二日間の学園祭の翌日は、学校は休みだ。 とは言え、各クラス、各クラブの片づけ担当が、それぞれの模擬店や催しものの最終的な後片づけに登校してきている。もちろん、それは学園祭実行委員も同じで、そこには僕も含まれる。 とりあえず僕は何も考えず、ひたすら仕事に従事した。 その後、夕方からは打ち上げ。 この手の慣例に従って打ち上げをすることは学園祭開催直前になって決まった。もとより雑談レベルでは早い段階で話が出ていたので、みんなそのつもりでいたようだ。当然、僕もそうだった。が、今となってはそんな気分ではなく、欠席する旨をまずは幹事役の生徒に告げた。それからこえだと加々宮さんにも。 それを聞いたこえだは「あたしも行くのやめようかな……」などと言い出した。 基本的に小動物であるこえだにとっては打ち上げなどという場所は苦手なのかもしれない。が、そこは加々宮さんにひっついとけと言って説得した。実行委員としてイベントに関わった以上、皆で成功を喜ぶ場にもちゃんと参加するべきだろう。……欠席する僕が言うことではない気もするが、少なくとも今まではそうしてきた。 その夜には電話でこえだの報告があった。楽しかったそうだ。それは重畳、である。その後も彼女はとりとめのないことを無秩序に話していたが、本当はもっと別に聞きたいことがあったのだろうと思う。だが、僕はあえて気づかぬ振りをして長話につき合い、今度加々宮さんも誘って改めて三人で打ち上げをしようと約束だけをして電話を切り上げたのだった。 そして、その翌日からは授業が通常通りにはじまる。 結論から言えば、学園祭以降、僕は槙坂涼とほとんどまともに話さなかった。 まず休み明け初日はまったく会わなかった。まぁ、同じ授業のない日だったのでこういうこともあるだろうと、このときの僕は思ったのだ。 その次の日は昨日と違い、一緒の授業があったため遠目に姿を見ることはできた。あいかわらずの優等生、完璧超人っぷり。そして、あいかわらず彼女を慕う生徒に囲まれていて、話しかけることができなかった。 それ以降も似たようなものだ。 教室で見かけても声をかけられるような状況ではなく、たまに学食で近くの席になったりもしたがやはり同じだった。そのくせ時折目が合うので、呼吸みたいなものが同じで似たもの同士なんだなと、今さらながらに自覚させられた。 一度だけ校内ですれ違い、声が届く距離まで近づいたことがあった。 槙坂先輩の周りにはやはり四、五人の女子生徒がいて、僕も数人の友人と一緒に歩いていた。彼女は向かいからくる僕に気づき、かすかに驚いたような表情を見せたが――それも一瞬のこと。すぐに僕に微笑みかけてきた。 まるで「また後でね」なんて言葉が聞こえてきそうな、いつも通りの微笑。 (いつも通り?) いや、いつも通りとは言えないここ数日の状況でいつも通りの笑みは、それこそがいつも通りではない証拠だ。 そのまま彼女は僕の横をすり抜けていく。 後ろから声が聞こえ――、 「あれ? 槙坂さん、いいの?」 「気にしないで。お互いがもってる交友関係も大事にしないといけないもの」 そして、遠ざかっていった。 「……」 至極まっとうな意見。 素通りするには十分な理由だ。 「おい、なんでスルーなんだよ、藤間!?」 これはこちらの友人だ。 「向こうだってひとりじゃなかっただろ」 「三年のお姉様方とお近づきになるチャンスじゃねぇか」 「知るかよ」 こっちは自分のことで手いっぱいだ。人の事情だか欲望だかにつき合っている余裕はない。まぁ、そうじゃなかったとしても、槙坂涼に憧れる男どもの仲介役をやるつもりなどないのだが。 そうしていつかは話せるだろうと思っているうちに数日がたっていた。その間、彼女のほうからのアプローチもなかった。 そんな状況が続けば不審に思うやつも出てくるわけで。 「お前、槙坂先輩と今どーなってんの?」 ある日の学食、昼食を食べながら聞いてきたのは浮田だった。 こいつには前にも同じことを聞かれた。あのときは僕と槙坂先輩の親密ぶりを不思議に思ってのことだったが、今回はまったくの逆。一緒にいるところを見なくなったのを気にしてのこの台詞だった。 「別に」 「って感じじゃないけどな」 と、これは成瀬。 彼は先の学園祭におけるクラスの喫茶店の企画立案者にしてパティシエ班のリーダーだった。 「そうは思っても追求しないのが友人というものと思うけどね」 「仕方ない。槙坂さんがからんでるんだ。どうしても気になるよ」 開き直ったか。友情よりも好奇心らしい。 僕はため息をひとつ。 「そういう成瀬は瀬良さんとどうなんだ?」 「っ!?」 そんなわけで反撃に出たのだが、思いのほか効果があったようだ。 