ある日の昼休み、僕は廊下をひとり歩いていた。
学食へ行った帰り道。
手には僕が飲むブリックパックのジュースと、一夜に頼まれた缶コーヒー。
……ちくしょう、一夜め。立ってるものは親でも親友でも使いやがる。
そんな感じでちょっと腹立たしい気分で歩いていると――、
「なーっち」
「わあっ」
いきなり背後から掴みかかられた。
咄嗟に僕はその腕から逃れようとしたが、がっちり掴まれていてそれも叶わなかった。
「何をするんですか、四方堂先輩」
「円」
「……円先輩」
僕は言い直した。
Simple“school”Life
(6) 携帯電話にまつわるエトセトラ
今、背後からがっちりホールドしているのは、先日、雨の日に僕から傘を強奪していった追い剥ぎこと四方堂円先輩だ。
そう、円先輩。
…………。
…………。
…………。
背中にあまり深く考えたくない感触があああぁ。
ちょっと素数でも数えようか。
「で、円先輩。何の用ですか?」
僕は頭で素数を数えながら質問するという、難度の高い技を敢行した。
「ケータイの番号、教えてくれない?」
「ケータイ? ケータイってーと携帯電話のことですか?」
「そ」
や、わかってるんだけど、何となく確認。
「残念。僕、そんな便利アイテム持ってないです」
「あ、そうなんだ。持ってるやつは中学のときから持ってたり、高校に入ったお祝いに買ってもらったりするから、なっちも持ってるかなって思ったんだけど」
それは残念、と言いながら先輩はようやく離れてくれた。
僕は身体の拘束とともに、無駄な精神的負荷からも開放された。
「仮に僕が持っていたとして、番号なんか知ってどうするんですか?」
「知ってたらいつでも連絡が取れて便利でしょうが」
「そうなんですかね……」
いまいち想像がつかない。それは僕が携帯電話を持っていないからか、円先輩が僕に連絡を取るような事態が思いつかないからか。
「携帯電話って便利ですか?」
「そうね。便利っちゃー便利。でも、なかったらなかったで困らない感じ?」
「ふうん」
つまり持っていることは持っていないことよりも、ひとまずは上位にあるわけか。持っている人間は持っていない状態を選択することもできる。
「あ、そうそう。実はいいものがあるのよ」
円先輩はストラップに指を引っ掛け、本体をぶらぶらと振りながら言った。
「この前ね、司のクラスと合同で体育があったのよ」
司というのは、片瀬先輩の下の名前だな。
「せっかくだから司が着替えてるところをカメラで撮ってやった」
「ぶっ」
「見る?」
「ダ、ダメですよ、そんなのっ!」
何を考えてるんだ、この人は。
とりあえずそのケータイは落とすなよ。落として誰かに拾われるくらいなら、いっそ川にでも落としてしまえ。
「だいたい何でそんなことをやってるんですかっ」
「だって、アタシも前にやられたもーん」
“もーん”って、あんた、僕よりもふたつ年上でしょうが。
「先輩も撮られたんですか?」
「そう。しかも、水泳の授業の前」
「そ、それはまた……」
いったいどんな写真なんだろうな。場合によったら円先輩の方が被害は重大だ。
「……興味ある?」
意地の悪そうな笑みを浮かべて、円先輩が訊いてきた。
「いや、それは……」
「見せてもらったら? 司のケータイにまだ残ってるはずだし」
「いいんかい!?」
「いいよ。ただし、司に頼まないといけないけど」
「…………」
それは無理です。そんなこと言った瞬間に僕の評価は急降下だ。
円先輩も無理とわかっていて言ったな。
「ていうか、何でそんな応酬やってるんですか!?」
「何でって、特に理由はないけど? アタシたち、昔からずっとこんなこと繰り返してたし。もう毎日が闘いよ」
あっはっはっ、と笑う円先輩。
「…………」
笑ってんじゃねぇよ。
よくもまぁそれで仕返しなんて言えるな。正当性なんてとうに薄れまくってるんじゃないか。
「じゃあ、遠矢っちって、ケータイ持ってる?」
「一夜?」
今度は一夜の名前が挙がる。
どーでもいいけど、“遠矢っち”って呼び方もすごいな。明らかに元より字数が増えてる。
「確か持ってましたよ。黒い格好いいやつ」
「よし。じゃあ今度、遠矢っちの番号、聞き出すか」
一夜と円先輩か。並んだら迫力あるだろうけど、円先輩と僕以上にこのふたりを結ぶラインは想像できないな。
と、そこで昼休み終了の予鈴が鳴った。
「あ、もうこんな時間!? 次、数学だった。遅れたら減点されるわ。……じゃあね、なっち」
慌しくそう言うと、円先輩はスカートのポケットに携帯電話を突っ込みながら駆け出した。
「はい。じゃあ――」
先輩も気をつけて、と言おうとしたら、カツンと硬質な音が響いた。
床に携帯電話が転がっていた。
ポケットに入れたつもりで、ちゃんと入ってなかったんだな。大雑把な。壊れてもしらんぞ。
僕は足元のそれを拾い上げて――、
「げ」
顔を上げたら、もう円先輩の姿はなかった。携帯電話を落としたことに気づかず、そのまま走っていってしまったようだ。
「さすが体育科、足速いな……」
って、いやいや、そうじゃなくて。
問題は僕の手に件の携帯電話が握られているということだ。
この中に片瀬先輩に着替え中の写真があるらしい……。
僕が教室に戻ったのは、本鈴が鳴る二分前だった。
「一夜、ケータイ拾った。どうしよう?」
席に着き、一夜に頼まれていた缶コーヒーを渡す。一夜はそれを一旦机に放り込んだ。遅れて到着したコーヒーは次の休み時間にでも飲まれるのだろう。
「職員室にでも届けろ」
「いや、実は持ち主はわかってて……これ、円先輩のなんだ」
「壊せ」
一夜は逡巡なく言い切った。
「もしくは水没させる」
「行き着く先は一緒だろっ」
いったい円先輩に何の恨みがあるんだ、お前は。
「後で本人に届けるから、とりあえず今はどうしようって話だ」
「電源切っとけ。授業もあるし、着信があっても面倒や」
なるほどね。先生たちも度々授業中は電源を切っておけって注意してるしな。それでもたまに授業中に鳴らすバカがいるけど。
「で、どうするんだ?」
いや、ケータイなんて触ったことないし。
「とりあえず開けろ」
「おう」
「…………」
「…………」
「どうした?」
「うん。ちょっと……」
まさか、待ち受け画面っていうの? そこに片瀬先輩の例の写真があったりしないだろうな。……さすがにそれはないか。
ひとまず深呼吸して、1、2の……3!
