Happy Boy & Girl (中編−1)
巴の朝は早い。
登校時間から逆算すれば、そこまで早く起きる必要はないのだが、それでもそうする理由はひとつ。父と同じ食卓につき、一緒に朝食をとるためだ。
その後は、先に家を出る父を見送る。勿論いってらっしゃいのキスは忘れない。
最近は父も年頃の娘にキスされることを恥ずかしがるようになって、巴は不満だったが、同時にそんな父がかわいいとも思っていた。
それをリトマス試験紙にするわけではないが、父でも意識するのだから、薫にだって多少そういう反応があってもいいのではないだろうかと思う。
父を見送った後は、しばらくリビングでゆっくりして、頃合いを見計らって家を出る。
「よっ。おはよう、巴」
「ん。おはよう」
そして、いつもの角で薫と合流。
待ち合わせ時間は明確には決まっていない。いつの間にか自然に決まったのだ。
自転車の二人乗りで、速くもなく遅くもないスピードで学校へ向かう。
巴は、薫に寄り添っていられるこの時間が好きだった。
何かくだらない話をするときもあれば、ずっと何も話さないときもある。どっちであろうと巴にとってのこのひとときの価値は変わらない。
「薫」
今日は巴から口火を切った。
「私とつき合わないか?」
「…………」
「…………」
「…………」
しかし、薫の返事はない。
ただ、ほんの少しだけ自転車のスピードが落ちた気がした。
もしかして言葉が風に消されてしまったのだろうかと考え出した頃、ようやく薫が口を開いた。ちゃんと聞こえていたようだ。
「前にも言ったけど、その話さ――」
「わかってる。でも、諦め切れないことだってある。私にとってこれはそういう種類の話だ」
「……そうか」
薫はそう簡潔に言って、黙った。
今日は前のような拒絶の言葉はなく、そして、それ以外の言葉もなかった。
仕方ないので、巴は話を一方的に続行することにした。
「自惚れるわけではないが、私は見た目はそれなりにいいと思ってる。一緒に歩いている薫に恥ずかしい思いはさせないはずだ」
「そりゃあ、まぁ……」
薫が歯切れ悪く応える。
「そんなことはわかってるけどな」
「それから、私は着痩せするタイプだから見ただけではわかりにくいが、胸もある方だ」
「それも知ってる。中3のときだったか、ノックもなしにお前の部屋に入って、見ちまったからな」
「……そうだったな」
巴の顔が少し熱を持つ。
あの頃は今ほど薫を意識していなかったから気にならなかったが、今思い返せばかなりのものだ。
巴はしばし考え――、
「あのときの責任を取って、私と――」
「とらねー」
「……そうか」
その手はダメだったようだ。
「まったく。私のように美人でスタイルもいいカノジョが持てるというのに、いったい何の不満があるというのか、薫は」
巴は聞こえよがしのため息を吐く。
「だから、要するにそこは問題じゃないってことだろ」
「…………」
「女の子といざつき合うってとき、実際には顔なんて二の次三の次だし、スタイルなんてもっと論外だろうが」
「そうだろうか」
「そうなんだよ。いくら男だってそこまで本能で動いてねーよ」
「……そうか。残念だ。いちおう色仕掛けという手も考えていたのだが、これで手段がひとつ減ったな」
「素直に諦めろよ」
「断る」
巴はきっぱりと言い切った。
この部分だけは譲れないのだ。
そんなやり取りをしている二人の前に、そろそろ学校が見えはじめていた。
「おっはよー、巴」
巴が教室の入るなりクラスメイトのひとりが早速寄ってきた。いつも巴の周りにいる少女たちのひとりだ。
「……おはよ」
「どうしたの、巴。渋い顔してるよ?」
表情の変化に乏しい巴の顔からそういうものを読み取ることができるのは、いつもそばにいるからか。
「今日、改めてつき合ってくれと言ったら、やっぱり断られた」
「あ、そうなんだ……」
そう返したのは別の少女。
巴のそばに寄ってくるクラスメイトはひとり増えふたり増えして、結局、席につくまでに4人になった。
「薫は、美人だとかスタイルがいいだとか、そういうものは関係ないって」
「うわぁ。じゃあ、巴の武器がふたつも使えなくなったんだ」
