休憩を終えて仕事に戻る。 食事をするには不向きな喫茶店の昼どきとあって、客の入りはほどほどといったところ。尤も、これも一時的なもので、言っているうちにまた賑やかになることだろう。 と、そんな店内で、キリカさんが奥に設置した書架を睨んで仁王立ちになっていた。あまりの異様にお客さんも声をかけるのを躊躇っている。 「どうしたんです、あれ」 僕はカウンタの向こうにいる店長に聞いてみた。 「どうやら本の並びが気に喰わないみたいですよ」 「ああ、なるほど」 言われてみれば、何やら考え込んでいる様子。ここまで「うーん……」とか「むー」といった声が聞こえてきそうだ。 「因みに、普通図書館ではどういう順番で並べているんですか?」 「通常はNDC――日本十進分類法という規則に従って分類して配架していますね」 図書分類の歴史は古い。何せ世界最古の図書館であるアッシュルバニパルの図書館にまで遡ることができ、紀元前3世紀のアレキサンドリア大図書館にはすでに、司書のカリマコスによって、詩人、法律家、哲学者、歴史家、雄弁家、雑、の6つに分類された『ピナケス』と呼ばれる目録があったと言われている。 近代になって1870年、ウィリアム・ハリスが新たな分類法を考案し、さらにメルヴィル・デューイがそれを整備した。その『デューイ十進分類法』をもとにして、1928年、森清(もり・きよし)が現在の『日本十進分類法(NDC=Nippon Decimal Classification)』を発表したのである。 これらに共通して根底にあるのは、哲学者フランシス・ベーコンが著書『学問の進歩』において提唱した人間の精神活動の分類だ。 それによれば人間の精神活動は記憶、想像、理性に分類されるのだという。ハリスやデューイは、記憶=歴史、想像=詩学、理性=科学、と置き換え、図書分類に当てはめた。なおかつ、ベーコンの分類順を逆にしているので、『逆ベーコン式』『逆ベーコン順』などと呼ばれている。 こうしてできたNDCが、日本の公共図書館や大学図書館では用いられているのである。……明慧大の図書館で顔見知りになった女性の司書さんは「せっかくきれいに並べても一瞬でぐちゃぐちゃにされるので、学生死ねと思いますねー」と、さらりと言っていたが。 「まぁ、こんな私的な書架で分類法通りに配架しても無意味でしょうね」 因みに、『配架』は本来『排架』という字を当てる。『排』の字には「一定の順序で連ねる」という意味があり、図書館学のテキストにもこちらを使っているものが少なからずある。だが、どうしても『排除』『排斥』といったネガティブなイメージがつきまとうため、『配架』のほうが一般的になっているようだ。 「なるほど。なら、彼女に任せておきましょうか。細かいところにまでこだわりますが、何だかんだで落ち着くところに落ち着きますよ」 どこか実感のこもった発言だった。店長は高校のときからキリカさんと同棲していたというし、実際に身をもって知っているのだろう。……なぜか僕は『苦労』という言葉を連想した。 不意にドアベルが涼しげな音を奏でた。客がきたようだ。 「いらっしゃいませ」 店長が応じる。 入り口のドアを開けたままで顔を覗かせたのは、僕と同年代くらいの女の子ひとりだった。 「すみませーん。ふたりなんですけど空いてますか? あ、テーブル席で」 「ええ、空いてますよ」 「ああ、よかった。……唯子、空いてるってー」 女の子は嬉しそうに破顔した後、外に向かって呼びかけた。連れ合いがいるようだが…… 唯子? 奇遇なことに僕にも唯子という名前の知り合いがひとりいるな。気になって見にいってみると、入り口の外の三段ほどの階段、というか段差の下に、車椅子に座ったスポーツ少女然とした女の子がいた。 「伏見先輩」 「ん? おお、藤間君じゃーん」 やはり伏見先輩だった。 隣では最初に店に入ってきた伏見先輩の友達と思しき女の子が驚きの声を上げる。 