「ていっ」
「なんでそんな気合いいるねん」
「……気にするな」
ちょっとした事情があるんだ。
ようやく開いた携帯電話のディスプレイには、雪山らしき風景写真が表示されていた。
「ヒマラヤとかアルプスとか?」
「適当に有名どころを言うてるやろ。これは槍ヶ岳やな」
「へえ。そうなんだ」
円先輩も渋いな。
「一夜。“ヒマラヤ”と十回言ってみろ」
「世界で一番高いのは“エベレスト”な」
「…………」
……まあ、いいんだけど。
「次はどうするの?」
「その前に中のデータでも見てみたらどうや? 何かおもろいもん入ってるかもしれん」
「バッ、バカ、お前、いつからそんなやつになった!? そんなことできるかっ」
「…………」
「…………」
そして、沈黙。
丁度そこで本鈴が鳴った。沈黙はチャイムが鳴り終わるまで続いた。
残響の中で一夜が先に口を開く。
「……冗談や。悪かった」
「……いや、こっちこそ」
普通に考えれば冗談だってわかったんだけど、さっきからちょっと普通じゃない状態なもので。
「とりあえずそこのボタン長押し。そう、そこ」
「おお。消えた」
これでオッケーだな。ひとまず危険物に蓋はした。後はこれを放課後にでも円先輩に返しにいくだけだ。
そんなわけで放課後――、
今日は水曜日。特進クラスも6時間で授業は終わり。他のクラスと同じタイミングで下校する。おかげで昇降口はずいぶんと混雑している。
ここで一旦靴を履き替え、体育館に行ってみようと思う。たぶん円先輩は今日も部活だろうし。
昇降口を出る。
と――、
「あ、片瀬先輩」
「あら、千秋くん」
片瀬先輩とばったり会った。
今は回りに人が多いので“千秋くん”だ。
「そっか。水曜日だものね」
ここで僕と会った理由に思い至ったらしい。
「先輩は今日は美術室には寄らないんですか?」
「ええ。真っ直ぐ帰るつもりよ」
「そうですか」
そこで会話が止まった。
別に話がないわけではないのだけど、お互いに相手の出方を探っている感じだ。僕としては一緒に帰れたりしたら幸せだな、とか何とか。
「あ、そうだ」
それを切り出すまでの話題つなぎに、ひとつ思い出した。
「これなんですけどね」
と、円先輩の携帯電話を取り出す。
これは直接返すのがベストなんだろうけど、片瀬先輩にお願いするのもいいかもしれない。うかつな人に頼むと大変なことになるかもしれないけど、親友である先輩なら大丈夫だろう。
「あら。それ、千秋くんの? でも、どこかで見たことがあるわ」
「円先輩のです」
「…………」
黙り込む片瀬先輩。確かに口が「あのバカ……」と動いたのが見えた。ちょっと怖い。見なかったことにしておこう。
「ひ、拾ったので先輩から返してもらっていいですか……?」
「ええ。わかったわ」
先輩は僕から携帯電話を受け取る。
「ち、千秋くん、中は……見た?」
恐る恐る訊いてきた。例の写真のことを心配しているのだろう。円先輩、本当に写真撮ったんだな。
「いえ、授業の前に電源を切ってそれきりです」
「そ、そうよね。千秋くんは人のものを勝手に見るような子じゃないわよね」
そう言って誤魔化すように笑った。
「…………」
「…………」
再び居心地の悪い沈黙が訪れた。
ここで意を決して僕は切り出す。
「先輩、よかったら一緒に帰りませんか?」
「え、ええ。わたしもそうしたいのはやまやまなのだけど、先に円にこれを渡さないといけないし」
そう言って先輩は携帯電話に視線を落とした。
「ついでにひと言言っておかないと」
「え?」
「ううん。何でもない。だから、また今度ね」
「わかりました」
それだったら仕方ない。円先輩にはガッツンと言ってやってください。もうこんなものを落とさないように。
「じゃあね、千秋くん」
「はい、じゃあ……」
しかし、片瀬先輩は僕の返事を聞くか聞かないかのうちに、勢いよく踵を返し大股でずんずんと体育館の方へ歩き出していた。
血の雨が降ったりしなければいいけど……
さて、じゃあ、僕も帰るか。
と、足を踏み出したところで、何かが足に当たった。
携帯電話だ。
もしかして片瀬先輩の、か? 円先輩の着替え中の写真が入っているという?
(ひいいいぃ〜〜)
頼むからもう僕にこんな危険物を持たせないでくれ。僕にだって煩悩はあるんだぞ。
僕はそれを拾い上げると、慌てて片瀬先輩の後を追った。
2007年1月12日公開 |