瀬良さんというのは同じクラスの女の子である。カナダ帰りのけっこう気合いの入った帰国子女で、会話の中でナチュラルに英語が飛び出してくるのはご愛嬌。僕は時々彼女に英会話の表現について教えを乞うている。 「悪いね。キャンプファイヤで一緒にいるところを見たんだ」 そういうきっかけを目にしてしまえば、後はふたりの様子を見ていればわかることだった。どうやらあのときから交際がはじまったらしい。あれを見ていなかったとしても、少しばかり勘が鋭ければ気づくのではないだろうか。 「言っとくけどあたしも知ってたからな。言わなかっただけで」 この場にいる最後のメンバー、礼部さんはやや白けた調子でそう言うと、学食のラーメンをすすった。こうやって平気で男連中と一緒に食事をし、気取ることなく食べる姿はとても好感がもてる。 彼女も成瀬と瀬良さんのことは気づいていたようだ。 「しまったな。藪をつついて蛇を出したか」 「そういうこと。この手の話は好奇心でつつくものじゃないよ」 頭を抱える成瀬に僕は諭す。 成瀬は悪いやつではないし、瀬良さんがOKするくらだから、どちらかと言えばいい男なのだが、友人同士になると遠慮がなくなるのが玉に瑕だ。その遠慮のなさも普段なら好印象をもつことが多いのだが、話題にもよるということか。 「けっ。どいつもこいつも彼女持ちかよ」 そして、ぼやくは独り身の浮田。 彼はふと何かに気づくと、視線で礼部さんをロックオンした。 「礼部さん。俺たちつき合わね?」 「よし、まずは死んでバカをなおせ。話はそれからだ」 見事な撃沈だった。 その日の放課後、少しばかり調べたいことがあり、僕は隣接する明慧学院大学の図書館へと足を向けた。 附属高校と大学の位置関係の都合上、道路に面した門ではなく、利用する学生の少ない住宅地側の門から敷地内へと入る。明慧大は総合大学故にキャンパスは広い。門をくぐっても図書館まではまたさらに歩く。門のところで全行程の半分といったところか。 中心部に行くと次第に人の姿が増えてくる。午後四時にもなれば本日の講義の終わった学生がほとんどなのだろう、行き交う大学生は皆一様に解放感に満ちた顔をしていた。キャンパスが広いと自転車で移動する学生もいるのか、いたるところに駐輪スペースが設けられている。僕の横を二人乗りの自転車が通り過ぎていった。 門から五分ほど歩いたところで図書館に到着した。 図書館は学術情報館と呼ばれる建物の中にある。中に入るとまずはテーブルや椅子の置かれたロビーがある。ここでは飲食も私語も制限はされない。そこを抜けると図書館の入り口があるのだ。 今日、家を出る前に見たい本の検索はすませていたので、入館ゲートを通ると真っ直ぐに目的の書架へと向かった。 「え……」 しかし、その途中、僕は思わず立ち止まってしまう。 槙坂先輩がいたからだ。 彼女は何か資料を探しているのか、手にしたメモと書架の側面に書かれた請求記号とを見比べている。が、程なくして人の気配を感じてこちらを向き――通路に立ちすくむ僕を見つけた。 「あら、こんにちは。藤間くん」 「あ、ああ……」 思わぬ遭遇に僕は呆けたような返事をする。 「奇遇ね。どうしたの、こんなところで」 「それはこっちの台詞だと思うけどね。どちらかと言うと、ここは僕の領域(テリトリィ)だ」 「それもそうね」 それでもすぐに立て直して言い返せば、彼女は楽しげに笑った。 「ちょっと調べたいことがあったの。……ロビーに出ましょうか」 話し声を気にしたのか、槙坂先輩はそう促した。 僕たちはロビーを出ると、まずは自販機で缶コーヒーを購入した。 先に槙坂先輩が買い、さっさと空いているテーブルへと向かってしまう。僕はその姿におやと思いつつも続けて自分のコーヒーを買い、彼女を追った。向かい合って座る。 私服の大学生ばかりの中にあって制服姿の僕たちは少々浮いていた。果たして大学の学生、附属の生徒で、どれだけの人間が附属生も自由に図書館を利用できると知っているのだろうか。 「藤間くんの影響かしらね。最近、調べものは図書館でするようになったわ」 「それはいいことだ。それに、正しい」 僕たちはコーヒーを飲みながら話す。 最近は何でもネットで調べがちだが、司書が相談(レファレンス)を受けたときはまず自館のコレクションをあたる。それでダメなら参考になりそうな資料が他館に所蔵されていないか調べ、あれば取り寄せる。ネットは基本的に最後の手段か、調べるとっかかりにする程度だ。 司書がネット上の情報を信用しないのは、正確性に欠けるからだ。確かに速報性は高いが、どこの誰が書いたかわからない、明日には消えているかもしれない情報を信用することはできない。