「直臣って包容力はありますよね」
 わたしはあの夏に感じたことを口にしてみた。
「そりゃ同感だな」
 向かいで但馬さんがそう答える。
 そのあたりは共通認識らしい。わたしにだけではないのが残念だけど。
「あのわがままな鹿角とつき合えたあたり、それは間違いないな」
「……」
 その名前を聞くと、どうしても複雑な気持ちになるのだった。
 
 わたしは直臣に『アキラ』とだけ名乗った。自分のことを指して"オレ"と言い、性別も偽った。にも拘らず、彼を騙しているという意識は薄かったのはなぜだろうか?
 自分を正当化するようだけど――それはきっと、あのときのわたしは小比賀晶子ではなく、それどころか比嘉晶ですらなくて、"アキラ"以外の何ものでもなかったからだろう。
 アキラ。
 それがあのときのわたしの、唯一無二、真実の姿だった。
 
 あの夏、わたしにふたつの出会いがあった。
 ひとつは、言うまでもなく直臣だ。
 狐塚直臣(こづか・なおみ)という人は、特別なところのない普通の人だと思う。容姿はまあまあ。でも、物腰がやわらかく、優しい感じがわたしは好きだ。音大に通う学生で、今はひとり暮らし。部屋はきれいに片づいていたので、だらしないといった印象はなかった。だけど、どういうわけか唯一食生活だけはいいかげんだった。
 そんな直臣がどこか自分と似ていると、わたしは思った。
 男と女。
 住む世界も違うはずなのに。
 なぜか抱いたそんな思い。
 そして、後になってそれは気のせいではなかったと知ることになる――。
 
 直臣との生活がはじまった。
 
 直臣の部屋はほとんどワンルームみたいなものだった。でも、ロフトがあり、そこを好きに使っていいと言われた。広さは、和室にして八から十畳といったところ。お金だけはあり余っていて高級マンションに住んでいたわたしには、信じられないくらい狭いスペースだった。まぁ、二、三日泊めてもらうだけだし……と思っていたのだけど、まさか一ヶ月も居座ることになるとは、このときは夢にも思わなかった。
 ただ、不安もあった。
(ここで男の人とふたりきり……)
 彼がわたしのことを男の子だと信じ込んでいるにしても、さすがにこれはちょっと迂闊だったかもしれない。早々に女の子だとバレてもおかしくはない。とは言え、彼はそれを知った途端、いきなり何かしてくるような人ではないと思った。逆に妙な真面目さを発揮して「やっぱり泊められないよ」なんて言い出しそうだ。
 結論から言うと、ぜんぜん気がつかなかったのだけど。
 鈍いというよりも、むしろ残念なレベル。
 先にも触れた通り、直臣は食生活だけはなぜかいいかげんだった。頼りないというか、少し心配になって、そこはわたしが仕切ることにした。怒ると言い訳しつつ謝る彼が、ちょっと可笑しかった。作ると喜んで食べてくれるので、こちらとしては作り甲斐があるのだけど。
 直臣の部屋にはピアノがあった。
 彼は大学ではピアノを専門に学んでいるのだそうだ。でも、わたしと出会ったころの直臣は、あまりそれを弾こうとしなかった。どちらかと言えば、何かと理由をつけては避けているように見え――少し気になった。
 その代わりに手掛けていたのが、音声合成ソフト"シンガーロイド"用の曲作りだった。
 
