翌日、
 相変わらずわたしは、自分でもわけがわからないまま、不貞腐れていた。
 そんなわたしの機嫌を取ろうと、直臣はいろいろと話しかけてくる。
 ――これもそのひとつ。
 ノートパソコンに向かうわたしに、直臣はキャスタ付きのイスに座ったまま話題を振ってくる。体ごとこちらに向いているあたり、一生懸命さが窺えた。
「そうだ、アキラ。ここから電車で少しいったところに、いい喫茶店があるんだ」
 駅前のスクランブル交差点を渡ったところにある繁華街の中ほどに、そのお店はあるのだと説明してくれる。
「ふうん。彼女とよく行くんだ」
「学校の帰りにね。今日もそこで待ち合わせなんだ。……今度一緒にいってみないか?」
「……いかない」
「そ、そうか」
 わたしが素っ気なく答えると、直臣はばつが悪そうにそう言い、イスを回転させて自分のデスクトップパソコンへと向き直った。
「……」
 彼の背中を眺め、わたしは小さくため息を吐く。
 ちょっと直臣が心配になってきた。
 恋人とよく行くお店にほかの女の子を誘うとは、いったいどういうつもりなのだろう。無神経にもほどがある。わたしにも彼女にも失礼というものだ。……いや、今のわたしは男の子だけど。直臣にはそうとしか見えていないみたいだけど。それでも腹が立つことには変わりはない。直臣に恋人がいるとわかってからずっと胸がもやもやするし、その彼女のことを話す彼を見ているとむっとした気分になる。何この気持ち? 殺意?
 それは兎も角として、思いがけない情報を手に入れて、わたしはひとつ閃いてしまったのだった。
 
 
 そして、そのまま正午。
 ぎこちない会話のままお昼を食べ、後片づけが終わると、その閃きを実行すべく早速行動に移る。
「ちょっと出かけてくるから」
「え? ああ、うん」
 戸惑いを含んだ直臣の声を背に、わたしはパーカーのフードをかぶりながら外に出る。早く戻ってこないと直臣が出かけられない――と思った瞬間、「あ、それもいいかも」と考えてしまった。ちょっと自己嫌悪。
 でも、どうしても考えてしまう。わたしがこのまま直臣が出かける時間に帰ってこなかったら、彼はどうするだろうか。
「……」
 そんなの考えるまでもない。わたしなんかほうっておいて、彼女のところに行くに決まっている。帰ってくるのを待っていてくれて、「アキラが帰ってこないから、出かけられないだろ」なんて苦笑しつつ文句を言う彼――そんなのはわたしの都合のいい妄想でしかない。帰ってこない家出少年と恋人では比べるだけ無駄というもの。……と、わかっていても、やっぱりむっとくる。人の気も知らないでと思ってしまう。
(でも、"人(わたし)の気"っていったいなんだろう……?)
 そう首を傾げながら、わたしは駅へと歩いた。
 
