ミスキャストでも show must go on. /中編:識別不能の劣等生 当然のことながら、魔術の発達したこの世界でも科学は進歩を続けている。 それはまるで、多くの国が国策として取り組む魔術に対抗するかのように、がむしゃらに発展を遂げた。 中でも架空科学と呼ばれる分野があった。 数人の突出した才能を持つ研究者たちが携わる分野である。 例えば、第五元素(エーテル)の科学的利用。 例えば、物体の量子化による格納と展開。 例えば、光学兵器。 そういったものが研究されている。 しかし、それらはあまりにも軍事と密接しすぎていた上、超科学的に過ぎていた。 故に、未だ実用化に至っていない。 ――至っていないとされている。 絵空事であり、未だ完成したとされていない技術。 だからこその、架空。 結局、科学は"魔術という敵がいなければこの程度だっただろう"というくらいにしか発達していなかった。――表面上は。 さて、東京は文京区にある書籍館学院高等部。 ここは文明の恩恵を受けつつも科学の研究とは無縁で、むしろその対極にある魔術の教育・研究機関だった。 そこのまさに魔術学科に在籍する久瀬伊織(くぜ∴いおり)の不幸のはじまりは、入試の際に受けた魔術の素養を判定するテストで高い値を出してしまったことに遡る。もっと言えば、すでに幼馴染が通っていたからとか、通常の高校とは試験の日程が別枠だったからとかそういった理由で、ダメでもともと以上に単なる興味で受験したせいなのだが、つまるところその辺りに端を発しているのだ。 魔術庁の高級官僚が直々に合格通知を持ってくるくらい将来を嘱望された伊織は、しかし、入学してしばらくすると学校側やその関係機関を一気に失望の淵に叩き落した。 彼には魔術の初歩の初歩ですら使えなかったのである。 理論の理解は早かった。エーテルへとはたらきかける構文の構築も正しく無駄がなかった。にも拘らず、伊織の魔力はエーテルに影響を及ぼさず、何の効果ももたらさなかった。 こうなると事前の判定が間違いだったとしか思えず、何度か診断のやり直しを行ったのだが、そちらは変わらず高い素質があることを示していた。 原因不明で、もはやお手上げ。 程なく伊織は自他ともに認める落ちこぼれとなり、2年に上がるころには一部の人間を除いては諦めムードが漂っていた。 実を言うと当の伊織自身も、自分のことながらどちらかというと諦めている側の人間で、きっと周りが望むかたちで期待に応えることは一生ないだろうと予想していた。 今は座学として魔術を学ぶ傍ら、入学以来足を運んでいなかった道場通いを再開し、衰えた体を鍛え直している。 その一環として学校のある平日の今日も、早朝から日課のロードワークに出ていた。 伊織は高校2年生男子の平均身長よりも少し高い程度ながら手足がすらりと長く、走る姿が様になっている。常に理想のフォームを意識しながら走っているせいだろう。走り込みをはじめてだいぶ持久力も戻ってきた。今では一定のペースを保ちつつ、息もほとんど乱れなくなっていた。 道路沿いの歩道を走る。お決まりのコースだ。 ふと、正面から伊織と同じくジャージ姿で、キャップをかぶった人物が走ってくるのに気がついた。初めて見るランナーだが、だからといって気になるほどではない。このまま特に意識することもなくすれ違うだけだろう。 と、そこに交通量の増えはじめた早朝の道路を、運送業のものらしきトラックが走り抜けていった。 一瞬遅れたタイミングで、正面のランナーのキャップが風で高く舞う。 「あ」 小さな悲鳴。 セミロングの黒髪が流れ落ちた。 それを見て女の子だったのか――と思ったのは一瞬、すぐに気持ちは別のところに移り、反射的に地面を蹴っていた。まずは軽くジャンプしてガードパイプの支柱に飛び乗り、そこから全身の発条(バネ)を使って力いっぱい跳び上がった。 ("跳躍"……"姿勢制御"……"滞空"……) 飛ばした手にキャップを掴む。 「で、"落下"、と……」 そして、とん、と軽やかに危なげなく着地した。 「ほいよ」 「あ、ありがとうございます」 普段なら涼やかであろう少女の声音は、しかし、今は気の抜けたようになっていた。どうやら伊織の軽業師の如き動きに呆気にとられたようだ。キャップを受け取りながら、呆然と見つめるてくる。 「じゃ、じゃあ、俺はこれで」 居心地が悪くなり、伊織は慌ててそう言い残し、逃げるようにその場を後にした。 ありふれてはいないが、事件というほどでもない朝のワンシーンだった。 「久瀬、久瀬伊織。聞いていますか」 授業中、気が緩んでぼんやりしていた伊織を我に返らせたのは、教壇に立っていた教師、アンナ=バルバラ∴ローゼンハインの声だった。今はちょうど担任教師である彼女の授業だ。 「え? あ、はい、聞いてました」 伊織は慌てて背筋を伸ばし、答える。但し、小さく「――と思う」とつけ加えたが。 「そうですか。……では、久瀬、立ちなさい」 「……」 言われた通りに席を立つ。教室中の視線が彼に集まった。 「エーテルとは何ですか?」 「エーテル?」 思わずその単語を繰り返す。無論、知らないわけではない。現代の魔術においてエーテルはなくてはならないものだ。だが、それを改めて説明しろと言われると、そう簡単にはいかない。伊織は頭の中で素早く整理した。 「エーテルは大気中に偏在する物質です。魔力にのみ反応し、適切に組み上げた構文と強い観測作用によってエーテルにはたらきかけ、『自然式強制干渉改竄構文』――いわゆる魔術を限定的に発動させることができます。なお、このエーテルとアリストテレスが言うエーテルとは厳密には別ものですが、第五の元素を予言した偉大なる哲学者に敬意を表して『エーテル』の名称を頂いたと言われています」 「その通りです。さすが久瀬ですね。でも、授業にはちゃんと集中するように」 座りなさい、とアンナ。伊織は肩をすくめてから着席した。 と、そのときだった。 「実技はさっぱりだけどな」 教室のどこかで、聞こえよがしに誰かがつぶやいた。途端、そこかしこで鼻を鳴らすような冷笑が沸き起こった。誰かひとりを槍玉に挙げて嘲笑う嫌な空気だ。 書籍館学院の魔術学科はエリート集団である。 努力ではどうにもならない天性の素質を見出され、ここで魔術を学び、国際的なルールを徹底的に叩き込まれ、いずれは魔術をもって社会に貢献する人物となる。すべては国費で賄われ、一度でも魔術がらみの校則を破ればその素養を封印されて放校処分だ。 こうした厳格な環境だからこそ選民意識にも似たものが生まれ、魔術学科以外の生徒やできないクラスメイトには冷たくなる。例え基礎知識において優秀でも実践が伴っていない伊織は、彼らにとっては座学ができるだけの落ちこぼれでしかないのだ。 「今言ったのは誰ですか?」 厳しい口調でアンナが問うが、しかし、誰も名乗り出ようとはしない。 「では、質問を変えましょう。久瀬より素早く、且つ、的確な構文を組み上げる自信があるものは?」 やはり沈黙。 この辺りでようやく何人かの口許から笑みが消えた。アンナはため息をひとつ。 「その程度にしておくことですね。少しばかり魔術が使えるようになっていい気になっているようですが、そんなものは初歩の初歩。私から見れば全員歩きはじめた赤ん坊のようなものです」 冷たいガラスを思わせる硬質な声が容赦なく生徒たちを打つ。 「希望者には放課後、補習を行いますので、我こそはと思うものは遠慮なくどうぞ」 この時点ですでに、ほぼ全員が押し黙っていた。優しく美しいドイツ人女教師が見せた迫力に気圧されてしまったのだ。目の前にいるのはまぎれもなく"魔術師"なのだと思い知らされる。 