昼休み、キャンパス内にあるベーカリーカフェにて、
「直臣って鈍いですよね」
 わたしは向かいで一緒にお昼を食べている人に、ミルクのパンをひと口サイズに千切りつつ、愚痴のようにそう言ってみた。
 ――ゴールデンウィークも迫った四月の後半、新年度からはじまったわたしの大学生活は、ここにきてようやく落ち着きというものを見せはじめていた。
 最初はどこに行っても囲まれてばかりいたけど、それも一時の狂騒。今はそういうことも少なくなった。もちろん、知らない人に話しかけられたり、すれ違うときに手を振られるようなことはまだまだある。でも、どちらかと言うと、ファンのノリというよりは、同じ学生としてだ。ここでのわたしは小比賀晶子(こひが・しょうこ)ではなく比嘉晶(ひが・あきら)であって――直臣の好きな言葉を借りるなら、"一介の音大生"として認められつつあるのだろう。こうでないと大学に入った意味がない。
 ただ、不満があるとしたら――。
「そうかな?」
 わたしの言葉に応えたのは、同じ作曲科、同じコンピュータ音楽専修の先輩、但馬陽輝(たじま・はるき)さんだ。直臣ではない。
 彼は最初のアップルデニッシュを食べ終え、サンドウィッチの包装をあけるところだった。
「そうですよ」
 同調してくれない但馬さんの返事に、わたしはむっとして言い返す。
「ムキになるってことは、あれかな。狐塚のやつが晶ちゃんの気持ちに気づいてくれないみたいな?」
「ち、ちがいますっ」
 まぁ、それも少しあるけど。口にすらしていないものをわかってくださいと拗ねるほど、わたしは子どもではないつもりだ。
 カフェオレのグラスに口をつけてから、わたしは続ける。
「……わたし、まだ直臣と数えるほどしか会ってません」
 そう。問題はそこ。不満もそこだ。
 大学に入れば直臣と好きなだけ会えると思っていたのに。どうも避けられているような気がしてならない。キャンパス内で会えば前と同じように話してくれるけど、あまり長くは一緒にいてくれない。だったら――と、会う機会を設けようとすると、なんだかんだと理由をつけて断られる。
「そりゃあ、初日のあれが原因でしょ」
「う……」
 それを言われると返す言葉がない。
 この大学に入学して初日、久しぶりに直臣に会えたことが嬉しくて、さっそく会えたことがまるで運命のように感じられて、わたしは思わず彼に飛びついてしまい――結果、それがちょっとした騒ぎになったり、そのときの写真があちこちに拡散したりして、直臣には再会早々迷惑をかけることになってしまった。確かに、おかげで人前で一緒に居づらくなったけど、その騒動ももう落ち着いている。いつまでも距離をおいている必要はないはずだ。
 尤も、落ち着いている今の状況も問題なのだけど。
 その騒ぎのとき、幼馴染みだとか、久しぶりに会った友達だとか、その場その場で行き当たりばったりの苦しい言い訳をしているうちに煙に巻くことになり、その結果わたしと直臣は単なる"お友達"ということで落ち着いた。
 落ち着いてしまった。
 とても、大問題。
 いや、確かに間違ってはいないのだけど……。
「ま、狐塚が晶ちゃんのことを心配しているのは確かだろうさ」
 そう言って但馬さんは笑う。
 はっきりと言ったことはないけれど、ある日「俺、狐塚の友達の但馬。よろしく」と現れたこの人は、きっと直臣からわたしのことを頼まれたのだろうと思っている。同じ学科の先輩として面倒を見てやってくれか、周りに気をつけてやってくれか、どれくらいかは知らないけれど。
("アキラは僕の嫁だから、変な男が寄らないように注意してくれ"とかだったりして……!)
 前に一度、嫁と言われたことがあるけど、あのときはどきっとしたものだった。
「晶ちゃん、顔が緩んでるぜ?」
「いーえ、そんなことありませんっ」
 わたしは顔をキッと引き締める。
 但馬さんはなかなかの美形で、作曲科に在籍しながら楽器をいくつもこなすという多彩な才能をもっている。ある意味、絵に描いたようなとてもスマートな音大生だ。そのせいかこうしてよく一緒にいることで、しばしば噂になる。だけど、そのたびに彼は、冗談で返し、笑って誤魔化し、曖昧にはぐらかして、絶対に噂に信憑性をもたせない。その上、しつこく言い寄ってくる人も追い返してしまう。何かと防波堤になってくれている節があった。
 但馬さんのそういう立ち位置を見れば、直臣にわたしのことを頼まれているという想像も、おそらく間違ってはいないだろう。
「心配するくらいなら、自分がそばにいればいいのに……」
「まったくだ」
 但馬さんはわたしのつぶやきに、やはり笑ってうなずく。
