第7話 03-冬(1)「そんなわけないでしょうガアーッ」 秋のドリームフラグメントから数日後のこと。 カレンダは12月に変わったものの、クリスマスまでまだ20日以上。にも拘らず、街はクリスマスカラーに覆われていた。今わたしがいるデパートのワンフロアの大半を占める大型書店も、あちこちにクリスマス風味の飾りつけがされていた。 「面白そうな本はなしかぁ」 今月の新刊コーナーをあらかた見終わったわたしは、ひとり言をこぼした。 「そろそろ次のことも考えないと」 半年後の春ドリも参加する予定なので、やっぱりサークルとしてはスペースに新刊を並べたいし、原稿には早めに取りかかるにこしたことはない。まぁ、新刊がなくても参加はできるのだけど。もっと言ってしまえば、サークル参加の抽選に落ちても一般参加で行けばいい。要するに、わたしとしてはあの会場に行きさえすればいいのだ。 そうすれば、あの人に会えるから。 「見事に目的が変わってるなぁ……」 最近薄々自覚しつつあることをつぶやき、苦笑。わたしは新刊コーナーを離れた。 数歩歩いて、 「ふぇ?」 と、間の抜けたというか言いようのない声を上げた。 そこに――、 いるはずのない人が――いた。 シャープな感じに整った相貌、どこか遠くを見ているような深い色の瞳――。 南雲さんだった。 向こうからこちらへ歩いてくる。 わたしは足を止めて固まった。 南雲さんって住んでるのはこの辺りじゃなかったはず。確か新幹線で2時間以上もかかって、イベントの日には前日からこっちにこないといけないような遠くだったと記憶している。もしかして引っ越してきたとか? それとも会いたいと思い過ぎて、似た人を南雲さんと見間違えてる? わたしは頭が混乱した。 そうこうしているうちに、わたしとその人の距離が縮まり、相手も通路の真ん中で立ち尽くしている変な女の子(わたしのことだ)に気がついた。 「どうも」 聞き慣れた挨拶。 そして、あろうことかその人はわたしの横をすり抜けていった。 「あ、どうもです……」 思わずそう返す。 遅ればせながら、わたしははっと気づき、 「って、」 振り返って、 「“どうも”、じゃないわーっ」 叫んだ。 ついでに新刊コーナーを見ていたその人にジャンピング体当たりまで喰らわせてやった。 こんな簡潔、且つ、簡略化された挨拶をする人がそうそういてたまるか。 「南雲さんっ」 「……何か?」 さすが男の人だ。わたしの渾身の体当たりを受けても、少しよろけただけだった。 「なんでここにいるんですかっ!?」 「こっちの友人に会いにきたのですが?」 わたしが何を興奮しているかちっともわかってないふうで、不思議そうに返す南雲さん。 「じゃあ、なんでわたしを見てもスルーなんですかっ」 「会う約束をしてたわけでもないのに、呼び止めたら迷惑かと思いました」 「そんなわけないでしょうガアーッ!」 う、うっわー。すっごくシバきたい気分。 普段遠くに住んでいるふたりが、すごい偶然で会ったというのに、挨拶だけで何食わぬ顔でスルーとはいったいどういう神経をしているのだろうか。南雲さんらしいと言えば南雲さんらしいけど。 「優希さん、俺に何か用でもありましたか?」 「えっと……用、はないですけど……」 そんなふうに改めて訊かれたら返事に困るけど、どこがでゆっくり話をするくらいのことはしてもいいと思う。 「って、あ、南雲さん、今からお友達と会うんですよね?」 「いえ。相手の方に急な用事ができたらしく、会うのは夜ですね。今は時間潰しの真っ最中です」 「えっと、じゃあ、今は特に用事はなくて、お時間があるってことですか?」 わたしはおそるおそる尋ねてみた。 「そういうことになりますね」 「……」 ど、どうしよう……? これは千載一遇のチャンスのような気がする。いつもイベントがらみでしか会っていなくて、その延長みたいな話ばかりだけど、今ならもっと別の、素の南雲さんが見られるかもしれない。 わたしは意を決して切り出した。 「あ、あの、もし……もし、の話なんですけど……南雲さんさえよければ、どこかでゆっくりお話でも……」 なんか自信がなさ過ぎて、尻すぼみになってしまった。 「あ、ダメとか嫌とかならいいんですよ」 すぐにさっきの言葉をかき消すかのように、胸の前で両手を振った。 「別にかまいませんけど?」 「い、いいんですかっ!?」 思わず聞き返してしまった。 南雲さんがポケットに手を突っ込んで、そこから取り出したのは懐中時計だった。銀鎖の懐中時計。今日は腕時計ではないらしい。わたしなんかケータイが時計代わりなのに。 てっぺんのボタンを押すと、キン、という小さくて心地よい音がして、蓋が開いた。 