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I'll have Sherbet! |
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8(1).「何をやっているんだ、僕は」 |
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表面上、 特に変わらない日常が続いていた。 起きるべき時間が近づき、浅くなった眠りの中で、僕は朝を感じる。 やがてノックの音が聞こえ。 「モーニンッ、弓月くん」 直後にドアの開く音と、佐伯さんの元気な声。 僕がゆっくりと目をあけると、彼女の顔があった。僕の頭の両サイドに手をつき、真上から見下ろしている。 真剣な表情。 僕を真剣に見つめているというよりは、僕を見ながら何か考え込んでいるといった顔だ。 瞼をあけた僕と目が合う。 と、佐伯さんは逃げるようにして笑顔を作った。 「おはよう、弓月くん。朝ごはんできてるよ」 「着替えたらすぐ行きます」 「うん、待ってる」 そう言うと彼女はすぐにベッドから離れ、背中を見せて部屋を出て行った。 残された僕の頭には、佐伯さんの逃げ遅れたみたいな真剣な表情が、いやに強くこびりついている。 目をあけるとそこに佐伯さんの真顔があったことなんて、今までだって何度もあった(尤も、その意図ははかりかねるが)。でも、僕の心の中を覗こうと試みるような眼差しは、ここ最近のものだ。 「……」 やはりきっかけは先日の言い合いか。 しかし、彼女には悪いが、僕は去年の僕に何があったかなんて、佐伯さんに話す必要などないと考えている。 「今週末からゴールデンウィークですが、佐伯さん、連休中の予定は?」 朝食にホットケーキを食べながら僕は尋ねた。 そのとき、佐伯さんは丁度食べている最中だったらしく、僕を見ながら返事をする意思を示しつつ、まずは食べることを優先した。いつもなら慌てて飲み込んで、すぐにでも喋り出す場面だ。 「まだ決めてないけど、叔父さんのとこに遊びに行こうかなって思ってる」 口の中のものを嚥下して、返事。 佐伯さんの叔父さんは、アメリカからひとり先に帰国した彼女がここに落ち着くまで、何かと世話を焼いてくれた人と聞いている。まぁ、その尽力も不動産屋の二重契約というオチなのだから、なんだか報われない。 「弓月くんは?」 「僕は佐伯さんの予定が決まってから考えようと思ってます」 僕の選択肢も家に帰るか否か程度のものだ。佐伯さんの場合、親戚の家が遠く、行くなら新幹線にも乗るようなちょっとした旅行だが、僕は所詮は電車で2時間ほど。その気になればいつでも帰ることができる。 故に、佐伯さんが連休中は学園都市にいるというのなら、僕もそうしようと思っていた。 「別にいいよ。わたしのことは気にしなくても」 しかし、あっさりばっさり斬られてしまう。どこか素っ気なくも聞こえる。 「……まぁ、そう急いて決めることもないでしょう。週末までに考えればいいことです」 「ん。そだね」 これっきりゴールデンウィークの話は終わり。この後もいくつかの話題について話をしたが、それは会話というよりはむしろ互いの予定の確認作業めいていた。 食後、リビングでコーヒーを飲む。 登校までにはまだまだ余裕がある。佐伯さんはというと、今日は雨など降りそうもない天気なので、登校前に洗濯をすませるのだといって、さっきから慌しく洗濯にいそしんでいる。 「佐伯さん、今日は、帰りは遅くなりそうですか?」 洗濯ものの入った籠を持って脱衣所から出てきた彼女をつかまえ、訊いてみる。 「さぁ? わかんない」 しかし、まるで断ち切るようにして短くそれだけを言い、僕の横を通り過ぎてベランダへと出て行ってしまった。 「……」 まぁ、放課後の予定なんて流動的だから、今わかるはずもないか。 僕だって矢神と大型書店に行くこともあれば、滝沢とゲームセンターに繰り出すこともある。