 ――なぜ直臣はここにいないのだろう。
 ――なぜそばにいてくれないのだろう。
 そんなに気になるのなら、手もとにおいておけばいいのに。
「ところで、」
 但馬さんの声で沈みかけた気持ちが引き戻される。
「晶ちゃんはどうして大学なんかに? ……ああ、狐塚がいるからっていうのはなしな」
「い、言いませんよっ」
 そう言い返しておいてから、わたしは振り返るように言葉を紡ぐ。
「わたし、社会経験がないんです」
 十六才でひょんなことから歌手としてデビューし、人気はうなぎ登り――どころか、いきなり頂点に到達し、以後もそれを維持し続けた。名実ともにトップアーティストだ。ファンが同年代である十代後半から二十代に多かったことで、わたしは若もののカリスマなどと言われるようになっていた。事務所やレコード会社にとっては、そんなわたしは金の卵を産む雌鶏だったに違いない。
 でも、それも長くは続かなかった。いや、今の芸能界、音楽界なら十分に長かったと言えるのかもしれない。
 "十八才の歌姫"と呼ばれていたころのわたしは、そのフレーズとは裏腹に人気は陰りを見せはじめていた。国産のアイドル集団や成長著しいお隣の国から次から次へとやってくるアイドルユニットたちに圧されていたのだ。それは強烈なプレッシャとなってわたしに襲いかかった。
 尤も、あちらの商法があくどいとか、お隣の国贔屓のマスコミによる人気の捏造やゴリ押しだという意見もあっただろう。でも、プロモーションとゴリ押しの境界なんて曖昧なものだ。わたしがデビューするときも、事務所が異例の宣伝費を投じてずいぶんと売り込んでくれたと聞いているし、有線のラジオ番組にはブレイク前の曲を猛プッシュするヘビーローテーションなんてものもある。それだって見方によればゴリ押しかもしれない。
 それは兎も角として。
 実際のところ、彼女たちが特別なだけで、わたしもトップアーティストとしてまだ十分にやれていた。だけど、それまで蝶よ花よ歌姫よとちやほやされてきたわたしには、立たされた苦境の中でそれを冷静に判断する余裕はなかった。頂点から滑り落ちた小比賀晶子に商品価値はないと、自分のすべてを否定された気がしたのだ。
 そうしてようやく気づいた。わたしは甘やかされてきただけの小娘なのだと。
 このままでは遠からず"詰む"と思った。そうならないためにも、もっと多くのものを見聞きして、音楽を改めて勉強し、いろんな経験を積まないと。それはわたしの詞や歌に説得力を持たせ、音楽性を高めることにつながるだろう。それに、若もののカリスマが、実は普通の若ものが普通にしていることをしたことがない、では笑い話にもならない。
「それで、ついでに恋愛経験も積んでおこうってわけだ」
 但馬さんはからかうように言ってくる。
「べ、別にわたしは直臣とそういう予定は……。ただ一緒にいて、また前みたいに一緒に曲を作れたらと思ってるだけで……」
「俺は狐塚とは言ってないけどね」
「……」
「あと、そういう気持ちも恋愛と言うかもしれない」
「……」
 但馬さんはいじわるだ。
 わたしは不貞腐れつつ、ミルクのパンをまたひとくち頬張る。
「にしても、狐塚のやつも隅におけないよな。晶ちゃんと狐塚って、どうやって知り合ったわけ?」
 先ほどの話題を引っ張る様子もなく、興味深げに次の質問を投げかけてくる彼。
 わたしは一度周りを見回した。そばで聞き耳を立てているような人はいない。最初のころは、休み時間はもちろんのこと、食事中でも、ひどいときには講義の最中でも話しかけられた。でも、最近ではそういうこともなくなり、食事やプライベートな時間を邪魔されることもなくなっていた。
 周りを見回したときに目が合って手を振ってきた女の子たちに、同じように手を振り返す。
 テレビに映る小比賀晶子は、ツンと澄ましていて、どこか冷たい印象がある。知ったふうに語るマスコミによれば、親近感ではなく信仰で支持を得るタイプなのだそうだ。だけど、ここでのわたしはあくまで比嘉晶なので、そんなイメージを堅持するつもりはない。おかげで学生の間では「小比賀晶子って意外と親しみやすい」なんて言われているようだ。
 わたしは再び但馬さんに向き直り、切り出した。
「但馬さんだから言いますけど――」
 言葉や態度ではわざと軽薄そうに振る舞っているけど、この人は信用できるとわたしは思っていた。
「わたし、去年の夏しばらく、直臣の部屋に泊めてもらっていたんです」
「……は?」
 歌姫・小比賀晶子の爆弾発言に、目の前の先輩は間の抜けた声を上げた。
 そんな彼をよそに、わたしは振り返る。
 
