5.雪舞い散る中で

 数日後、
 シィエラは外へ買い物に出ていた。そのついでに若者の街として有名な、通称メインスト
リートに足を運ぶ。それはもうほとんど習慣のようなもので、職業柄と言うよりは性格的な
ものに起因しているのだろう。何が流行っているのか。自分の出たファッション誌の影響は
どんなものか。それを体で感じるために街へ出るのだ。流行の今とこれからを気にする性格
だからこそモデルが務まるだ。
 寄ってくるナンパ男たちをあしらったり、彼女があの『SHIELA』だと気づいた女の
子たちとお喋りを楽しんだり。そうしながらメインストリートを歩く。
(どうせならキョウと一緒だったらよかったのにな)
 そう思い、普段よりも近い距離で京と寄り添って歩く自分を想像して、少しだけ幸せな気
分になった。
 ふと前を見ると三人の女の子を相手に楽しそうに話をしている男が目についた。歳は二十
代後半くらい。タートルネックのセーターにジャケットを羽織っている。長めの髪には全体
にツイストスパイラルが施され、黒髪にはオレンジとゴールドでアクセントがつけられてい
た。
(まるでイタリアのマフィアみたい。いいセンいってるけど、キョウの方が上ね)
 モデルらしく、だが、どこか贔屓目の入った評価を下すシィエラ。
 男がシィエラに気づいたようだ。三人の女の子と手を振って別れると、彼女のところへ歩
み寄ってきた。
「君、今ひとり?」
 男が声をかけてきた。
 なんだ、結局はナンパか。そう思いながら、シィエラは男の顔を見た。白い肌の端正なそ
の顔はなぜか国籍を感じさず、どの国の名を挙げられても納得してしまいそうだった。シィ
エラはどこかで見た顔だと思いながら、どうしても思い出せずにいた。
「どうかした?」
 男に尋ねられ、首を傾げていたシィエラははっと我に返った。
「別に何でもないわ。で、わたしに何かご用?」
「もちろん」
 男はにこやかに言った。
「君が欲しい」
「は?」
 あまりに唐突な言葉にシィエラが素っ頓狂な声を上げた。そんな彼女に構わず、男は続け
る。
「もっと言えば、君の持つ『神狩かみがりの力』が……」
 瞬間、シィエラは弾かれたように後ろに飛び退いた。
「天使!」
「……ご名答」
 言うと、男の顔から人懐っこい笑顔は消え、代わりに天使特有の人を見下すような冷笑が
浮かんでいた。思えば、端正だがどこか個性の欠落した無国籍な顔は今まで幾度となく戦っ
てきた天使に共通したものだったのだ。それ故にどこかで見たことがあると感じたのだろう。
しかし、それにしても目の前の天使は物理的存在がはっきりしすぎていた。先程も女の子
たちと話をしていたし、彼女自身違和感を感じながらも人間だと疑わなかった。
 そんなシィエラの心を見透かしたように男、天使は言った。
「私を位の低い天使と同じだと思って貰っては困るな」
 シィエラは身構えた。
 距離を取って対峙するふたりを、若者たちが怪訝そうに横目で見ながら通り過ぎていく。
「まさか、上級天使……」
「お前たちの言葉で言えばそうなる。だから、こうして人間界に存在をおくこともできる」
 言いながらジャケットの内ポケットに手を突っ込みマルボロの箱を取り出す。そして、そ
れをひと振りし、飛び出した一本を口にくわえると、ライターで火をつけた。
「えらくこっちに馴染んだ天使様だこと」
 いよいよイタリアン・マフィアじみてきた天使にシィエラは言った。
「この世界も長いからな」
 男は煙草の煙を吐き出した。
「しかし、それだけに人間がどれほど間違った進化をしたかがよくわかった」
「だから滅ぼすって? 相変わらず勝手なこと言ってくれるわね」
「もとより地上も人間も我らがあるじがお創りになったもの。箱庭の住人であるお前たちの意思
など関係はない」
「………」
「とは言ったものの、しかし、そんなことは私にとってどうでもいいことだ。私がやらなく
ても誰かがやるからな」
「じゃあ、いったい何が目的なの?」
「言っただろう? お前が……、お前の持つ『神狩りの力』が欲しいと」
 男はにやりと笑う。
(やっぱりこの男、わたしのことを……。でも、いったいどこで……?)