「えっ、藤間君って、あの!? 私、初めて見たかも!」 「そう、『あの』藤間君」 伏見先輩が得意げに答えた。……いったい『どの』藤間君なのだろうな。 「どうしたの、こんなところで。って、その恰好、もしかしてバイト?」 「そんなものです」 結果的にそうなのだがそこには、客としてきたら忙しそうだったので見るに見かねて手伝うことにした、なんていう普通ではお目にかかれない経緯があったりする。 「そっかそっか。よし、じゃあ、せっかくだから介助の経験をさせてあげよう。……悪いんだけどさ、入り口まで運んでくれる?」 そう言うと伏見先輩は、ヘイカモン、とばかりに両手を広げて何やらアピールしてくる。……マジか。 まぁ、これも店員の仕事と思っておこう。 「でも、どうやればいいんです?」 「とりあえずこの上まで運んでくれたらいいから」 と、伏見先輩は実に気楽にいってくれる。 仕方がない。僕は車椅子の横に回った。 「失礼します」 片手を彼女の背に回し、もう片手は両足まとめて膝の裏に差し込む。 「やった、お姫様抱っこ!」 介助である。 そうやって伏見先輩を持ち上げると、彼女は僕の首に手を回してきた。 「重くない?」 「特には」 これでもその昔、我が師につき合わされて喧嘩に明け暮れていた身だ。別にセンスや才能だけでやってのけていたわけではなく、それなりに体を鍛えもした。尤も、今はその遺産を喰いつぶしているわけだが。それでも伏見先輩を重いと感じない程度には力はある。 「男の子だねぇ。……槙坂さんとどっちが軽い?」 「あの人を運搬した経験がないので、何とも」 槙坂先輩は平均よりも背が高い。一方、伏見先輩は小柄な部類だろう。だからと言って、どちらが軽いなどと予想をつけるつもりはない。たぶん僕にとってはどちらも軽い。 最上段に辿り着いた。 「どうします? 店の中までつれていきましょうか?」 「うん、と言いたいところだけど、もう下ろしてくれていいよ。立てるから」 「え? 立てるんですか?」 信じられない思いで、おっかなびっくりそろっと下ろせば、伏見先輩はその言葉通り自力で立ってみせた。ただし、あまり足に力は入っていない様子で、手は店の入り口のドアレバーをつかんでいる。 聞くところによれば、いちおう立って歩けないこともないのだそうだ。ただし、段差はむり。平地でも何かをまたいだりするのも、やはりできないとのこと。 「ほら、情報学の授業のとき、プリントアウトしたものを前のプリンタまで取りにいったりするでしょ? あれくらいだったら歩いていくし。まぁ、だいたい誰かがついでに取ってきてくれるんだけどね」 伏見先輩はそのまま店の中へ。 「車椅子はどうします?」 「邪魔にならないところによけとけばいいよ。そんなもの誰も盗らないしね」 伏見先輩はあっさりとそう言う。そして、その車椅子はすでにもうひとりの彼女が動かし終えていた。いつもの流れなのだろう。 空いていたのは店に入ってふたつめのテーブル席。伏見先輩は擦(す)るようにして足を運びつつ、手は手前の席のソファの背やテーブルに順々に添えていく。間、僕は何があってもいいように、彼女の横について歩いた。さっきまで書架を睨んでいたキリカさんがこちらに気づいたが、僕は自分に任せてほしいと目で合図を送った。それでも心配そうに最後まで見守ってくれていた。 そうして伏見先輩が席につく。 僕はそれを見届けてから、ようやくお冷をテーブルへと運んだ。 そうしてから改めて、 「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」 「あっはっは、勤労少年だー」 「茶化さないでください。バイト中なんですから当たり前でしょう」 面倒くさい先輩がきたものだ。 「……で、どうします?」 ややぞんざいな口調で僕は再度問う。 「じゃあ、おすすめで。ふたつね」 「わかりました」 「あ、そうだ。紹介しとくね。