鬼子月下 〜Moonlit “K”night〜
 
/前編
 
 遠く、ドンドン、と何かを叩くような鈍い音が聞こえた。
「セイ! 朝ヨ! 起きナサイ!」
 そして、声。
 ああ、そうか――と清十郎はようやく納得した。もう朝で、あれは部屋のドアを叩く音な
んだ。まだ覚醒しきらない頭で理解する。
「入るヨー」
 間髪入れずドアは開けられた。入ってきたのは銀髪に蒼い瞳の、まだあどけなさの残る少
女だった。
「あぁ、ぅはよう、ジゼル」
「おはようじゃナイ! いま何時だと思ってるデスカ!?」
 寝起きの間延びした声で清十郎が挨拶を投げかけると、ジゼルと呼ばれた少女は烈火の如
き怒りを露わにした。
「多少寝坊したくらいでそんなに起こらなくてもいいだろう?」
 上体を起こしながら清十郎は言う。起きた拍子に長い前髪が額にかかり、鬱陶しそうに掻
き上げた。
「多少!? 多少って言うのはまだ学校に間に合う時間に起きてから言うものです。これで
も多少と言うつもり!?」
 ジゼルはベッド脇まで詰め寄ると目覚まし時計を手に取り、清十郎に突きつけた。ありふ
れた形の目覚ましの、その文字盤を見て清十郎は「げ……」と小さく呻く。
「転校初日から遅刻とはカッコ悪いわネェ、セイ」
「いや、今から走ればまだ傷口は小さいはず……って、ジゼル、お前だって人のこと言えた
義理じゃないだろう? 今、家にいるんだし」
 清十郎がそう言うと、ジゼルは呆れたように溜め息を吐いた。
「セイの高校と違ってワタシの中学は近いし、それにもう用意もできてる。今すぐ出れば充
分間に合うの」
 言い聞かせるように言うジゼルは確かに制服に着替えていて、今すぐにでも出かけられそ
うな様子だった。未だパジャマ姿でベッドの上にいる清十郎とは大違いである。
「………」
「どうかシタ?」
 突然無言になった清十郎にジゼルが首を傾げる。
「いや、アレだ。日本の学校の制服って日本人が着て初めて似合うんだな〜って」
「む……」
 ジゼルはすぐに清十郎の言わんとしているところを理解した。
「要するにワタシには制服は似合わない、と? あっそ。別にいいよ。ワタシ、もう行くか
らね。セイも勝手に行けば?」
「おう、じーざす! ゴメン、嘘。前言撤回するから。だから、せめて何か朝飯だけでも作っ
て、ジゼルちゃん」
 あまりのプライドのなさに怒る気も失せたのか、ジゼルは本日二度目の溜め息を吐いた。
「トースト一枚焼いておくから、支度して降りてきて」
「さんきゅー」
 清十郎がベッドから飛び起きるのを合図に、ジゼルも部屋を出てキッチンへと向かった。
 
 3LDKのこの家には、現在、清十郎とジゼルしかいない。今回の転校に伴う引っ越しに
両親は同行しなかったのだ。清十郎自身も事が済めばまたすぐに転校することになることを
解っているので、特に文句はない。だいたいにして母親は兎も角、父親に関しては文句を言
う以前の問題だった。
 清十郎の父親は目下、行方不明である。二年ほど前に出て行ったきり帰って来ていない。
清十郎としては元気でやっているか、すでにどこかでのたれ死んでいるかのどちらかだろう
と踏んでいる。
 
(まあ、死んでるなら死んでるでいいんだけど、せめてどんな死に方か知りたいよなぁ。今
後の参考にさ)
 男にしては長い髪を首の後ろで束ねながら清十郎は思う。
 
 その代わりに送りつけてきたのが、清十郎の家に代々伝わる家宝だった。父が所持するべ
きそれが送られてきたとき、清十郎は父が生死がどうであれもう家には帰ってこないつもり
なのだと悟った。家はお前が継げ。きっとそう言う意味なのだろう。
 別段寂しいなどとは思わなかった。元々ふらっと出て行って、思い出したように帰ってく
るような人だったからだ。それでも家にいるときは多くのことを教え、残してくれたので清
十郎にとっては良い父だった。
 そして、もうひとつ送りつけてきたものがあった――それがジゼルである。
 何でも父の知人の姪らしく、しばらく家に寄せてやって欲しいという内容の手紙を持って
いた。父が一体どういう経緯でフランス人と知り合い、その姪を預かることになったのかは
謎だが、遠くから来た少女を無下に追い返すわけにはいかず、しかも、その少女が件の家宝
を持って帰ってきてくれたとなれば尚更である。結局、ジゼルはこちらで預かることとなっ
た。
 