 
 それからおよそ二時間後の午後三時前、帰ってきたわたしは肩から大きな紙袋を提げていた。中に入っているのは、服。電車を乗り継いで行ってきたファッションビルに店舗をかまえるお店で買ってきたものだ。
「ただいまー」
 まるで慣れ親しんだ自分の部屋のように中に這入り、直臣の「おかえり」の声を聞きながら居室スペースを横切る。
「って、何それ?」
「ちょっとね、服を買ったんだ」
 ロフトへの階段をのぼりつつ、紙袋を上に放り込む。そして、自分もそのままロフトに上がった。紙袋には高級ブランドのロゴが大きく描かれていたのだけれど、直臣からは見えなかったのか、ただ単に知らなかっただけか、彼はその意味に気がつかなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
 と、
「アキラ」
 直臣がわたしを呼んだ。
 ロフトから顔を出して下を見ると、彼はライティングデスクの抽斗を開けているところだった。
「はい」
 そこから取り出した何かを、直臣は投げて寄越す。ふわりと宙を舞ってわたしの手の中に納まったのは、キィホルダーもついていない裸の鍵だった。
「鍵?」
「予備の鍵。しばらく持ってるといいよ。じゃないと、僕のいないときに出かけられないだろ?」
「……」
 わたしは思わず、言葉もなくそれを呆然と見つめてしまう。
 えっと、もしかして、これって……。
「これって合鍵ってやつ?」
「男に合鍵を渡す趣味はないよ」
 さらりと言う直臣。
 じゃあ、彼女には渡したのかと問えば、まだそんな関係じゃないという答えが返ってきた。本当だろうか。思わず疑ってしまう。まぁ、いっか。どうせすぐにわかることだし。
 程なくして直臣は出かけていった。
 わたしひとりを部屋に残して。
 恋人に会うために。
「さて、と」
 ロフトの上から直臣が出ていったドアを見つめていたわたしは、彼が戻ってくる気配がないのを見てから立ち上がった。残念ながら、わたしはただ待っているだけの女ではないのである。
 紙袋から買ってきたばかりの服を取り出し、着替える。
 ロングパンツに、夏もののカットソー。さらに薄手の上着を、袖を通さずに肩に引っかけて羽織る。
 小比賀晶子は若もののカリスマと呼ばれているわりには、並の若ものでは手が出せないような高級ブランドを身に着けている。でも、それでもいいらしい。なぜなら小比賀晶子は親しみのある身近な存在ではなく、崇拝の対象であるからだ――とか何とか。
 着替え終わると、一緒に買っておいたサングラスをかけ、完了。
 わたしは玄関ドアから顔だけを出すと、廊下の様子を窺った。部屋から女の子が出てくるところをマンションのほかの住人に見られでもしたら、後で直臣が大変だろうと思ってのことだったのだけれど……廊下は人の気配すらなかった。
 そういえば前に聞いていたのを思い出した。
 
「直臣、このマンションのほかの人たちって、どうしてるの? まだ見たことがないんだけど」
「ほとんど実家に帰ってるよ」
「あ、それもそっか」
 ここはひとり暮らしの音大生用のマンション。お盆すぎのこの時期なら、普通は実家に帰っているだろう。
「隣は台湾とか言っていたな」
「台湾?」
 夏休みを使っての海外旅行だろうか。
「ん? あれ、じゃあ、直臣は?」
 家出少年であるわたしが言うのもあれだけど。直臣は帰らないのだろうか?
 しかし、そのときの彼は「いろいろあるのさ」と曖昧に笑うだけだった。
 
 マンションの廊下へ出ると、直臣から預かったばかりの鍵でしっかりと施錠する。改めてその鍵を見れば、何の変哲もないどこにでもありそうなものなのに、ついついにやけてしまう。って、さすがにこれはマズい。実家に帰っている人が多いというだけで誰もいないわけじゃないし、誰も見ていないにしても自分で自分が不審だと自覚できてしまう。
 顔を引き締める。これからすることを思えば、気持ちも引き締めないと。
 表に出ると、わたしは何時間か前と同じように駅へと歩く。電車に乗って向かった先は、今日直臣が彼女と待ち合わせているという喫茶店。もちろん、直臣がどんな人とつき合っているのか、この目で確かめるためだ。
 場所は、午前中に直臣が話していたので、すぐにわかった。
 彼は表通りが見える席に座り、まだ相手がきていないのか、ひとりぼんやりとしていた。
 わたしは自分の姿を検め、"アキラ"の面影がないのを確認すると、意を決してお店に這入った。
 ドアベルの涼やかな音を鳴らしながら中に踏み入ると、直臣がその音に反応してこちらを見た。だけど、わたしとて伊達にトップアーティストとしてステージに立っていない。それくらいでは動じはしなかった。……ただ、彼のその様子から、恋人の登場を心待ちにしていたのがわかって、それがわたしの胸をざわつかせた。
 直臣が見惚れるようにしてわたしを見るので、こちらもサングラスのレンズ越しに見つめ返す。と、彼は慌てて目を逸らした。
 実はこれでも服のチョイスには苦労した。直臣の目を誤魔化すためには、女の子に戻るのがいちばんだ。かと言って、小比賀晶子だとバレるわけにもいかない。意外にバランス感覚が要求された。でも、苦労した甲斐があってか、直臣にはわたしがアキラだと見抜かれず、周りにも小比賀晶子だと気づかれることはなかった。
 案内されたのは、直臣の隣のテーブル。
 直臣の彼女をひと目見てやろうとここまできたのだけど、思いがけず会話まで聞こえてきそうな距離まで近づけてしまい、わたしの鼓動は少し速くなっていた。
 注文したアイスカフェオレを飲みながら待つ。
 確かに直臣の言う通り、雰囲気のいいお店だった。できれば直臣と一緒にきたかったと思う。朝に誘われたとき、素直に行くって言っておけばよかったかも……。
 程なくして彼女は現れた。
 赤みがかった長い髪に、勝ち気な性格を連想させるキツい感じの目をしていた。美人だ。
 夏らしい淡い色合いのロングスカート姿の彼女は、当然だけどわたしなど見向きもせず、横を通り過ぎて直臣の前に座った。わたしと背中合わせの位置だ。
 まずは静かで落ち着いた会話。それから彼女が頼んだアイスコーヒーが届いたのをきっかけに、留学の選考の話に変わった。
 そして――、
 
