盆を過ぎても暑さは衰えることを知らず、八月からはじまった大学の夏休みはようやく三分の一を過ぎたところ。 そんなある日のこと、僕は大手CDショップにきていた。 「ない、な……」 が、探しているCDがさっぱり見つからず、広大な店内で思わずつぶやく。果たして本当に置いていないのか、それともただ単に探し方が悪いのか。 「こんなことならソフトを買ったときに、一緒に買っておくんだったな」 あのとき腐るほど平積みにしてあるのを見たものな。ここでも店員に聞けばわかるのだろうけど、そこまでして今すぐ手に入れたいものでもない。 早々に諦めた僕は、いつもの癖でクラシック音楽のコーナーを覗いた後、何となく新譜コーナーへと足を運んだ。 コーナーを席巻するのはポップス。それもアイドルのものばかりだ。二十代の男性アイドルグループや、十代の少女アイドル集団、などなど。90年代に絶大な人気を誇ったベテランのロックバンドも、00年代にブームを呼び起こしたダンスグループも、現在進行形で歌姫と呼ばれるカリスマアーティストも、ファンを囲い込んだアイドルの勢いには敵わないようだ。この惨状を見れば、日本の音楽界は死んだなんて言いたくもなる。 ふと、僕の目に"今週の売れ行きランキング"コーナーに佇んでいる人物の姿が飛び込んできた。 小柄な少年だ。いいところ高校生くらいだろうか。この盛夏に長袖のパーカーを着て、頭にはフードまでかぶっている。ボトムはゆったりと余裕をもたせたカーゴパンツ。スノーボーダーかストリートパフォーマーかといったスタイルだが、それも今が夏でなければの話だ。怪しいことこの上ない。 一瞬万引きかと疑ってしまったが、すぐに否定した。小さな小売店ですら商品に万引き防止タグを取り付けているのは今や常識だ。よほどのバカでない限り、そんな愚行には出ないだろう。ならば、何も僕が正義漢ヅラして、目を光らせていることもないはずだ。本当にバカをやらかして社会的制裁を受けるなら、それもまたよし。 と、そのときだった。 突然、フードの少年がうずくまってしまった。 具合でも悪いのだろうか。僕は慌てて周りを見る。が、特に誰かが心配して寄ってくるような様子はない。うずくまる彼を気にしつつ通り過ぎるもの、そもそも気がついていないもの。見事にみんな周囲に無関心だ。 「あの、大丈夫ですか?」 本心を言えば、僕もその無関心なひとりになりたかったのだが、見て見ぬ振りするのも良心が咎め、消極的ながら声をかけた。背格好からして自分よりも年下だろうが、いちおう敬語。 だが、彼からの返事はなかった。口もきけないほどの体調不良だろうか。 「お客様、どうかされましたか?」 僕がすっかり弱っていると、ようやく異変に気づいた店員が寄ってきた。 「どうやら彼が具合を悪くしたみたいで」 「お連れ様ですか?」 「え?」 一瞬、言葉に詰まった。いや、ぜんぜん違うと言い返そうと思ったが、しかし、それが当たり前なのは僕だけであって、傍から見たらお連れ様なのだろうなと妙に納得してしまった。 不意に僕の腕が強くつかまれた。フードの少年だ。 僕の腕をつかむ手、腕、顔、と僕は順々に視線を移していった。このときになって初めて僕は彼の顔を真正面からとらえ――はっと息をのんだ。涼しげな二重の目と長いまつ毛に、細面の小顔。女の子と見紛うばかりのきれいな面立ちだった。 彼はその瞳で何かを訴えかけるように僕を見、そして、僕もそれを理解してしまった。 「……ええ、僕の友人です。大丈夫です。その辺で休ませますから」 僕がそう答えると、「わかりました」と店員は去っていった。 「大丈夫ですか?」 僕はもう一度問いかける。 すると、彼はひと言。 「……お腹すいた」 ひとまず僕たちは近くのハンバーガーショップに入った。 あいにくと店内はけっこう込み合っていて、あいているといえば全面ガラス張りの窓に面したハイチェアの席しかなかった。