一方、伊織は「やれやれ」といった思いでそれを聞いていた。 (そんな思いっきり鼻っ柱を折らなくても……) 折られるような鼻のないものは気楽だった。 その日の昼休み、伊織は職員室に呼ばれた。 「あまり気にしないように」 事務デスクのイスに腰掛け、伊織と向き合うアンナはそう言う。 「してませんよ。事実ですからね」 対する伊織は相変わらず飄々としていた。 「それならいいですが。……芽が出ないようなら、残念ですが転科も本気で考えたほうがよさそうですね」 「前と言っていることが違っている気がしますが?」 以前、伊織は自分から国際教養科か普通科への転科を申し出たことがあるのだが、そのときはあえなく却下された。彼の潜在能力を信じ、もう少し様子を見たいというのが理由だった。 「状況が少し変わりつつあります」 「状況?」 問い返す伊織。 アンナはどう答えたものか、そもそも答えていいものかと逡巡の末、口を開いた。 「最近、魔術関連機関を標的としたテロが増えているのです」 「へぇ」 伊織は平和な日本の学生らしい平均的な反応を示した。即ち、いきなりテロと言われてもピンとこないのだ。 「まだそこまで目立たないし、規模も小さいですが、世界中の魔術の研究機関や教育機関、管轄省庁で被害が報告されています」 「いったい誰がそんなことを」 「真偽のほどは定かではありませんが、"科学アカデミー"だと噂されています」 そこでアンナはデスクの上のノートパソコンを操作しはじめた。マウスを動かしてスクリーンセーバーを払い、慣れた指使いでパスワードを打ち込んでデスクトップ画面を呼び出す。伊織はその画面を覗き込もうとするが、「あなたは見ないように」と釘を刺されてしまった。いつものやりとりである。 「まるで公的機関のような名称ですが、アカデミーはれっきとした科学の秘密結社です」 かつて――19世紀以前、まだ魔術が絵本や御伽噺の中だけのものだと思われていたころ、本気で研究するものたちは人目を避けるため秘密結社を組織していた。だが、今や魔術と科学のその地位は逆転し、今度は科学の側が秘密結社化してしまったのだ。科学も今の時代には必要不可欠で、携わるものは敬意を払われるべき存在である。だが、それだけでは飽き足らず、新時代の魔術を敵視し、排除した上で復権を目指す過激な科学の徒たちが少なからずいるのだ。――"科学アカデミー"はそんな過激派の最たるものだった。 「知っていますか、久瀬。嘘か真か、彼らは超科学とも言える技術を実用化しながらも、それを伏せているという話もあるのですよ」 「ネットで見たことがありますね。戦闘用パワードスーツだとか何とか」 「そうです。"タクティカル・トルーパー"というらしいですね」 そう答えながら、アンナはカチカチとマウスを操作する。モニタに表示させた何かを見ているようだ。「虚実織り交ぜて、わざと情報を流しているのかもしれませんね」と独り言をもらす。 彼女がノートパソコンに向かっていると、どうしてもその画面を覗きたくてうずうずしてくるのだが、伊織はその衝動を抑えて問う。 「で、そんな連中にこの学院も狙われると?」 「その可能性は十二分にあるでしょうね」 なにせここは魔術先進国である霊國・日本が誇る魔術教育機関なのだ。 「そんな不穏な空気なので、成果が上がらないようであれば、あなたを早々に魔術から遠ざけるのもひとつの手かとも思うのです」 もし仮にこの書籍館学院がテロの対象となるなら、それは魔術学科のほうだろう。学院の規模から考えて、他科にまで被害が及ぶことはまずないはずだ。 「……考えさせてください」 「あなたも変な子ですね」 アンナはくすりと笑う。 「この前は自分から言い出したのに、今度は考えさせてくれとは。……いいでしょう。久瀬の人生です。