「私たち、別れましょう?」
 
 彼女の口から飛び出した思いがけない言葉に、わたしはちょうど口に運ぼうとしていたグラスを落としてしまった。倒れた向きがよかったせいか、幸いにして買ったばかりの服を濡らすようなことはなかった。すぐに店員が飛んできてテーブルを拭いてくれる。代わりをお持ちしましょうかと言う店員の申し出を、もう出るからと断った。
 そうこうしているうちに彼女は先に席を立ち、お店を出ていった。
 わたしは迷った。彼女を追いかけて文句のひとつ言ってやるべきか。それとも直臣に声をかけるべきか。でも、そのどちらもできないことは、考えればすぐにわかることだった。
 結局、わたしは何も――振り返って彼の様子を見ることすらもできず、ただただこの場に居合わせてしまった後悔と罪悪感を胸に、じっと耐えるように座っていた。
 五分ほどの時間が過ぎてから、わたしは席を立つ。さり気なく直臣を見れば、彼はテーブルに両肘をつき、組んだ指に額を押しつけていた。わたしが立ち上がったことに気づいていないのか気にしていないのか、まったく動く気配がなかった。
 そんな彼の姿に、わたしの足が止まった。またも衝動が湧き上がってくる。
 何か声をかけてあげたかった。
 優しく触れてあげたかった。
 だけど、今それをしてしまうと、何もかもが破綻してしまう。辛そうに項垂れる彼がすぐ目の前に、手も声も届くところにいるのに、何もしてあげられないのは、きっとわたしの短絡的ないたずら心の代償なのだろう。
 わたしは開きかけた口を閉じ、伸ばしかけた手をひっこめ、直臣に背を向けてお店を出た。
 
 
 直臣よりも遅く帰るわけにはいかないので、寄り道もせず真っ直ぐに帰る。
 ロフトに上がって服を脱ぎ、買ってきたときの紙袋に再びしまったところでようやく人心地ついた。というか、脱力してベッドに倒れ込んだ。
 思わず口からため息がもれる。
 昨日から随分といろんなことが起きているように思う。直臣の留学の話に、恋人の話。そうかと思ったら、今日その彼女に振られてしまった。
(わたしはただ直臣のことが好きで、その直臣とずっとこうしていられたらと思ってるだけなのにな……)
 それなのに――、
 直臣は来年の春には、もしかしたらオーストリアに行ってしまうかもしれなくて。
 そうでなくてもしっかりと恋人がいたような人で。
 ぜんぜんうまくいかない……。
「……」
 ……。
 ……。
 ……。
 突然、わたしは勢いよく身を起こした。
 え? 今わたし何を思った!?
「す、好きって……!?」
 今度はそれを、思うだけでなく口にして、わたしの顔はみるみるうちに熱くなっていく。うわ、うわあ、うーわー……。
 パニックになる一方で、その認識はすとんとわたしの胸に落ちた。
(ああ、そうか。わたしは直臣のことが好きなんだ……)
 直臣はどこの誰ともわからない家出少年(わたし)を放っておけないくらい優しくて、そのくせ事情を聴いて相談に乗ったりはしないから、わたしは彼のそばではただのアキラでいられる。じゃあ、人の世話をできるくらいしっかりものなのかというと、案外そうでもない。特に食生活とか、ちょっといいかげん。しょうがない人だ。
 直臣のそばは居心地がいい。別にそのお礼と言うわけではないけれど、居心地のよさもあって、彼の世話をしてあげようと思ってしまう。苦もなくしてあげれてしまう。音楽という共通言語があるのも大きいかもしれない。
 出会ってまだ一週間もたっていないけど。でも、直臣と一種にいるのはとても楽しい。できればずっと一緒にいたいし、できればアキラではなく小比賀晶子でもなく、比嘉晶としてそばにいられたら、と思う。
 突然、糸が切れたようにベッドに上に崩れ落ちた。
「わたし、サイテーだ……」
 自己嫌悪が襲ってくる。
 だって、思ってしまったから。状況はわたしの望むほうに転がっている、と。
 直臣が留学の選考にもれれば、遠く離ればなれにならなくてすむ。少なくとも日本とオーストリア、なんてことにはならない。
 それに、直臣が振られてしまった今、わたしにもチャンスがあるかもしれない。
 どれもこれも、彼の心の傷を何も考えていない最低の発想。
 再びため息がもれる。
 考えることはいろいろあった。特にわたしがこれからどうしたいのか――。
 でも、とりあえず晩ごはんの用意をしようと思う。
 わたしはのそのそと体を起こした。
 