「今からだと4時間ほどしかつき合えませんが」 「は、はい。かまいませんっ」 わたしは力いっぱい返事をした。 と、そこではたと気づく。 「す、すみません。ちょっとだけ……いいですか?」 少しだけこの場を離れるというニュアンスの断り。 「どうぞ」 「すぐに戻ってきますので」 そう言い残して、わたしは化粧室に駆け込んだ。 洗面台の鏡で自分を映してみる。フリル付きの白いブラウスに、赤いチェックのビスチェスカート。その上からコート。自分で選んで買った服だからこれはこれでお気に入りだけど、こんなことなら最上級にかわいい服を着てくるんだった。 とりあえず改めて着こなしをチェック。それから、バッグからブラシを取り出して、髪に通す。最後に指で口の両端を押し上げて、笑顔を作ってみた。 これでよし。 わたしは化粧室を出て、南雲さんのところに戻った。彼は新刊コーナーで、本を手に取って見ている最中だった。 「お待たせしました」 声をかけると南雲さんは本を陳列棚に返した。100年以上も前に書かれた有名な翻訳ものの本だった。 「そう言えば、今日はいつもと違う系統の服ですね」 「会場の雰囲気って独特ですから、イベントのときはそれに合わせてるんです」 一般参加者でもゴスやロリータをよく見かけるので、おかけでわたしも思い切ったものに挑戦できる。 「でも、普段はこんな感じですよ」 「なるほど。俺はどちらかというと、今のような格好の方が好きですね」 「ほ、本当ですか!? 実はわたしもお気に入りなんです、一番」 一番になったのはたった今だけど。 「ところで――」 と、わたし内部の盛り上がりをよそに、南雲さんはあっさりと次の話題に移ろうとする。 「今日は彩さんは一緒じゃないんですか?」 「え、彩ちゃんですか? いえ、今日はひとりですけど?」 南雲さんの口から彩ちゃんの名前が出て、わたしの中の温度がすっと下がっていくのがわかった。わたしは警戒するように訊いた。 「彩ちゃんがどうかしましたか?」 「いつも一緒だと言っていたから、今日もそうなのかなと思っただけです」 「あ、そうなんですか。確かにそうですけど、たまにはバラ売りすることもありますよ」 ただ単にここがわたしの行動範囲だっただけで、もっと遠くに足を運ぶときは彩ちゃんがいないとダメだけど。 「せっかくですから彩ちゃんにも連絡とってみましょうか」 わたしはケータイを取り出し、彩ちゃんのメモリィを呼び出した。 が、 「……」 液晶に表示された彼女の名前を見た途端、わたしの指は動きを止めた。 体は無意識に南雲さんと距離を取っていた。 この通話ボタンを押せば、あとは機械が自動的に彩ちゃんをコールしてくれる。それに彼女が出て、よほどの用事がない限りここに駆けつけてくるに違いない。 そうしたらどうなるの? わかりきってる。南雲さんとふたりきりの時間もおしまい。 彩ちゃんだって南雲さんに好い印象を持っているし、こんな偶然はめったにないから、きっと会いたいと思うだろう。そこまでわかっていても、わたしは彼女を呼ぶ気にはなかった。なんて自分勝手なのだろう。 わたしは決心して、通話ボタンを押さずにケータイを耳に当てた。 南雲さんの様子を窺うと――心配することはない、彼はまた新刊コーナーのラインナップに目を向けていた。 少ししてから、わたしはケータイをたたんだ。 「彩ちゃん、今日は出てこれないみたいですね」 南雲さんのところに戻り、そう告げる。 「そうですか」 彼の短い応答には、あまりにも情報が少なかった。特に表情は変わらず、その声音からも何も読み取れなかった。だから逆に心配になる。 「やっぱり残念ですか?」 「残念?」 南雲さんは、そんな言葉など初めて耳にしたかのように、不思議そうな顔でリピートした。 ――欠落。 そのまま黙り込む。 気まずい沈黙だった。 「え、えっと、それじゃあ、今からどこに行きましょう?」 何か触れてはいけない部分に触れたような気がして、わたしはそれを打ち破るように切り出した。 「どこかに入って、ゆっくり話すと言っていたように思いますが」 「あ、そうでしたね。近くにいいお店があるんですよ。とりあえず外に出ましょう!」 くるりと彼に背を向け、先を歩き出す。 ここは上から数えた方が早いようなフロアだったけど、地上へ下りるのにエレベータではなくエスカレータを選んだ。ステップに乗るとわたしは手すりにもたれるようにして立ち、一段上にいる 南雲さんを見た。ただでさえ背の高さに差があるのに、段差も加えて本当に見上げるようなかたちになる。 「こっちにくるのは急に決まったんですか?」 「いえ。