タイトル未定


3.

 シェスターとともに廊下を歩く。
「助かったよ。どうもアラシャは苦手でね」
「前はそうでもなかったように見えたが?」
 彼はからかうように言う。
「あぁ、なるほど。一度意識してしまうとどう接していいかわからない、というやつか」
「冗談を」
 妙な邪推はやめてもらいたい。
 ただし、アラシャ・ベルゲングリューンが魅力的な女の子であることは認めるところではある。
「なぜかやたらと突っかかってくるんだよ」
「お前がそういう態度だからじゃないのか」
「さてね。今となっては卵が先か鶏が先か、というやつだ」
 彼女がやたらと突っかかってくるからこういう態度なのか、それとも僕のこの態度が彼女をそうさせるのか。
 尤も、僕がアラシャを苦手としている理由はもっと別のところにあるのだが。
「らしくない態度と言えば、もうひとつある」
「うん?」
「あのヘルムートを挑発したのか?」
 シェスターが鋭い口調で聞いてくる。
「ああ、ちょっとばかりね」
「愚策だな」
「言ってくれるな」
 図らずも僕が思ったことと同じ言葉で呆れられた。返す言葉もない。
 アッカーマン家は武門の家系だ。悪魔が現れたとなれば市民を守るために先頭を切って戦うし、遡れば悪魔殲滅のための十字軍遠征にも参加したという。そんな血の気の多いアッカーマン家の男を挑発すればどうなるか、火を見るよりも明らかだろう。
 
 そう、この世界には悪魔がいる。
 数百年前、突如として現れ、人の世界の侵攻してきたのだ。だが、それも教会が中心となって抵抗し、東へと追いやった。今ではもう大規模な侵攻は皆無で、人や街が襲われることはめったにない。時折何かの拍子に地獄への門(カオスゲート)が開き、思い出したように現れる程度だ。
 逆に、それでは根本的な解決になっていないと、数十年前までは教会の強硬派が十字軍を送り込んでいたが、何度かの失敗を経て今はそれも途絶えている。人類が勝利したというよりは、単なる小康状態と言うべきかもしれない。
 
「僕も少しばかり機嫌が悪かったのさ」
 何せ、朝、あんな夢を見たばかりだ。
 あんな夢。
 前世の僕が最後に見た光景。それ以後の記憶はない。ならば、きっと僕はそこで死んだのだろう。
 そこはいい。
 僕が胸を掻きむしりたくなるような気持ちを抱くのは、あのとき一緒にいたあいつ、僕が最も仲のよかった少女――叢雲灯子のために何もできなかったことだ。
 灯子はどうなったのだろう?
 僕とともに死んだのだろうか? それとも運よく助かったのだろうか?
 残念ながら、今の僕に確認する術はない。せめて僕が、咄嗟に彼女を突き飛ばしてでもいれば、もっと楽観的に考えることができたかもしれないのに。
 
 そして、これはシェスターにも言っていないことだが――その灯子は、アラシャ・ベルゲングリューンとよく似ていた。
 
 容姿はもちろんのこと、性格もまったく似ていない。だが、なぜか僕の中でふたりはよく重なるのだ。
 それこそが僕がアラシャを避ける理由だった。
「やつは少しやり返されたくらいでヘコむタマじゃないぞ」
「だろうね」
 今さらながら、あの好戦的な男を焚きつけたことに後悔を覚えはじめていた。面倒なことにならなければいいが。
「じゃあ、俺はここで」
「なんだ、寄っていかないのか? コーヒーくらいは出せるよ」
 もうすぐ僕の研究室だというところで唐突に発したシェスターの言葉に、僕は面喰う。彼がこの部屋で時間を過ごすことはよくある。僕の考えを効いてもらったり、知恵を貸してもらったり。或いは、単なる無駄話であったり。今日もてっきりそうするものだとばかり思っていた。
「いや、今日はいい」
「そうか」
 まぁ、そういう日もあるか。
「じゃあ」という短い言葉を挨拶に代えて、彼は近くの階段を下りていった。
 シェスターと別れた後、僕はもうしばらく歩いて研究室へと辿り着いた。
 僕にはエーデルシュタイン学院から研究室が与えられている。毎年ひとりいるかいないかという特待生の特典だ。いちおう入学後でも学院が研究室を与えたほうがいいと思うような結果を出せばもらえるが、それも学院創立以来片手で数えられるほどしか例がないようだ。
 しかし、僕は知っての通り『落ちた神童』である。入学時の才能は、今や見る影もない。学院としては取り上げてしまいたいところだろうが、さすがにそんなわかりやすい真似はできない。おかげで僕は、落ち着いて研究や調べものができる環境を返上せずにすんでいるのだった。
 僕は研究室の前までくると、その扉を開けた。
 中は意外と広い。広めの応接間くらいはあるだろう。そこに執務机と壁一面の書架、さらにはローテーブルに、仮眠もとれるソファが置いてある。書架と反対側にはコーヒーを淹れるくらいはできる設備と、小さな食器棚があった。
 ここが僕個人の研究室だ。
 だが、なぜか今、そこにはふたりの少女がいた。
「マーリャ、コーヒーを淹れてくれないか」
「それはかまいませんが、たいした豆は置いていないようですよ」
 ひとりはソファにふんぞり返っていて、もうひとりはコーヒーサイフォンとその周辺に目を向けている。……人の研究室で好き勝手やって好き勝手言ってくれる。
「エカテリーナ、僕の研究室で何をしている?」
「おお、ララミス。待っていたぞ」
 ソファに座るエカテリーナが尊大な態度で迎えてくれる。
 僕は次にコーヒー豆を吟味している少女に目をやった。
「マーリャ、コーヒーは好きに飲んでもいいが、文句は言うな」
「なんだ、貴様、帰ってきたのか」
 こちらは嫌悪感丸出しの態度だ。
 