 簡単に夕食の支度をすませ、直臣の帰りを待つ。
 立って手を伸ばせば届きそうなほど近い天井を、パイプベットに寝転がってぼんやり見ていると、程なくして直臣が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりー」
 身じろぎひとつせず、わたしは口だけを動かして返事をする。
 それからワンテンポ遅れて、ようやく直臣が帰ってきたのだと認識した。緊張が走る。おそるおそるロフトから下を見てみれば、直臣もこちらを見ていて――ばっちり目が合ってしまった。顔を引っ込める。……ダメだ。恥ずかしくて顔が見れない。自分の気持ちを理解しただけで、こんなにも変わってしまうとは思わなかった。
 だけど、やがて夕食になり、その気持ちはひとまず横に置いておくことにした。
 夕食のときの直臣は、いつもより少しだけ口数が多かった。わたしが朝からむすっとしていたから、機嫌をとろうとしたのもあるだろう。だけど、それは自分の気を紛らわすためにやっているようにも見えた。
 
 そうして夕食の後片付けをしているときのこと。
 
「あ、あのさ、直臣――」
 わたしは、自分のデスクトップパソコンに向かっている直臣の背に、キッチンと居室の境あたりから、言葉を投げかけた。
「大丈夫……?」
「ん? 何が?」
 直臣は振り返らず、作業の手を止めもせずに、問い返してきた。
 何が、と。
 何が?
 今日、彼女と別れたこと。
 そんなこと言えるはずもなく、わたしは一瞬口ごもった。
「え? い、いや、その……ほら、なんか辛そうな顔をしてるからさ」
 それは本当だった。
 直臣は彼女に振られたばかりだというのに、わたしの目を気にしてか、何でもない振りをしている。その姿がわたしには辛かった。
 わたしの言葉に、直臣の指が止まった。
 沈黙。
 そして――、
「実は今日、いろいろあってね。……大丈夫。心配いらないよ」
 彼は苦笑を交え、ただそうとだけ言ったのだった。
 わたしはたまらず彼に近づく。
 気づかれないよう足音を忍ばせ、音もなく背後から近寄った。
「……直臣」
 はっきりと彼の名を呼ぶ。
 こっちを向いて、わたしを見て――と、そんな想いで。
 かくして、直臣はイスを回転させ、体ごとこちらに振り返り――わたしは彼にキスをした。
 時間が止まる。
 重ねていた唇を離すと、直臣が信じられないものでも見たかのように、目を丸くしていた。
「いったい何を……?」
「ごめん。直臣の顔を見てると、何かしてあげなくちゃって思った」
「だからって……」
 当然だろう。だって、直臣にしてみれば男にキスをされたのだから。
 だけど、直臣は怒りもせず、わたしが「でも、少しは元気が出たでしょ?」と冗談めかして言えば、「ああ、もう、おかげさまで何もかもが吹っ飛んだよ」とヤケクソ気味に返した。
 直臣にとって、このキスはどんな意味をもったのだろう。キスなんてやっぱり、例の彼女と何度もしているのだろうか? いや、それ以前に、男同士の冗談でしかないのかもしれない。何だっていい。直臣の気持ちが少しでも軽くなるのなら。
 一方、わたしは、これが初めてだった。
 芸能界に飛び込んでからこっち、忙しくてそんな暇なんてなくて。ここ一年くらいは、そんな精神的な余裕すらなくて。恋愛経験なんて皆無。
 だから、これが初めてのキス。
 わたしは、今いちばん好きな人と、初めてのキスをした。
「あ、え、えっと……」
 急に直臣と顔を合わせていることが恥ずかしくなって――結局、わたしはロフトに逃げ込んだ。
 
