サニーサイドアップにブラックペッパー
第3章 運動方程式
Q.なぜ鉄の球と羽毛が同じ速度で落下するのか?
1. ゴールデンウィークが明けて、ちょっとだけまた涼しさが戻ってきた。 「うぎゅ」 その初日の朝、可純は混雑した電車の中で、人と人にはさまれ、情けないうめき声を上げていた。 いつもならラッシュアワーを避けてもっと早い時間に登校しているのだが、連休ボケしていたのか起床が普段より遅くなってしまい、結果がこの有様だった。 車内は様々な制服の高校生、私服の大学生であふれ返っている。少ないながらも社会人もいることだろう。 ――まさかキャロルに起こされるとは思わなかったな。 可純を遅刻の窮地から救ったのが、一日23時間は寝ていそうなトラ猫、キャロルだった。キャロルに体の上に乗られ、てしてし顔を叩かれて起こされたのだ。尤も、起きる直前に見た悪夢は、のしかかる巨体のせいだったのかもしれないが。それでも感謝しないといけないことは確かだ。 ――晩ごはんはちょっと奮発してやろうかな。 でも、あまり食べさせるとまた太って、羽純に怒られるかもしれない。キャロルの正統な飼い主は妹の羽純なのだ。 「むぎゅ」 電車が揺れ、また圧迫される。 しかし、まだ乗り換えたばかりで、ようやくひとつめの駅。学園都市はもうみっつほど先だ。 幸い次は比較的大きな駅で、降りる乗客も多い。降りるのが多ければ乗るのも多いのだが、可純はその入れ替わりの隙にもっと楽に立てる位置を確保しようと目論んでいた。 やがて電車が駅に着いた。少なくない数の乗客がホームに吐き出され、車内の人口密度がぐっと下がった。そのタイミングを狙って奥へと進む。 が、 「わっ、ぷ……」 しかし、人の流れの変化は思っていたよりも速く急激で、可純は新たに入ってきた乗客の波に押され、挙句、人にぶつかってしまった。しかも、抱きつくようにして密着した構造だ。 「す、すいませんっ」 「あらあらあら、可純くんじゃないですかぁ」 のんびりした声に己の名前を呼ばれ、顔を上げれば目線より少し上の高さに見知った顔があった。 「へーさん?」 「はーい。へーさんでーす」 長い髪に、ぱっちりした目。ふんわりした雰囲気をもつ少女は、クラスメイトの入江英理依(イリエ・エリイ)だった。彼女は今日も嬉しそうに、唄うように返事をする。 「朝から痴漢行為ですか。大胆ですねぇ」 「ち、ちがうってば」 可純は慌てて英理依から離れた。が、混雑した電車の中ではあまり座標は変わらず、依然として至近距離。吐息がかかりそうなくらいに顔が近い。 「だいたい朝からって、昼でもそんなことしないよ」 「じゃあ、夜? それはそれで特殊な趣味というか、楽しみ方というか……。やっぱりお相手は柚木さんでしょうか。それとも耀子さん?」 何やら照れて顔を赤くしながら、掌を頬に当てる英理依。聞いているこっちまで赤くなるわ。可純はその様子を見てげんなりした。 「それより、なんでへーさんが電車に?」 「もちろん学校に行くためですけど?」 「じゃなくて、へーさん、寮生でしょ」 「はい」 因みに、女子寮B棟です――と英理依。 「そりゃそうだろうね。男子寮だったらびっくりだ」 「びっくりどころか、楽しそうですよね。周りは男の子ばかりですから」 またも赤面して頬を押さえる。今度は反対の頬と手。いったい彼女は頭の中で何を想像しているのだろうか。考えるだにおそろしい。 「いや、だから、寮生なら電車に乗らなくていいはずじゃない?」 「ああ、そういうことですか」 可純に言われて英理依が、ぱぁっ、と顔を輝かせた。決して頭の回転が遅いわけではないのだが、時折おかしな方向に行くようだ。 「実はゴールデンウィークの後半、実家に帰ってたんです」 「あ、なるほどね」 つまり、今日は実家から直接の登校らしい。これだけのことを聞くのにずいぶんと遠回りした気がする。可純はどっと疲れた。 「それにしても、すごい混みようです」 「うん。ボクもこれが嫌でいつもはもっと早いのに乗ってるんだけどね」 「ちゃんと降りれます?」 「『ら』が抜けてるよ。大丈夫じゃない? 学園都市でごっそり降りるはずだから」 そんなやり取りをしているうちにふた駅分の距離と時間は縮まり、車内に間もなく学園都市に到着する旨のアナウンスが流れた。乗客の意識が出口へと向く。可純も鞄を持ち直し、体をそちらへ向けた。 と、そのとき、可純の手をやわらかい感触が包み込んだ。英理依の手だ。振り向き、彼女を見る。 「おいていかないでくださいね」 「ま、まぁ、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うけど」 思いがけず握られた手にどぎまぎする。 