Razor's Edge (前編) 見上げれば綺麗な月があった。 満月だろうかと目を凝らしてみれば、それはわずかに欠けていた。十四日月というやつだ。ならば、明日辺りが満月か――そう思い、そして、そう思ったのを最後に月のことなど忘れ、また歩き出した。 夜―― 春の夜気は涼しく、意外に澄んでいた。それでも所詮は日本。汚れた空気の前には、満天の星空など望むべくもない。駅前はスーパーやコンビニエンスストアの灯り、自動車のライトが夜空を奪って煌々と輝き、昼間の如き明るさだ。 「特に異状なし、か」 学習塾の前で《刃喰い》の異名を持つ少年はつぶやいた。 刃喰い―― その異名は路地裏に知れ渡り、恐れられていた。まっとうな人間はそんな名称など知らないが、やはり彼は恐れられている。本人としては一般人だと胸を張って言うつもりもないが、不良でもないつもりだった。高校にだって通っている。しかし、荒い言葉遣いと粗野で攻撃的な性格、刃の如き雰囲気はそれだけで誤解を生むのに十分なのだろう。 刃喰いは今、夜の住宅街を歩いていた。 目的はあるが、限りなく当てはない。 ことは先日、親友の妹、中学3年に上がったばかりの美作果林(みまさか・かりん)の言葉に端を発する。 「この前、塾の帰りに変な人を見たの。ふらふら歩いてて、何かを探してるみたいなんだけど、何でもいいって感じで。見つかったら怖そうだから、すぐに隠れたけど」 たったそれだけ。 それでも刃喰いは行動する。以来、連日こうして夜の見回りを続けている。獲物を探している不良かイカれた薬物中毒患者か。どちらにせよ果林の安全のためにも、一度シメておく必要があるだろう。 とは言え、今日も家からこの学習塾まで歩いてきたが、特に収穫はなかった。 「もう少し足を延ばしてみるか」 そう決めて刃喰いは向きを変えた。 しかし、もとより当てのない探索。目的地などない。しばし考えた後、この春から通っている高校へ行ってみることにした。 まずはそばのコンビニでホットの缶コーヒーを購入。店の前にガラの悪そうなのが数人たむろしていたが、刃喰いにガンを飛ばすだけで、しかけてくる様子はなかった。たぶん前に一度ぶちのめした連中なのだろう。いちいち顔を覚えていないので確証はないが。 刃喰いはコーヒーを飲みながら高校へと足を向けた。学校は山を背にするかたちで位置しているので、自然、山を目指すように歩くことになる。 駅から少し離れて住宅街に入ると、途端に人気がなくなった。 刃喰いは街灯の灯りから灯りへと渡り歩くようにして歩を進める。人気の絶えた市街地。遠くで野犬が吠えている。 突然、 刃喰いの前に少女が姿を現した―― いったいどこか跳んできたのか、たん、と微かな音とともに街灯の灯りの中に着地。さらにもう一度跳ぼうとして――しかし、刃喰いに気づき、その向きを変えた。 瞬時に少女が身構える。 刃喰いの気配を察知しただけで、視認するよりも先に身体が動いている。それは経験によって身に染み込んだ、限りなく本能に近い行動だった。 (こいつ……) 刃喰いも反射的に臨戦態勢を取っていた。 「……」 「……」 少女は警戒感の強い眼差しを刃喰いへ向ける。無論、刃喰いも同じだ。 よく見ると小柄な少女だった。年下だろうか。スパッツに少し大きめのTシャツを着た姿は、夜のジョギングの最中だと言われたら、それで納得してしまいそうだ。 刃喰いと少女は互いに油断なく身構えつつ、相手の様子を窺う。 張り詰めた糸のように、恐ろしく緊張した時間。迂闊に動けば、次の瞬間にはやられる。時計の針に刻み殺されそうな、そんな状況を打ち破ったのは刃喰いの方だった。 「よォ」 警戒を解いて声をかけた。 「……」 「こんなとこで何やってんだ?」 無防備になった途端に襲いかかられるのではないかという恐怖があったが、刃喰いはあえて先に警戒を解いた。 