 わたしが出会ったもうひとつのもの。
 それがシンガーロイドだった。
 
 シンガーロイドについては知識だけはあった。特に興味はなかったし、直臣がそれ用の曲を書いていると知っても「ふーん」としか思わなかった。ただ、詞がまだだと聞いて、一瞬手伝おうかなとは思ったけど。
 小比賀晶子の曲は、ほとんど自分で作詞をしている。毎度お馴染み知ったふうに語るマスコミによれば、一人称に『僕』や『僕たち』が多用されている詞を、女の小比賀晶子が歌うことで、男女問わず若ものの共感を呼んでいるのだそうだ。でも、わたしにしてみれば、正直「これそんないいですか……?」だった。
 翌日、直臣が電気屋街に行くと言うので、わたしもついていくことにした。
 そうして辿り着いたのは、思わずドン引きするようなお店だった。アニメか何かだろうか、どれもこれも短いスカートを惜しげもなくひるがえしているような女の子のポスターが、店頭のいたるところに貼ってあった。かわいいといえばかわいいけど、あざといというか何か露骨なものを感じる。
「そんなところでなに買うんだよ」
「CDだよ。シンガーロイドの曲の」
 非難気味に問えば、直臣はそうあっさりと答え、特に躊躇う様子もなくお店に入っていった。わたしも後に続く。
 こんなところには今まできたこともなくて、何となく興味が出てきた。「オレ、ちょっと別の階を回ってくるね」と直臣と別行動をとったのが運のつき。エスカレータで上に上がれば上がるほど、貼られている販促ポスターが露骨になっていく中、わたしが足を踏み入れたのはとあるフロア。平台に積んである商品のパッケージを見れば、裸も同然の女の子のイラストが描かれていた。怖いもの見たさでそれを手に取り、矯めつ眇めつしながら眺め――パッケージ裏を見た瞬間「ひっ」とわたしの口から短い悲鳴が漏れてしまった。わたしはそれをそっと戻し、直臣のところに逃げ帰った。
「大人向けのゲームだよ」
 いわゆる美少女ゲームというものなのだそうだ。彼は笑ってそうおしえてくれた。
 聞けば直臣もやったことがあるのだとか。
 
「直臣にあんなのをおしえたの、絶対に但馬さんですよね」
「何のことかわからないけど、狐塚を贔屓しすぎて、晶ちゃんの中で絶対に何かフィルタがかかってるだろ、俺に」
 但馬さんは口を歪めつつ苦笑いをした。
 そんなつもりはないけど。
 直臣にシンガーロイドをおしえたのは、この但馬さんだ。その点については感謝している。
『君ももう少ししたらわかるよ』
 あのとき、わたしを男の子だと信じて疑っていない直臣は、なだめるようにそう言い、わたしは一生わからないとむっとして言い返した。
 でも、確かに今なら少しわかる。
 この半年ちょっとで、わたしも大人になったものだ。……気持ちだけだけど。
 
 直臣はそのお店でCDを一枚買ったものの、家に帰ってもまったく聴こうとしなかった。お店の袋から出しただけで、テーブルの上にほったらかし。
 壁際にはコンポ。それもアンプとスピーカーシステムをそれぞれ別箇で購入して組み合わせたもののようだ。どちらも音響メーカーのけっこういいやつだ。転がっているヘッドホンも、決して安くはないモニターヘッドホン。随所に直臣のこだわりが窺えた。
 CDラックはほとんどがクラシック音楽のようで、ポップスはあまりない。その少ないポップスには、残念ながら小比賀晶子のものはなく、わたしが生まれるよりも前、八十年代から活躍しているロックバンドのCDばかりだった。きっと好きなのだろう。
 ちょっと想像してみる。直臣はわたしが小比賀晶子だと知ったら驚くだろうか。それともぜんぜん興味がなくて、名前も知らないのだろうか。
「直臣、これ先に聴いていい?」
 テーブルの上のCDが気になって、わたしは思い切ってそう聞いてみた。
 返事は快諾。さっそくCDをコンポに挿し込み、ヘッドホンを使って聴く。最初は、モニターヘッドホンは音の分解能が強すぎるな、なんて思いながら聴いていたけど――気がつけば聴き入っていた。
 ヴォーカルは音声ライブラリによるものなので、どんなに上手く加工しても人の声にはどうしても及ばない。楽曲自体はDTMでの打ち込みがほとんどだから、とてもデジタルで、時には無機質にすら聞こえる。にも拘らず、わたしは強い衝撃を受けた。とても挑戦的な音楽だと思ったのだ。
 いつの間にか、わたしは直臣のパソコンの前に座って、動画サイトに投稿された曲を、何かに憑りつかれたように聴き漁っていた。
 もうひとつ衝撃を受けたものがある。
 それは曲を作る彼らの姿勢だった。
 プロデューサとも呼ばれる彼らは、人気、売上、ランキング、そんな『結果』など関係なく、ただ好きだからという理由だけで曲を書いている。無償で、少なくない時間を費やし、プロ顔負けの才能を発揮して。そんな彼らのスタイルに、わたしは強い憧憬の念を抱いた。
 今、わたしの目の前には知らない世界が広がっていて、その世界に自分も挑みたいと思った。
「オレもやってみたい。直臣さえよかったら、直臣のを手伝わせてよ」
 だから、思わず直臣にそう切り出していた。
 直臣は少し驚いたような顔をし、わたしを見つめ返す。何か考えているふうだった。
「そうだね。一緒にやろうか」
 やがて、直臣は笑ってそう言ってくれて――、
 