 結局、あの日わたしは、自分を取り巻く世界から逃げ出した。
 
 歌手として潰れないための計画は、確かにあった。活動を縮小してでも将来は大学に進み、多くの経験を積んで戻ってくる。その結果としてトップに返り咲けなくても、それはそれでいいと思っていた。わたしは頂点にいたいわけではなく、できるだけ多くの人にいつまでもわたしの歌を聴いてもらいたいだけなのだから。
 だけど、甘やかされてきた小娘は、抜け出せない今の苦境に耐えられず――ついに逃げ出したのだった。
 残暑というには暑すぎるお盆過ぎ、わたしは夜も明けきらぬうちに決断した。手持ちでいちばん男の子っぽい服を選び、長い髪はフードの中に押し込んだ。とりあえずのものをリュックに詰めて背負い、街へと踏み出す。部屋には書き置きが一枚――「しばらく戻りません」。
 街にはまだ早朝だというのに、わたしと同年代の少年少女がそこかしこにいた。世間は夏休み。オールナイトで遊んでいたのだろうか。疲れた顔をしていたり、まだまだ元気いっぱいだったり。人それぞれだけど、皆、その表情は決まって楽しそうだった。
 誰もわたしを気にもかけなかった。夏休みの家出少年なんて珍しくもないのだろう。どこに行っても注目されるわたしにとって、それは新鮮なようで、どこか象徴的でもあった。まるで頂点から滑り落ちた小比賀晶子の、今の状況を表している気がした。今のお前なんて誰も見向きもしないのだと。
 午前九時過ぎ。
 スマートフォンが着信を告げた。相手はマネージャの星さんだった。真面目で厳しい彼女らしい。きっと時間通りに迎えにきて、あの置き手紙を見つけたのだろう。
 星さんは沖縄から出てきたわたしを娘のように、或いは、妹のようにかわいがってくれて、公私ともに面倒を見てくれている人だ。そんな彼女は、もぬけの殻となったあの部屋で置き手紙を読み、慌てて電話をかけてきたに違いない。それを思うと、この着信を無視することはできなかった。
「……はい」
『晶子!? ああ、よかった……』
「……」
 星さんの悲鳴みたいな声と、安堵。胸が痛んだ。
『あなた、今どこにいるの? いったい何を考えて――』
「……わたし、帰りたくありません」
 彼女の言葉を遮って、わたしは告げた。
『……』
「……」
 沈黙。
 そして、少しの間をおいてから、電話越しに星さんのため息が聞こえた。
『いいわ。あなたが何に悩んでいるか知っていて、何もできなかった私にも責任があります。……少し休養しましょう』
「え?」
『事務所には私が話をつけておきます。マスコミには、そうね、体調不良とでもしておきましょうか』
「いいんですか?」
『かまいません。晶子を潰すわけにはいかないもの。……兎に角、あなたはすぐに戻りなさい。体調がすぐれないはずなのに、外をふらふらしているのを見つかったら大変なことになるわ』
「……はい」
 こうして小比賀晶子の休養は、あっさりと決まったのだった。
 電話を切った後、わたしは星さんの言葉に逆らうかのように、すぐには帰らなかった。帰ったら彼女が待っていて仕事に連れ戻される、なんて疑っていたわけではないけれど。もう少し何も考えずぶらぶらしていたい気分だった。
 解放感はあった。
 でも、これが一時しのぎだということも十分に理解していた。いつまでも逃げてはいられない。それはわかっている。星さんも復帰を前提に話していた。それとも、このまま春まで待つのもひとつの手だろうか。
 その後、気分も晴れていないのに、わざわざ憂鬱になる場所に足を運んだのは、どういうわけだったのだろう。
 ――わたしは昼過ぎ、大手CDショップにいた。
 ここにはよくくる。ファーストシングルが出たときもここで発売イベントをしたし、その後もCDを出すたびにこっそり売り場を見にきていた。あのころは、いつもわたしのCDはランキングコーナーの最上段にあった。だけど、今は見えない壁でもあるかのように、そこに辿り着けない。今やそこは、最近話題のアイドルの指定席だった。
(いっそ、自分で百枚くらい買おっかな……)
 ランキングコーナーを見ながらそんなことを思い、ため息を吐く――と、不意に頭がくらっときた。昨夜はろくに食べないまま寝た。今日は朝も食べずに勢いだけで飛び出し、お昼もまだだ。空腹か、はたまた夏の暑さにやられたのか。わたしはその場にうずくまってしまった。
 情けないなぁ、と思った。
 コンディションが最悪だったのもあるけど、まだ家出して半日もたっていないのに。ここで倒れて、わたしが小比賀晶子だとわかったら大騒ぎになるだろうか。世間的には体調不良ってことになるみたいだし、少しは恰好がつくのかな?
 それにしても、さっきからこうしてうずくまっているのに、誰も声をかけてくれない。ああ、やっぱり都会って冷たい。わたしはこのまま誰の目にも止まらず、店の真ん中で死んでいくのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか?」
 ようやく誰かの声。男の人だ。
「お客様、どうかされましたか?」
 続けて寄ってきたのは、ここの店員のようだった。
「どうやら彼が具合を悪くしたみたいで」
「お連れ様ですか?」
「え?」
 問われて戸惑いの発音。
 マズいと思った。連れ合いでも何でもないわたしは、このままでは店に引き渡される。そうなれば大変だ。それはさっきも思ったけど、今度はもっと現実的な危機として感じられた。
 思わず彼の腕を強くつかみ、顔を上げる。
 彼がわたしの顔を見て息をのむのがわかった。小比賀晶子だとバレた? でも、かまわない。彼さえ黙っていてくれたら、騒ぎにならずにすむ。わたしは一縷の望みをかけて、目で訴えた。
 かくして――、
「……ええ、僕の友人です。大丈夫です。その辺で休ませますから」
 彼はそう言い、店員は去っていった。
「大丈夫ですか?」
 改めて心配される。
 気が緩んだのだろうか、わたしはとても本能的な欲求を口にした。
「……お腹すいた」
 
