第8話 03-冬(2)「あなたのことが好きです」
 
scene1:優希

「はぁ……」
 机に両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた姿勢で、わたしはため息を吐いた。
 目の前にはパソコンの液晶モニタ。
 映し出されているのは南雲さんからもらったメール。
 そして、わたしの頭の中は南雲さんのことでいっぱいだった。目を閉じればすぐの彼の顔を思い浮かべることができる。果たして今まで何度あの人と会っただろう。決して多くはないはずだ。
「いち、にぃ、さん……」
 指折り数えてみる。
 5回。
 会うときはいつもドリフラで、1日目と2日目両方で会っているから、単純に倍しても10回。
「で、イレギュラの、この前」
 先日、ばったり南雲さんと会った。彼は新幹線で何時間もかかるようなところに住んでいるのに、だ。
 まさに運命、とわたしは思った。
 まぁ、南雲さんはぜんぜんいつも通りだったけど。
 イベントがらみ以外で会う彼はどことなく新鮮で、ふたりきりのお茶はちょっとしたデート気分だった。
 でも、そのおかげでこの有様。
「南雲さんに会いたいなぁ……」
 一日中ずっと彼のことを考えている。
 次に会うのは春ドリのはずだった。逢瀬が半年に一回というのはあまりにもさびしいけれど、それでも一度は自分を納得させていた。それなのに予定外に出会ってしまったせいで、わたしの中の何かが抑えきれなくなっていた。
「春ドリは――」
 また指を折って数える。
「あと5ヶ月かぁ。先は長い……」
 はぁ、ともう一度ため息。
 それからマウスのホイールを転がし、今晩届いたばかりのメールを見直してみる。当たり障りのない、どことなく無機質な感じのする南雲さんらしい内容だ。
 だけど、今回ひとつだけいつもと違う点があった。それは南雲さんの家の住所が書かれていること。
 先日のぷちデートでまた少し距離を縮めたと確信したわたしは、正月に年賀状を送りますからと言って、彼の住所をおしえてもらった。もちろん、とうの昔にこちらの住所はおしえてある。
「……」
 しばしそれを見つめる。
 それからおもむろに、ネットの路線情報のサイトで、どうやって行けばいいか調べはじめた。マウスを動かし、キィボードを叩く。
「まずは新幹線で……降りたら、JR? それから――」
 思ったほどややこしくはなかった。誰でも知っている有名な新幹線の駅を降りたら、後の乗り換えは一回だけ。わたしでも行けるような気がする。
「……よしっ」
 そこに道があるのだと思うと、もう止められなかった。
 