とりあえず彼をそこに座らせ、僕はテキトーにハンバーガーのセットをふたつ買ってきた。 全面窓から外を見れば、そこは片側三車線の大通り。歩道では人々が額の汗を拭いながら行き交い、車道では大小様々な車が排ガスをまき散らしながら通り過ぎていく。それらを見ながら、僕たちは並んで座ってハンバーガーを口に運んだ。 「家出?」 僕は、いろいろ嫌になって飛び出してきたと説明した彼に問い返す。 不思議なことに、彼は食べている今でもパーカーのフードはかぶったままだった。 「ま、そんなところ」 小顔にふさわしい小さな口で少しずつハンバーガーを食べながら、それで空腹は人心地ついたのか、家出少年は笑ってそう答えた。 「若いね」 「そういうお兄さんは年寄りくさいね」 「ほっとけよ」 言い返しつつも、実際疲れた顔をしているのだろうなという自覚はあった。現在、僕は大きな悩みを抱え、すっかり疲弊してしまっている。我ながらそう悪くないと思っている顔も、おかげで台無しだ。気晴らしにくだらないことに挑戦しようとしているのだが……。 「家出もいいけど、ちゃんと食べないと」 聞いたところによると彼は、今日の朝、思い立って夜も明けぬうちに家を飛び出てきたのだという。朝と昼を抜いて、さっそくダウンか。小柄な分あまりエネルギィを蓄積できないのかもしれない。 「もしかしてお金もって出なかったのか?」 「ううん。ちゃんとあるよ。……あ、ごめん。これのお金まだ払ってなかった」 「後でいいよ」 足もとに置いたリュックを拾い上げようとする彼を、僕は言葉で制した。実のところ、このまま有耶無耶にするつもりだった。これでも年下、しかも、倒れかけた人間と割り勘するほど金に困っちゃいない。 「お兄さん、ポテトあげる」 と、彼はセットについていたポテトを、まったく手をつけないまま僕のトレイに乗せた。 「食べないのか?」 「うん。もうお腹いっぱい。いつもこんな大きなハンバーガー食べないもの」 食の細いやつだな。そんなだから二食抜いただけで動けなくなるんだろうな。僕なんか高校生のときがいちばんの食べ盛りで、学校の帰りにこれくらい平気で食べた上、夕食もきちんと平らげていたが。……とはいえ、さすがにポテトふたつはキツいな。 「これからどうするつもり?」 程なく僕はハンバーガーにポテトふたつも食べ終え、ドリンクを飲みながら訊いた。もちろん、彼はとっくの昔に食べ終えている。 「さあね。とうぶんは戻るつもりないし」 彼はあっけらかんとして言った。 「大丈夫か?」 「なんとかなるでしょ。ほら、ネカフェとかマンガ喫茶とか、そのへんでどうとでもなるし」 「それもそうか」 さっきの話に戻ってしまうが、僕が高校生のときは食べ盛りであるとともにバイタリティもあった。彼の家出もそう長く続くとは思えないし、二、三日なら大丈夫だろう。これ以上僕も厄介ごとに関わりたくない。 「あ、そうだ。これのお金」 彼も別れの気配を察したのか、借りを清算すべくリュックから財布を取り出した。 かくして、僕は目を丸くすることになる。 彼の財布は驚くほど分厚かった、一見して大学生の僕よりも持っているとわかる。これならネットカフェどころかホテルにでも泊まれそうだ。家出の軍資金に親の財布からくすねてきたのだろうか。 「はい、これ」 唖然としている僕の前で、彼は千円札を一枚取り出し、差し出した。 僕は彼を見る。 見ているこちらが照れてしまいそうな少女のような容姿に、あまり焼けていない色白の肌。まさに白皙の美少年だ。 「どうしたの?」 差し出したそれに手をつけようとしない僕を不思議に思い、首を傾げる彼。 僕は急激に不安に駆られはじめていた。 アメリカの犯罪率の高い都市じゃあるまいし、彼の財布を見た誰かに尾行されて……なんてことはないと思いたい。それに男だから襲われるなんてことは……いや、どうだろう。