 ふと湧いた疑問の答えはすぐに男の口から語られた。
「先日お前たちと接触したのは私の部下でね。捜し物が見つかったと、私の方へ報告が入っ
たのさ」
 言われ、シィエラは港の倉庫街での一件を思い出した。おそらく最後に飛び去ったのが、
あの天使が得た情報か記憶そのものだったのだろう。
「お前を取り込み、『神狩りの力』を我がものにすれば、熾天使の座も夢ではなくなる」
 言うと、男は勝ち誇ったように笑った。すでに望むものを手に入れた気になっているよう
だ。
「やれるものならやってみなさいよ」
「威勢のいいことだ。だが、いいのかな、こんなところで力を使っても。無論、私は構わん
よ。人間どもが何人死のうが知ったことではないからな」
 確かに男の言う通りだった。しかし、人前で異能力を使うことはできないわけではない。
魔術など突飛すぎて見た者はまず自分の目を疑うからだ。多少のことは誤魔化しが利く。だ
が、それに伴って発生する被害の方が問題だ。先日も下手を打ったせいで倉庫街を半焼させ
てしまっている。上級天使との戦い、しかも、こんな人通りの多いところならばどれほどの
被害が出るか想像もつかない。そういう意味では男の言葉に真実が含まれている。
(だからこそ……)
 シィエラは小声で短い呪文を詠唱した。
「余計なことはせず、大人しく……なにっ!」
 突然、男の立っていたコンクリートの歩道が弾けた。その爆発はごくごく小規模なものだっ
だが、ここでの攻撃はないだろうと踏んでいた男の意表をつくには十分だった。反射的に飛
び退く男。砕けて飛び散ったコンクリートの小さな破片が近くのショーウィンドゥの当たり、
罅をつくる。一瞬のパニックの後、危機感のない人間たちがわらわらと集まってきた。
 そして、男が気づいたときには、そこにシィエラの姿はなかった。
 
◇              ◇
 
 マンションのエントランスで、シィエラはため息をひとつついた。
 天使から逃げ帰ってきたことに口惜しいなどといった感情は特にない。ただ、厄介なこと
になったと思うだけだった。
 と、そのとき、「シィエラ」と名を呼ばれた。
「きゃっ」
 驚くシィエラ。
 振り向くと、そこには京が立っていた。デイバッグを背負っているところを見ると、おそ
らく学校の帰りなのだろう。黒のスラックスに薄いブルーのカッターシャツを着崩している。
そんな京を見て、相変わらずだとシィエラは思った。
「どうかした? 何か考え込んでいたみたいだけど」
「ううん、何でもない」
 問われ、シィエラは咄嗟にそう答えた。
「ふうん、そう。ならいいけどさ」
 言いながら京はシィエラの横を抜け、階段へと向かった。そして、一段目に足をかけたと
ころで立ち止まると、シィエラに振り返った。
「でも、ボクには『何でもない』って顔には見えないけど?」
 そう言った京の顔はいつもと変わらぬ笑顔だった。
 京は再び前を向くと、階段を上りはじめた。その後ろをシィエラが続く。白壁の洒落た三
階建てマンション。この二階にシィエラが、三階に京が住んでいる。
「うん、あのね……」
「やっぱり何かあったんだ」
 京が先を促す。
 しかし、それでもシィエラは昼間に何があったか京に言うのを躊躇っていた。
 今回は今までとは違い、立場が逆転していた。いつもなら《神狩人かがりび》のシィエラが天界か
らの尖兵たる天使を狩っていたが、今回に限っては彼女の方が天使に狙われている。標的は
彼女自身なのだ。そこに京を巻き込みたくはなかった。
「ううん、やっぱりいい」