 支度をすませた清十郎がキッチンへ行くと、すでにトーストが焼き上がっていた。香ばし
い香りを漂わせたそれには、気の利いたことにバターが塗られてあった。
「助かる、ジゼル」
 簡単に礼を言い、立ったまま食らいつく。
 そんな清十郎を呆れながらも微笑ましく思い、ジゼルは冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し
て差し出した。
「はい、セイ」
 だが、清十郎はそれを受け取りもせず、それどころか返事すらしなかった。怪訝に思い様
子を窺うと、清十郎はTVに目を奪われていた。
『通り魔事件の続報です。三日前深夜に襲われた――』
 最近この近所を騒がせている猟奇殺人事件のニュースだった。週に一度のペースで犯行を
重ね、今回でもう五度目になる。殺し方も惨たらしく、犯行後には遺体をバラバラにし、ま
たその一部を持ち去ったのか、見つかっていない部分も多いと聞く。
 三日前のはさらに特殊で、襲われたのは四人組の高校生のグループであるらしい。通り魔
にしては大胆な行動だ。犠牲者の四人のうち三人までが例によって惨殺され、生き残ったひ
とりも心神喪失状態で病院に収容されているという。
「早くしないとな」
 清十郎が呟く。
「はいはい、ホント早くしないとネ。遅刻よ、セイ」
「しまったあっ! そーだったあ!」
 胸に押しつけるようにして渡された缶コーヒーを受け取ると、清十郎は玄関へと走り出し
た。トーストを口にくわえたままスニーカーに足を突っ込む――と、そこで動きが止まる。
「ジゼル、お前は大丈夫なのか、時間」
「ワタシ? 今から行けばちゃんと間に合うよ」
「そうか、それなら良かった。これ、ありがとな」
 手に持ったトーストを示してから、再び口にくわえた。
「お礼はいいから早く行く」
「ふぇい。いってきま〜ふ」
 ジゼルに見送られ清十郎は家を飛び出した。
 
◇               ◇
 
(こ、これは……)
 目の前に十字路が見えたとき、清十郎はあることに気づいた。
(遅刻寸前ダッシュに食パン、曲がり角とくれば、こりゃあ黄金パターンじゃねえか)
 などと、一昔前のドラマか漫画のような展開を想像する。無論、転校初日から遅刻が決まっ
てしまった現状ではそんなことは欠片も期待はしていないが。
「いや、今そんなことになったら大遅刻だし……」
 これ以上の時間のロスは望むところではない。今はひたすら学校を目指して走るのみ。
 