重ねて問いかけて、少女はようやくゆっくりと構えを下ろす。しかし、それでも刃喰いを見る視線が厳しいのは、まだ警戒しているからか、それとも生来のものか。 「……あんた誰?」 少女の第一声は、棘つきの生意気な響きだった。 「刃喰いって呼ばれてる」 「……ふうん」 興味があるのかないのか、その名に聞き覚えがあるのかないのか。いまいち判じがたい返事だった。少なくとも刃喰いのことを胡散臭いと思っているのは間違いない。 「で、最初の質問に戻るんだけどよ。こんなとこで何やってんだ?」 「あんたには関係ないわ」 少女はばっさり斬り捨てた。そして、今度は逆に問い返す。 「あんたこそ何してるのよ」 「俺は、まぁ、探しモンってとこだな」 「……」 少女は何も言わず、じっと刃喰いの顔を見つめた。今の言葉を、その表情と合わせて、真偽を見極めようとしているかのようだ。 「あたしはヒト探しよ」 どういう心境の変化か、今になって刃喰いの問いに答えを返してきた。 「へぇ、お互いに探しモンとは奇遇だな。……ついていっていいか?」 「……」 「……」 また少女が押し黙り、二度目の沈黙が訪れた。 そして――、 「勝手にすればいいわ」 そう答えてくるりと踵を返し、さっさと歩き出す。刃喰いはその後を追った。 どうやら少女は本当に刃喰いの行動に関知するつもりはないらしく、黙って自分のペースで己が目的地に向かって歩いていく。 しかし、それは表面的なこと。 刃喰いから見て、少女はあまりにも隙がなかった。歩き方は武道や格闘技以上の本格的な実戦を経験し、常にそうなることを想定しているものの動きだ。そして、意識は警戒というかたちで全方位に――後ろを歩く刃喰いにも例外なく、向けられている。 だが、警戒しているという点なら刃喰いも同じだ。彼もまた少女の動きを油断なく窺っていた。 刃喰いと少女は夜道を歩く。人の姿は完全に絶えている。少し前に思い出したように車が一台、ふたりを追い抜かしていって、それきりだ。ふたつの足音だけが響く。このゴーストタウンめいた住宅地の中、少女がどこを目指しているのか、後ろをついていくだけの刃喰いにはわからない。どうやら学校からは離れていっているようだ。 住宅地の中でも比較的大きな道が交差する場所。その真ん中で少女は不意に立ち止まった。刃喰いも動きを止める。なぜこんなところで立ち止まるのかとは問わない。ただ黙って次の行動を待つ。 ――と。 次の瞬間、風が鳴った。そして、ほぼ同時に少女の足が鼻先を掠めていった。だが、それは刃喰いが体を反らしたからこそであり、そこは一瞬前まで彼の頭があった位置だ。 風を斬り裂く強烈な回し蹴り。それを避けることができたのは、ひとえにそろそろ仕掛けてくると予想していたからだ。 さらに続けて逆の足での後ろ回し蹴り。 「ちっ」 刃喰いは地を蹴って、後ろに跳び退った。手放したコーヒーの缶が、中身をまき散らしながらアスファルトの上を転がる。 少女のこの行動の理由を問う舌は、刃喰いにはない。ただ単に疑念が確信に変わっただけ。 刃喰いも攻めに出る。 落ちた缶の音が鳴り終わるか終わらないかのうちに、回避から一転、前へ踏み込んだ。 が――、 彼は考える。相手は問答無用の鋭い先制攻撃を繰り出してきたとは言え、自分とそう年の変わらない、もしかすると年下かもしれない少女だ。殴るにはいささか抵抗がある。 (ましてや斬るわけにはいかねぇだろォがよっ) 刃喰いは掌底を放った。この少女相手にお互い無傷でこの場を収めるのは不可能だ。ならば、できる限り与えるダメージを少なくして、ひとまずは戦意だけを奪えばいいだろう。彼はそう考えたのだ。 そんな甘い考え。 打ち出した掌底は、少女が胸の前で交差させた腕によって防がれてしまった。 「!?」 刃喰いは眼を疑う。