 シィエラは可能な限りいつもの調子を言おうと努めたが、しかし、それは自分でも失敗と
わかる出来だった。
「そうか」
 二階へ着くと、京は再び足を止めた。
「じゃあ、気が向いたら話してくれ」
「うん、わかった」
 言うと、シィエラはできるだけ京に顔を見せないようにして自分の部屋へと入った。背中
に感じる視線が痛いと思うのは、きっと気のせいではないのだろう。
 
◇              ◇
 
 翌日、
 三月にもかかわらず雪が降りはじめていた。しんしんと、だが、確実に。この調子だとや
がて街は雪に覆われるだろう。シィエラは着てきたデニムのワンピースも羽織るコートもど
ちらもショート丈であることを後悔した。
 視線を雪の舞う空から正面へと戻した。
「ふうん、追われるってこういう感じなのね。嫌な気分だわ」
 つぶやき、人気のない路地裏へと向う。その中で適当なビルに目をつけると、その非常階
段を登りはじめた。ショートブーツがカンカンと音を響かせる。設置された南京錠に指を触
れ、魔力を送り込んで破壊すると、シィエラは屋上に出た。それを基準にこのビルを選んだ
のだから当然と言えば当然だが、屋上はかなりの面積があった。
「さて、ここでいいわね」
 言って振り返ると、そこに男がひとりいた。昨日の、ツイストスパイラルのイタリアンマ
フィア風天使。
「知っていたのか」
「よく言うわ。わかるようにしてたくせに」
 姿は見せずに気配だけをわざと悟らせ、相手を追いつめる。それは京とシィエラが天使を
狩るときによく使う手だった。
「かつて我らが主は七人の人間を選び、戯れにある力を与えた」
 唐突に天使が語り出した。
「それが『神狩りの力』だ」
 後に《選ばれたの七人》と呼ばれるようになる七人。そこから連なるのが、現在の《神狩
人》の一族である。とりわけ直系血族は『神狩りの力』を強く受け継ぎ、それぞれの系列家
系を統べる役を担っている。
「そして、その直系血族がお前だ」
 天使はシィエラを見据えて言った。
「正解。ただし、わたしは当主じゃないけどね」
「私にとっては同じさ。お前の持つ極めて純粋に近い『神狩りの力』を取り込むことは我が
主の力を取り込むことに等しい」
「出世欲が強いのはけっこう。でも、そうそう思い通りになるとは思わない事ねッ」
 言うなり、シィエラの掌から火炎の弾丸が飛び出し、天使を強襲した。

 ソファに寝転がり雑誌を読んでいた京は思わず飛び起きた。突然襲ってきた感覚が衝撃の
ように全身を駆け巡ったのだ。
「何だ、これは……? 凄く大きい……。戦ってる? シィエラ……?」
 身体に感じる感覚の意味を読みとろうとする京。
(シィエラ、天使と戦ってるのか?)
 だが、天使にしては力が大きい。京のところまではっきりと届いてくるその力は、天界か
らの先発隊として地上に降りてきた今までの天使とは明らかに違っていた。
 だとすれば、考えられるのは……
「上級天使!」
 急いで装備を整えると、京は部屋を飛び出した。

 シィエラの放った三つの火炎弾は天使の『障壁』に弾かれ、爆発して四散した。
「やっぱりダメか」
 ある程度予想をしていたのか、呪文詠唱の省略によって高速発動した魔術が防がれたわり
には、シィエラの声にはまだ余裕があった。
「無駄な足掻きをせず、おとなしく私に取り込まれろ。そうすれば苦しまないようにしてや
る」
 いつの間にか天使の手にはひと振りの剣が握られていた。それは天使が主より授かりし神
聖なる剣。天使がその剣を無造作に振ると、シィエラに向かって一直線に衝撃波が走った。