「あ、でも、あたし、それわかる気がするなぁ。だって、薫クン、誰とでも仲がいいけど、女の子とちゃらちゃら遊んでる感じないもんね。きっともっと別の基準を持ってるんじゃないかなぁ」
「…………」
それは巴も感じていることだった。
薫が誰々とつき合っているという噂は定期的に耳に入ってくるが、それが真実だった試しはない。
だから、薫に選ばれるのはその辺にいるありきたりの女の子ではなくて、もっと特別な人間なのだと巴は思っていた。
そして、それこそが自分なのだとも。
巴と薫の幼馴染みで、誰よりも近しい存在だ。巴以上に薫と仲がよく、特別性を持った女の子はいない。
だからこそ選ばれるのは自分。
いや、むしろ言葉にしていないだけですでに選ばれているのだと、半ば本気で思っていたかもしれない。
だが、その幻想は、つい先日、脆くも打ち砕かれたのだが。
「別にいいよ。他の手を考えるだけだから」
「わぁ。巴、本気モード!」
俄然、盛り上がる少女たち。
だが、そんな周囲とはベクトルの反対にして、巴は冷めた思考でもって次を考えていた。
別の日の昼休み――、
巴は昼食をすませた後、携帯電話で薫に電話をかけてみた。
目では窓から外を見ながら、耳で呼び出し音を聞く。
窓際に移動したのは、巴の席ではクラスメイトが数人、弁当を持ち寄って昼食をとっていたからだ。“クィーン”である巴の周りにはすぐに人が集まってきて、巴もわざわざそれを追い散らしたりはしないので、いつも取り巻きをつれているようなかたちになる。
肝心の電話の方は、一向につながる様子はなかった。
「となると、あそこか」
このパターンでの薫の居場所はだいたい見当がつく。
巴はその足で教室のドアへと向かった。席にいる少女たちにひと言もない辺り、巴は彼女たちを自分とは無関係な集団と見ているのかもしれない。クールな巴らしいと言えば巴らしい。
「あれ? 巴、どこか行くの?」
しかし、目ざとい少女のひとりがそれを見逃さなかった。
「もしかして我らがプリンス様のところ?」
「そ。あれを墜とすには、常に攻めの姿勢でいないとね」
巴は冗談めかせて言う。
そう。冗談だ。
本当は薫を振り向かせようと本気なのに、巴はそんな自分を知られたくなくて、これが冗談であるかのように話す。
薫を墜とす。
まるでゲーム。
でも、そのおかげで周りは、これがクィーンの戯れだと思っている。目論見通りだ。本心は冗談という隠れ蓑を纏う。
「あ、はいはいはーい。あたしも一緒に行きたいでーす」
「わたしもわたしもっ」
「……ダメ」
巴はひと言できっぱり拒否すると、そのまま教室を出た。
巴が向かった先は体育館だった。
昼休み、ここは生徒の遊び場として開放されている。巴は、電話に出なかった薫は携帯電話を突っ込んだ制服のブレザーを放り出して、ここで遊んでいると踏んだのだ。
体育館の中を見回すと、そこかしこでバスケットボールを追いかけて生徒たちが遊んでいた。
その中の数人がすぐに巴に気づく。
「お。巴御前だ。こんなところに何の用? もしかして俺に会いにきたとか?」
「違うわ。馬鹿者」
「ご、ご、御前様。罵って下さいっ」
「やかましい。黙れ、猪豚。そんなものは他の奴に頼め」
声をかけてくる男子生徒を、顔も合わせずに次々と斬って捨てる。やがて巴は予想通り、ゴールのひとつで遊んでいる薫の姿を見つけた。すぐさま大股でそちらへと歩み寄る。
どうやら薫がやっているのは3on3のようだ。眼鏡をかけたままで危なくないだろうかと心配するが、同時に巴は薫がそんな下手をしないことをよくわかっていた。
思わず、巴の足が止まった。
それはボールが薫の渡った瞬間だった。
薫はボールを受け取り、目の前のディフェンダとしばし睨み合う。それからフェイク。その動きにつられた相手の隙を突き、瞬時に抜き去る。
そして、数歩の助走で跳躍。ボールを掴んだ右腕がリングを目指して伸びる。
そこにふたり目のディフェンダが詰めてきていた。が、しかし、薫のスピードについてこれていないし、ジャンプの高さでも足りていない。
薫はディフェンダに構わずゴールを狙う。
もとから高い上背と破格の跳躍力が重力の枷を振り切り、ボールを一気にリング付近にまで運び上げた。
(いける……!)