「オレ、直臣と一緒に最後までこの曲を完成させたい」
 
 少し気持ちを落ち着けてから、そう切り出す。
 直臣が帰ってくるまで、ずっと考えていた。
 本当は、直臣は今すぐにでもシンガーロイドでの曲作りなんかやめて、留学の選考のためにがんばらないといけないのに。わたしがこんなことを言っても、その直臣の邪魔にしかならないだろう。
 でも、この曲は完成させたかった。
 いずれ直臣は、新しい恋に出会うだろう。
 いずれわたしは、もといた世界に戻るだろう。
 そのとき、わたしたちはどんな関係になっているのだろうか。同じ時間を共有した友人として、また会える? それとも、もともと住む世界が違うから、この夏のことは秘密にして、もう会うことはない?
 わからない。
 だから今、わたしは直臣との間に、何かを残したかった。
「いいよ。最後まで一緒にやろう」
 そんなわたしのわがままに、直臣は快くうなずいてくれたのだった。
 
 
 
 その後、直臣は言っていた。
『これでも僕はわがままを受け止めることには定評があるんだ』
 と。
 そのときはこの台詞の意味がわからなかった。でも、後になって聞いた話、今目の前にいる直臣の元彼女、鹿角さんはずいぶんと直臣に甘えて、わがままを言っていたらしい。それを受け止める直臣を、周りはそろって「よくやる」と感心していたそうだ。そのあたりを自嘲気味に言った台詞だったのだろう。
「それにしても、小比賀さんはずいぶんと狐塚君にご執心なのね」
「当然です。直臣には才能がありますから」
 尤も、そう言ったのは但馬さんだけど。でも、わたしも直臣のピアノや曲に魅力を感じている。嘘ではない。
「才能ねぇ。あるかしら、彼に」
「ありますよ。今はそう見えなくても、わたしがそうしてみせます。才能は育てるものですから。そうですね。手はじめにいくつか曲を書いてもらおうかと」
「まさか。それを小比賀晶子が歌うつもり?」
 鹿角さんが驚愕し、腰を浮かし気味に身を乗り出してきた。
「ええ」
 そして、わたしはうなずく。
 但馬さんも言っていた、数をこなせば、と。ちょうど小比賀晶子という実験台もいることだし、直臣の実力を磨くための舞台や装置にはこと欠かない。
「それは、彼には荷が重いんじゃないかしら? なんなら私が書いてあげてもいいわよ。狐塚君よりはいい曲を作ってみせるわ」
「けっこうです」
 正直、この美人現役女子大生バイオリニストがどんな曲を書くのかは知らない。父親は世界的に有名な指揮者というサラブレッドだから、当然のように音楽に関する英才教育を受けているだろうし、もしかしたら直臣よりもそういう才能に長けているのかもしれない。
 だけど、きっぱりと断る。
 ついでに、直臣を認めようとしない、直臣を振った彼女に、挑発的なことを言いたくなった。
「それにわたしが直臣に拘る理由はほかにもあります。……わたし、直臣とキスしましたから」
「っ!?」
 瞬間、鹿角さんは言葉を詰まらせた。
 その隣、但馬さんは掌で顔を覆っていた。「あちゃー」といったところか。確かに言わなくていいこと、いや、むしろ言わないほうがいいことを言ってしまったのかもしれない。
 でも、あえて知らない振りをし、なんでもないことのように続ける。
「変ですか? わたし、もう十八ですよ?」
 今年で十九だ。
「へ、変ではないわね。でも――それはいいことを聞いたわ」
 鹿角さんがやや動揺しつつも、体勢を立て直しはじめる。
「ずいぶんとスキャンダラスのお話ね。歌姫の恋人発覚かしら? 世間が大騒ぎになりそう。私に曲を書かせてくれたら、ここだけの話にして――」
「ご自由にどうぞ」
 確かにこの前の写真とは比べものにならないくらいの騒ぎになりそうだ。むしろあの写真が真実味を補強する材料となるかもしれない。
 でも、
「今の小比賀晶子はそれくらいで潰されませんから」
 まるで啖呵を切るみたいにして断言する。
 わたしは、鹿角さんを正面から見据えつつ、いつも持ち歩いている"お守り"の存在を強く意識した。あれがあるから直臣と会わなくてもがんばれた。いつか会うためにとがんばってこれた。わたしの心の支え。
 だから、ここまできたわたしは、ちょっとやそっとじゃ潰れたりはしない。
 直後、鹿角さんの眉間にしわが寄った。眉がハの字に下がる。何だか泣きそうだった。こんなはずじゃないのに、みたいな顔。……あれ? なんかこの人、ちょっとかわいいぞ。
 えっと、どうしよう? と、少しばかり困っていると、隣で但馬さんが大笑いしはじめた。
「こりゃあ鹿角の負けだな」
「う、うるさいっ」
 まるで八つ当たりのように但馬さんに言い返す鹿角さん。
「私は別に勝ち負けを競っているのではなくて、ただ単に小比賀さんの――」