 だが、シィエラは至って冷静に積層結界盾を張り巡らせた。到達した衝撃波が防御結界の
外縁に衝突すると、さながら爆発のように拡散した。
(五、六、七、八……。十枚中七枚までが全壊。八枚目も半壊、と)
 状況を確認する。
 防御結界に遮られ決してその身に届かぬ爆風の中、シィエラは次なる魔術の発動のために
呪文の詠唱を開始していた。幸いにして吹きすさぶ爆風が天使の行動を遅らせたのか、詠唱
中に攻撃を受けることはなかった。
 詠唱完了――。
 発動と同時に魔力が収束し、シィエラの両の掌には直径一メートル強の蒼い球体が完成し
た。さらに魔力球はバチバチと帯電をはじめる。
「させるか」
 再び天使が衝撃波を放つ。だが、シィエラはそれを跳躍して避け、フェンスの上へと着地
した。手の蒼雷球に質量はないのだろう、彼女の動きの妨げになることはなかった。
「うけなさいっ」
 シィエラは着地と同時に右手の蒼雷球を天使に向かって投げつけた。だが、それは攻撃と
言うにはあまりにも芸がなさすぎた。
「くだらんな」
 案の定、天使の剣によって難なく弾かれてしまった。天使が嘲笑う。
「笑っていられるのも今のうちよ」
 対照的に冷めた表情でそう言うと、シィエラは糸を手繰るように手を引いた。と、同時に、
弾き飛ばされたばかりの蒼雷球が向きを変え、再び天使へと襲いかかる。
「なにっ」
 驚きながらも天使は、間一髪、それを避ける。蒼雷球がそれまで天使が立っていた場所に
無惨な穴を穿った。
「もうひとつあるわよ」
 言うと、シィエラは左手の蒼雷球を放った。
(これだけ派手に戦えば、たぶん京も気がついてるはず。京が来るまでに終わらせないと……)
 ふたつの蒼雷球は見えない糸に操られているかのようにシィエラの手にあわせて縦横無尽
に動き、天使を襲った。天使がそれを避けるたび、至るところに無惨な痕を残していった。
「ずいぶん人間界に慣れてるようだけど、ビリヤードって遊びはご存知かしら?」
 そう問いかけながら、シィエラは右の蒼雷球を手元に戻した。質量も物理的な力も感じさ
せず、ぴたりと吸い付くように掌で止まる。
「なんだと?」
 未だ変幻自在の軌道で襲いかかってくるもうひとつの蒼球を避けながら天使が応える。
「キューで手玉を突いて、目標の球をポケットに落とすゲームよ。こんなふうにねッ」
 シィエラは右の蒼雷球を再び投げつけた。しかし、それは天使に向かってではなく、たっ
た今避けられた左の蒼雷球に向かってだった。そして、ふたつがぶつかった瞬間、蒼雷球は
急激にベクトルを変え、天使を強襲した。
「しまっ……」
 さすがにそれは人にあらざる者でも避けることはできなかった。蒼雷球は激突と同時に、
天使に運動エネルギーによる衝撃と、電気エネルギーによる電撃を与えて破裂した。吹き飛
ばされた天使の身体がフェンスへと叩きつけられる。
 シィエラはフェンスの上から屋上のコンクリートの上に降りた。
「これで終わりよ」
 とどめを刺すべく、呪文の詠唱をはじめる。
(なんとか京が来るまでに片がつきそうね)
 そう安堵した瞬間、唐突にシィエラは京の気持ちを理解した。
 京がひとりで天使との戦いをはじめるのは、きっと自分を巻き込みたくないという気持ち
からなのだろう。それならば今の自分とまったく同じだ。そして、先日、京は「君を危険な
目に遭わせたくない」と言った。それもまた今の自分と共通している。
(わたしがそう思うのはキョウが好きだから。じゃあ、キョウは?)
 京はどう思っているのだろうか?