そっちの趣味の性犯罪者もいないとは限らないし、この容姿だとこの際男でもいいと思うやつもいるかもしれない(いるか?)。そんな可能性を考えると、後は知らねとこのまま彼と別れることそれ自体、もう犯罪じゃないだろうかとさえ思えてきた。 「ここは僕が奢るよ。……なぁ、それより行くところがないなら、僕のところにくるか?」 気がつけば僕はそう言っていた。 「え? お兄さんのところに?」 「ああ。どうせひとり暮らしで、今は夏休みだし。少しの間ならいてもいいよ」 所詮、高校生の家出。すぐに飽きるだろう。 「どうしよっかな……?」 彼は考えながら、値踏みするように僕を見た。当然だろう。突然うちにこないかなんて言うやつは怪しいに決まっている。だから、疑い、決める権利が彼にはある。僕はただ信用してもらえるよう願うだけ。 「じゃあ、お世話になってもいい?」 「ああ、もちろんだよ」 返事をしながら、僕はほっと胸を撫で下ろした。 「僕は狐塚直臣(こづか・なおみ)。大学生。君は?」 「オレはアキラ。いちおう高校生」 いちおう、ね。その言い方だと、あまり学校には行っていなさそうだな。 「苗字は?」 「内緒。調べられて親に連絡とかされたくないもんね。……じゃあ、さっそく行こう、直臣の家」 彼は軽そうなリュックを拾い上げ、イスから飛び降りた。 「……」 いきなり呼び捨てか。 まさか僕も名前で呼ぶからお互い様、とかじゃないだろうな。苗字をおしえないほうが悪いんだし。 そこから電車で少し行った駅前に、僕の住むマンションがある。三階建てのその三階。 「散らかってて悪いけど、まぁ、遠慮なく上がって」 言いながら、僕は来客用のスリッパを彼のために出してやった。 玄関を上がって右手にキッチンがあり、左手にはバス、トイレ。そして、正面にもう一枚ドアがあり、そこを開ければフローリングの居室だった。 「ぜんぜん散らかってなくない?」 「当たり前だろ。男のひとり暮らしなんて散らかり出したら際限がなくなるから、そこんところは気をつけてるんだ。さっきのは決まり文句みたいなものだよ」 部屋はこのフローリングだけだった。 テレビがあり、ライティングデスクとパソコンデスクがあり、本棚があり、と、ここまでは普通の大学生の部屋だが、いくつか特徴的なものもある。 「ピアノ?」 アキラが疑問形で発音する。 普通の大学生の部屋にはないであろうそれがひとつめの特徴だった。 「ああ。僕はこの近くの音大に通ってるんだ」 器楽科鍵盤楽器専修でピアノコース。 音楽大学が近い土地柄、この辺りには防音設備完備、楽器演奏可の物件が多く、このマンションもそのひとつだ。ここはそれだけではなく、地下にはスタインウェイのグランドピアノが置かれた有料のレッスン室もある。尤も、この通り部屋にアップライトピアノがあるし、グランドピアノが弾きたければ学校のレッスン室を使えばいいので、あまり利用したことはないが。 「直臣、上のは?」 「ロフトだよ」 これがふたつめ。この部屋には梯子並に簡素で急な勾配の階段でつながったロフトが備わっているのだ。このマンションの最上階だけの仕様だ。もちろん、その分家賃もお高いが。アキラにはそこで寝てもらおうと思っている。 「それより、いいかげんフードをとったら?」 「え? あ……」 僕の指摘に、アキラは小さく驚きの声をもらした。どうやらここにきてようやく、今まで頑なにとろうとしなかったフードをとらねばならないことに気がついたようだ。やはり何か外せない理由があるのだろうか。 少しの間、アキラは迷い、 「ご、ごめん。オレ、ちょっと二、三時間ほど出てくる!」 いきなり背を向けた。 「待て待て。どこに行くつもりだ」 「ほ、ほら、日用品とか着替えとか、ぜんぜんないからさ」 そう早口でまくし立てると、アキラは踵を返し、部屋から出ていこうとする。