役割の分担としては僕がフロア係。槙坂先輩は、キリカさんが軽食メニューの担当でもあるので、その手伝いとなった。
 注文取りはファミレスのようにハンディターミナルを使ったりはせず、紙の伝票に書き取る方法なので、初めてながらもどうにかこなすことができた。……まぁ、接遇が見様見真似で、どうにもぎこちなくならざるを得なかったが。
「なるほど。何かしらやれることはある、ということか」
 納得して僕は独り言ちる。
『天使の演習』はしょせんは喫茶店なので、軽めの昼食をとることはできても夕食向きの店ではない。午後七時を過ぎたころにはいつもの雰囲気に戻り、僕と槙坂先輩はカウンタにいちばん近いテーブル席で、休憩がてらコーヒーとサンドウィッチの盛り合わせをいただいていた。
「藤間くん、これからの予定は?」
 不意に槙坂先輩が、やや抑え気味の声で聴いてくる。
「それは今日の残りの時間のことだろうか」
「今日この後なら、わたしがあなたの部屋にいくことで決まってるわ」
 勝手に決めてくれるな。
「そうじゃなくて、明日以降という意味よ」
「それなら幸か不幸か、特に予定はないな」
「じゃあ、決まりね」
 槙坂先輩はこの展開に満足して笑みを見せる。
「マスター、キリカさん。わたしたち、明日からも手伝いますから」
 そして、彼女は店長夫婦に朗らかに告げた。やはりこうなったか。
 しかし、これに再び戸惑いの表情を見せたのがキリカさんだ。彼女は店長を見る。
 確かに僕たちはいつでも使ってもらえることになっていた。だが、店の忙しさに見るに見かねて手伝ってもらうという流れは、キリカさんとしてはあまり本意ではないのだろう。その一方で、僕たちも目についたときだけ手伝って、明日以降のことは知りませんというのもあまりにも自己満足すぎて、やはり本意ではない。やりはじめた責任というものがある。
 そこで槙坂先輩がさらにもうひと押しする。
「ほら、わたしたち今度旅行に行きますし。そのためにも資金はあったほうがいいですから」
 もちろん、嘘である。今さら資金が足りなくて頓挫するような段階でもないし、そもそも僕も槙坂先輩も金銭面での心配はなかった。
「なるほど、そうなんですね。……どうする?」
 おそらく彼女の気遣いのような嘘に気づいているであろうキリカさんは、店長にお伺いを立てる。
「じゃあ、せっかくですからひとまずお義母さんが戻ってくるまで手伝ってもらいましょうか。バイト代はあまり期待しないでくださいよ?」
「ええ、かまいません」
 僕としては愉快な経験ができるなら無給でもいいくらいである。
 ――結局。
 僕も見知った顔が忙しさに四苦八苦しているのを見て素知らぬ振りはできず、その助けになれることが嬉しいのだろうな。どこかほっとしている。
 こうして僕と槙坂先輩の短いバイト生活がはじまったのだった。



 やれることをやるだけだった初日と違い、翌日からはきちんとした指導のもと、仕事の範囲が広がった。
 槙坂先輩は、フロア係と軽食メニュー担当であるキリカさんの補佐の二足のわらじ。接遇もそつがない。一方の僕は、コーヒーを美味しく淹れる技術もなければ人に振る舞えるほどの料理の腕前もないので、もっぱらフロア係が専門である。まぁ、人の行動を眺めるのが趣味の僕向きではある。
 ――さて、問題は二日目に起きた。
「店長、客が増えてますね」
「そのようですね」
 客が何割か増加したのである。
 理由はいたって簡単。キリカさん目当ての客がいるのだから、槙坂先輩目当ての客が発生しても何ら不思議なことはない。つまり臨時アルバイトの彼女の姿を見た何人かがリピーターと化したのだ。結果的に『天使の演習』の忙しさを見かねて手伝いに入った僕たちが、より正確に言えば槙坂先輩が、さらなる忙しさの原因をつくってしまったのである。……仕方がないので、そのあたりのお詫びも兼ねて、男性客は僕が積極的に対応するように努めた。
「でも、まぁ、君たちがいるおかげでちゃんと楽にはなってますよ」
 店長はあいかわらず呑気だった。
 実際その通りなのだろう。忙しさが増しても同時に働き手も増えているので、差し引きとしては負担は軽減されている。そもそも店長としては客が増えること自体は、そのまま売り上げの増加につながるので大歓迎だろう。尤も、僕たちのバイト代を含めた収支まで考えた場合、どうなるかは知らないが。
「そうだ。君がいる間に例の件を進めておきましょうか」
「例の件?」
 不意に店長がそんなこと言い出し、カウンタをはさんで次に運ぶ注文の品がそろうのを待っていた僕は、何のことだかわからず首を傾げた。
「ほら、コーヒーハウスでしたっけ?」
「ああ」
 思い出した。前に店長と店の外で会ったときのことだな。あのとき店長は僕に、店を盛り上げる方法はないかと聞いてきた。素人にアイデアを求めるのもどうかと思うが、その素人の僕としては知っている知識の中からコーヒーハウスの話を出したのだ。
「藤間君。君、明日は午後から出てきてくれたらいいので、午前中に置く本を適当に選んできてもらえますか?」
 収書、選書は僕に一任されるらしい。
「だったら、槙坂さんも一緒に行ってもらわないと」
 いったいどういう発想なのか、キリカさんが口をはさむ。
「え? わたしが、何ですか?」
 そこにちょうどテーブル席にコーヒーを運んで戻ってきた槙坂先輩が、自分の名前を拾って話に加わってきた。
「槙坂さん。明日、藤間くんとデートしてきてください。時給は発生しませんけど、デート資金は出しますよ」
「……はぁ」
 ウィンクしながら言うキリカさんだが、槙坂先輩はいったいどういう話の展開なのかさっぱりわからず、曖昧な返事をしたのだった。
 