 一瞬、戦いの最中にもかかわらず、シィエラの頭の中はそのことに支配され、それが致命
的な遅れをもたらした。
「ぐ……」
 天使がうめき声を上げた。物質体を持つが故の人間の如き反応。シィエラははっと我に返っ
た。慌てて掌を正面に向け、立ち上がろうと上体を起こしはじめた天使に狙いを定める。
 掌の魔力が極大にまで収束すると、シィエラは無言で魔力波を放った。空間を歪曲させて
物質世界に現出する様は、先日倉庫街で天使を消滅させたものと同じだった。
 と、そのとき、天使に異変が起こった。背中に羽根が現れたのだ。それは物質体の中に収
めていた本来の姿が持つ羽根であろう。その一対の羽根は一度大きく広がった後、天使の身
体を包み込んだ。
 魔力波が天使へと到達する。だが、それは天使の身体を包む羽根によって遮られ、しかも、
あろうことか再び羽根を広げると同時に燻っていた魔力を押し戻してしまったのだ。
 シィエラの掌から放たれた魔力波は今や逆向きのベクトルを持った流れと化し、彼女自身
に襲いかかろうとしていた。迫る危険に対し、反射的に目を固く閉じる。
 魔力波の直撃を受けるかと思ったその瞬間、シィエラは誰かに身体を掴まれていた。続け
てその身に感じる浮遊感。彼女は突如現れた何者かに抱えられ、風に舞う雪よりも軽く
空を翔ていたのだ。弾き返された魔力波は一瞬前までシィエラが立っていた場所を正確に
通過した後、その延長上のフェンスを破壊、隣のビルの外壁に爆音を上げて炸裂した。
「キョウ!」
 目を開けたシィエラが思わず驚きの声を上げる。危機一髪のところで彼女を救ったのは、
まぎれもなく京であった。
 京は着地すると、シィエラを降ろした。
「ひとつ訊く。何でひとりで戦ってる?」
 やはり怒っているのか、不機嫌そうな声で京が言った。
「いつも言ってるだろう。無理は禁物だって。それに、ついこの間も注意したばかりだ。そ
れなのに何で……」
「キョウと一緒よ」
 シィエラは京の言葉を遮るように言う。
「キョウと同じこと考えて、キョウと同じことやったの。これでおあいこ。何か文句ある?」
 そう言うと、シィエラはいつものようにそっぽを向いてしまった。たった今助けてもらっ
たことは完全に忘れているようだ。
「あー、うん、その辺の話は後にしようか」
 シィエラの言わんとしていることを理解したのかは不明だが、京は途端に困った顔をした。
だが、その顔も一瞬後には狩人のそれになっていた。
「もうひとつ質問だ。あれが……」
 言いながら、顎で有翼人と化した男を差す。
「あのギャングみたいなのが天使か?」
「うん、そう。気をつけて、ああ見えて上級天使だから」
「わかってる」
 そう返事をするや否や京は床を蹴り、天使に向かって駆け出していた。手には愛用の鎌が
握られている。一瞬にして間合いを詰めると、踏み込みと同時に胴薙ぎに斬りつけた。しか
し、男はそれを剣で受けず、バックステップで避ける。
「甘いよ」
 言うと、京は更にもう一度床を蹴り、男を追う。前進と後退、同じ跳躍にしてもどちらが
有利かは一目瞭然だった。結果、ふたりの距離はほとんど開くことはなかった。
 京は男目がけて鎌を振り下ろした。天使である男の身体からはやはり血が流れることはな
かったが、そこには深々と傷が刻まれていた。
 だが、次に笑ったのは男の方だった。 
「甘いのは貴様の方さ」
 にやりと笑い、男が言う。その様子に危険を感じ取ったのか、京は追撃の手を止めて一旦
シィエラの近くまで退いた。
「この身体は物質体でできている。そんなものが通じるはずがないだろう」
「なるほどね」
 京が納得する。
「どういうこと?」
 唯一意味を理解できていないシィエラが京に説明を求めた。
「いつか言ったと思うけど、この鎌には高度の対精神エーテル体用攻撃呪紋が分子レベルで刻まれて
いる。これは精神エーテル体に対しては効果的に作用するけど、逆を言えば物質体にはほとんど効果
がない」
「あいつには役に立たないってこと?」
「そういうこと。だが、打つ手なしってわけじゃない」