 小柄ながら気の強そうな面立ちをしているのが、ソファに座っているエカテリーナ・バイルシュミットだ。
 彼女を語る上で特筆すべき特徴がふたつある。
 ひとつは、北の軍事大国の皇族であるということ。本人が言うには、皇位継承権が低く、自分や自分の将来の夫が皇帝の座につくことはまずないだろうとのことだ。
 そして、もうひとつは、いつも片方の目を真っ黒な眼帯で覆っている点である。
 別に目が見えなかったり目立つ傷があったりするわけではない。彼女は帝国の皇族の遺伝で虹彩異色症(ヘテロクロミア)――つまり左右の瞳の色が違うのだ。片方は澄んだ湖のような水色、もう片方は紫暗。かなり差が大きい。そのためエカテリーナは相手を驚かせないようにと、常に片目を眼帯で覆っているのだ。そんな理由なので、その日の気分によって覆う目が変わる。今日は紫暗の瞳が露出している。
 
 そして、ソファには座らず立っている少女が、マーリャ・マスカエヴァ。
 短めの髪に、凛々しいというには怜悧に過ぎる相貌は、まるで軍人のような雰囲気があった。それもそのはず。彼女はエカテリーナが留学するにあたって護衛として一緒に入学してきたひとりだった。故に、彼女の本分は学業よりもそちらにある。

「コーヒーを飲ませることは吝かではないよ。でも、味は僕の好みだ。口に合わないのなら、自分の好きな銘柄を持ってくるといい」
「なるほど。そうしよう」
 そうエカテリーナが言うのを聞きながら、僕は執務机に腰を下ろした。
 ここはあくまで研究室で、応接間ではない。よって、仮眠をとるときのために置いた三人掛けのソファがひとつあるだけだ。来客があると、自然こういう構図になる。
「で、君たちは僕のいない間に研究室に入り込んで、何をしているんだ?」
「盗人のように言うでないわ。むしろ妾(わたし)は、不用心にも鍵の開いていたこの部屋の留守を守っていたのだぞ。感謝してほしいくらいだ」
「あぁ、そうか。それは悪かった」
 ちゃんといつも鍵をかけているはずなのだが――どうやらヘルムートの取り巻きたちは、鍵を開けたところでシェスターに見つかり、退散を余儀なくされたようだ。……尤も、それでも彼女たちが勝手に入り込み、ソファにふんぞり返ったり、コーヒーを物色していたことには変わりないのだが、まぁ、そこは留守を守ってくれていたことで相殺しよう。
 と、そこで僕は立ちっぱなしのマーリャに気がついた。
「マーリャ、立ってないで座ったら?」
「断る」
 がだ、彼女はきっぱりとそう言った。
「僕は学友にソファも勧めず立たせておく趣味はないよ」
「私は貴様の学友などではない。エカテリーナ様の従者だ」
 同じ魔術科の在籍していて、専門科目やいくつかの一般教養では同じ教室で講義を受けているのに、それを全否定しないでもらいたいものだ。
「ララミスが言うことも尤もだ。マーリャ、ここに座るといい」
「し、しかし、私は従者です。エカテリーナ様と同じソファに座るなどと……」
「祖国から遠く離れたこのファーンハイトの、しかも学校で、皇族だ従者だと言っても滑稽なだけよな」
 改めてエカテリーナはマーリャに座るよう促すが、やはり彼女はおいそれと座ることはできないようだ。
 こうして見ていると、エカテリーナがまるで皇族にしては気さくな性格に見えるが、実際のところ入学当初はそうでもなかった。まるで氷の刃のような雰囲気を身にまとい、ほかの生徒とは交わらず、常に三人の従者をそばに置いていた。
 それがいつのころからか変わってきた。それこそ祖国から離れた異国の地で、皇族だ何だと言っていても滑稽なだけだと気がついたのかもしれない。
 
 皇族と聞いて、ひとつ面白い噂がある。
 今年入学してきた生徒の中に、西の島国、リ・ブリタニア王国の王族がいるというのだ。彼、もしくは、彼女はその身分を隠して、一般市民の生徒のように振る舞っているという。
 僕は偶然知り合ったリ・ブリタニアからの新入生、アリエル・アッシュフィールドにそれが誰か知っているかと聞いてみたところ、拍子抜けするほどあっさり「知ってますよ」と笑顔で答えたのだった。当然、「もちろん、誰かは言えませんけど」と付け加えられた。
 
「マーリャ、よかったらコーヒーを淹れてくれないかな?」
 未だ座ること躊躇っているマーリャに、僕は妥協案を出した。そこにエカテリーナも乗ってくる。
「おお、それがよいな。話をするのに飲みもののひとつもほしいところだ」
「かしこまりました、エカテリーナ様。……ララミス、貴様にも淹れてやるから感謝しろ」
 マーリャは、エカテリーナには恭しく、僕にはキッと鋭い視線を飛ばしながら、そう答えた。
 感謝してもいいが、コーヒーは僕のだし、この助け舟のことを考えれば、相殺どころか僕のほうが感謝されるべきではないだろうか。もちろん、感謝されたいわけではないけど。
「で、エカテリーナ、僕に何か話があるのか?」
「いいや」
 と、あっさりエカテリーナ。
「まぁ、強いて言うなら、世間話よな」
「なるほどね」
 僕は小さく笑う。
 北の軍事大国からきた氷の刃の如き公女が、変われば変わるものだと思った。

 


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