宝龍さんに屋上に呼び出される可能性だってあるだろう。 バカなことを聞いた――そう思っていると、佐伯さんがベランダからひょっこり顔を出した。 「大丈夫。遅くなるようだったら連絡するから」 「わかりました」 取ってつけたような会話だ。 僕は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。 「じゃあ、僕は先に行きます。後はお願いします」 「はーい。……あ、そうだ」 と、一度は引っ込んだ佐伯さんの顔が再び。 「もし遅くなったら、弓月くん、洗濯もの取り込んどいてくれる?」 「いいですよ、それくらい」 最初の役割分担により、洗濯に関しては僕は基本ノータッチとなっている。でも、必要ならいつでも交代もするしフォローする。そこに文句などひとつもない。 「女の子の下着を手に取るチャンス♪」 「あのね……」 「きゃー、弓月くんが怒ったー」 ひと睨みすると佐伯さんはベランダに姿を消した。僕はため息をひとつ吐いてから、登校の用意をする。 表面的にはいつもと変わらない日常。 でも。 僕らの間には確実に溝ができていて、ことあるごとにそれを意識させられた。 マンションを出ると、まずは駅に向かって歩くかたちになる。 道路は片側二車線。中央分離帯があり、一車線辺りの間隔も路側帯も余裕を持って幅を取ってあるので、かなり大きな道路だ。 今、僕が歩いている歩道もタイル敷きで幅が広く、真ん中には等間隔に街路樹まで植えられている。 まるで何かのパンフレットに載っていそうな小奇麗な街並みだが、人通りや交通量が妙に少ない。そういう点でもやっぱりパンフレットの写真的なものを感じる。 このままこの道を歩いて学園都市の駅に出るわけではなく、途中から水の森高校へと通じる道に入る。 駅と学校を結ぶ道には、まだ比較的早い時間であるにも拘らず、水の森の制服を着た生徒の姿がちらほらと見かけられた。僕はその中に見慣れた猫背を見つけた。 「おはようございます、矢神」 追いつき彼――矢神比呂に声をかける。 「あ、おはよう、弓月君」 眼鏡の友人からは、ぼそぼそとした気の弱そうな返事が返ってきた。普段から彼はそういう傾向にあるが、しかし、今日はその平均よりもいくぶんか下回っているように思えた。 「どうしたんですか、元気がないようですが」 「ちょっとね、実は朝方まで原稿を書いてて」 「あぁ、なるほど」 合点がいった。 矢神はこう見えてもプロの小説家だ。またどこかの文芸雑誌から短編でも依頼されているのだろう。 「半分徹夜になったわりには、あまり書けなくて……」 それはまた報われない。 「スランプですか?」 「どうだろう。安易にそういう言葉に逃げたくはない、かな」 弱々しく笑うが、言葉とは裏腹に内面の強さを感じさせる言葉だ。 決定的に睡眠が不足している矢神が気だるそうなこともあって、僕らはしばし黙って歩を進めた。 ――と。 「弓月君のほうこそ浮かない顔をしてるみたいだけど、何かあったの?」 矢神が訊いてくるが、僕にはその自覚がなかった。 だが、あるいは、と思わなくもない。矢神は人を思いやれる人間であり、そういう方面での機微に鋭い。その彼が言うのだから、僕は本当に浮かない顔をしているのだろう。 いったいなぜ、という自問は必要ないか。 「ちょっと気になってることがありまして。矢神が原稿の進み具合に悩んでるように、僕にも悩みごとがあるんです」 そう誤魔化したところで丁度学校に到着した。 矢神も今ここで僕の抱える悩みを詮索するつもりはないらしく、それ以上のことは訊いてこなかった。 下駄箱の林立する昇降口で、学校指定の革靴から上履きへと履き替える。 「あ、弓月さんだ。おーい」 不意の呼び声。 声のしたほうへ目をやれば佐伯さんのクラスメイト、桜井さんが癖っ毛のショートヘアを揺らし、小走りに駆け寄ってくるところだった。 「おはようございます。弓月さん、矢神さん」 桜井さんは僕らの前で足をそろえて止まり、お辞儀をした。 