 言うと、鎌を床に放り、ブルゾンの内側からサバイバルナイフのようなものを取り出した。
いつぞやのナイフに似ていたがデザインが微妙に違っていた。
「これはあえて中程度の対精神エーテル体コーティングしか施さず、精神エーテル体と物質体の両方にダメー
ジを与えることを目的とした兵器だ」
「用意がいいのね」
「こういうこともあろうかと思ってね」
 そのあまりのご都合主義にシィエラが顔をしかめる。
「って言うのは嘘。ただ単にありったけの武器を持ってきただけさ。まさか役に立つとは思っ
てなかった。……これがどういうことかわかるかい?」
 問われたが、シィエラは首を傾げるばかりだった。
「今回もボクに決定打はないってこと。つまり、キミが頼りだ」
 それは、一度はシィエラが望んだ状況だったが、まさか再び訪れるとは思っていなかった。
 突然、男が笑い出した。
「まさかそんな貧相なナイフで私の相手をしようと言うのか? これは笑わせてくれる。私
が欲しいのは『神狩りの力』だけだ。悪いことは言わん。死にたくなければ下がっているこ
とだ」
「『神狩りの力』?」
 聞き慣れた単語ではあるが、それがいったいどうしたというのか。わからず、京は反問
した。
「その様子では知らぬようだな。その女はな、『神狩りの力』を正統に受け継いだ、《選ば
れたの七人》の直系なのだ」
 男は勝ち誇ったような顔で言った。
「そりゃあ初耳だね。そうなの?」
「……うん。ゴメン、黙ってて」
 申し訳なさそうに言うシィエラ。
「なるほどね。どうせキミのことだ、個人的なことだからボクを巻き込みたくない、とか思っ
てたんだろう」
 見事に図星だった。
 京が手の甲で隣のシィエラの肩を軽く叩く。
「くだらない遠慮はするな。ボクとキミの仲だろう」
 そう言った京の視線は、照れているのか正面に向けられたままだった。そんな京を見て、
シィエラはくすりと笑った。
「何をぐだぐだ言っている。私はその女を取り込み、『神狩りの力』を手に入れるのだ。邪
魔をするなら、貴様から始末してやろう」
「やれやれだ」
 京は呆れたように、そして、面白くなさそうにため息をついた。
「シィエラ、三十秒だ。三十秒だけボクが奴の動きを止める。だから、後は頼むよ」
 そう言うと、京はシィエラを横に突き飛ばした。有翼の男が襲いかかってきたのだ。雪と
羽の舞い散る中、ふたりの戦いがはじまった。
(三十秒……。そんな短時間で上級天使を消滅させるだけの強力な魔術なんて……。第一、
魔力が……)
 と、そこまで考えてシィエラはひとつ思いついた。
「……ある!」
 シィエラはペンダントのチェーンを掴むと、首からそれを引きちぎった。その五芒星のペ
ンダントには先日のリングと同じ魔術が施されていた。つまり、魔力の蓄積である。シィエ
ラは短い呪文をつぶやき、ペンダントを破壊すると、『力』を解放した。
 一方、京は天使の剣に比べてあまりにも貧弱なサバイバルナイフで繰り出された斬撃を受
け止めていた。刃の裏に掌を添え、懸命に抵抗する。
「お前たちなんかに……」
 京が口を開く。
「何……?」
「お前たちなんかに地上を好きにさせはしないっ」
 その言葉とともに京は剣を弾き返した。両腕が頭上にまで上がってしまった男の腹ががら
空きなった。
「そしてっ」
 京は身体を一回転させると、無防備な男の腹に射抜くような蹴撃を決める。男の身体は吹
き飛び、屋内へと通じる扉の、その横の壁に叩きつけられた。すかさず京はそれを追う。
 三十秒――
 それは京が筋力や瞬発力、持てる身体能力をフルに動かして戦える限界時間だった。その
限られた時間で京は男の動きを止めようというのだ。
 走りながら、京はサバイバルナイフを投げつけた。それは寸分違わず男の胸の中心に刺さっ
た。瞬く間に男の目の前まで来ると、そのまま体当たりするように掌底でナイフを叩き、更
に深く突き込んだ。ガチン、と京の手に固い感触が伝わってくる。おそらく刃の先端が男の
身体を貫通し、後ろの壁に当たったのだろう。