自分で決めなさい。私は久瀬がどの道に進んでも、その才能に見合った活躍をしてくれることを期待していますよ」 そうしてようやく伊織は担任教師から解放された。 「やほ、久瀬君」 伊織が職員室を出ると、そこには凛々しき美貌の上級生にして魔術学科の生徒会長、巻島まりあ(まきしま∴〜)が待っていた。 伊織は思わず立ち止まり、ため息をひとつ。 「何か用ですか、会長」 そして、そう問いつつも彼女の前を素通りして廊下を突き進む。当然のようにまりあも後を追い、横に並んだ。 「いや、私もさっきまで職員室にいたんだ。そこで君の姿を見つけてね」 「お忙しいことで。その多忙な生徒会長殿に俺なんかと話してる暇があるんですか?」 しかし、まりあはそれを無視する。 「アンナ先生と何の話だったんだい?」 「転科を勧められました」 「抗議してくる」 「待て待て」 伊織は、細く長い栗色のポニーテールなびかせて転進するまりあの二の腕を掴み、その動きを制した。 まりあは何か言いたげな目で伊織を見る。 「その場で断ってますよ」 正確には保留だが、そこまで正確に言う必要もないだろう。実際、今は転科するつもりはない。 まりあはほっとしたようだった。 「あと、アンナ先生は俺のためを思って言ってくれてるんで、できないやつを放り出そうとしてるみたいに思わないでください」 ふたりは再び歩き出した。 「まぁ、実際のところ、アンナ先生としては俺みたいなのは放り出してしまったほうが楽だろうにな」 入学当初は多くの教師が伊織の潜在能力に目の色を変え、それはもう鬱陶しいほど面倒を見てくれた。だが、次第に彼の無能っぷりが明らかになってくると、ひとり離れふたり離れし、今では根気よくつき合ってくれているのはアンナだけだ。 「期待してるんだよ、君にね」 「期待、ね……」 そう言えばアンナが口癖のように「期待しています」と言うのを思い出した。 「勿論、私もだよ」 「……」 担任教師に生徒会長。背負っている期待は自分で思っている以上に大きいようだ。 「っと、じゃあ、私はここで。……頑張ってね」 突然、まりあは伊織の肩をぽんと叩くと、ここまで歩いてきた廊下を戻っていってしまった。 「なんだ、ありゃあ」 伊織は呆然とその後ろ姿を見送る。 ("期待してる"の次は"頑張れ"か……) やれやれ、と肩をすくめてから振り返る――と、今度はそこに長谷部優花の姿を見つけた。正面から歩いてくる。 優花はショートカットで、ちょこちょこと動く小動物を思わせる小柄な少女だ。魔術学科ではなく国際教養科に在籍し、そちらで生徒会役員として駆け回っている。そして、伊織が少なからず思いを寄せている相手でもあった。 「よ、よう」 不意の遭遇に伊織はぎこちなく挨拶らしきものを口にする。 「あ、あれ? 巻島先輩が一緒だと思ったのに……」 優花も落ち着きなくきょろきょろと周りに目をやる。さっきまでいたはずのまりあの姿を求めているようだ。 「あの人なら戻っていったよ。何か用でも思い出したのかもな」 「そ、そうなんだ。先輩もいるからと思ってたのに。……どうしよう、いきなりで、こ、心の準備が……」 すーはーと深呼吸をする優花。 「今から追いかけたら間に合うんじゃないか」 「ううん。今日は特に用はないから」 「そ、そうか」 「う、うん……」 ぎこちないこと極まりない会話はそこで途切れ、ふたりは黙り込んでしまった。 廊下の真ん中で向かい合ったまま、目も合わせず押し黙るふたりを、行き交う生徒が横目で見て通り過ぎていく。やがてその視線に気がついた伊織がタイミングを計るようにして口を開いた。ここでこうしていても埒が明かないし、不審な目で見られるだけだ。 「あ、あー……喉が渇いたな。何か飲みに行くか」 「う、うん……」 優花が小さく頷き、ふたりは並んで歩き出した。 