『天使の演習』はだいたい午後七時を過ぎると客が疎らになり、そのあたりで僕たちはお役御免となる。
 ――その日の帰り。
「ねぇ、コーヒーハウスって何なの?」
 ようやく薄暗くなりはじめた真夏の夜の住宅街を歩きながら、槙坂先輩が聞いてきた。こんな時間でも気温はまだ下がり切っておらず、蝉もまだヤケクソのように自己主張を続けている。
「コーヒーハウスは、一六五〇年のオックスフォードで生まれた図書室の性質を併せ持ったカフェのことだよ。正確には当時のコーヒーハウスが次々と本や雑誌、新聞を置くようになったわけだが」
「オックスフォード……。そう言えば、今度の旅行でも立ち寄る予定だったわね。その関係も?」
「まぁね」
 最大の目的はボドリアン図書館だが、確かにそれもある。オックスフォードにある最古のコーヒーハウスは未だ営業を続けているらしいし、一度は見ておきたいところだ。
「当時のコーヒーハウスは、ただコーヒーを飲むだけの店じゃなかったんだ。新聞や雑誌が置かれていて、数軒も回ればいろんな情報が手に入ったらしい」
 そうやって新聞や雑誌、そして、コーヒーの魅力に惹かれて人が集まるコーヒーハウスは、新聞にニュースを提供する場にもなった。新聞屋は情報を集めるためにしばしばコーヒーハウスに足を運んだという。
 また、ときには読書会を開いたり、討論を繰り広げたりもしたのだそうだ。かのアイザック・ニュートンもそこで毎日のように常連客と討論し、『プリンキピア』を書き上げるに至ったと言われている。
「だけど、店長には悪いけど、コーヒーハウスは十八世紀に入ると次第に排他的になっていくんだ」
 コーヒーハウスが会員制の集まり――クラブと同意義のものへと変わっていったのだ。
 クラブが集会の場をコーヒーハウスにしたことで、だんだんと客層が偏りはじめていく。弁護士、株式仲買人、ある政党の支持者、銀行家や商人……。そういった特定のグループや職業の人々がこれまた特定のコーヒーハウスをたまり場にすることで、初期の誰でも入れる民主的側面が失われていったのだ。
 しかし、そのおかげというべきか、文士や出版者(ブックセラー)の集まるコーヒーハウスには、彼らとお近づきになることを期待して、文学を志す若ものが集まってきた。そこで支持者(パトロン)を得て世に出るチャンスを掴んだ有名作家も少なくない。
「まぁ、それはコーヒーハウスが一度衰退しはじめたころの話で、初期のコーヒーハウスは読書の場でもあったんだ」
 当時のコーヒーハウスには、新聞や雑誌だけでなく、軽い読みものも置いていたようだ。文献の中には、静かに読書をするための図書室を設けている店や、別料金をとって貸本屋的なことをしていた店もあったとの記述も残っている。尤も、そのせいで売れ行きの落ちたブックセラーによる怒りの投書もあったようだが。曰く「ひどい下品な習慣」だそうだ。
 そのあたりは近年一時期話題になった、市立図書館によるベストセラー小説の大量購入も似たようなものか。
 それについては僕はあまり問題だと思っていない。ひとつの市に図書館は、中央館と分館を含めて通常複数ある。政令指定都市になると二十、三十あるところも珍しくない。仮に市が百冊買ったところで、一館あたりの複本は五冊から二十冊程度。そこに予約が殺到した場合、半年待ちや一年待ちはざらだ。それだけ待たされる上、本当に読みたい本ならおそらくもう自分で買うだろう。そして、大ベストセラーなら千部くらいは誤差の範囲だ。いくつかの市が一括購入して図書館で無料で貸し出したとして、大騒ぎするほどのことではない。
「悪い。どうも話が逸れたな」
 つらつらと語ったところではたと気づく。
 今は現代の図書館の話ではなく、かつてのコーヒーハウスの話だ。
「わたしは藤間くんのそういう話、とても好きよ」
「……」
 得意な分野で多弁になる男というのも、あまり格好いいものではないと思うのだがな。
「それでマスターは藤間くんの意見を採用して、コーヒーハウスのように本を置こうとしてるの?」
「みたいだな」
 とは言え、本当にコーヒーハウスを再現したいわけではないだろう。当時とは本の価格や新聞の普及率がぜんぜん違う。図書館だってある。とすれば、目指すイメージとしては図書室というよりは、美容院のようなサロンの系統だろうか。槙坂先輩も一緒に行かせるというキリカさんの選択と指示は正解だな。
「兎も角、明日は選書ツアーだ」
「そうね」
 話しているうちに駅が見えてきて、僕たちはそこで別れた。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2016年3月26日公開

 


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