「が……はぁ……」
 男がうめき声を上げた。
 続けて、京は両手を腰の後ろ、ブルゾンの内側へと回した。そこから取り出してきたのは、
先程のナイフよりひとまわり小振りな二本の短刀だった。それを両手に持つと、男の羽根に
突き刺した。
 京は標本のように壁に縫いつけられた哀れな男に顔を近づけた。
「そして、シィエラも決して渡しはしない」
 男にだけ聞こえるようにそう言うと、京は後方に飛び退いた。
「キョウ!」
「シィエラ!」
 ふたりはほぼ同時に叫んでいた。
 次の瞬間、シィエラの魔術が発動した。膨大な量の魔力が空間を歪曲させながら物質世界
に現出すると、激流となって男と屋内階段ホールを飲み込み、そして、分解破砕した。後に
は男はおろか、コンクリートの壁の破片すら残ってはいなかった。
 どうやら無事終わったらしい。そう思い京はシィエラに歩み寄った。
「キョウ!」
 突然、シィエラが叫んだ。その視線は京の背後に向けられている。京が振り返ると、空中
の一点に光が集まろうとしていた。集まった光は次第に人の形を取りはじめる。
 ふたりはすぐに理解した。たった今自分たちが消滅させたのは、あの天使が地上に存在す
るために用意した偽りの身体。とすれば、今まさに姿を現そうとしているのは物質体の中に
押し込められていた天使本来の身体のはず。
『手に入れる……。「神狩りの力」を……』
 天使特有の思念波による声がふたりの頭の中に響いてきた。
 そのとき、シィエラの視界の隅で何かが動いた。
 京だった――
 手にはすでに鎌が握られている。天使に向かって駆ける京は、つき合いの長いシィエラで
すら今までに見たことがないくらいの、まさに電光石火の速さだった。京はそのスピードを
一切無駄にすることなく跳躍した。
『き、貴様、私の身体が固着する前に……』
「ボクはそれを待つほどお人好しじゃない」
 そう冷たく言い放つと、京は光の塊に向かって斬りつけ、一刀両断した。
「言ったはずだ、誰にもシィエラは渡さないと。彼女はボクの……」
 京はそれ以上言葉を続けなかった。
 集まりかけていた光が動きを止め、そして、次の瞬間、今度はそれを高速で巻き戻したよ
うに弾け、四散した。
「やれやれだ。こんなに身体を酷使したのは初めてだよ」
 大きな溜め息を吐くと、改めて京はシィエラのそばへと寄った。
「ありがとう、キョウ、助けてくれて」
「気にするな……って、前にも言ったな、この台詞」
 言って、苦笑する。
「わたし、まさかこんなふうに狙われるなんて思わなかった。また同じことがあったらどう
しよう」
「大丈夫だよ。ボクがいる」
 そう言いながら、京はシィエラの肩に乗っていた雪を払った。
「ボクが守ってやる」
「キョウ……。それって……」
 シィエラが顔を上げると、京は顔を斜め上に上げて視線を逸らした。
「どういうこと?」
 言われて、京は思わずがくっとよろめいた。両手をシィエラの肩に置いたまま疲れたよう
に項垂れる。
「意外と嫌な奴だな、キミは」
「だって、言ってることよくわからない」
「あー、何だ、その……」
 恥ずかしそうに鼻の頭をかく京。
「つまり『ボクはキミが好き』ってことだな」
 そう言った途端、シィエラが抱きついてきた。
「キョウ! わたしもキョウが好き!」
 そして、強引に口吻をした。京は一瞬だけ抵抗したが、すぐに諦め、その甘い感覚に身を
委ねた。
 程なく重ねていた唇を離すと、京が言った。
「先にああいうことを言ったボクが言うのも何なんだけど。キミさ、ボクが女だってこと、
忘れてないか?」
「もちろん、忘れてないわよ」
 シィエラが笑顔で答える。
「それでもキョウが好き」
「そりゃあ光栄だね」
 京は雪の舞い散る空を仰ぎ、そして、つぶやく。
「やれやれだ」
 しかし、その声は心なしか楽しげだった。


2004年4月2日公開/2006年6月24日改稿

 

 

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