 
scene2:彩
 
 翌朝、わたしは東京駅にいた。
「えっと……新幹線の切符ってどこで買うんだろ? suicaじゃダメ?」
 そして、立ち尽くしていた。
 これだから半分引き篭もりの専門学校生は困る。ネットアイドルと呼ばれたり、同人活動をしていても、行動範囲が狭くて、遠出といえばたいていイベント会場。おかげでたまに行動力を見せても、すぐに行き詰ってしまう。
 困ったときの彩ちゃん頼み。わたしは携帯電話を取り出し、彩ちゃんを呼び出した。
「あ、彩ちゃん? あのね――」
『「あ、彩ちゃん?」じゃなーいっ』
 いきなりの大音量。
『いったいどこで何やってるのよ、学校休んで』
「あはは、ちょっと、ね……」
 そういえば学校があるのを忘れていた。どれだけ周りが見えていないのだ、わたしは。それにしても彩ちゃんこそどこで叫んだのだろう。授業がはじまっているはずなのに。
『「ちょっと」じゃなく、ちゃんと説明しなさい』
「……東京駅」
『東京駅!? 何やってるのよ、そんなところで!』
「えっと、思い立って旅行に行こうかなって。それで新幹線の切符はどこで買えるのか――」
『行けるわけないでしょ、優希ちゃんに』
「い、行けますっ」
 失敬な。
『現に切符が買えてないじゃない。どうせそこまで行くのにも迷ったんじゃないの?』
「……」
 た、確かに電車で反対方向に乗ったけど。環状線でわざわざ遠回りしたりしたけど。
「……それでも行く」
『学校は?』
「……休む」
『卒研は?』
「……帰ったらする」
『よ、余裕ねぇ、優希ちゃん……』
 あ、こめかみに血管が浮いてる――ような気がする。
「卒研、研究のテーマまで決めて、最初からずっとつきっきりで見てあげてるの、誰かわかってる?」
「それはわかってるし、感謝もしてるけど……わたし、今行きたいの」
『もう勝手にしなさいッ』
 直後、通話は一方的に切られた。無理もないか。
 こうなったら駅員さんに聞くしか――と思っていたら、タータイが着信を告げた。サブディスプレィを見てみると、それは彩ちゃんからだった。
「……はい」
『……』
「……」
『……みどりの窓口』
「え?」
『みどりの窓口っていうところに行って、行き先を言えばいいから』
「あ、そうなの?」
 意外と簡単だった。
『新幹線に乗ったらできるだけ席は離れないこと。どうしてもお手洗いとかに立つんだったら、貴重品と切符だけは一緒に持っていく。いい?』
「う、うん。わかった」
『どうせ止めても行くんでしょ?』
 彩ちゃんの声は呆れていた。
「うん……」
『南雲さんのところ?』
 瞬間、ぼふん、とわたしの頭から湯気が出た。顔が熱い。
「い、いや、それは、その……」
『ここのところずっと南雲さん南雲さんだったし、そうかと思えば2、3日前から上の空だし』
「……」
 わたし、そんなだったのか。なんとわかりやすい……。自分ではわからないものだ。
『まさか優希ちゃんでもどこに行けば会えるかわからないまま飛び出すほど無謀じゃないだろうし。住所は知ってるの?』
「……うん」
『いつの間にそんな仲になってたんだか』
「……」
 それはもう、深く静かに。
「彩ちゃん」
『なに?』
「卒研、帰ったらちゃんとやるから」
『はいはい。また見てあげますよ。……気をつけて行ってらっしゃいな』
「うん。ありがとう。いってきます」
 わたしは通話を切り、胸の前で携帯電話を握り締めた。
 