鮮やかなダンクシュートを確信して、巴が心の中で叫ぶ。
が。
「ちっ……やっぱ無理か」
わずかなところで届かなかったようだ。薫はジャンプの最頂点で手首をスナップさせ、軽い感じでボールをリングにくぐらせた。
薫の着地と同時にそれを見ていたギャラリィの、特に女子生徒から歓声が上がる。学園のプリンスはただ遊んでいても注目されるようだ。
「…………」
ふと、巴は薫が遠くに感じられた。
それは自分が自分で思っていたほど薫にとって特別な存在ではないと知ったからだろうか。このギャラリィの少女たちに埋もれてしまっているような錯覚を覚える。
「薫」
だから、巴はそのよく通る、明晰な声で幼馴染みを呼んだ。まるで自分はここにいると主張するように。
「よー、巴」
薫が片手を上げて応える。
それに伴って、ギャラリィの目も巴に集まった。
「悪い。俺、ちょっと抜けるよ」
交代待ちであろうクラスメイトに声をかけると、薫は巴の方に駆け寄ってきた。途中、床においてあった制服のブレザーを拾う。
巴は、仲間の輪から抜けてこちらに寄ってくる薫を見て、少しだけ顔が緩みかける。
「どうした? 俺に用か?」
「まぁな。たいした用ではないのだが、私とつき合わないか?」
瞬間、薫が膝から崩れて転びそうになった。
「お前……いきなりそれか……」
「不意をつけば、薫も思わずOKするかと思ったんだ。いや、ダメならいいんだ」
巴はこともなげにしれっと言った。
それからふたりは壁際へ移動した。人の少ない場所を選んで、そこに並んでもたれる。
クィーンとプリンスが揃って何を話しているのか気になるのか、遠巻きに様子を窺っている生徒が何人もいるが、ここに混ざろうという猛者はさすがにいないようだ。
「薫。少し腕が落ちたんじゃないか」
「仕方ないさ。バスケはずいぶん前にやめて、それっきりだしな」
「真面目に続けてれば、今頃はダンクだって撃てるようになっていたと思う」
先ほどのあと少しのところで届かなかったダンクシュートのことだ。
「かもな」
薫は苦笑で応える。
「パパが言ってたぞ。薫は続けていたら、どんどん上手くなるはずだって。私もそう思う。まぁ、尤も、どんなに練習したってパパには敵うはずはないが」
「あー。はいはい」
薫の苦笑は続く。
しかし、巴にはその含み笑いのような苦笑がお気に召さなかったようだ。
「パパが上手いのは薫だって知っているだろう」
「まぁ、な」
「パパは今の薫よりももっと早く、中学のときからダンクシュートができたんだぞ」
「それ、小父さんが自分で言ったのか」
「言ってないが、パパならきっとそうに違いない」
「…………」
薫は沈黙した。
ファザコンもここまでくると相当なものである。
「よっ、おふたりさん。学園のプリンスとクィーンが揃って何の密談?」
そこにひとりの男子生徒が寄ってきた。
「九鬼か」
「九鬼」
この九鬼と呼ばれた男子生徒は、巴と薫の共通の知り合いだ。去年は巴と同じクラスで、今年は薫と同じクラス。線の細い繊細な顔の作りの薫とは対照的に、ややワイルドなスポーツマンタイプだ。その物怖じしない性格と誰が相手でも引け目を感じない性質が、こうしてふたりの間に割って入ることを可能にしている。
「別に密談ってわけでもないよ」
「そうだ。私がただ薫につき合えと迫っていただけだ」
「はい?」
九鬼の動きが止まった。上半身だけ見ればシェーのポーズに見えないこともないような構造で硬直する。
巴の隣では薫が、やはりそれによく似たポーズを取っている。
「……マジで?」
「本気だとも」
巴はあっさりきっぱり言い切った。
「なんでわざわざ言うんだ……」
硬直から回復した薫が力なく抗議する。
「隠すようなことでもないだろう」
「言うようなことでもねーよ……」
「それに何よりも本当のことだ」
「す……っ」
と、何かを言おうとして言葉を詰まらせたのは九鬼だ。
「すげぇ! てことは、なに? 究極のカップル誕生!? なんだかよくわからないけど、すげぇ!」
「ところが、だ――」
握り拳を固めてわけのわからない興奮を見せている九鬼に、巴が水を差すように言葉を挟む。
「私が何度となく迫っているのに、薫は良い返事をくれないんだ。いったい何が気に喰わないのだろうな。そんなわけで、九鬼。薫を説得してくれないか」
「よし。巴御前の頼みだ。任せろ!」
「おい!」
それぞれの口からそれぞれの反応が返ってくる。
そして、鳴り響くチャイムの音。
「では、後は頼んだ」
巴は踵を返す。
「応!」
「巴ーっ!」
またも口々に言葉を放つ。
しかし、巴はそれを背で聞くだけ。特に薫の悲鳴はただのノイズだった。
翌日――、
いつものように自転車を二人乗りしながら薫に聞かされたのは愚痴だった。
「ったく。あの後、大変だったんだぞ。九鬼の奴、巴とつき合えって煩いし、俺とお前のことをあちこち言いふらそうとするし。高い口止め料ふんだくられたよ」
薫は自転車をこぎながら不満を零す。
「なんだ。じゃあ、まだ私たちのことは広まってないのか」
「当たり前だ。こんなもの広めてたまるか。……あっ。巴。お前、最初からそのつもりで九鬼の前で話したな」
「世論を味方につければ勝ったも同然だと思ったんだが」
当てが外れたとでも言いたげな口調で巴が首をひねる。
そんな巴に、薫は呆れたようにため息を吐いた。
「情報の拡散は防いだものの、九鬼ひとりでも十分に煩いのが現状だけどな」
「なら私とつき合え。それで彼も黙るというものだ」
「断る」
「そんなふうに即答されると傷つくな」
と、普段と同じ調子で巴。
「薫。そんなに魅力がないか、私は」
「…………」
しかし、薫の返事はない。
「いったい何が不満だというのだろうな」
「…………」
やっぱり黙ったままだった。
//続く
2007年3月28日公開 |