 こうしてわたしと直臣の曲作りがはじまったのだった。
 
「あ」
 不意に但馬さんが短く声を発した。視線の焦点(フォーカス)はわたしの後ろ。でも、言葉は継がなかった。まるで先の発音などなかったかのような振る舞い。
 直感的に何かあると思い、振り返れば――そこに直臣の姿があった。
 わたしはすぐに立ち上がり、表へと出る。
「直臣!」
「やあ、アキラ」
 彼はわたしを見るなり、笑みを返してくれた。
 でも、どうやらわたしは直臣しか見えていなかったようで、そのときになってようやく彼の隣に髪の長い女の人がいることに気がついた。
 意志の強そうな大きな目が、どこか血統書付きの高貴な猫を連想させる人だ。決して大柄だったり背が高いほうではないけど、とても存在感があった。
「よう、狐塚」
 但馬さんも出てくる。
「お、いあいあも一緒……痛っ」
「そんな変な名前で呼ぶなと、いつも言っているのです。お前は何度言えばわかるのですか。バカなのですか?」
 但馬さんの言葉が終わるか終らないかのうちに、彼女はその頭をもっていた楽譜で叩いた。
 彼女の本当の名前は、浅井藍(あさい・あい)という。
 直臣と同じ鍵盤楽器専修ピアノコースの人だと聞いている。
「ひどいな、いあちゃんは。こう見えても俺『Ready with Music』の表紙を飾った男だぜ?」
「だったら、お前を起用した広報課もバカなのです」
 彼女はぴしゃりと言い放つ。
 但馬さんの口から出た『Ready with Music』とは、学生と広報課が連携した在校生、受験生向けの広報誌のことだ。まだ刊行がはじまったばかりで、大学の魅力や面白い授業の紹介が学生視点でされている。中には学生へのインタビューのコーナーもあって、第一号で取り上げられたのが但馬さんだった。その前の第ゼロ号となる創刊号が鹿角水緒美さんで、それぞれの表紙も彼と彼女が飾っている。
 因みに、第二号でインタビューさせてほしいと、すでにわたしにオファーがきていた。
「アキラは但馬と一緒にお昼かい?」
「ええ」
 但馬さんと浅井さんのやり取りを尻目に、直臣がわたしに聞いてくる。
「よかったら直臣も一緒に食べませんか?」
 この辺りはキャンパス内でも学生食堂や生協が集まる一角だ。直臣がここを歩いていたということは、彼も今からお昼なのだろう。
 尤も、ベーカリーカフェは、パンやサンドウィッチしかない上、その種類も豊富とは言えないので、お昼を食べるという点では少々不評だ。それでもわたしがここで昼食をとっているのは、ひとえにその不評ゆえだった。わたしが、人が少ないところがいいと言ったところ、但馬さんがここをおしえてくれたのだ。それに『住めば都』ではないけれど、そこまで悪いところではないと思っている。乳製品が売りなのか、ミルクのパンやチーズのパン、好きなだけ取れるバターが思いがけず美味しいのだ。
 だけど、直臣の返事はこれだった。
「悪い、アキラ。今からレッスン室なんだ」
「そう、ですか」
 最近の彼の振る舞いから半ば予想していたとはいえ、やはり面と向かって断られると凹んでしまう。でも、レッスン室を予約しているのなら仕方がない。
「……」
 ふと思った。そのレッスン室へは彼女も一緒なのだろうか。これからというタイミングで一緒にいるということは、きっとそうなのだろう。楽譜も持っているし。盗み見るようにして浅井さんに目をやれば、彼女もわたしの視線に気がついて、余裕のある大人っぽい微笑みを返してくる。わたしは思わず、ぷいと顔を背けた。
「また今度一緒に食べよう」
 直臣はそんなわたしに、なだめるように言う。
「そんなこと言って。その手の口約束、守ってくれたことがないです。信じられません」
