授業中――
 窓を伝う雨の粒を見ながら思う。
 わたしは雨が嫌い。
 まず、服が濡れる。雨の日はお気に入りの服や靴で出かけられないし、ましてや気合い
の入った黄砂が中国から飛んできた日には、外に出るのすら嫌になる。
 それから、髪が湿る。わたしの髪は湿気に敏感なのか、雨が降る前から髪の具合でそれ
がわかる。そうなったら最後、髪がびよんびよんに跳ねて、思い通りに収まらなくなる。
 先日、那智くんと一緒に出かけたけど、あの日は雨が降らなくて本当に良かったと思う。
降っていたら服や髪を気にして、きっとそれどころではなかっただろう。せっかく那智く
んと一緒にいるのに、そんなことになったら目も当てられない。いや、一緒にいるからこ
そ余計に気になるのかもしれない。
 幸い、この前はそんなことがなくて、楽しく過ごせた。
 おかげでわたしは少し那智くんのことを知った。彼のことを噂や評判だけでしか知らな
い女の子や、ちょっと話しただけの女の子より、わたしは少しだけ多く那智くんを知って
いる。軽い優越感。
 でも、いつかは那智くんを誰よりもよく知り、理解してあげる女の子が現れるに違いな
い。きっとその子は、わたしのような年上ではなくて、年下の小さくて可愛らしい、彼と
並んでもお似合いな子なのだろう。
「………」
 考えてちょっとむっとした。
 きっと雨のせいだ。雨のせいで心がネガティブになっているんだ。
 
 
Simple“school”Life
  (2) 雨

 
 