程なくドアが開いた。途端、乗客がいっせいにそちらへと流れていく。 「あっ」 英理依の小さな悲鳴を聞いた気がするが、今さら止まることはできないし、止まること自体むりだ。 流れに乗って可純と英理依はホームの転がり出た。 「あー、つっかれたー……」 この感覚は登校初日以来だ。あのときも今日と同じような目に遭い、それをきっかけに早い時間の登校を決意したのだ。 不意に英理依が足を止め、遠慮がちに口を開いた。 「あのー、可純くん? 実は鞄が中に……」 「はい?」 可純は彼女を見る。手ぶらだ。思い返せば中で立っているときから、手には何も持っていなかったように思う。続けて電車を見た。一転してがらんとした車内。網棚に上には確かに翔星館高校の制鞄がひとつあるのが見えた。 「取ってくるっ」 言うなり可純は地を蹴った。 『間もなくドアが閉まります。危険ですので駆け込み乗車は――』 アナウンスを聞きながら車両に飛び込む。中でも似たようなフレーズが流れていた。時間がない。手を伸ばして網棚から鞄を引きずり下ろした。そして、反転。再度駆け出す。 だが、 「……」 無情にもドアは可純の鼻の先をかすめるようにして閉まった。 揺れ、動き出す電車。 外を見れば、なぜか英理依が白いハンカチを振っていた。楽しそうだ。 「……思わず茫然自失する可純くんなのでス……」 つぶやく可純を乗せ、電車は加速していく。 「って、そんなこと言ってる場合じゃなくてっ」 可純は携帯電話を取り出した。 「入江、入江……。あれ、ない? あぁ、ハ行か」 多少手間取りながらもメモリィから英理依の名前を見つけた。電話をかける。すぐに彼女ののんびりした声が返ってきた。 『あらあらあら、今別れたばかりなのに、何か用ですか?』 「別れたくて別れたんじゃないっ」 がおー、と可純は口から火を吹いた。 「とりあえず、へーさん先に行ってて。ボクは次の駅で折り返すから。朝のホームルームはむりかもだけど、一時間目には間に合うと思う」 『あ、急がなくても大丈夫ですよ。わたしの勉強道具は寮の部屋にありますから』 「……」 じゃあ、この鞄は何のために持ってて、何が入ってるの? 軽い。が、何も入っていないわけではないようだ。 「いちおーボクも遅刻はしたくないからね。急いでいくことにするよ。……うん。じゃあ、教室で」 可純は通話を切った。 脱力して倒れるようにシートに腰を下ろす。 周りを見ればさっきまでの混雑ぶりはどこへやら、嘘のように空いていた。いつも乗っている早い時間でも、ここまでではない。 ――まだ朝なのにぃ。 慌ただし過ぎる一日のはじまりに、可純の口からため息がもれた。 いつもは待つだけのホームに、反対側からきて降り立つというのは、なかなか新鮮な感覚だった。 一度は通り過ぎた学園都市に戻ってきてみれば、一気に制服の学生の姿は疎らになっていた。きっと朝のホームルームに間に合う電車は、可純が乗っていたのが最後だったのだろう。つまり、遅刻確定。一時間目にはまだ間に合いそうなのが不幸中の幸いか。 せめて傷口は浅く――そう思って走り出そうとした矢先だった。 「よっ」 肩を叩かれた。 振り返る。そこにいたのは翔星館の制服を着た女の子。ただし、上着はブレザーではなく白いベストで、足は黒いストッキングに包まれていた。人懐っこい笑みを浮かべるその顔は中性的で、少年のようにも見える。ショートヘアの丸顔に、可純はどことなく猫っぽい印象を受けた。 誰だろうと思ったのは一瞬。 「あっ」 すぐに思い出した。 「入試のときのっ」 「うん。久しぶり」 その少女は嬉しそうに、いっそう笑顔を見せる。 可純が彼女と出会ったのは、翔星館高校の入学試験のとき。と言っても、受験者同士としてではなく、彼女は試験会場で案内役をしていた。上級生なのだ。 その日、今日みたいにぎりぎりに会場入りした可純が、慌てるあまり受験票を持って右往左往しているところをいろいろと助けてくれたのが彼女だった。 「あのときはありがとうございました」 「ま、あれが仕事だからね」 きっと案内役や試験監督の手伝いに有志を募ったのだろう。もしくは、むりやり駆り出されたか。 ふたりは止めていた足を踏み出し、歩き出した。 「君が合格したのは知ってて、一度顔を見にいこうとは思ってたんだけどね。なかなか行けないまま、気がついたら5月になってた」 「受験生の誰が合格したとか、そういうのってわかるものなんですか?」 「普通はわからないよ」 と、彼女はあっさりと言う。 「でも、君は特別。君みたいな子が入ったってことは、みんな知ってることだよ。