彼女の小柄な体は微動だにしなかったのだ。 少女が攻に転じる。 わずかにガードを引いて力の均衡を崩し、刃喰いの体勢を乱す。と同時に、片方の足を軸にして流れるような動きで回転、そのまま後ろ回し蹴りを放った――が、浅い。ヒットしたのは遠心力が最も強くはたらく足先ではなく、もう少し根本に寄った部分だった。 それでも刈り蹴りのようになり、刃喰いをアスファルトの上へと薙ぎ倒した。どうやらこの少女は見た目とは裏腹に、とてつもないパワーを秘めているようだ。 「ナタクに私を引きつけさせておいて、自分はのんびり探しものをするつもりだったんでしょうけど、ふらふら歩いてたのが悪かったわね」 少女は冷たく言い放つ。 刃喰いは立ち上がりながら、強烈な後ろ回し蹴りを喰らった胸に手を当てた。肋骨をもっていかれた形跡はない。まだ戦える。 「わけのわからないこと言ってんじゃねぇぞっ」 地を蹴り、襲いかかる。 もう少女だからとか、極力傷つけないようにだとか、そういった考えは消えていた。そんなことを気にしていて勝てる相手ではないのは明白だ。 繰り出される拳打! 蹴撃! 連携攻撃! しかし、そのことごとくを少女は、防ぎ、避けていく。 「っのやろォっ!」 焦った刃喰いは一打逆転を狙って、拳による渾身の一撃を放った。が、これまでの攻撃をしのいできた少女が、そんな大振りの粗い一手をかわせないはずがなかった。 少女が仰け反る。 空を切る拳。 続けて少女が身をひねった。直後――、 ゴッ 刃喰いは側頭部に衝撃を受けた。 「が……っ」 胴回し回転蹴りだ。 無様に地面の上に転がる刃喰いと華麗に着地する少女は、あまりにも対照的だった。 口の中に血の味が広がった。視界がぐらぐらと揺れている。ともすれば意識が飛びそうだった。それでも刃喰いは立ち上がる。 「てめぇ、なにモンだよ……」 格が違う――。 路地裏で不良やチンピラ相手に無敵を誇っている刃喰いだが、この少女には勝てない。住む世界が違っている。目の前にいる少女は、路地裏どころか社会の闇で死闘を繰り広げてきた種類の人間だ。 「驚いたわ。《龍使い》の名前すら知らずに、この街に乗り込んできたわけ?」 龍使い―― それがこの少女の通り名なのだろう。 その名がいったい何に由来するのかはわからないが、単純な接近格闘の能力だけを見ても尋常でないのは明らかだ。 ここは退くべきだ……―― 刃喰いの中の本能が警告を発していた。 戦いの主導権を完全に龍使いに持っていかれている。このままずるずると戦っていても勝ち目はない。一旦退いて体勢を立て直さねば。 (だが、どうやって逃げる?) そこが問題だ。 おそらく相手は戦いを日常とするか、少なくともその心構えをもった人間だ。そんな“本もの”から、果たして逃げおおせるだろうか。 (いや……) 刃喰いは否定した。 可能だ、と。むしろ“本もの”だからこそ、この体の中にあるものに反応してくれるはずだ。 刃喰いは龍使いを睨めつけた。 「まだやるの? しぶといわね」 「いちおうまだ試してない切り札があるのさ」 不敵に答える。 (目覚めろ、俺の中の……) イメージするのは剣。 剣を持って対峙するイメージに、隙あらば斬りかからんとする気迫を添える。 「ッ!?」 龍使いがとっさに身構えた。 刃喰いがつくった見えない脅威に反応したのだ。いや、もしかすると戦いの中で培われた第六感は、彼女にもっと具体的なものを幻視させたかもしれない。 すべては“本もの”故の、鋭すぎる反応だった。 そして、それこそが刃喰いの狙いだった。 「はっ。あばよ」 彼はいきなり転進し、一目散にその場から逃げ出した。一瞬の隙をついて逃げる。足には自信がある。距離が開いてしまえば、そうそう追いつかれはしない――そのはずだった。 「翔!」 「な……」 刃喰いは足を止め、唖然とした。 