and She said... (4) 「槙坂」 休み時間、ロッカーから次の授業のテキストを取り出していると、横から声をかけられた。ここ数日で聞き馴染んだ、少しハスキィな女の子の声。そちらを見ればウルフカットにアーモンドアイをした古河美沙希さんが立っていた。 視界の隅では、同じくわたしに声をかけようとして古河さんに先を越されたらしい女の子ふたりが、戸惑い顔でこちらを見ていた。小さく手を振ってあげると、嬉しそうに手を振り返してから去っていった。 「昨日、あれからどうなった?」 「藤間くんならもう大丈夫みたいよ。朝には熱も下がっていたし、さっきの授業でも会ったわ」 「そうじゃなくてさ――」 と、そこでやや声のトーンを落として、 「ひと晩一緒にいたわけだし、何もなかったってことはないんだろ?」 「……」 気のせいか、とてつもなく期待を含んだ声だった。 「……わたしの記憶では何もしないって約束だったと思ったけど?」 「バッカ。そう言わないとあいつが納得しないだろ。建前だよ、建前」 どうやらわたしは彼女に大きな期待を背負わされて、あの場に残されたらしい。 ロッカーに鍵をかけ、古河さんとともに歩き出す。 「あ? まさか本当に何もしなかったのか?」 「ええ、もちろんよ」 信じられないといった様子の古河さん。 「目の前に弱った真がいるのに、何も思わなかったのかよ?」 「それは……」 その質問を文面通りにとらえて、思うか思わないかで言えば思ったことは多い。彼のかわいらしいパジャマ姿や、あどけない寝顔とそのときの悩ましげな声は、わたしの心を掴んで離さない。しばらくは思い出して楽しめそうだ。 だからと言って、その場でどうこうしようとするほど本能的ではない。 「そもそも藤間くんがそんな状態だから何もしないって話だったはずよ?」 「やっぱああいうのってさ、女ががんばってもダメなもんなの?」 「……知らないわよ、そんなの」 我ながらひどい会話だ。しかも、内容に決定的な経験不足が透けて見える。 「そっちこそどうなの?」 いい機会だと思った。 「藤間くんってあなたがいるから明慧にきたんでしょ?」 「はぁ? あいつがそんなこと言ったのか? アタシは初耳だぞ」 「え? それは……」 どうだっただろう? 今にして思えば、とある先輩を追ってきたとは確かに言ったけど、それが古河さんだとは明言しなかったように思う。むしろ言いにくそうな様子だった。 ふと、まさか――と思った。 (わたし?) まさかそのとある先輩というのはわたしのことなのだろうか。 それは単なる自惚れか自意識過剰、発想の飛躍かもしれない。 でも、入学早々に声をかけてきたことや、以前どこかで会っているかもというわたしの中の曖昧な記憶のことを考えれば、あながち見当違いでもないような気がする。 ロッカーのある校舎を出たところで立ち止まる。 「ねぇ、藤間くんが入学前からわたしのことを知っていた可能性はあると思う?」 「あんじゃないの? ていうか、知ってるはず」 「え?」 瞬間、わたしの心臓が大きく跳ねた。 「前に訊かれたんだよ。明慧にびっくりするほどの美人はいるかって。だから槙坂ってのがいるって言っておいた」 「……それ、だけ?」 残念ながら肩透かしだった。その程度ならただの先輩後輩の世間話だ。わたしも中学生のとき、先に卒業した先輩に格好いい男の人はいましたかなどと聞いている。 一瞬期待したのだけど。 埋もれた記憶はまだ姿を見せない。 古河さんとは次に受ける授業も講義棟も違うので、ここで別れた。 『天使の演習』というカフェがある。 駅を降りて我が家とは反対方向にある住宅地の角に店をかまえていて、ふらっと散歩に出たときに見つけたものだ。こんな店があるなんてつい最近まで知らなかった。 カフェにはいつも眠そうな顔の男の人と、おしとやかに見えてどこか快活なものを秘めた女の人が切り盛りしていた。ふたりともわたしといくつも年が変わらないように見えて、最初はアルバイトだろうと思っていた。だけど、すぐにこのふたりこそがここのマスター夫婦だとわかった。 今、わたしはこの『天使の演習』にひとりできていた。 店内はちょっと心配になるほど静かで雰囲気がいいので、落ち着きたいときにはちょうどいい。コーヒーの味も好みだった。表の通りに面したテーブル席に座れば外の様子が窺えるけれど、道行く人は少なくて景色にあまり変化はない。 「考えごとですか?」 その声にはっと我に返り、自分が思考に没頭していたことに気づいた。顔を上げるとマスターの奥さんが立っていた。小柄だけど意外にスタイルがよく、立ち姿がきれいだ。 