……ま、あたしの場合は、それとは別のコネクションがあるけどね」 「なんか衝撃の事実を聞いてる気が……?」 「君は自分で思っているよりも有名だってことを自覚したほうがいいね」 彼女は苦笑する。 そんなものだろうか。確かに少々目立つとは思うけど、そこまで言われるほどではない気がする。尤も、それこそが自覚のなさなのだろうが。 ふたりはキャンパスガーデンを抜ける。 当然のことながら、ショッピングモール周辺の店舗は、どれもまだ閉まっている。登校時はいつもこうだが、今日は同じ方向に向かう制服の姿がほとんどないのが普段と違う点だ。 「因みに、ボクってどんなふうに有名なんですか?」 「それはまだ内緒。いずれわかるよ。伝統的に中間テストが終わったころに解禁になるらしいし」 彼女はいたずらをしかけた少年のように笑う。可純はちょっとだけ頬をふくらませた。 「まぁ、なんにせよ、会えて嬉しいよ。たまにはこんな時間に登校してみるのもいいね」 「あ、そうだ。遅刻だったんだ! そんな暢気なこと言ってていいんですか!? 走らないとっ」 「いいよ。どうせ走ったって朝のホームルームには間に合わないんだから。一時間目までには入れるだろうし。ゆっくり行こう」 なんとも上級生らしい考え方と余裕だと思った。 キャンパスガーデンの敷地を出て、横断歩道を渡り――タイル張りの広い歩道を行く。翔星館高校へは、後は真っ直ぐだ。距離にしてバス停ひとつ分。 「で、君はなんで鞄をふたつ持ってるんだい? 罰ゲーム?」 「……そんなところです」 荷物持ちを強いた英理依には悪気はないのだろうが。 問うた先輩のほうは、使い込まれたぺしゃんこの制鞄を脇に抱えるようにして持っているだけ。とても軽そうだ。 学校までの距離は、そんな話と、入学したばかりの新入生ではまだ知り得ない高校生活の話題を聞いているうちに到達してしまった。朝のホームルーム終了のチャイムを、ちょうど門のところで聞いた。 翔星館高校は校門をくぐると、そのまま真っ直ぐ裏門まで一本の道が延びている。その敷地内を貫く道の、左手に校舎が、右手の一段下がったところにグラウンドが広がっている。昇降口は長く横たわる校舎の真ん中にあるため、門を入った後もしばらく歩くことになる。 「あ、あの、先輩」 昇降口で一旦別れた後、それぞれの下駄箱で上靴に履き替えてから、可純はもう一度彼女をつかまえた。 「どうしたの?」 「先輩の名前、聞きそびれちゃってて……」 なにせ呼びかけるだけなら“先輩”ですんでしまう。今さらの質問で少し恥ずかしかった。 「ああ、そうだったね。あたしは深町七瀬(フカマチ・ナナセ)。2年7組だよ」 「ボクは――」 「知ってる。梓沢可純でしょ?」 七瀬の発音が可純の言葉を遮った。今までの話の流れなら、知っていて当然だ。 「じゃあね」 「あ、はい。失礼します」 去っていく七瀬を可純が見送る。 今の時間は、朝のホームルームと一時間目の間。移動教室でもない限り生徒は廊下に出ないので、昇降口付近は静かなものだった。教室のある方向から、控えめな喧騒が聞こえてくる程度だ。 と思ったら、 「可純」 「うわあ、びっくりした!?」 立ち並ぶ下駄箱の陰から現れたのは耀子だった。 「なんでここにいるのっ? いつからいたのっ?」 「エリィから可純が遅れるって聞いて、迎えにきてみたのよ」 いつからいたのかは言わなかった。 「瞳ちゃん、何か言ってた?」 瞳ちゃんとは、担任の浅井瞳先生のことだ。今年初めてクラスを受け持つという。24歳。通称、24の瞳。来年にはもう使えないニックネームだ。 ふたりは教室に向かって、どちらからともなく歩き出した。 「別に何も。一時間目までにはくるって言っておいたから、遅刻はついてないはずよ」 「まさか脅したんじゃないよね?」 普通、出欠の判断はホームルーム開始の時点でなされるのだが。 「……」 耀子は何も答えない。可純は隣を盗み見た。知らん顔だ。 「……」 脅したのかよ。 初めて受け持つクラスにこんなのがいて、瞳ちゃんもたいへんだなぁ。可純は同情した。 「……あのさ、可純」 と、素っ気ない感じに、耀子。 「ん? なに?」 「……」 「いや、呼んどいて黙るってさ――」 「やっぱりいいわ」 「はい?」 思わず可純は耀子を見る。彼女の端整な横顔を見るのは、これで2回目。その表情には特に変わったところはない。 可純は首を傾げる。 耀子の様子がちょっとおかしい気がする連休明け第一日目だった。 2010年6月12日公開 |
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