 そうして出会ったのが直臣だった。
 
「夏っていや、まだ鹿角とつき合ってたよな。狐塚のやつ、そんなときによく女の子を家に上げたな」
「わたし、男の子の振りしてましたから」
 あの人の名前を聞いて、内心むっとしつつ答える。
 直臣はわたしが小比賀晶子だと気づいていなかった。それどころか、よくできているとは言い難いあの変装で男の子だと信じて疑わなかった。
『行くところがないなら、僕のところにくるか?』
 挙げ句、わたしを家に誘ったのだった。
 実は全部わかっていて、わたしを罠にかけるべく知らない振りをしているのではないかと思った。だけど、疑いの目で見ても、直臣にそんな様子は微塵もなく――結局、わたしは彼についていくことにした。
「直臣って鈍いと思いません? 普通一ヶ月も一緒に暮らしてたら、女の子だと気づくと思うんです」
 長く伸ばしていた髪は、その日のうちに思いきって切った。
 馴染みの美容師に電話をしたら、すぐにお店を貸し切り状態にして切ってくれたのだ。普段からわたしの仕事の都合に合わせて、夜中でも店を開けてくれる人で、むりを聞いてくれてとても助かった。このときにはもう、お昼のワイドショーで小比賀晶子の休養が話題になった後だったので、ずいぶんと心配されてしまった。
「いやぁ、晶ちゃんなら男の振りをするくらい――」
「すごく苦労しましたけどなにか?」
 人の胸のあたりを見て苦笑いを浮かべる但馬さんを、わたしは睨んで黙らせる。
 別に自分の胸が残念だとか思ったことはないし、直臣と自転車のふたり乗りをしたときも案外後ろから抱きついても大丈夫だったんじゃないかなんて考えたこともない。……もしかして最近直臣に避けられているのも、胸のあたりの女子力の不足が原因? 十八でこれだともう絶望的だろうか。
 それはさておき。
 あのころの直臣はたまたま保護しただけの家出少年になんて興味はなくて、だから、わたしが女の子だと気づかなかったのだろうか? いや、きっとそうではないと思う。だって、直臣は言っていたのだから。
 
『アキラはアキラってだけで十分ってこと』
 
 彼はそこにあるわたしを、あるがまま受け入れてくれたのだろう。"アキラ"であること以上の意味をもたせず、家出した事情も聞かず、いくつもあったであろうおかしな素振りも気にしないでくれたのだ。
 
 でも、わたしはそんな直臣を、最初は利用するだけのつもりだった。
 自分の部屋は仕事と結びつきすぎているから、あまり帰りたくはなかった。だから、わたしには直臣の誘いは丁度よかったのだ。休養宣言も出されて小比賀晶子という役割からも解放されたし、ここで二、三日泊めてもらって、気分転換したら帰ろうと思っていた。
 見るからに人のよさそうな直臣を利用するだけ。ただそれだけのつもりだったのに……。
 
 
 2014年4月19日公開

 


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