確か先月の頭には予定が決まってたように思いますね」 「……」 えっと、それは…… 「つまり、この前の秋ドリのときにはもう決まってたってことですか?」 「そうなりますね」 南雲さんはあっさりとそう答えやがりました。 「わかってたんなら、なんで言ってくれないんですかー!?」 がおー。 予め言っておいてくれたら、きちんと会う約束ができたのに。いや、まぁ、南雲さんにも都合があるから、わたしなんかに会うような時間は取れなかったかもしれないけど。それでもやっぱりおしえておいて欲しかったと思う。 「あぁ、ぜんぜん思い至りませんでした」 「まったく……」 反省の色なしの、というか、きっと何を反省していいのかわかっていないだろう南雲さんに、ため息を漏らす。わたしってそんなに眼中にないのだろうか。 そうこうしているうちに地上階へと辿りついた。 主要ターミナル駅とも直結しているこのデパートを出ると、すぐ目の前はスクランブル交差点になっている。ここを斜めに渡ったところからはじまる通りに、わたしの行きたいお店はある。歩行者用の信号は、ちょうどいっせいに点滅している最中だった。 「南雲さん、こっちです。行きましょう」 わたしはここぞとばかりに小走りで駆け出した。 ここは複雑な時差信号なので、次にまた青になるまでどれだけ待たされるやら。今のうちに渡ってしまいたい。同じことを思っている人もいるのだろう。数え切れない人が、早足や駆け足の、いつもより速いペースで横断歩道を渡っていく。 「あ、あれ?」 それを渡り切って、ふと気がつくと南雲さんの姿が見当たらなかった。きょろきょろと周りを見回してみても、やっぱりいない。てっきりついてきているものだと思っていたけど、まだ向こう側にいるのかもしれない。そう考えて振り返ってみたけど、流れはじめた車と信号待ちをしているたくさんの歩行者に遮られて、よく見えなかった。 「……」 急に不安になってきた。 わたしが浮かれてひとりで突っ走ったせいで、南雲さんとはぐれてしまい。周りに人はたくさんいても、でも、それは見知らぬ他人の集団。わたしのことなど目に入っても、気にもとめていないだろう。 不意に自分がまったく知らない場所に立っているような気がして、名状しがたい心細さを覚えた。 と、そのとき――、 「優希さん」 「えっ」 手を、掴まれた。 振り返るとそこにはサングラスの男の人。それが南雲さんだと気づくのに数秒かかった。さっきまではかけていなかったサングラスのせいだ。 「この辺りは詳しくないので、あまりさきさき行かれると困るのですが」 「え……、あ、あの……」 わたしの頭がまた混乱をはじめる。 いきなり現れた端整な顔とか、こちらに向けるレンズ越しの瞳とか。そして、何よりも彼がわたしの手を握っていることが、わたしを混乱させた。顔が熱くなる。 「ご、ごめんなさい……。それで、その、手……」 「ああ、すみません」 手が離れる。 わたしの掌の中に残る南雲さんの手の名残りは、少し冷たかった。でも、それももっと冷たい冬の風がかき消そうとしていた。わたしはそれを逃すまいと、大事に手を握りしめる。 なんとなく気恥ずかしさで、南雲さんの顔を見られなくなった。 恥ずかしがってうつむいている場合じゃないのに、動き出すきっかけがつかめない。どうしよう……? 「あ、ユウキさんだ」 困っているわたしに、遠くから突然の声。 はっと顔を上げて声のした方を見ると、そこには女の子の二人組。専門学校のお友達だった。わたしは金縛りが解けたように、そちらへと駆け寄っていった。 「やっほー。何してるの、こんなところで」 「うん、まぁ、ちょっと……」 と、偶然の出会いに驚きつつ、掌を合わせたり手を握り合ったり。 「ところで――」 今度は一転、顔を寄せてのひそひそ声。お友達の視線はちらちらと南雲さんに向けられていた。 「あちらは誰さん? もしかして彼氏さん?」 「ち、違いますっ」 そんなことを言われたら嬉しくなってしまうけど、やっぱり恥ずかしくて、顔を赤くしながら反射的に否定してしまう。 わたしも南雲さんを見ると、彼はこちらのことなど気にしたふうもなく、コートのポケットに手を突っ込んだまま空を見上げていた。絵になる姿だった。彼はいったい、冬の空に何を見ているのだろうか。 「かなり格好いいよね」 「でも、ちょっと不思議な感じ?」 その意見にはどちらも同意する……って、見惚れている場合じゃなかった。 「あの人とはただのお友達だから」 「ふうん。あっやしいなぁ……。ま、そういうことにしとこっか。じゃあ、あまりお邪魔しても悪いし、とっとと退散しましょうかね」 明らかにまだ誤解しているままのようだった。 彼女たちは、今しがた青になったスクランブル交差点の歩道を渡って、わたしから離れていく。