目だけで店内を見回してみると、客はおろかマスターの姿までなかった。今は彼女ひとりらしい。だから話しかけてきたのだろう。この店には制服といったものはなく、彼女もデニムのロングパンツにトレーナーといった普段着にエプロンをつけているだけ。そういう家庭的なスタイルもここを気に入っている理由のひとつだ。 「あ、彼ならお店がこんなだから買いものに出かけましたよ。わたしに店番押しつけて。ひどいですよね」 わたしの目と心の動きに気づき、彼女は小さく拗ねたようにそう説明した。 どうやらこの人は誰とでも友達になってしまうらしい。――そういう才能はとても羨ましく思う。わたしもここに足を運ぶようになってすぐに親しくなった。聞けば彼女は大学生でもあるとのことで、軽食、特にサンドイッチのセットに曜日限定メニューがあるのは、担当である彼女が学校に行っていて店にいる時間が限られているからのようだ。 「考えていたのは男の子のことでしょう?」 「え?」 心を見透かされたようで、どきっとする。 「あ、もしかして当たりでした?」 彼女はいたずらっぽい微笑みを浮かべた。年上には見えない、幼さが見え隠れする笑みだ。 「ええ、まぁ。よくわかりましたね」 確かにわたしはいつも藤間くんのことを考えている。でも、このところ考えても進展はないので、今はいつの間にかコーヒーを口に運びながらただぼんやりとしていた。 「女の子が悩むことなんてたいてい男の子のことですから」 その言い方に占い師の手口に通じるものを感じた。曰く「あなたが悩んでいるのは人間関係についてですね?」。人間誰でも人とつながって生きているのだから、ほとんどの悩みは人間関係に起因するものだ。 「槙坂さんならやっぱり男の子に言い寄られて困ってるってところかな?」 「ううん、逆です。わたしが追いかけて、逃げられてばかり」 「あー……」 わたしの返事を聞いて、彼女はばつの悪そうな苦笑をもらした。 「でも、わかる気がするな。槙坂さん美人だから、相手の男の子が後込みしちゃうんですよ」 「そうでしょうか」 あまりそういう感じには見えないのだけど。でも、少し勝手な印象を言わせてもらえば、わたしは藤間くんに嫌われてはいないと思う。それどころか古河さんを別格にすれば、どんな女の子よりも彼の近くにいる自信がある。だけど、それでも彼を捕まえられない。捕まえさせてくれない。 「わたしも追いかけるほうで大変だったなぁ」 と、彼女は懐かしむように言うのだけど……。 「ん? あれ? もしかしてわたし、遠回しに自慢した?」 「……たぶん」 でも、年上の女性をつかまえてこういう表現もどうかと思うけど、彼女が類稀な美少女であることは間違いない。高校ではきっと男の子がほうっておかなかっただろうし、今の大学でも彼女が既婚者だと知って数多くの男子学生が肩を落としたことだろう。 「あ、そうだ。思い切ってデートに誘ってみたらどうですか?」 「デート、ですか?」 それは今までのわたしとは縁のない単語と発想だった。そんなこと考えもしなかった。たぶんわたしは彼と学校で会えるだけで満足していたのだと思う。学校に行って、同じ授業で顔を合わせる。食堂で彼の姿を探す。教室の移動中にばったり会う。『槙坂涼』はそんなことをしたことがなかったから、それだけで楽しかった。 でも――学校の外での彼。それを思った瞬間、急に興味がわいてきた。それに――それくらいしないといけないのかもしれない。 そのとき、店の入り口でドアベルが鳴った。お客がきたらしい。 「いらっしゃいませ。お好きなところにどうぞ」 マスターの奥さんはそちらに向かって応対の声を投げる。 「今度うちにつれてきてくださいね。槙坂さんが気になってる男の子、一度見てみたいです」 それからわたしにはそう言って邪気のないかわいらしい笑顔を見せてから、テーブルを離れていった。 「……」 デートか。 そんなこと一度もしたことがないな。 せっかくのアドバイスだし。 「誘ってみようかな。もう少し揺さぶるために」 かくして、わたしは藤間くんをデートに誘うことに成功した。 それはいいのだけど。 「なんか涼さん、落ち込んでない?」 「ていうか、悶えてる?」 「……いいの。なんでもないから」 休み時間、わたしは一緒にいた友達にそう言われ、両肘を突いて額を押さえ頭痛でも堪えているかのような構造から顔を上げた。 昨日、確かに彼にデートの約束を取りつけた。 でも、その過程でわたしは壮絶に恥ずかしい失敗をやらかしてしまった。思い出しただけで顔から火が出そうになる。 (自分でスカートをたくし上げて見せる女って……) さすがにサービス過剰だと思う。 