あえてフードとの関連に目をつむれば、確かにそれもなるほどではあるが、何も持たずで行かせるわけにはいかない。僕は彼の背に呼びかけた。 「だったら、これを持っていくといいよ」 メモにペンを走らせ、アキラに差し出す。 「これは?」 「僕のケータイの番号。今迷子になったら帰れないどころか、連絡すらとれないだろ?」 まぁ、駅からここまでは徒歩圏内。道もわかりやすいから、たとえ迷子になっても一度駅に出て仕切り直せば大丈夫だとは思うが。念には念をだ。 「あ、ありがとう。……じゃあ、いってくる!」 アキラはポケットにメモを突っ込み、部屋を飛び出ていった。 「さて、では僕は、と……」 やはりまずはロフトの片づけからだろうな。 音がないのも寂しいので、とりあえずテレビを点ける。それからバルコニーに続く全面窓を開け放ってから、ロフトに上がった。 ロフトは天井が近いことを除けば、四畳半程度の広さがあり、普段僕はそこで寝ている。が、今日からしばらくはアキラに譲り、僕は床で寝ることにしよう。さっそく布団を下に落とす。それを押入れに放り込み、代わりに来客用に用意していた布団を出す。これは後でアキラと協力してロフトに上げることにして、今は保留だ。 間、テレビからは午後のワイドショーが流れていて、やれ芸能人カップルが破局しただの、歌姫が突然活動休止を宣言しただの、くだらないことをさも一大事であるかのようにセンセーショナルに扱っていた。ぶっちゃけ、知らんがな、である。見事に芸能ネタの好きな主婦向けの番組作りだ。 そこまで終わると、防音のための二重窓を閉め、空調の電源を入れた。 そして、練習のためにピアノの前に座る。正直、まったく乗り気はしなかった。もういっそのこと一度ピアノから離れてしまえば気持ちもすっきりするのかもしれないが、一日休めば取り戻すのに三日かかるとはよく言ったもので、指を鈍らせないためにも練習を欠かすわけにはいかない。 一時間ほど己の苛立ちをぶつけるみたいにして、やけくそ気味に弾き散らした。こんな弾き方では逆に腕を落としそうだと、いつも思う。 「今日はこれくらいにしておくか」 蓋を閉め、鍵盤を覆い隠してしまうと、僕は逃げるようにその場を離れた。 ライティングデスクのキャスター付きチェアーを転がしながらパソコンデスクへと向かう。マウスを動かしてパソコンをスタンバイ状態から復帰させると、そこに映し出されたのはデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)の画面だ。現在の僕の興味は専らこっち、DAWで作った曲を音声合成ソフト"シンガーロイド"で歌わせることだった。とは言え、絶賛難航中。遅々として進んでいない。しかし、同じ難航でもピアノのような苦痛は感じていなかった。それはまだはじめたばかりで、右も左もわかっていないからなのだろう。行き詰まって途方に暮れるほど、僕はまだ道を進んではいないのだ。 「業腹だけど、やっぱり但馬にレクチャー願うか」 僕は同じ大学に通う友人の名を口にする。 今、僕が行き詰まっている理由はふたつ。 ひとつは、作詞・作曲の点。僕は演奏者であって作曲者ではないため、曲を作るという試み自体が初めてのことだ。しかし、これはあくまでも僕のセンスの問題なので、自分でどうにかしてみせるつもりでいる。 もうひとつは、ソフトを使うにあたっての技術的な部分だ。いちおう基本的な操作はマスターして、短いフレーズを歌わせるくらいのことはできているのだが、本当にただ楽譜通りに発音させているだけに過ぎない。もっと人間っぽく歌わせるにはそれなりのテクニックが必要なようで、それは偉大なる先人に教えを乞うのがいちばんの近道のようだ。そして、それこそが作曲科でコンピュータ音楽専修の但馬だった。 と、そのとき玄関チャイムが鳴った。 