」
「ああ、あるな」
 大英博物館図書、或いは大英博物館図書室だ。
 かつてのイギリスの法定納本図書館で、第一司書の許可がないと閲覧室に入ることができなかったが、その機能が今の大英図書館に移ってからは一般にも開放されている。もちろん蔵書の多くも大英図書館に移ったようだが。
「別に僕の趣味に合わせる必要はないよ」
「そういうつもりはないわ。純粋にわたしが見てみたいだけ。エジプトなんてロマンにあふれてると思わない? 四大文明の中ではエジプト文明がいちばん好きね」
 まぁ、それならいいか。僕としても博物館図書館が見れるなら願ったり叶ったりだ。
 と、そのとき、二人組の女性客が僕たちの横を通り、いつの間にか空いたらしいひとつ奥のテーブル席についた。それを追いかけるようにして、トレイにふたつのお冷を載せたキリカさんがやってくる。
「いらっしゃいませ。注文はお決まりですか?」
「私はアイスコーヒーで」
「ボクはアイスラテ」
「かしこまりました。お待ちください」
 思わずこちらの会話をやめ、ひと通りのやり取りを聞いてしまった。
 キリカさんが戻っていく――と思いきや、僕たちのところで足を止めた。テーブルの上のガイドブックが目に入ったようだ。
「あ、旅行ですか? もしかして、ふたりで?」
「ええ」
 と、嬉しそうに槙坂先輩。
「今度ぜひ話を聞かせてくださいね」
 そうしてキリカさんはパタパタと、今度こそカウンタに戻っていった。……忙しいならよけいな寄り道をしなければいいのに。
「……」
「……」
 僕たちはまた顔を見合わせる。
 どうにも落ち着かない。
 それは周りが騒がしいからというだけの理由ではないのだろう。
「ねぇ、藤間くん」
 今度はすぐには会話は再開されず――互いにコーヒーのグラスを何度か口に運んでから、ようやく槙坂先輩が切り出した。
「言いたいことはわかる。でも、何ができる?」
「何かはできると思うの」
「……」
 できない理由をさがすよりは、何かできることがあるだろうと足を踏み出すほうが健全なのだろうな。こえだも似たようなことを言っていた気がする。
「とりあえず言ってみたら? 向こうがいいなら僕も乗るよ」
「ええ」
 僕の消極的ながらも賛同の返事を聞き、槙坂先輩はかすかに笑みを見せた。
「あの、キリカさん」
 先の女性二人組にコーヒーを運んだその帰りを狙って、彼女はキリカさんに声をかけた。
「はい?」
「わたしたち、何か手伝いましょうか?」
「え……?」
 さすがにこれにはキリカさんも戸惑う。
 僕だっておかしな話だと思っている。立ち寄った店が混んでいて忙しそうだからと言って、自分が手伝おうだなんて。少なからず顔馴染みになったからだろうか。キリカさんが忙しなく行き来しているのを見ていると、どうにも落ち着かない気持ちになってしまうのだ。
「や、でも……」
「忘れました? わたしたちいつでもアルバイトで使ってもらえることになってたはずですよ?」
 そうなのだ。いつだったか店長のたった一問だけの面接で採用になり、先のようなことを言ってもらったのだった。
 途端にキリカさんは破顔する。
「そうでしたね。じゃあ、主人に聞いてきますね」
 キリカさんはカウンタ向こうにいる店長のもとに行くと、二、三言葉を交わし――そして、足早にこちらに戻ってきた。満面の笑みだ。どんな結果になったかだいたい想像がつくな。
「オッケーだそうです。じゃー、ふたりとも、こちらにきてくれます?」
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2016年3月22日公開

 


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