どれだけ見えただろう? もともとそんなつもりはなかったから、そんなには見えていないはず。でも、階段だったから、もしかしたら自分で思っている以上に……。 (わざわざ階段の上に立ってって。ああぁ……) 考えれば考えるほど深みにはまる。 わたしが失態の代わりに得たのは、興味と禁忌の間で葛藤する彼の表情。あの瞬間、確かにわたしは彼を征服していた。そう思えばあのときの彼の表情には、わたしの体の中心を騒がせるものがあった。 「最近の涼さんってちょっとヘンだよね」 「そ、そう?」 最近? 今に限って言えば、ともすればそれこそ悶えそうになるので、傍目には悩みでもあるように見えるかもしれないけれど。でも、最近とはどういうことだろう。 「ほら、急に2年の男の子と仲良くなったりしてるし」 「……」 そういうことか。それを『変』の範疇に入れられるのは少し心外だった。 いや、やっぱり変なのだろう。普通の女の子が普通にしていることも、彼女たちの目に映る『槙坂涼』にとっては。 わたしは時々思う。 『槙坂涼』とは何ものなのだろうか、と。 ひとつ仮説があった。それは、『槙坂涼』は人の願いが生んだ存在である、というものだ。 誰もが憧れる美貌の少女に与えられた役目はとてもシンプルだった。即ち、「その通りね」「今あなたが思っている通りのことをすればいいと思うわ」とうなずいてあげること。人間誰でも肯定されたいという願望をもっていて、それを満たすのに『槙坂涼』は丁度いいのだろう。万人が認めるカリスマに同意されることほど安心できるものはない。 幸か不幸か、わたしは『槙坂涼』が担うべき役割に気がついてしまった。 でも、もしその順序が逆だったら? 肯定されたいという願いが『槙坂涼』というシステムを生み出したのだとしたら? ふとした瞬間に、わたしは自分がとても希薄だと感じる。 もし『槙坂涼』が他者を否定する言葉を口にすれば、そんな『槙坂涼』は必要ないと逆に否定し返され、そうしてやがていつか誰にも望まれなくなったとき、『槙坂涼』という存在は消えてしまうのではないだろうか。 それはばかばかしい妄想。 それでも不安に思う。 部屋でひとり勉強しているときや朝目覚める前の微睡(まどろみ)の中で、そんなかたちのない不安が鎌首をもたげる。 誰にも望まれなくなったとき、そこに何が残るのだろう。 ずいぶん後になって、それを藤間くんに話したことがある。 そのときは朝の浅い眠りの中でそれを考えてしまった。不安を抱えたまま目を覚ましたわたしは、そこにいた彼にそれを話し、最後に聞いてみた。 「わたしってちゃんと生きてる?」 対する彼の答えは単純だった。 「少なくとも僕はあなたが生身の人間であることを知ってる」 確かにそうだった。 彼なら知っている。わたしには触れることのできる体があることも、痛みに血と涙を流すことも。 その言葉に安心し――そして、そこで初めて気がついた。 わたしも誰かに肯定されたかったのだと。 「涼さん。今度みんなで遊びに行かない?」 そう切り出してきたのは伏見唯子だった。 彼女はスポーツ少女を絵に描いたような女の子だけど、足が不自由で車椅子の生活を余儀なくされている。中学生のときに遭った事故の後遺症なのだという。授業前の今は車椅子から通路側の席に移っていた。 「いつ?」 「次ー、じゃなくて、そのまた次の日曜」 この週末なら藤間くんとのデートだけど、来週なら特に予定は入っていなかった。彼女のお誘いを受けようと思ったとき、彼女の次の言葉を聞いてわたしは発音を飲み込んだ。 「定番だけどね、遊園地に行こうと思うんだ」 「……」 遊園地なら日は違えどわたしたちと同じだ。そして、遊園地といえばこの辺りではひとつしかない。 わたしは素早く考えを巡らせ、すぐに答えを変えた。 「ごめんなさい。その日はもう予定が入ってるの」 「え、どうしよう。違う日だったら大丈夫?」 「わたしのことは気にしないで。また次の機会に一緒させてもらうから」 微笑みとともにやんわりと断った。 わたしに合わせてくれるのは嬉しいけど、それでは困る。わたしたちのデートの日を彼女たちに合わせるのだから。 『槙坂涼』が男の子とデートしているところを見つかってしまう――なかなか面白そうなシチュエーションだと思う。 後で藤間くんに日にちを変えてもらわないと。 「……」 後で……? いや、やっぱり明日にしよう。 今日はまだ、その、ちょっと顔を合わせるのが恥ずかしいから。 その女、小悪魔につき――。 2011年11月23日公開 |
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