 そのとき、
 バシッ バシッ
 二度の音がほとんど重なり合うくらいの勢いで響く。それはふたりの頭が楽譜によってはたかれる音だった。
「喧嘩なら比嘉のいないところでやるのですよ。このバカとバカの馬鹿コンビが」
 見上げればそこには血統書付きの高貴な猫、浅井藍さんが立っていた。意志の強そうな目で、こちらを見下ろしている。
「そうやって人の頭を、ぽんぽんぽんぽん叩くのはやめなさいっ」
「そうだぞ、いあいあ――」
 バシンッ
 もう一発、但馬さんに頭に、無言で楽譜を叩きつける。
 わざわざあえて地雷を踏みにいっているふうの但馬さんは兎も角として、浅井さんは普段から鹿角さんの頭をぽんぽん叩いていたのか。しかも、禁句を平気で口にしてるし……。
 わたしも迂闊なことを言うと同じ目に遭うかもしれない。というか、タイミングによっては、わたしが叩かれていた可能性もある。
 と思っていると、
「何ですか、比嘉。何か言いたいことがあるのですか? もしかしてお前もバカの仲間入りをしたいのですか?」
「い、いえ……」
 両手で口にフタをし、慌てて首を横に振った。
「あ、あの、直臣は……?」
 話を逸らすついでに聞いてみる。確か浅井さんは直臣と一緒にレッスン室に行ったはずだ。彼女がここにいるということは、直臣も戻ってきているのかもしれない。周りを見てみる。
「狐塚なら先にレッスン室に行ったのです。途中で鹿角とすれ違って嫌な予感がしたから、私だけ戻ってきたのですよ」
 そしたら案の定だった、と浅井さん。その隣では、問題児扱いされた鹿角さんが不満そうな顔をしていた。
 残念。直臣はいないらしい。
 と、
 しょぼんとなるわたしを見て、浅井さんは目を細めた。
「比嘉は本当にかわいい人ですね」
「……」
 思わず顔が熱くなった。
「どうした、晶ちゃん」
「あ、いや、きれいな人にそんなこと言われると、どきどきするなと思って……」
 いちおう、わたしも小比賀晶子のときはそっち側のはずなのだけど、どうもここにいるとすっかり埋もれてしまう。所詮、小比賀晶子は単なるキャラクタだったのか、それとも周りに濃い人が多いだけか。
「何がきれいなものですか。ただ単に胸が大きいだけでしょうに」
 鹿角さんが、ふん、と鼻を鳴らす。
 確かに浅井さんはスタイルがすごくいい。なにげにモデル体型だ。去年の学園祭では、白地に金糸の刺繍が入ったチャイナドレスを見事に着こなしていたらしい。
「鹿角、自分にはないからといって、妬みはよくないのですよ」
「わ、私のはないのではなくて、慎ましいというのですっ」
 確かに浅井さんと比べると、鹿角さんは慎ましいサイズだ。……あれ? それ以上に慎ましいわたしは? "ない"の?
「だいたい、貴女はハーフじゃない」
「ハーフと言っても、スタイルに恵まれた欧米人ではなく、アジア系の血なのです。つまり、これは人種の差ではなく、純粋な個体差。ただ鹿角は私のようになれなかっただけなのです」
「〜〜〜っ!」
 わたしもそんなふうになる気配が、欠片もないんだけど……?
「ついでに言うと、母はこちらに帰化しているので、私は戸籍の上では純粋な日本人なのですよ」
「なかなか熾烈な女の争いだな」
 但馬さんが、言葉とは裏腹にニヤニヤ笑いながら言う。
 確かに熾烈だ。流れ弾がハンパない……。
「さて、私はレッスン室に行くのです。お前たちもあまり比嘉の周りで騒ぐのではないのですよ」
 たぶん、浅井さんは「ただでさえ騒がしい生活を送っているのだから」という言葉を続けようとして飲み込んだのだと思う。彼女もまた、わたしが特別扱いを望まないことを知っているひとりだからだ。
 但馬さんと鹿角さんを叩きにきただけの彼女は、結局、最後まで席に座ることはなく、踵を返して帰っていった。
「私ももう行くわ。……小比賀さん、気が変わったら連絡くださいね」
 続けて、鹿角さんが席を立つ。浅井さんを追いかけ、並んでベーカリーカフェを出ていった。
「じゃあ、俺も。……晶ちゃん、その辺まで一緒に行くかい?」
「あ、はい」
 そして、最後にわたしと但馬さんが、それぞれのトレイを持って腰を上げる。
 キャンパス内の生協や学生食堂が集まるエリアを出たあたりで、但馬さんとは別れた。
「じゃあ、晶ちゃん、また後で。何かあったらいつでも連絡してくれよ」
 後半はお決まりの台詞。直臣からわたしのことを頼まれている彼は、よい先輩として面倒を見てくれ、また、守ってくれている。それには素直に感謝している。わたしがこんなにも早く一介の音大生として溶け込めたのは、少なからず彼のおかげだ。
 それでも但馬さんには悪いけれど、やっぱり直臣がそばにいてくれたらと思う。
 