 
scene3:南雲
 
「どうしよう……? ほんとにきちゃった……」
 昼過ぎ、時刻にして午後1時を少し過ぎた頃、わたしは南雲さんの家の前に立っていた。
 そこはいわゆる新興住宅地と呼ばれる街並みだった。どの家にも塀がないのが今風だ。街をデザインすると同時に入居者も募ったのだろうけど、閑静というには静かすぎる雰囲気を見るに、あまり住人はいないのかもしれない。
 敷地には屋根がついただけのオープンな車庫があり、そこにメタルシルバーの車が一台、停められていた。正面には郵便受けがあって、そこに書かれた『和泉』という文字が、ここが南雲さんこと和泉悠さんの家であることを示していた。
「どうしよう……」
 わたしは再度つぶやく。
 勢いでここまできたはいいけど、どうすればいいかわからなかった。ピンポンと鳴らせばいいのだろうか。南雲さんは大学生だから今はいないような気がするし、普通に考えたらいるはずのない時間に訪ねていったりしたら、それだけで怪しまれそうだ。じゃあ、待つ? これで南雲さんが家の中にいたらバカみたいだ。
 早く決めないと単なる不審者になってしまう。すでに十分ストーカーなのに。
 と、そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「っ!?」
 隠れないと、と思ったけど、辺りに身を隠せそうな場所はなかった。下手に隠れるよりは知らぬ顔で通行人を装った方がいいのかもしれない。
 が、結果的にわたしは何もできなかった。
 家から出てきたのが南雲さんその人だったからだ。
 ラフでカジュアルなファッションに、目にはサングラス。今から学校に行くのか、左肩にデイバッグを引っかけていた。
「ぁ……」
 その姿を見て、わたしは固まってしまう。
 南雲さんとはついこの間の日曜日に会ったばかりで一週間と経っていないはずなのに、泣きたくなるような懐かしさを覚えた。もう少しでいつかみたいに彼の胸の中に飛び込んでいきそうになったけど、それは辛うじて自制することができた。
「優希さん?」
 南雲さんはわたしの姿を見て、かすかに驚いたようだった。わたしは彼の声で、はっと我に返った。
「あ、はい……」
 急に彼の顔を見ているのが恥ずかしくなって、うつむいたまま小さく答えた。
「こんなところで会うとは思いませんでした」
「あ、あの、その……会いにきました。南雲さんと話がしたくて……」
 南雲さんの台詞もたいがいとぼけているけど、わたしも人のことは言えない。ただ話がしたいだけで遥々何時間もかけて、それもいきなりやってくる人間があるだろうか。
「そうですか。でも、俺、今から大学で」
 さすがに普段クールな南雲さんも困っているようだった。
「そ、そうですよね。すみません、出直してきます……」
「いや、こういう場合、追い返すような真似はするべきではないんだろうな。ゼミの方はサボることにします」
「え? 大丈夫、なんですか?」
「どうとでもなります」
 そう言うと南雲さんは踵を返し、家の中に引き返していった。1、2分ほどで出てきたけど、何も変わったふうではなかった。バッグも持ったままだ。
「車を出します。乗ってください」
「え? あ、はい」
 わたしたちはそれぞれ荷物を後部座席に置き、運転席と助手席に乗り込んだ。南雲さんとドライブという、いきなりの展開に胸がどきどきしてくる。
 車はスマートなデザインの国産車。大きなファミリィカーではないけれど、4人家族なら十分に乗ることのできる大きさだった。
 車がゆっくりと発進する。
「そう言えば南雲さん、目は大丈夫なんですか?」
 初めて会った頃、目が弱いと言っていたのを思い出した。屋外に出るときは必ずサングラスをかけているようだし。
「人より少し視力が出なくて、強い光に弱いですが、運転に必要な視力はクリアしています。免許も取れたし、この前の更新も問題はありませんでした」
「そうですか」
 ほっとした。運転云々よりも、目に大きな問題がないことに。前からいったいどの程度か気になっていたのだけど、日常生活に大きな支障もなく、こうして自動車の運転もできるようで安心した。
「それで、どちらに?」
「さて、どうしましょうか? でも、先に大学へ行きます」
 わたしは大学生・南雲さんの情報を頭の中で整理する。確か今は4年生。本当だったら去年卒業だったけど、一年休学して外国に留学していたという。在学5年目の4年生らしい。
「学校、休んでも平気なんですか?」
 車は住宅街から道路へと出て、加速をはじめる。わたしは彼の危なげのない運転に身をゆだねながら尋ねた。
「休学前に必要な単位はほとんど取っていましたから。後はゼミの2年目と、趣味で受けている講義だけです。そのゼミも今日は休みますが、一度先生のところに顔を出して、提出するものを提出してこようと思います」
「ゼミ?」
 先ほどから何度か出てきている単語。高校を出て専門学校に進んだわたしには馴染みのない言葉だ。
「テーマごとの研究室だと思ってください」
「南雲さんはどんなことを?」
「人格心理学です」
「じ、人……?」
 なんかすごい単語が出てきたような気がする。