 放課後――、
 昇降口で外を見ながら、わたしは立ち尽くす。
 嫌な雨はやんでいなかった。
 服は別にいい。制服だから多少濡れても。でも、髪がダメ。いちおう、教室を出る前に
ブラシを通して、リボンもびよんびよんが目立たないように結び直してきた。
 それでもわたしの不機嫌はなおらない。
 ついでにこの不機嫌をもれなく三割増しにしてくれているのが、親友の円だ。今日は部
活が朝練だけで放課後はオフだから一緒に帰ろうって言ってきたのは円なのに、ぜんぜん
来る気配がない。
 先に帰ってやろうかしら――そう思っているところにようやくやってきた。
「ごめん、遅くなって。待った?」
「……待ったわ」
「………」
 わたしには聞こえた。円が幽かに「げ」と言ったのを。
「し、しっかし、よく降るわね」
 円はそう言いながら視線を逸らすようにして外に目をやった。そんなに今のわたしは恐
ろしげな顔をしているのだろうか。
「司、傘二本持ってない? 鞄に折りたたみ入れたまま長傘で来たとか」
「そんなわけないでしょ。え、なに、持ってきてないの? 今日は朝から降ってたじゃな
い」
「アタシが朝練で家を出たときには降ってなかったんだな、これが」
 なるほど。一、二時間の差で雨には遭わなかったのか。でも、こうなるとそれも運がい
いのか悪いのか。
「しゃーない。ウチの後輩に『備えあれば憂いなし』を地で行くのがいるから、そいつに
当たってみるわ」
 そう言って円は踵を返す。
「え、もしかしてまたわたしを待たせるつもりなの?」
「五分! 五分で戻ってくるから!」
 言いながら円はもう小走りに駆け出していた。いちばん近くの階段から上がるつもりな
のか、すぐに折れ曲がって姿が見えなくなった。
「まったく、もう……」
 と――、
 呆れていたら、もう円が戻ってきた。手には確かに傘を持っているようだけど、それは
明らかに紳士ものと見える黒い傘だった。それ以上にいやに早かったのが気になる。
「よっしゃ、げっと」
「………」
「急な話で悪いんだけど、アタシは先に帰ることにしたから。司はここで後三十秒待つよ
うに」
「ちょ、ちょっと何よ、それ!?」
 と文句を言っているうちにも円は瞬く間に靴を履き替えている。
「じゃ、また明日っ」
 軽く手を挙げて言うと、傘を開くや否や雨の降る中を駆け出した。
 いったい何が何だかわからない。もはや自分勝手なんていう範疇を越えている。もうか
れこれ十年のつき合いになるけど、円という人間を知るにはまだ短いのかもしれないと思
う。
「あ、片瀬先輩」
 そこで不意に名前を呼ばれる。
 振り返るとそこに立っていたのは那智くんだった。
「あら、千秋くんも今帰り? そっか、今日は水曜日だものね」
 周りに人がいるので今は『千秋くん』だ。
 特進クラスは普段は七時間授業だけど水曜日は六時間、土曜日は三時間になるので、通
常クラスや美術科、体育科と帰る時間が重なる。だから、那智くんとは自然に顔を合わせ
るチャンスではあるのだけど、今日はちょっと会いたくなかったかも。
 わたしはさりげなく自分の髪を撫でて整えた。
「ええ、そうなんですけど……聞いてくださいよ、今、追い剥ぎに遭ったんですよ。ホン
ト、参りました」
 何があったのかわからないけど、口を尖らせて拗ねたように訴えてくるその姿が可愛ら
しい。どうしてくれようか。
 それにしても、いつから聖嶺は山賊や盗賊が出没するようになったのだろう。
「いきなり四方堂先輩に傘を強奪されました。いったい僕にどうやって帰れと……」
「………」
 軽い眩暈を覚えた。
 まさか山賊がお向かいさんだったとは……
 しかし、そこではたと思いつく。わたしは傘を持っていて、那智くんは持っていない。
傘が一本で、人間がふたり。そこに至る条件は充分に揃っている。
「………」
 けれど、それは果たしてやっていいことだろうか。
 周りを見てみる。円のせいで下校のピークは過ぎているとは言え、それなりに生徒はい
る。那智くんを見ながら通っていく女の子もいる。
「な、那智くん、入って……いく?」
 自分の傘を示し、恐る恐るわたしは言ってみた。
 途端、那智くんもわたしもやったように周りに目を配った。
「だ、大丈夫でしょうか……?」
 やはり同じことを思っているらしい。
「えっとね……、円が那智くんの傘を盗っちゃったでしょ? だから、ここはわたしが責
任を取らないといけないと思うの……」
 いちおう、これで正当化できるはず。
「ダメ、かな?」
「あー……、いや、たぶん、ダメじゃない、と思います……」
「そ、そうよね。おかしくないわよね!」
「あ、はい。きわめて自然な流れかと!」
 お互い最初は自信がなかったのに、次第に正しいと思い込んで、最後には意味不明な乾
いた笑い声まで上げていた。赤信号みんなで渡れば何とやらのモデルケースと言えるかも
しれない。
 そうしてわたしたちはひとつの傘の下を並んで歩き出した。
 この前一緒に歩いたときよりも少しだけ近い距離。
 時々肩が触れる。
 わたしはこの距離を意識しすぎて、さっきからずっと顔は前に固定されたままだった。
おかげで那智くんの様子がわからない。横目で見たけどやっぱりわからなかった。
 どうしてこんな日に雨なんだろう。
 せっかく那智くんと一緒にいるのに、わたしは雨のせいで髪の毛びよんびよんの不機嫌
顔。あぁ、でも、雨がなかったらこの距離もなかったのか。そう思ったら何だか複雑だ。
「先輩?」
 那智くんが口を開いた。
「な、なに?」
「髪型、変えたんですか?」
「ええ。ちょっと、ね。……やっぱり変かしら?」
 雨め……。
 わたしは心の中で恨み言のようにそれを三回繰り返した。
「あ、いや、今のも似合ってて可愛いなと、思いまし、た……。はい……」
 那智くんは女の子を褒めるという行為が恥ずかしかったのか、自信なさそうに途切れ途
切れに言った。
 瞬間、わたしは顔が熱くなった。
 何か言葉を返さないといけないと思うのに何も出てこない。代わりにほころぶ顔を抑え
るのに精一杯だ。
「………」
「………」
「………」
「………」
 妙な具合の沈黙の末、それを振り払うように殊更明るい調子で那智くんが言う。
「あ〜あ、雨って嫌ですよね。すごく鬱陶しい」
「そう?」
 わたしは応える。
「わたしは雨って好きよ?」
 勿論、今日からだけど。
 
 
2006年6月14日公開
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