その際、興味津々の様子で南雲さんを見ながら、その横を抜けていった。 入れ違いに南雲さんがこちらに寄ってくる。 「すみません。今の、学校のお友達なんです」 「そうでしたか」 関心があるのかないのか、わからないような響きの返事だった。 わたしたちは並んで通りを歩き出す。 「やはり彼女たちも同人活動を?」 「いえ、あの子達はカタギの――」 「堅気?」 南雲さんが問い返してきた。 同人誌なんかに手を出していない人たちをカタギと呼んで、裏返して自分たちを自虐的に表現するのは、南雲さんにはあまり馴染みがなかったようだ。 「えっと、基本的に学校のお友達には、わたしが同人をやってることやネットアイドルなんて呼ばれてることは言ってないんです」 サイトを偶然に見つけられることもあるけど、わざわざ自分から言い出すようなことはしていない。 「でも、彼女たち“優希”さんと呼んでたように聞こえましたが?」 「ああ。あれ、発音が少し違ってたでしょう? 本名なんです。結城優っていう」 例の一件以来、わたしたちはお互いいろんなことをおしえ合ったりしている。南雲さんがどの辺りに住んでいるとか、本当なら去年大学を卒業だったけど留学していたからまだ4年生だとか。だけど奇妙なことに、なぜかまだ本名だけはお互いに名乗っていない。ハンドルネームさえあれば不都合はなかったからだろう。 「なるほど」 南雲さんの短い納得。 でも、そこにその事実を面白がるような響きが含まれているように聞こえた。 「どうかしたんですか?」 だからわたしは訊き返す。 すると――、 「イズミ・ユウ」 「え?」 「俺の本名です。和泉悠。優希さんが明かしたので。その方がフェアかと思いました」 「……」 ユウキ・ユウ。 イズミ・ユウ。 えっと、それってつまり……。 「え、南雲さんもユウなんですか!?」 「そういうことですね」 「びっくりです! わたしたち同じ名前だったんですね!?」 わたしは思わず南雲さんの前に回り込み、掌を打ち合わせて、跳び上がらんばかりにこの感激を表現した。 ただ単に名前の音が同じだったというだけで、そこまでオーバーに喜ぶこともないかもしれないけど、わたしはこの小さな偶然がどうしようもなく嬉しかった。 「じゃあ、もしわたしたちが、けっ……」 言いかけて、危ういところで言葉を飲み込んだ。咳き込みそうになる。 「どうかしましたか?」 「い、いえ、何でもありません……。あ、お店、もうすぐですから」 赤くなってしまった顔を彼に見られまいと、慌てて背を向けた。 わたしが言いかけたのは、とても幼稚なことだ。 『もしわたしたちが結婚したら、同じ名前になりますね――』 勢いでもそんなことを口走ってしまっていたら、わたしはこの場から逃げ出すか、頭から湯気を出して倒れるかしていたことだろう。 それからすぐにわたしのお気に入りのお店に入り、おしゃべりをしているうちに時間はあっという間に過ぎた。 今は再びあのスクランブル交差点を渡って、駅に戻ってきたところだ。南雲さんはここから電車に乗って行ってしまう。彼がここの書店に立ち寄ったのは、たまたま乗り換えの関係で降りたこの駅に大きな書店があったので、時間つぶしをするつもりだったらしい。 「南雲さん、今度くるときは絶対わたしにも連絡くださいね」 腰に当てた手と膨らませた頬で、わかりやすい「怒ってますよ」のポーズ。 「覚えていたら」 「もぅ。なんだか頼りないです」 この人の心の中でわたしの占める場所は、本当に猫の額ほどなのだろう。 「ちゃんとわたしとの約束、覚えてますよね」 「避けられない予定が入らない限り、次のイベントも必ずきますよ」 とぼけたり焦らしたりしない、ストレートな返事。まぁ、覚えてくれているならいいですけど。 「じゃあ、俺はそろそろこれで」 「ぁ……」 南雲さんのいつもの挨拶に、わたしは思わず小さな声を上げた。 「何か?」 「い、いえ、その……」 わたしは必死に頭を巡らせたが、南雲さんを引き止める言葉も理由も見つけられなかった。もうお別れだ。 「な、何でもないです……」 「そうですか。じゃあ、また春に……」 「あ、はい。春に……待ってます」 そして、南雲さんは踵を返して、すでに手にしていた切符で自動改札を抜けていった。程なく、その姿は人込みの中に消えた。一度も振り返らなかったのが南雲さんらしい。 「……」 今日の別れは、なんだか泣きたいくらい胸が苦しかった。きっとものすごい偶然だった出会いの反動だろう――そう思った。 2009年1月30日公開 |
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