「それを言われると弱いな」
 苦笑する直臣。
 言われて困るくらいなら、もっとちゃんと一緒にいてくれたらいいのに。
「もういいです。期待せずに待ってますから」
「何を怒ってるんだよ」
「知らない」
 これまでぜんぜん会ってくれなかったこともあって、わたしは思わず口を尖らせる。
 すると、直臣は目を細め、おもむろにわたしの頭をぽんぽんと二、三回軽く叩いたのだった。
「……」
 なぜだろうか。わたしはそれを懐かしいと思った。これまで――あの夏にだって、ひっついたりくっついたり触れ合ったりしたことなんて、自転車のふたり乗りを除けば、あの一回きりしかなかったのに。にも拘わらずそう思ったのは、今の彼にあの夏のころの面影があったからだろう。
 でも、直臣ははっとすると、その手を引っ込めてしまった。
「ご、ごめん……」
「……」
 するりと、逃げていってしまった気がした。
 沈黙。
 直臣はばつが悪そうに押し黙り、わたしは一瞬手が届きそうだった彼に逃げられ、寂しさに何も言えなかった。
 そんな何かがすれ違ってしまったような沈黙を、浅井さんが破った。
「狐塚、そろそろ行くのです。あまり長い時間は使えないのですよ」
「ああ、そうだった。じゃあ、アキラ、また今度。……但馬、後は頼んだ」
 直臣はそう言うと、浅井さんと一緒に器楽科校舎のほうへと去っていった。
 わたしはそれを黙って見送る。
 と、
 不意に浅井さんが振り返り、ちらとわたしを見た。一度、顔を前に戻し、今度は体ごと振り返って――こちらに引き返してきた。
「比嘉」
 わたしの名前を呼ぶと、顔を寄せてきた。
「お前の大切なナオミをとったりはしないのです。安心するのですよ」
「え?」
 驚くわたしに、浅井さんやわらかく微笑む。
 そうしてから彼女は改めて立ち去っていった。その先では直臣が、何ごとかと足を止めて振り返っていて――ふたりは再び合流すると、今度こそ並んで姿を消した。
「晶ちゃんは狐塚の前だと、まるで子どもだな」
「……」
 隣で笑う但馬さんを無視し、わたしはベーカリーカフェへと戻った。
 席に座り、最後のひと口だったパンを食べ終えると、今度は一緒に買ったヨーグルトのフタを開ける。このヨーグルトはスーパーでも売っているものだ。
 と、そこでわたしは、ふと思いついた思いつきを思いついたまま口にした。
「直臣って男の人のほうが好きだったりします?」
「は?」
 但馬さんが素っ頓狂な声を上げる。
「い、いや、そんなことはないと思うけど? 鹿角とつき合ってたわけだし」
「あ、そうですよね」
 確かにそうだ。
 だったら、なぜ、今のわたしはこんなにも直臣に相手にされていないのだろう。"オレ"なんて言っていたときに比べると、ずいぶんと女の子らしくしているのに。
「仮にそうだったら、あいつの友達なんてやってないって。……でも、いきなりどうして?」
「ああ、」
 別に根拠のない思いつきというわけではない。
「ここだけの話ですけどね」
「ほうほう」
 わたしが内緒話をするみたいにしてテーブルに身を乗り出すと、但馬さんも期待した様子で同じように身を乗り出してきた。
 わたしは直臣と、一度だけ触れ合ったことがある。
 でも、そのときのわたしはまだ男の子で、にも拘らず直臣は嫌悪感を露わにするような素振りを見せなかった。だから、先のようなことを思いついたのだ。
 そして、その一回というのが、
「わたし、キスしたことあるんです。直臣に」
 その瞬間、
 どんがらがっしゃん、と但馬さんがイスから豪快に転げ落ちた。
 
 
 2014年4月27日公開

 


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