「さよなら」――そう槙坂涼は言った。 今まで彼女の口から聞いたことのない言葉。 僕はそれを聞いてからずっと、その意味を考えている。 「……」 そう言えば、前にもこんなことがあったのを思い出した。 『そろそろ遊びは終わりにしましょう?』 あのときはメールで、こんな文面だったか。尤も、翌日にはサンドウィッチを持って僕のところにやってきたが。今回はどうなることやら。 さて、その槙坂先輩はというと。 ――今は休み時間。この教室での授業が終わったばかりで、彼女は前のほうの席で周りの女子生徒としゃべりながらテキストやノートをまとめていた。 僕はそれをぼんやりと眺めている。 と、不意に、 「Hello. Anybody home?」 やけにかわいらしい声の、しかも、きれいな発音の英語が僕のすぐそばで聞こえた。 見上げればひとりの女の子。 「やあ、瀬良さん」 「ノンノンノン。……れいれいと呼んでください」 瀬良麗奈(せら・れいな)、通称れいれい。もちろん、呼べるわけがないので無視する。 「僕に何か用?」 「んー?」 と、瀬良さんは少し考えた後、とてもアバウトな質問を投げかけてきた。 「最近どうかなと思いました」 「上々だね」 お返しというわけではないが、僕もかなりいいかげんな返事をする。円滑な人間関係を保つために必要なもののひとつは、オチと意味のない雑談だろう。 「そのわりにはぼうっとしてますねぇ」 「……疲れてるんだよ」 いろいろ進行中だしな。 「どれどれ、なに見てたんですか?」 突然、瀬良さんは僕の後ろに回ると、僕の肩に自分の顎をちょこんと載せた。たぶんできるだけ目の位置を同じ座標に寄せて、こちらの視線をトレースしようとしているのだろう。が―― 「……瀬良さん」 「なんですか、ふじまん?」 僕が黒目を限界いっぱいまで端に寄せて呼びかけると、瀬良さんもまた同様に目だけでこちらを見、応える。やけにフレンドリィな呼び方をされたものだ。 「……近い」 「藤間君の意見はおおいに尊重する心づもりですが、今はガン無視です」 「……」 ガン無視か。まぁ、僕も先ほど彼女の要求を無下にしたばかりだしな。これでおあいこか。或いは、これは彼女の仕返しなのかもしれない。 「おお、槙坂さん」 そうして無事見つけたようだ。 「槙坂さんを覗いてたんですか?」 「……まぁ、ね」 概ね間違っていないが、覗くとはまた人聞きの悪い。 「何でまた? 彼女とつき合ってるんだから、藤間君ならもっと近くで着替えもお風呂も覗き放題でしょうに」 「瀬良さん? 勝手に僕を犯罪者にするのはやめてくれるかな」 「いえいえ、もちろん合意の上でですよ、お父さん。そういうプレイもあるかと」 瀬良さんは槙坂先輩のことをどう見ているのだろうな。少なくとも対外的には清楚清純を絵に描いたような人だろうに。 と、そのとき、槙坂先輩が席を立った。もう教室を出るようだ。そして、間の悪いことに、この大教室の前半分と後ろ半分を分断する通路を通るつもりらしく、数人の女子生徒と一緒に一旦後ろに向かって歩き出す。 当然、彼女の目に僕の姿が映り―― 一瞬、視線が交錯した。 が、すぐに槙坂先輩は、ふい、と僕から目を逸らすと、何も見なかったかのように中央の通路を通って教室を出ていってしまった。 「あらあら、無視でしたね」 「……」 僕は少しだけ呆然となる。この前とは違う反応。先日はまだ、ほぼかたちだけとは言え、微笑んでみせていた。だが、それが今日はどうだろう。無視、いや、どちらかと言えば、無反応か。 「……それはさておき、瀬良さんは今のこの状態が問題だと思わないのかな?」 「Oops!」 瀬良さんはようやくこの状態――僕の肩に顎を載せて顔を寄せ合っている状態から飛び退いた。つまり僕は槙坂先輩にそれを見られたわけだ。 「これは実にマズいところを見られました。先ほどの無視は機嫌を損ねてしまったが故でしょうか?」 「……」 あれをマズいと思う判断能力があるのなら、気軽にやらないでほしいものである。 「たぶん、怒らせたんだろうね」 「やっぱり!?」 ぎょっとする瀬良さん。 「いや、安心していいよ。怒らせたのは僕だ。とっくの昔にね」 「うそやんー!」 アクセントのおかしい、とても下手な関西弁が飛び出した。そう言えば、関西弁はどうにも騒がしいイメージがあるが、我が義兄は非常にクールだったな。人によるということか。 周りが何ごとかと彼女に目を向ける中、瀬良さんだけはじっと僕を見る。 「藤間君は槙坂さんと何かあったんですか?」 「核心をついた鋭い質問だね」 「ふっふっふ。壁に耳あり障子に目あり柱に白アリ。私メアリー、今あなたの後ろにいるの。……いえ、ただナッセが藤間某の様子がちょっとおかしいと言っていただけです」 ナッセとは成瀬のことのようだ。瀬良さんの口から成瀬の名前が出るのを初めて聞いた気がするな。