 だから――
 
 だから、実際にそれが起こったとき、清十郎は完全に反応が遅れてしまった。
「きゃあ、嘘! ちょっとどいてーっ!」
「へっ?」
 間抜けな声を上げて悲鳴のした方を見る。曲がり角の向こうから、確かに先程清十郎が想
像した通りに少女が突っ込んでこようとしていた。
「おおっ!?」
 ただ、唯一予想外だったのは、少女が自転車に乗っていたことだろう。
「だああああっ!!!」
「きゃあああっ!!!」
 互いに悲鳴を上げるばかりで回避行動を取らなければ、待っている結果はひとつ――すな
わち激突である。
 かくしてふたりはかくも盛大に衝突した。
「あっ痛〜〜」
「いってぇ〜〜」
 倒れたままそれぞれ呻き声を絞り出した。横では横転した自転車が車輪を回してカラカラ
と虚しい音を立てている。
「うちの家系はロクな死に方をしないらしいけど、こんなんで死んだりしたら全然笑えんよ
なあ……」
 自嘲気味に清十郎が呟く。
「痛いじゃないのっ!」
 先に立ち上がったのは少女の方だった。痛みで未だ倒れている清十郎に文句を言う。やや
遅れて清十郎も立ち上がった。
「急に出て来るんじゃないわよ、このスカタン!」
 ポニーテールの快活そうな印象の少女だったが、その言動を見るに容姿以上に元気が良い
ようだ。
「お、俺っ!? 俺が悪いんですか?」
「当ったり前でしょ! 飛び出してきたのはそっちなんだからっ」
「確かにそうかもしれないけど、そっちは自転車なんだから歩行者に注意する義務が……」
「うっさいわねぇ。……あーっ! こんなことしてる場合じゃなかった! 遅刻よ、遅刻」
 思い出したように言ってから、少女は倒れた自転車を起こすと、颯爽と飛び乗り走り去っ
てしまった。あっという間の出来事だった。
「慌ただしい奴……」
 呆気にとられたようにそれを見送る清十郎。
 少女の着ていた制服が、今日から清十郎の通う高校のものだったので、自分と同じ学生な
のだろう。それならば遅刻遅刻と騒ぐのも頷ける。
 そこで清十郎はポン、と手を打った。
「自転車通学もアリなのね……」
 
 その後、清十郎は教室にて自転車の少女と再会した。互いの姿を見つけ、ふたりは小さく
「あ……」と声を漏らす。さすがにここで「お前は朝の!」と叫ぶほど“お約束体質”では
なかったらしい。
 
◇               ◇
 
「病院の面会時間って何時までだろうな」
 時刻は午後五時を過ぎ、辺りはもう薄暗くなりはじめていた。
 授業が終了してから清十郎はとある目的で病院を目指していた。本当はもっと早く行くつ
もりだったのだが、放課後に教師に呼び出され、学校に関していろいろと説明を受けていた
のだ。多少今朝の遅刻への小言が含まれていたようだが。
 やがて病院へと辿り着く。
 と、そこで予想しなかった人物と出逢った――今朝の自転車の少女である。
「あれ? え〜っと……」
「相葉よ。相葉香澄」
 清十郎の言いたいことを先読みして彼女は名乗った。
「そっか、覚えとく。……で、相葉さんは何でここに?」
「え? ああ、お見舞いよ。うちのクラスでひとり入院してるのよ」
 気がつかなかった? と香澄。
「確か、例の通り魔事件の生存者……」
「あら、よく知ってるわね。転校生なのに」
「あ、いや、ちょっと、ほら……。ところで、見舞いってことは相葉さん、そいつと仲良い
んだ」
 清十郎は慌てて話題を変えた。
「ちゃうちゃう。単に私がクラス委員だから代表して来てるだけ」
 そう言って香澄は手をひらひらさせて否定する。が、清十郎はその言葉の内容よりも包帯
の巻かれた香澄の手の方が気になった。
「相葉さん、その手どうしたの? もしかして今朝の?」
「これ? 心配無用。今朝のとは関係なし。一昨日かな、気がついたら手の甲に痣ができて
たの。格好悪いから包帯巻いてるだけよ」
 再び手をひらひらと振る。
「痣ってどんな形の?」
「形ぃ? 変なこと聞くのね。別にはっきりした形なんてないわよ。きっと知らないうちに
ぶつけたんでしょ」
「………」
「なあに神妙な顔してるのよ。それよりあんたこそこんなとこで何してるのよ? まさか朝
ぶつかったときに怪我したんじゃないでしょうね」
「いや、あの場合、怪我しても全然おかしくないと思うんですけど……」
「あら、やだ、もうこんな時間? ワタクシ、行かないとですわ。では、ごめんあっさーせ。
オホホホホ……」
「何だその至極強引な誤魔化し方は……」
 全く聞く気がないらしく、香澄は清十郎の言葉を無視して去っていった。
「あなたのマイウェイはゴーイングですか? そうですか。ああ、そうですか……」
 香澄の態度にげんなりしながら溜め息を吐く。
 と――
「さて……」
 清十郎は病院の入り口に鋭い視線を向け、続けて薄暗い空を見上げる。そして、最後に夕
闇に消えていく香澄の後ろ姿を見つめた。
「予定変更、だな」
 呟くと、清十郎は病院に入らず、来た道を戻りはじめた。
 