巻島まりあは伊織と別れた後、少し進んでから後ろを振り返る。 彼はもうこちらを見ていなかった。長谷部優花とぎこちなく言葉を交わしている。 「何がフラれた、よ。それが嘘くらいすぐにわかるよ」 以前、伊織は優花に気持ちを伝え、あえなく振られたと言っていた。だが、最近のふたりの様子を見ていれば本当のことを言っていないことは容易にわかる。これでも幼馴染なのだ。彼はまだ何も告げていないのだろう。理由まではわからないが。 まりあは複雑な思いでふたりを一瞥した後、再び体を前に向ける。 「さーて、何か飲みにいこっかな」 そうして努めて明るくそう発音した。 「俺が奢るよ」 「そんな、悪いって」 体育館近くの自販機に辿り着くころにはふたりのぎこちなさはほとんど消え、話も弾みはじめていた。 伊織はさっそく自販機のに硬貨を投入する。 と、そのとき、 ドン 誰かが拳の底でボタンのひとつを叩いた。 「よっ、落ちこぼれ」 見れば自販機の横にひとりの生徒が立っていた。人を見下したようなニヤついた笑み。クラスメイトの鹿島だった。先の授業で発されたひと言がこの少年のものだということは、伊織はそのときに気づいていた。 ワンテンポ遅れて自販機の取り出し口に缶が転がり落ちてきた。 「おっと、悪い。うっかりボタンを押しちまったようだ」 「いや、気にすんな。俺もそれが飲みたいと思ってたところだ」 さして怒るでもなく伊織はそう言うと、商品を取り上げた。……おしるこだった。 「ほいよ」 「わ、わたし!?」 おもむろに隣にいる優花にパス。 「お、おしるこ奢られた……」 おしるこの缶を手に呆然とする優花。 「で、鹿島、何か用か?」 「いやぁ、素朴な疑問なんだけどさ。お前って何でまだここにいんの?」 「……」 「だってさ、久瀬って魔術が使えないんだろ? だったらこの学院にいる意味ないじゃないかって思うんだよな」 この体育館そばの自販機コーナーにはテーブルやベンチなども備わっていて、今も十数人の生徒がくつろいでいる。伊織が現れたときには一瞥しただけで無視していた連中も、このやり取りに注目しはじめていた。魔術学科の生徒は鹿島と同種の笑みを浮かべ、他科の生徒はエリートの陰険ないじめを目撃してしまった気分で嫌悪の表情をつくっている。 「ああ、そのことか。目障りなんだったら悪かった。鹿島もそんなに余裕があるほうじゃないもんな。俺のことは気にせず勉学に励んでくれ」 瞬間、鹿島のニヤついた笑みにひびが入った。大きな口を叩いているが、彼とて魔術学科として突出した才能を見せているわけではないのだ。 しかし、伊織は彼を無視するようにコーヒーを購入。 「ふ、ふん。それでお前はとっくに諦めて、ちゃらちゃら遊んでるわけか。お前みたいな落ちこぼれは普通科の女がお似合いだよな」 口の端を引き攣らせながらの言葉にはっとしたのは、伊織の横にいた優花だった。 「ご、ごめんね。あんまり一緒にいないほうがいいよね……」 魔術学科の生徒はエリート意識が強く、他科の生徒と交わろうとしない。自分がそばにいると伊織が馬鹿にされると思ったのだろう。優花は申し訳なさそうにそう言い、後退った。 「……いい。ここにいろ」 が、それを伊織が引き止める。 「鹿島、長谷部は国際教養科だ。頭いいよ。それに向こうでは生徒会に入ってがんばってる。魔術科で"その他大勢"に埋もれてるお前とは大違いだな。何を根拠にそんな偉そうなのか知らないが、お前が馬鹿にしていい子じゃないよ」 次第に空気が変わっていく。 人よりも優位に立とうとするものは、風向きにも敏感だ。流れが自分にあるときにしか攻めに出ないからだ。鹿島はギャラリィの冷笑が自分にも向きはじめたことを正確に感じ取ったようだ。まるで晒しものになった気分で、顔が紅潮していく。 「下にいる誰かを見つけて安心してないで、お互い精進しようぜ。