それだけ彼が密かにアプローチしつつ、先日のキャンプファイアで勝負に出たということか。 僕は遅ればせながらテキスト類をまとめ、瀬良さんとともに教室を出た。 「実は留学しようと思っていてね」 僕は歩きながら瀬良さんに話す。 「おお、それで私を都合よく利用して英語力を上げようとしていたんですね。汚いですねさすが藤間君きたない」 「君は定期的に人聞きの悪い言い方をしないと死ぬのか?」 言い方は兎も角として、帰国子女である瀬良さんの英語力はとても勉強になるのである。 「いえいえ、これでも私は大いに大歓迎してるんですよ。サイモン先生には及びませんが、グーグル先生よりは役に立つと自負していますので。ぜひとも利用してください。私も大サービスで、本当に嘘を織り交ぜつつ、本場の英語を教えて差し上げます。……さて、私は今、『大』を何回言ったでしょう?」 「……」 急に彼女から教えてもらった英語が不安になってきた。スラングとか混ざってないだろうな。夏のイギリス旅行中、知らない間に人を不愉快にさせていなければいいが。 「留学、素敵ですね。カナダはいいところですよ」 「勝手に人の留学先を決めないように。僕が行くのはアメリカだよ」 カナダ帰りの瀬良さんは、かの国が気に入っているらしい。 「ところが、僕はそのことをずっと黙っていてね。つい先日、とうとう知られてしまったんだ」 「それで槙坂さんを怒らせた、と?」 「たぶんね」 槙坂先輩が自らの口でそうと言ったわけではないが、おそらくそうだろうと思っている。だた怒っているだけならまだいいほうだろう、という気もしないでもないが。 むーん、と瀬良さんは考え、 「土下座ですね」 「えらくまた極端な解決方法が出てきたな」 或いは、妥当な、か。 「たぶん頭を踏まれるでしょうが、上手くいけばその瞬間踏まれる喜びと踏む喜びに目覚めて、すべて丸く収まります」 「そんなものすごく薄い確率に賭けなくても、ほかに何かあると思うけどね」 今のところ、そこまで追い詰められているつもりはない。 「注意点としては、制服でとか20デニールの黒ストでとか、そういう露骨な注文をつけないことですね。うわ面倒くさっと思われた瞬間、もうそれはプレイじゃなくなります。きっと情け容赦なく踏みつけられることでしょう」 「目覚めた後の注意点を言われても困るが。そのときがきたら思い出すよう、心の隅のほうに押しやっておくよ」 「ありがとうございます。こちらもほっとしました。それでもいいと言われたらどうしようかと。藤間君とのつき合い方を考え直さざるを得ないところでした」 僕は現在進行形で彼女との友達づき合いを考え直しているところだ。 僕と瀬良さんは、講義棟1と講義棟2に囲まれた中庭を歩く。目指すはロッカーだが、彼女は肩からトートバッグを提げているので、次の授業の用意はもうできているのかもしれない。 「僕の心配をしてくれるのはありがたいけど、そっちはどうなんだ? 成瀬とはうまくいってるのか? まぁ、つき合いはじめたばかりだから、何もないだろうけど」 「おや、なぜ藤間君がそれを? ……はっ、さては私のファンですね? わかりました。クラスメイトのよしみで握手券なしでいいです。バルたん星人の握手になりますが」 「いや、何となく気づいてね。成瀬に聞いたら、素直に白状したよ」 瀬良さんのエキセントリックな言動にいちいちつき合っていると先に進まないので、要点にだけ答える。 「むう、ナッセめ。口が軽いですね。……ときに藤間君。今日、何か予定はありますか? よかったら帰りにカラオケに行きましょう。もやもやした気持ちを抱えているときはシャウトするに限ります」 「解決方法ではないけど気分転換、或いは状況打破のための第一歩としては傾聴に値する意見だね。でも、遠慮しておくよ」 この瀬良さん、普段のかわいらしい声に似合わず、歌声はなかなかに男前なのである。そして、知った歌を人が歌っていると、その卓越した英語力でもってオリジナルのラップをぶっ込んでくるというカラオケ暴走族でもある。 「残念です。でも、そうですね。藤間君は歌うよりも槙坂さんと話をするほうが先かもしれません」 「……」 「……」 「……ま、そうなるんだろうね」 槙坂先輩が怒っているのは確かだろう。でも、それでも話をしなくてはいけない。この前もそのつもりだったのに、結局よけいな話ばかりして、肝心なことは話せていなかった。 「藤間君の当面の予定が決まって何よりです。……では、私はちょっとナッセを引っ叩いてきますね」 瀬良さんはぐっと拳を固めてそう言うと、近くの昇降口から講義棟2に入っていった。……つき合いはじめたばかりのふたりが、いきなり破局を迎えなければいいが。 その女、小悪魔につき――。 2016年1月3日公開 |
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