◇               ◇
 
 香澄の後を“それ”が歩いていた。
 気配を消し、息を殺し、気づかれないように歩く。よからぬことを考え、忍び寄るタイミ
ングを計っているのは明白だった。
 やがて閑静な住宅街に入ると、人通りが途絶えた。香澄は未だ追跡者に気づいていない。
 この上ない好機。“それ”はついに行動に出た。
 だが――、
「待てよ」
 少年の声がそれを制した。
 予期せぬ闖入者の声に“それ”は弾かれるように振り向いた。その間にも香澄は“それ”
にも少年にも気づかず歩き続ける。“それ”は慌てた様子で香澄と少年を交互に見ていたが、
香澄が次の角を曲がり、見えなくなったことで諦めて少年へと向き直った。
“それ”は暗がりを選んで歩いていたのか、少年からはその正体は確認できなかった。
「獲物に予め《目印》をつけておいて、機を見て襲い喰う。それがお前たちのやり方だ」
 吐き捨てるように言う少年は言う。
「ダ、ダレ、ダ……」
「同族狩りさ」
 途端、“それ”に変化が現れた。
 
 ぼりきっ。ぎちぎち。ぶつっ。ぶつっ。きちきち。
 
 筋肉が盛り上がり、骨が軋む音――一気に身体がふた回りほど巨大化する。下半身に比べ
て上半身の筋肉が異常に増大し、前傾姿勢になった姿は人型ながらも獣を思わせる。さらに
額の左右が隆起し、耳まで裂けた口から覗くのは犬歯と言うにはあまりにも大きく鋭い。そ
の姿はまさに――
「鬼!」
 別段驚いた様子もなく少年は言う。
「ようやく姿を現したな」
「があああああっ!!!」
 雷鳴のような雄叫びを上げて、鬼へと変貌を遂げた“それ”が少年を襲う。
 長く、発達した――ある種の退化とも見える腕がハンマーのように振り下ろされる。その
動きは巨漢ながら増大した筋肉のせいか、驚嘆すべき速さだった。
 だが、少年はそれを上回る動きで後方に跳ぶと、鎚のような鬼の一撃を躱した。アスファ
ルトで舗装された道が爆ぜ、えぐられる。さらに鬼はその勢いを利用して前へ跳ねると、着
地した直後の少年へと追撃を仕掛ける。
「ふっ」
 瞬間、呼気とともに少年の手が閃いた。
 鬼の腕が宙を舞う――
 いつの間に取り出したのか、そして今までどこに持っていたのか、少年の手のはひと振り
の刀が握られていた。
「があああああっ、がっ、がはっ……」
 腕を断ち斬られた鬼が痛みに咆吼する。そして、激痛のためか残った腕で地面を力一杯殴
りつけた。再びアスファルトが爆ぜる。
「くっ……」
 飛び散った破片が降りかかり、少年は思わず顔を覆った。その隙をついて鬼が逃亡を図る。
次に少年が顔を上げたときには、鬼は住宅街の屋根を次々と飛び移り、もう追いつけないと
ころまで逃げていた。
「ちっ、まあいい……」
 少年は舌打ちすると追跡を諦めた。
「こちらも目印はつけれたしな」
 そう言うと、少年は転がっていた鬼の腕を踏みつけた。微かに不快な音を立てて肉が弾け、
骨が砕ける。やがて飛び散った肉片は鮮血色の霧となって霧散した。
 と、そのとき――
「な、なに、今の……?」
 聞き覚えのある声に少年は振り向いた。
 そこにいたのは帰路についたはず香澄だった。鬼の咆吼や轟音を聞きつけて戻って来たの
だろうか、曲がり角に立って驚愕の表情を向けていた。
「見られたか……!?」
 少年――清十郎は忌々しげに呟いた。
 
 
2004年8月27日公開

 



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