「はーい」 おそらくアキラだろうと予想し、インターホンは使わずに返事をしながら玄関へと向かう。途中、横目で時計を見れば、彼が出て行ってから三時間ほどがたっていた。 「あ、オレ。アキラ」 「開いてるよ」 どうやら迷うことなく、無事帰ってこれたようだ。 「今度から勝手に入ってきていいから」 そう応じつつドアを開ける。 かくしてそこに立っていたアキラはパーカーのフードをとっていて――僕はうっかり絶句してしまう。第一印象を少しも損なうことのない、少女と見紛うばかりの美少年だった。 「へ、変かな……?」 言葉を詰まらせる僕に、アキラは自分の髪に触れながら不安そうに問うてきた。 「い、いや……」 と答えて、そこであることに気づく。 「ん? もしかして床屋に行ってきたのか?」 「と、床屋!? 美容院って言って!」 アキラは心外そうに訂正を求めてくる。 「男が美容院って……いや、そこまでおかしいこともないのか」 大学の友人の中にもそういうやつはいる。僕なんか床屋で十分だと思ってしまうのだが、彼らは口をそろえて「これくらい男として当たり前だろ」と言うのだ。じゃあ、何か? 僕は男として論外なのか? アキラほどの容姿の持ち主にもなると、尚更そういうところに気を遣うのだろうな。確かに床屋のトニックのようなきつい匂いではなく、高級なシャンプーのような上品な香りがする。 「でも、どうして今?」 アキラを招き入れながら、僕は疑問を口にした。 「まぁ、家出の記念ってところかな? それにけっこう伸ばしてたし、思い切ってバッサリ切ったんだ」 「バッサリねぇ」 今でも女の子のショートカットくらいあるのだが、いったい今までどれだけ伸ばしていたんだろうな。 中に入ったアキラは、外で買ってきたらしい紙袋を抱え、キョロキョロと部屋を見回す。 「オレ、どうしたらいい?」 「とりあえず、荷物はロフトに置いて。それからそこにある布団も上に上げるから手伝って」 「はーい」 アキラは元気よく返事をした。 夕食はアキラが作ってくれた。 この家にはダイニングテーブルというものがないので、いつも部屋の真ん中に置いたテーブルまで運んで食べている。誰かと向かい合って食べるのは初めてだ。 「うん。なかなか旨いね」 「ま、これくらい家にいるときは自分でやってるから」 彼は謙遜するでもなく、当たり前のようにさらりと言った。彼の生活が垣間見えるような見えないような台詞だ。 「ていうか、冷蔵庫に何もなさすぎ。直臣、どんな食生活送ってんのさ」 「悪かったよ」 もとからテキトーだったのが、このところ気持ちが荒んでさらにテキトーになったからな。おかげでこの夕食も冷蔵庫に残っていた肉と野菜を放り込んだだけの野菜炒めが中心のメニューで、料理のできるアキラとしてはこんなものしか作れなかったことが不満なのだろう。 「明日、スーパーに行って何か買ってくるよ。そしたらもっとちゃんとしたものが作れるし」 それはありがたいな。どうにも保護した家出少年に胃袋を掌握されつつあるような気がしないでもないが。 そのまま夜になり、僕がシャワーを浴びて風呂場から出てくると、アキラはテレビを見ていた。 「アキラも入ってきたら? 風呂じゃなくて、シャワーだけど」 「うん。オレもそれで十分……って、なんで裸なんだよ! 信じらんない!」 アキラは僕の姿を見るなり、転がっていたクッションを投げつけてきた。猛烈な勢いで飛んでくるが、所詮はクッション。見事に顔面にヒットしたが、たいしたダメージはない。 「裸っていっても上だけだろ」 改めて自分の姿を見る。 通気性のいいスウェットパンツを穿き、裸の上半身にバスタオルを引っかけてるだけ。そこまで目を覆うほどの恰好ではないと思うのだが。 「一緒だよ。早く服着てよ!」 「わかったよ。うるさいやつだな」 僕はクローゼットの抽斗からTシャツを引っ張り出した。 「ああ、もういいよ。オレも入ってくるから。