こっち、サナ」 伏見先輩は向かいに座った友達を示してそう言った。 「江口咲那(えぐち・さな)です。よろしくね」 「藤間真です」 「うん、知ってる。『あの』藤間君だよね」 だから、『どの』だ。 「サナね。あのとき遊園地にいたんだよ」 「え、なになに? 遊園地って?」 伏見先輩は含み笑いで言い、その意味ありげな物言いが気になったのか、江口先輩が喰いついてきた。 遊園地の件と言えばひとつしかない。夏休み前の六月くらいだったか、僕は槙坂先輩とともに遊園地に遊びにいったことがあり、そこでこの伏見先輩と出くわしたのだった。 そのときはたまたま彼女ひとりだったが、当然ひとりできているはずがなく、友達も一緒だと言っていた。その友達の中にこの江口先輩もいたのだろう。 「んー? もう時効かな? 時効だよね。実はね、ほら、前にみんなで遊園地に行ったでしょ? ビビューン。あのとき、涼さんと藤間君、デートしてたんだよねー?」 時効早いな、おい。 結局、僕が止める間もなく、伏見先輩は話してしまった。やはりこういうところはスポーツ少女然としていても、噂好き恋バナ好きの女の子だと思う。 「うっそ!」 「しかもね、あのときだけふたりは――」 「あ、バカ!」 瞬間、彼女はぐりんとこちらを向いた。 「あ? 今あたしにバカっつった?」 おっと、つい。 だが、もう遅い。伏見先輩は、正義は我にあり、もう話す、とばかりに意地の悪い笑みを浮かべた。 「唯子?」 と、そこに誰かさんの声。 「あぁ、槙坂先輩」 僕はその呼称を殊更はっきりと発音した。 どうやらもう休憩を切り上げて出てきたようだ、いちおう時給で働いている身で、一時間の休憩がちゃんと確保されているが、実際はけっこういいかげんだ。店の状況を見て、勝手に早く戻ってくることもよくある。 さてさて、これはタイミングがいいのか悪いのか。 「え、涼さん? もしかして涼さんもここで一緒にバイト?」 「ええ、そうよ」 槙坂先輩は知り合いの予期せぬ来店にも慌てた素振りはなく、落ち着いた態度で受け答える。「あっやしー。ますますあやしー」と江口先輩。 「あ、涼さん、すっごいかわいい恰好してる!」 「そう? ありがとう」 例の服にエプロンをつけた槙坂先輩は、褒められても照れたり否定したりせず、大人っぽく微笑みを浮かべつつそう返した。 伏見先輩が僕に囁いてくる。 「そういうお店?」 「……違いますよ」 まぁ、店長夫人は時々妙なことを考えつくみたいだが。 「さて、僕は戻るよ。注文も受けているしね」 いつまでもしゃべっていてはさすがに怒られる。槙坂先輩も出てきたことだし、ここは槙坂先輩に任せて僕は仕事に戻るとしよう。 「涼さん、聞いて聞いて。あたし、藤間君にお姫様抱っこしてもらちゃった」 「あら、そうなの?」 踵を返した僕の背に、嬉々とした声の伏見先輩と相変わらず余裕のある槙坂先輩の、そんなやり取りが聞こえてきた。……いらんことを言ってくれる。背中にいやな汗が流れる思いだ。 僕はカウンタに戻ると店長に注文を伝えた。 「お友達ですか?」 その店長は、さっそく本日のおすすめコーヒーをアイスで用意しながら僕に聞いてくる。 「学校の先輩です」 「そうでしたか。……ああいうお客さんがくるときのことも考えないといけないのかもしれませんね」 おそらく入り口の段差のことだろう。 確かに。後付けでバリアフリーにするには構造的に難しそうだが、せめて段差のところに手すりをつけるくらいはしたほうがよさそうだ。現状のように左右が植え込みではお年寄りだって危ない。 程なくして槙坂先輩も戻ってきた。 「なんだ、もう戻ってきたのか。せっかくだからもう少し話してきたらよかったのに」 「あら。藤間くんが相手してあげたほうが喜ぶんじゃない?」 少し棘を感じる言い方だった。 「……」 やはり原因はあれだろうか。 そんな槙坂先輩の微妙な変化に気づいているのは僕だけのようで、横ではキリカさんが「こんなところに不良バイトがおる」と呑気にのたまっていた。 