信用するとしたら『電子政府』のような公的機関が発信しているサイトだろう。 「唐突だけど――富士山の標高は?」 「三七七六メートルね」 「そう。これくらいは知識で答えられる。でも、根拠を求められたら?」 僕が重ねて問うと、彼女は考える様子を見せ、 「百科事典かしら?」 「それもひとつの手だ。でも、これがもっとマイナーな山になると百科事典には載っていない可能性がある。『日本山名事典』あたりがベストだろうね」 事典、辞典の数はけっこうバカにできなくて、ほぼすべての分野にあると思っていい。百科事典、国語辞典にはじまり、音楽辞典や心理学用語辞典、もっと掘り下げたものだと夏目漱石周辺人物事典やモーツァルト全作品事典なんてものもある。 因みに、『事典』と『辞典』は読みが同じなので、会話の中では前者を『ことてん』と呼ぶこともある。 「じゃあ、もうひとつ。大浴場や噴水でライオンの像の口から水が出ているのがあるけど、あれはどうしてだと思う?」 「見当もつかないわね」 これは実際に図書館に持ち込まれた相談(レファレンス)だ。 質問を受けた司書は、まず『世界大百科事典』でライオンの項を見た。そこには「古代エジプトでは、太陽がしし座にはいる八月にナイル川の増水が始まるため、泉や水源にライオンの頭を模した彫刻を飾った。この風習がギリシア・ローマに伝わり、口から水を吐くライオンの意匠が浴場などで使われるようになった」と書かれていたそうだ。 次に『世界シンボル辞典』のやはりライオンの項目で、「樋口および噴水口として使われているライオンの頭部は、昼間の太陽、大地の贈り物として吐き出された水、をあらわす」の文章を見つける。 さらに『インテリア・家具辞典』『水のなんでも小辞典』『古代ギリシャの都市構成』にもあたり、そちらでは建築学的な理由が書かれていたようだ。 最後に『英米故事伝説辞典 増補版』で、「これは古い習慣で、エジプト人はナイル川の洪水を象徴するのにししの頭をもってした。けだし、その洪水は太陽が獅子宮の所にあるときに起こったからである。このようにしてギリシアおよびローマでは、噴水にこれを用いるようになった」の記述が見つかった。 「司書って何でも調べるのね」 僕が話し終えると、槙坂先輩は感心したようにそんな感想を口にした。 「本来そういう仕事だからね」 この例では結局、最初に百科事典を調べたこと以上のものは出ていないが、司書は質問に対して自信をもって答えるためにはここまで調べるのだということがよくわかる話だろう。 「それでもわからなかったら国会図書館に調査を依頼したり、わかりそうな専門家や研究機関を紹介したりするんだ」 後者はレフェラル・サービスという。 「本で調べようと思ったわたしって、案外司書に向いてるのかしら?」 「かもね」 僕はテキトーに話を合わせる。 安易にネットに頼らないという姿勢は正しい。次は世の中にどんな資料があるかを把握することだろう。尤も、それに関しては僕自身にも言えることで、僕は同年代の人間より調べものが上手いほうだと自負しているが、それでも時々調べきれないことがある。そういうとき大きな公共図書館やこの大学図書館のカウンタで尋ね――そして、勧められた資料を見て、こんなものもあるのかと驚かされるのだ。まだまだ経験が必要なのだろう。 「じゃあ、」 と、槙坂先輩。 「わたしもアメリカにつれていってくれる?」 無邪気とも言える笑顔で聞いてくる。 僕はその問いにどきっとしながら、慎重に言葉を紡ぎ出した。 「むりを言わないでくれ」 「でしょうね」 彼女は笑った。 そう。そんなことできるはずがない。年が明ければすぐにセンター試験で、それが終われば受験本番だ。僕は聞いたことがないが、槙坂先輩にだって志望校があるだろうし、その気になったらどこにだって行けるはずだ。それなのにこんな時期に思いつきで日本を飛び出そうと考えるなんて馬鹿げている。 そもそも親が許すのか? 資金は? 向こうでの生活はどうする? 冷静に考えれば考えるほど無理な話なのがわかる。彼女だってそれくらい理解しているはずだ。 「……帰るわ」 唐突に、槙坂先輩は席を立った。 「調べものは?」 「急いでるわけじゃないから、日を改めるわ」 そう言って笑う。 その笑みにはどこか寂しげな陰のようなものがあって――僕は「そ、そうか」と何とも間の抜けた返事で応じた。 そして、 「さよなら」 彼女は今まで聞いたこともないようなフレーズを最後の言葉にして去っていった。 その女、小悪魔につき――。 2015年11月21日公開 |
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