頭上を何かが通ったと思った次の瞬間、龍使いが行く手を阻むように舞い降りたのだ。信じられないことに、飛び越えたらしい。確実に10メートルはあろうかという距離を。一足飛びで。 「マジかよ……」 「逃がすつもりはないわ。覚悟することね」 龍使いはまるで死刑執行人のように、感情を殺した声で宣言した。 彼女は、刃喰いの中に正体不明の脅威を感じたせいか、先ほどよりも油断なく構えている。全力でウサギを狩りにいく獅子とは、まさにこの様子をいうのだろう。どんな小細工を弄したところで、もう隙を見せるとは思えなかった。 「覚悟?」 刃喰いは自嘲気味に笑む。 「ああ、そうだな。ここいらで覚悟を決めるしかないらしいな、どうやらよ」 腹をくくった。 逃げられないなら戦うしかない。 勝ち目がないのなら、切り札を出すしかない。 もうこの状況を打破する術はいくつもないのだ。 「勝てると思ってるの?」 「言ったろ? 試してない切り札があるってな」 刃喰いは龍使いと対峙する。だが、その意識は自分の中に向けられていた。 ――目覚めて斬り裂け、第一の刃! イメージするのは、再び剣。ただし、先ほどのようなフェイクではなく、もっと完全で、明確なものを編み上げる。 体という鞘から剣を抜き出し、 己の手を刃と化す。 右手は自然、手刀のかたちをつくっていた。 「怪我しても文句言うんじゃねぇぞっ」 刃喰いは駆け出した。 待ち受ける龍使いは、刃喰いが何をしかけてくるのか見極めようと睨みつけ、その目には何であろうと打ち破ってみせる強い意志があった。 刃喰いが間合いに踏み込む。 瞬間、その足を軸にして体を旋回させた。バックナックルの要領で遠心力を加えた手刀は、螺旋しながら龍使いへと襲いかかる。 一度はそれを受け止めようと、身構えた龍使いだったが、それこそ第六感がはたらいたのか、手刀が到達するまさにそのとき、防御から回避へと選択を変えた。地を蹴り、飛び退く。 結果、それは正しかった。 紙一重でかわしたはずの手刀は、触れてもいないのに龍使いの服を切り裂いていた。 まるで鎌鼬。 シャツの胸の辺りが鋭い刃もので切られたように裂け、その下のスポーツブラらしきものも切って、ささやかな胸の膨らみが露になった。 「ぁ……」 「ぇ……?」 ふたり同時に小さな発音。 龍使いが破れたシャツを合わせるようにして、さっと胸もとを隠した。顔が赤い。 「な、な、な、なにすんのよっ!?」 「あ、いや、その、なんだ……わざとじゃないんだぜ?」 「……」 しかし、刃喰いが不可抗力を説いても、龍使いは依然、睨みつけてくる。そこに込められた少女らしい怒りと恥じらいは、殺気よりもよっぽど刃喰いをたじろがせた。 気まずい沈黙。 そして――、 「すまん! じゃ、そーゆーことでっ」 刃喰いは片手を上げてそれだけを言い、背を向けて脱兎の如く駆け出した。 龍使いが追ってくる様子はない。 「すけべっ、変態っ。覚えてなさい、今度会ったらただじゃおかないんだからっ」 その代わりに罵声を浴びせられたが。 (こっちゃもう会いたかねぇよ……) しかし、刃喰いは思う。 もしかしたら、と。 理由もわからず突然挑まれた正真正銘、命をやり取りする戦い。いきなり晒された生命の危機。しかし、彼女についていけば、もしかしたら自分の持つ能力が活かせるのかもしれない。 超常の異能。 何のためにそんなものを持って生まれてきたのか。今まで疑問に感じていた。少なくとも路地裏で恐れられるためではあるまい。 その答えを今まさに得ようとしているのかもしれない。 そう思うと刃喰いは心踊るものがあった。 2008年10月27日仮公開 / 2008年11月8日改稿・正式公開 |
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