「藤間君、お願いします」 「あ、はい」 店長がカウンタにコーヒーの入ったグラスをふたつ置いた。 僕はそれをトレイに載せると、コーヒーミルクとガムシロップ、ストローを添え、テーブルへと運ぶべく体の向きを変える。 と、一瞬、槙坂先輩と目が合ったが、彼女はぷいとそっぽを向いてしまった。 やれやれ、失敗したな――頭を掻きたい思いだったが、あいにくと両手がふさがっていてそれも叶わない。仕方なく僕は槙坂先輩の横を抜け、コーヒーを伏見先輩たちのもとへと運んだ。 「お待たせしました」 「ねねっ、藤間君。涼さんと一緒に雑誌の取材を受けたって本当?」 「本当です」 僕はふたりの先輩の前にそれぞれグラスを置きながら答える。 「とは言っても、載ると決まったわけではないですが」 できれば載らないでほしいところだ。 「いーや、絶対載るね」 だが、僕の淡い期待を、伏見先輩は無情に打ち砕く。 「それも最初の見開き2ページで。だって、わざわざ場所変えて何枚も撮ったんでしょ? 1ページでまとめて四組紹介されるようなカップルのために、そこまでやらないよ」 伏見先輩の言葉から何となく紙面の構成の想像がつくな。おそらく最注目は見開き2ページで紹介されるのだろう。そのほかは1ページを四分割して四組。もしかしたらその中間として、1ページを独占するひと組があるのかもしれない。 江口先輩が首を傾けるようにして、僕の顔を覗き込んできた。 「藤間君ってさ……もしかしてけっこうイケメン?」 「さぁ、どうでしょうか。僕はいたって普通のつもりですけどね。……では、ごゆっくりどうぞ」 僕はその問いをかわし、軽く一礼してからテーブルを離れた、 伏見先輩たちは特に長居することなく帰っていった。 出るときもまた僕が呼びつけられるかと思ったが、レジを打ったキリカさんがそのまま伏見先輩の手を引き、ゆっくりと段差を下りたのだった。 ――そうして、夜。 おそらく今日はもう何事もなく閉店となることだろう。いつもなら僕と槙坂先輩はこのあたりでお役御免となるのが常だ。 (とは言え、今日は一緒に上がらないほうがよさそうだな) そう思っていると、さっそく店長が店の様子を見、口を開いた。 「もう君たちは上がってくれてもいいですよ」 「いえ、僕は最後まで手伝いますよ」 いたらいたで助かるはずなので、こういう申し出をしてもまず断られることはない、 だが、 「ダメです」 キリカさんだった。 「今日は槙坂さんと一緒に上がってください」 彼女はにっこり笑って、そう言った。 帰り道、 僕たちは並んで駅へと歩く。言葉はない。 やがて行程も半ばまできたころ、ようやく槙坂先輩が口を開いた。 「あなたは誰にでも優しいのね」 少し呆れた調子の声音。 「正しくは、わたし以外には優しい、ね」 「……」 ひどい天邪鬼もいたものだ。 「いちおう弁解するなら――別にサービスでやったわけじゃない。店としての必要な介助だよ」 尤も、相手が伏見先輩だから手っ取り早くあんなことができたのも確かだ。見ず知らずの女性であれば、きっとキリカさんの手を借りただろう。 「ええ、それはわかるわ。でもね――」 「わたしの気持ちも考えてほしいわ」 だが、僕の言い訳じみた主張を、槙坂先輩はそんな言葉で一蹴した。 どこか拗ねたような響き。 「……わかったよ。僕が悪かった。次からは気をつける」 降参するしかなさそうだ。 何せ昼には同じような台詞を吐いた身なのだから。 「いいわ。じゃあ、今度はわたしがお姫様抱っこしてもらおうかしら。ベッドまで」 「僕の部屋で貧血でも起こせば、そういうこともあるかもね」 次の瞬間、思いっきり二の腕を叩かれた。 痛かった。 その女、小悪魔につき――。 2016年10月9日公開 |
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