……行こうか、長谷部」 「う、うん……って、わたしおしるこ……」 伊織は、もうここには用はないとばかりに、鹿島に背を向けた。優花も律儀に軽く頭を下げてから、その後を追う。ふたりは鹿島を残して去っていく。 「――ったら……」 やがて怒りに体を振るわせる鹿島が、絞り出すように発音した。 「だったら見せてやるよ、俺の力を! 俺の特性は"破壊"なんだ。落ちこぼれのくせに俺を侮辱したことを後悔させてやる……!」 伊織は弾かれたように振り返った。 鹿島はすでにセカイを知覚し、把握していた。後は正しく構文を組み、エーテルに記述すれば、一定空間内の自然式を捻じ曲げ魔術が発動する。彼の魔術特性は"破壊"だという。きっとろくなことにはならない。周囲にも緊張が走る。 (馬ッ鹿野郎……!) 伊織は心の中で罵りの言葉を発し、地を蹴った。一瞬で距離を詰め、右の拳を力いっぱい振り抜く。 直後、鹿島の体が吹き飛んだ。 自販機に背中から叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。顔面を殴られた痛みにうめき、すぐには立てそうにない。それを見て伊織は「やれやれ」とため息を吐いた。 場が静まり返る。 まいったな――と思ったのも束の間、突然、伊織は腕を捻り上げられた上、足を払われ地面に組み伏せられた。 「そこまでだ。おとなしくしなさい」 まりあだった。 「お、おい、ちょっと待――」 「いいから、今はおとなしくしてて」 背中の上で彼女は伊織にだけ聞こえるよう小声で囁く。 「これは何の騒ぎだ!?」 今度は大人の男性の声。どうやらたまたま近くにいた教師が騒ぎを目にし、駆けつけてきたようだ。 男性教師は辺りを見回し、まりあの姿を認めた。 「いったい何があった?」 彼女は問われると、「立って」と伊織に対して殊更に厳しい口調で促し、まずは自分が先に立ち上がった。続けて伊織も起き上がる。 「どうやらそこにいる彼が久瀬君を過剰に挑発し、頭に血が上った久瀬君が手を出してしまったようです。……そうだね?」 彼女が確認を求めたのは鹿島にだった。送った視線の先では丁度のそのそと立ち上がるところだった。 鹿島は、まりあの鋭い視線に射すくめられながら、弱々しく言葉を紡ぎ出す。 「……はい。その通りです。でも、俺も少し言い過ぎたと反省してます……」 当然、そう答える以外に、彼に選択肢はなかった。 男性教師は伊織と鹿島とを交互に見ると、「ふむ」とうなずいた。 「わかった。詳しく話を聞こうか」 そうして伊織は生徒指導室に連れて行かれ、鹿島のほうは先に保健室へ行くことになった。 その後、ふたりには説教と使われていない倉庫の掃除を言い渡されただけで、それ以上の処罰はなしの処遇が下されるのに、そう時間はかからなかった。 アンナ=バルバラ∴ローゼンハインは、魔術を学び、その意味を理解し、且つ、人格を備えたものにだけ与えられる"魔術師(マギエ)"の称号を持っている。 現実的な手続きとしては、魔術の教育機関において高い成績を修め、機関からの推薦を受け、記述、実技、面接などの試験を経て与えられるものである。人格に関しては相撲の横綱に求められる人格、品格並みに曖昧なもので、どちらかと言えば不祥事を起こした際に称号剥奪の理由によく使われる。 とは言え、狭き門であるのは変わりない。 しかし、アンナは常々自分を人格の面で魔術師失格だと思っていた。なぜなら教師でありながら、特定の生徒に非常に強く肩入れをしていることを自覚しているからだ。 久瀬伊織が暴力事件を起こしたと聞いたときも気が気ではなく、喧嘩両成敗的にお咎めなしと決まって心底ほっとした。 その後、伊織とふたりきりで話をし、正しい状況と彼の意図を聞き出した。 「一緒のクラスのやつが脱落なんてつまんないだろ?」 