「む、難しそうですね」
「そうですね。難しいです」
 そのとき、彼は少し笑ったような気がした。
 それも自嘲的な響きで。
「そもそも留学したのも、俺にとってはその一環だったんです。外国人とコミュニケーションをとることで考えを広げることができるかと思って」
「熱心なんですね」
「そう見えますか? でも、俺はたぶんずっとこの分野を学び続けると思います。来年は院に進んで、その後もできれば大学に残るつもりです」
「じゃあ、将来は大学の先生?」
「かもしれません」
 思いがけず聞いた彼の将来設計だった。
「すごい。ちゃんと考えてるんですね」
「さて、」
 わたしの感嘆の言葉を、彼は遮るようにして自分の発音を重ねた。
「俺みたいな人間にそんな資格があるのかどうか」
「……」
 まただ。
 また南雲さんは自嘲するように笑った。
 彼のこの皮肉っぽい笑みは、いったい何を意味しているのだろう。
「着きました」
 気がつけば車は駐車場に入っていくところだった。ゲートの前で停止すると、南雲さんはウィンドウから手を出して発券機の吐き出す駐車券を抜き取った。
「大学の駐車場とは言え有料。ただし30分以内なら料金は発生せず。さっさと用をすませて出るとしよう」
 彼は独り言のように言う。
 ゲートが上がるのを待って車が再び発進した。ここが南雲さんの通う大学らしい。窓から外を見てみれば、広い駐車場の敷地の向こうに校舎らしき建物が見えていた。どれも3、4階建てで、洒落た外観をしている。中にひとつだけ、10階を軽く越えるだろうオフィスビルのような建物もあった。
 もう午後で帰ってしまった学生も多いのか、それとも車でくる学生が少ないのか、駐車場は半分も埋まっていなかった。南雲さんは適当なスペースを見つけ、駐車の体勢に入った。
 と、いきなり彼の手がわたしの方に伸びてきた。
「ッ!?」
 一瞬どきっとする。だけど、なんてことはない、ただ単に助手席のシートの後ろに手を回しただけだった。
 南雲さんは片手でステアリングを握り、片手をわたしの後ろに回し、後方とミラーを交互に確認しながら、車をバックで駐車スペースへと進めていく。
 横を見ればすぐ近くに彼の顔があった。
 シャープに整った相貌に、女の子も羨みそうな艶やかな髪。深い色の瞳はサングラスのレンズを通すことでさらに神秘的で――でも、その目は近くにあるものを映さず、どこか遠くを見ているようだった。南雲さんをもっと知れば、彼が見ているものがわたしにも見えるのだろうか。
 彼の顔が近くにあることを意識して、胸の鼓動は限界まで速くなっていた。
 あぁ、わたしはやっぱり……――
「ここで待っていてください。すぐに戻ってきます」
「え?」
 車を停め、エンジンを切って南雲さんが車外へ出る。
 わたしは彼がまるでどこかに行ってしまうような錯覚を覚え、慌てて自分も車を降りた。
「あ、あのっ」
「何か?」
 南雲さんは後部座席から自分のバッグを取り出してから、顔を上げて返事を返した。わたしたちは車を挟んで向かい合う。
「わ、わたし……」
 言いよどんでしまって次の言葉が出ない。それでも彼は黙って待っていた。
「あなたのことが好きですっ」
 やがて、わたしは意を決して、その言葉を口にした。
 先の日曜日に、予定外に会ったのをきっかけに自覚した。そして、今日、会いにきてみて再確認した。わたしは彼のことが好きなんだと。
「それで……できたら、おつき合いができれば、と……」
 顔を赤くしながら言うが、言葉は尻すぼみに消えていく。それでも気持ちを伝えることはできたはずだ。おそるおそる顔を上げてみれば、南雲さんは顎に手を当て、何をか考えているふうだった。
 わたしは静かに彼の言葉を待った。
 しばらくして、
「いいですよ、俺は。優希さんがそう望むなら」
「え……?」
 あ、れ……?
「でも、実際にはどうします? お互い住んでいるところが離れていますからね。かと言って、今までとたいして変わらないというのもおかしな話だ」
 確かにそうだけど、それにしてもこのあっさりさは何なのだろう。
「俺がそちらに行くようにすればいいのかな」
 拍子抜けするほどあっさりと、わたしの告白は受け入れられた。まるで冗談みたいに。だけど、南雲さんは真面目に考えている様子だった。
「そ、それは、その……」
 わたしは再び言葉を詰まらせる。
「……」
「……」
 そのまま継ぐ言葉を見失い、南雲さんはそれを待って――互いに無言。
「俺、先に用をすませてきますので。10分ほどで戻ります」
「……はい」
 そして、わたしはこの場に取り残された。
 胸の中に確かな違和感。何かが違う。これはいったい何なのだろう? ……彼の、『歪み』?
「こんなはずじゃなかったのに……」
 
 
 2009年5月7日公開

 

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コメントへのお返事は、後日、日記にて。
 

 

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