「おはようございます、桜井さん」 「おはよう」 「弓月さんって、いつもこの時間なんですか?」 登校が、という意味らしい。 「いや、テキトーです。家が近いですからね。早いときもあれば、遅いときもあります」 唯一考えるべきファクタは、佐伯さんと登校時間をずらすことだ。 「いいなぁ、近いって。しかも、ひとり暮らし。……今度遊びにいっていいですか?」 「まぁ、そのうちにね」 どうも危機感の希薄な子だ。ある意味、佐伯さんと似たもの同士かもしれない。 「あ、そうだ、桜井さん。ちょっと聞きたいことがあるんですが、少しだけいいですか?」 「はい? 何ですか?」 「弓月君、僕、先に行ってるから」 気を遣ってくれたらしい矢神はそう言い、ひと足先に教室に向かった。 僕は、目立つところでの立ち話も何だと思い、桜井さんを促して隅のほうに場所を移す。あまり人に見られたくない。早くすませよう。 「桜井さん」 と振り返って、僕は驚いた。彼女がやけに近い位置に立っていたからだ。ほとんど僕が見下ろしているような構図。両腕を回せば抱きしめてしまえそうだ。 話すときの距離が妙に近いのは、桜井さんの癖みたいもののらしい。 「えっと、最近の佐伯さんって、学校ではどんな様子ですか?」 僕は気を取り直して切り出した。 桜井さんは一瞬きょとんとした表情を見せた後、今度はじっと僕の顔を見つめてきた。 「もしかして弓月さんって、キリカのこと気になってるんですか?」 「少しね……って、いや、そういう意味じゃなくて」 なにやら誤解を与えてしまったようだ。 「ふぅん」 まぁ、いいですけどね――と、桜井さんは言う。 「それにしても変なことを聞くんですね」 それから彼女はくすりと笑い、すっと一歩後ろに下がった。会話をするのに適度な間隔があけられた。 「変ですか?」 「こういう場合って、『カレシがいるかどうか知らない?』とか、『俺のこと何か言ってなかった?』とか」 「……」 “俺”とか言って喋っているのは、いったいどこの誰なのだろうか。というか、やっぱり大きな誤解があるようだ。少し、頭が痛い。 「それに関してはまた改めて訊かせてもらうことにして」 気にならなくもない事項ではある。特に、学校で余計なことを話していないか、とか。 「教室でのキリカ、ですか……?」 桜井さんはようやく答えてくれる気になったようだ。右手の小指を顎にあて、考える。 「わたしが見る限りじゃいつも通り、かな? あいかわらずかわいいけど、ひかえめでおしとやかで……」 その時点で僕から見たら異常事態なのだが、今は置いておくことにしよう。 「先週だったかな、ケータイ買って――あ、これが黒なんですけどね。で、嬉しそうにニコニコしてたり。……うぅん、それくらいかなぁ」 「そうですか」 「あ」 と、桜井さんが声を上げた。 「そういえば、2、3日前くらいから時々浮かない顔してることがありますね」 「……」 浮かない顔、ね。 ついさっき僕が矢神に指摘されたのと同じというわけだ。 「ここで悩みを聞いてあげて、キリカポイントアップ! ……なぁんて、ちょっと自分に不利になるようなことを助言してみたり?」 えへ、と笑う桜井さん。 佐伯さんが何を思い悩んでいるかなんて、聞かなくたってわかるさ。 「ありがとうございます、桜井さん」 「え? あ、ちょっと、弓月さん!? あぁん、もうっ」 僕は桜井さんに礼を言ってから、踵を返した。彼女の地団駄でも踏みそうな抗議の声を背中で聞きながら教室へと足を向ける。 「何をやっているんだ、僕は」 僕の態度が佐伯さんの傷つけてしまったことなんて、端からわかっていたことだ。要するに、それを確認しただけじゃないか。 自己嫌悪。 そして、袋小路。 話が僕だけのことなら、いくらで話してやれるのだが……。 /続く 2008年7月3日公開 |
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