 
 午後の最初、3コマ目の講義が終わった直後、スマートフォンにメールの着信があった。何かと思えば、学校からの連絡。学校には、受けている講義で連絡事項があればメールで知らせてくれるサービスがあり、それに各講義、登録していたのだった。
 メールによると、次の講義は休講らしい。ずいぶんといきなりだ。先生に急用でもできたのだろうか。
 周りでも、同じメールを受け取った何人かの学生が、自分の端末を見たり、そのことをほかの子におしえてあげたりしている。
「小比賀さん、次、休講だってー。これからどうするー?」
 そう声をかけてきたのは、その休講になった講義をわたし同様受けている子だ。いつも一緒にここから移動している。
 どうすると言われても、特に決まっていない。今は芸能活動縮小、学業優先。よほどの重要なものでない限り、大学での講義を押しのけて仕事を入れたりはしていない。尤も、そのぶんゴールデンウィークにはいろいろ予定が入っていて、だからこそ直臣との関係をそれまでにどうにかしたいと思っているのだけど。
 と、そのとき、再びスマートフォンが着信を告げた。今度は音声通話。しかも、相手は直臣だった。
「も、もしもしっ、直臣?」
『うわっ、なんだ!? そんな大きな声を出さなくても聞こえてるって』
 慌てて電話に出たせいで、勢い声が大きくなってしまい、直臣に驚かれてしまった。ついでに苦笑もされる。
 加えて、今のわたしの発音が男の子っぽい、つまりは"アキラ"のようだったから、先ほどの女の子たちが目を丸くしている。ただでさえここでのわたしは小比賀晶子とはずいぶんと印象が違っているのに、アキラまで出してしまっては、いったいどれが本当なのかと混乱は必至だ。
「どうかしたんですか、直臣」
 咳払いをひとつ。改めて比嘉晶として尋ねる。
『うん。今ちょっと小耳にはさんだんだけど、アキラ、次の講義、休講になったのか?』
 直臣の声もどことなく改まった――他人行儀なものになった気がした。
『もし時間があるなら、今からライブラリーカフェにこないか?』
「え?」
『昼間の埋め合わせのつもりなんだけど……あ、いや、ダメならいいんだ』
「だ、ダメじゃないです!」
 そんなの、何を置いても行くに決まっている。なんならツアーの最終日だって放り出してもいい。
『そ、そうか。じゃあ、僕のほうが近いと思うから。待ってるよ』
 そうして電話は切れた。
「ごめんなさい。用事ができました」
 わたしは先の女の子たちに早口で告げる。
 そうしてから、高校のときの制鞄みたいな3wayバッグを背負うと、ライブラリーカフェへと急いだ。
 
 
 2014年8月3日公開

 


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