直臣は好きなだけ裸でいたら!」 面倒くさそうにしている僕を見て、アキラは僕と入れ違いにバスルームへと向かおうとする。 「タオルなら脱衣場に置いてあるやつを使っていいから」 「大丈夫。自分のがあるから」 背を向けたまま言うアキラの手には、確かにタオルがあった。 キッチンスペースに消えていった彼を見送った後、僕はパソコンの前に座った。まだ汗が引いていないので、Tシャツを着るのはもう少し後にする。もちろん、アキラが出てくるまでには着るが。 パソコンに向かってするのは、当然、シンガーロイド用の作曲作業。このところ暇があればこればかりやっている。大学の夏休みが終わるまでに完成すればいいのだが。 DAWを展開し、作業を再開する。 とりあえず何小節分かの主旋律をピアノで作曲し、流してみているのだが、ぜんぜんピンとこず、その先にもまったく続かない。曲を作ると決めてから、ずっとこれの繰り返しだ。むりやり絞り出してでも前に進むべきだろうか。それとも詞が先か。 思案していると、程なくしてアキラが戻ってきた。 「あれ? 何やってるの?」 彼は、夕方に買っておいたのか、淡黄色のパジャマを着ていた。頭も洗ったようで、髪が湿っていた。水も滴るいい男ならぬ、いい美少年だ。不覚にも得も言われぬ色気にどきっとしてしまった。 内心の動揺を巧みに隠し、僕は答える。 「ああ、これ? シンガーロイド用の曲を作ってるんだ」 「シガロ?」 略称を用いたところを見ると、彼もそれなりには知っているようだ。よけいな説明を求められなくていい。 「直臣ってそんなこともするんだ」 「いや、これが初めて」 気まぐれにはじめたことだが、意外にのめり込んでしまっているのだった。 「どう? 進んでる?」 アキラは僕の斜め後ろに立ち、画面を覗き込んでくる。 「いや、さっぱり。どうやら詞があったほうが作りやすそうだと、ようやく気づいたところだよ」 「あ、作詞のほうがまだなんだ。ふうん……」 何か考えてるふうのアキラ。 「どうかした?」 「ううん。なんでも」 が、問うたところで、そう誤魔化された。 「そうだ。ピアノは? 作曲ならピアノを弾きながらのほうがいいんじゃない?」 「確かにそれもひとつの方法だけど……」 僕はちらと時計を見た。 「残念。このマンションの決まりで、演奏は夜十時までなんだ」 すでに二十二時を回っているので演奏は厳禁だ。 正直、今の僕は最低限の練習以外でピアノに触れるつもりはなかった。上手く弾けないわけじゃない。自分としては今までと何も変わっていないつもりだった。だけど、僕の指導教員は黙って首を横に振るばかりで、何が悪いのか言ってはくれない。おそらく先生にも具体的に言えないのだろう。つまり非常に感覚的なことで、それだけに即効性の解決策も見当たらない。にも拘らず――前にも述べた通り、ピアノから離れることができないだけに、今の状況は悪夢のようだった。 「どうする? もう寝る?」 「そうだね。そうしよっかな。……上、オレが使っていいの?」 「ああ」 僕はいつもなら零時まで平気で起きているのだけど、照明が点いていてはアキラが寝にくいだろう。消灯して僕も寝ることにしよう。しばらくは早寝早起きの健全な生活を送ることになりそうだ。 部屋の中央のテーブルを端に寄せ、床に布団を敷いていると、上からアキラの声が降ってきた。 「これ、ロフトっていうの? オレこういうの初めて」 「それはいいけど、興奮して寝れないとかやめてくれよ?」 僕はロフトから顔を覗かせるアキラに、笑って言い返す。 しかし、消灯して僕が布団の上に身を横たえるころには、すっかり静かになっていた。先のはしゃぎように反して、体は疲れていたのかもしれない。 2014年1月26日公開 |
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