彼はそう言って笑うのだった。 正直アンナは伊織の経歴に傷がつくくらいなら、鹿島に魔術を使わせて退学にしてしまったほうがよかったと思った。己の感情も制御できず、私闘に魔術を使おうとするものは、そもそも不適格なのだ。いずれまた問題を起こす。だが、もし本当に鹿島が魔術を使った場合、いちばん近くにいて狙われていた伊織は勿論のこと、周りにも被害が及んだかもしれない。そういう意味でもやはり伊織の判断と行動は冷静で正しく、そこに至らない自分にはつくづく"魔術師"だる資格はないと感じるのだった。 放課後、 たまたま昼の事件の現場を通りかかったとき、アンナはそこに巻島まりあが立っているのを見つけた。 彼女は久瀬伊織の意図をいち早く汲み取って、今回の件を穏便にすませるのに一役買った功労者であり、ちょうど礼を言わねばならないと思っていたところだった。だが、今はそれ以上になぜそんなところで佇んでいるのかが気になった。 「巻島まりあ、そこで何をしているのですか?」 そばに寄って問いかけるが、まりあは何か考えごとに没頭しているようですぐには答えなかった。 やがて、 「最初に私が見たとき――」 彼女はアンナのほうを見ないまま話しはじめた。 「りっくんはここに立っていました」 「……」 「そして、一瞬であそこまで移動しました」 まりあは自販機の辺りへと目を向ける。その距離、約10メートル。 「勿論、一瞬というのは比喩です。瞬間移動や目にもとまらぬ速さというわけでもなく、りっくんが走る姿は私も目にしました。ただ――たぶん、あのときの速度を数字にすれば、尋常ではない値が出ると思います」 速いとはその場にいた誰もが思っただろう。だが、その異常さに気づいたものが、果たして何人いただろうか。 「まさか久瀬が"加速"か"強化"の魔術を使ったと?」 「わかりません」 まりあは首を横に振る。 「さっき残留魔力を調べてみましたが何も出ませんでした。つまり使う前に止められた鹿島君は勿論のこと、りっくんも魔術は使っていないということです」 「……」 アンナは考える。 この状況を説明する言葉がないわけではない。 所謂"火事場の馬鹿力"だ。 有名な実例がある。外から帰ってきた主婦が、今まさにベランダから落下しようとしている我が子を見たとき、彼女はオリンピック選手をも上回る速さで駆け寄り、落ちてきたその子を受け止めたという。 だが、命よりも大事なもののために走った主婦と、今回の伊織の状況が重なるとは思えなかった。 考えれば考えるほど久瀬伊織という存在がわからなくなる。 類稀なる魔術の素養をもった期待の新入生として迎えられたにも拘らず、今は魔術の初歩の初歩もできない落ちこぼれ。いったいこれにどう説明をつければいいのだろうか。アンナにはわからなかった。きっとまりあもわからないから、こうしてここに立ち尽くしていたのだろう。 「……」 「……」 「ところで巻島」 「……はい」 「普段久瀬のことを"りっくん"と呼んでいるのですか?」 その瞬間まりあは、ぶはあっ、と血でも吐くかのように盛大に噴き出し、その勢いでげほげほと咽た。 「あ、いや、これは、つい……」 両手を振ってわたわたと慌てる様は、凛々しき生徒会長にあるまじき姿だった。実はまりあは、思考と推理に集中するあまり、自分が幼馴染の愛称を口にしていることに気づいていなかったのだ。 「し、失礼しますっ」 結局、彼女は誤魔化しきれず、一礼して逃げるように去っていった。 「そうですか、久瀬伊織で"りっくん"ですか。……彼をそう呼べる貴女が少し羨ましいですね」 アンナはそれを見送り、小さく笑った。 2012年8月19日公開 |
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